『山月庵茶会記』(2015.4.21、講談社)は、黒島藩シリーズの第3弾とあります。
前2作を読もうか読むまいか、思案しながらこの読書雑記を書いています。
柏木靫負は、表千家の茶人で孤雲と号し、江戸の駿河台に日々庵を構えていました。四代将軍家綱の時代です。その後、豊後に帰ってからは、山月庵を造ります。
話の展開の中で、靫負の娘である千佳の受け答えが推進力となっています。しかし、これが不自然なオウム返しに近いものなので、文章が冗長となり重たく感じました。
靫負の妻藤尾の自害をめぐり、話が動き出します。政争に敗れて国を出た靫負は、その国に帰って真実を知ろうとするのです。これが主題です。
雪の茶会の後で、千佳の父である又兵衛が落とし穴に落ちる下りは秀逸です。生き生きとした場面となっています。この雰囲気と、お茶人としての靫負の描き方がしっくりと馴染んでいません。
聞香の話では、『源氏物語』の「梅枝」のことが語られます。
民部は待ちかねたように浮島に声をかけた。浮島が橋と柳の模様が金箔で描かれた蒔絵香合を手にすると、民部はゆっくりと語った。
「香は古には仏に供えるものであったが、京の殿上人が薫物として使うようになられたという。すなわち殿上人は、女人のもとを訪れた後、おのれの余韻としてどのような香りを残すかに腐心されたのだ」
「まことに雅なことでございます」
波津が讃嘆するように言った。民部はうなずいて、
「それゆえ衣類に香を焚きこめ、室内に香をくゆらせた。『源氏物語』の〈梅枝〉の巻では光源氏が明石君との間に生まれた姫の入内のために薫物をととのえ、さらに紫上や花散里ら女人たちにも香を調合させて香りの良否を競う〈薫物合〉を行うくだりがある」(71頁)
香りのことが本作の最後にも出てきます。ただし、上記のことが最後に活かされないままに流れているのが惜しまれます。
その聞香から雛の茶会へと、話はお茶を中にして滑らかに展開していきます。
さまざまな詩歌が出てきます。人口に膾炙するものばかりです。
漢詩
「牀前月光を看る……」
「少年老い易く学成り難し……」
利休の辞世の偈
「提ル我得具足の一太刀……」
さらには数々の和歌。
「春の夜の闇はあやなし……」
「色よりも香こそあはれとおもほゆれ……」
「空蝉の世にも似たるか花桜……」
「巨勢山のつらつら椿つらつらに……」
「郭公鳴きつる方をながむれば……」
月の場面で『源氏物語』が取り上げられます。少し長くなりますが、その箇所を引いておきます。
靭負は、『源氏物語』に、朧月夜が出てくるのを知っているか、と千佳に訊ねた。千佳が『源氏物語』は読んでいないと答えると、靭負は光源氏が出会った朧月夜の女について話した。
あるとき帝が花見の宴を開かれた。宴が終わり、光源氏はほろ酔いでひとり余韻にひたり宮殿を彷徨っていると、そこにひとりの女人が、
─朧月夜に似るものぞなき
と歌いながらやってくる。『新古今和歌集』にある歌だ。
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき
照り輝くでもなく曇り空で見えなくなるのでもない、春の夜の朧月夜に勝る月はない、という歌である。
靭負はそれ以上、源氏物語の内容にはふれなかったが、光源氏はこの朧月夜の女と一夜の契りをかわす。
源氏物語に登場する女人のなかでも謎めいて光源氏を翻弄する女なのだ。靭負は話し終えて、気分を変えるように言った。
「せっかくの月だ。今宵は夜もすがら、月見の茶事をいたそうか」
「さようでございますね」
靭負に言われて、ほっとして千佳は微笑んだ。縁側に立って夜空に目を向けていると、庭の木々も雨で潤い、なまめいた匂いを漂わせている。
ひとの心は必ずしも自分の思いのままではない。かすかな月の光、木々のざわめき、空気のぬくもりが思わぬところへ心を運ぶこともある。
心を守るとは、道とも言えぬ隘路へ自ら踏み入らぬようにすることに違いない。たとえ、わずかならず胸に響くものがあったとしても、それはまことの道ではないのだ。そのことはよくわかっていた。
千佳は自分に言い聞かせつつ、布団をあげて茶事の支度をした。靭負はしばらく黙って月を見上げていたが、ふと、
「月見の茶事が藤尾への手向けとなればよいのだがな」
とつぶやいた。千佳はせつなさがこみあげてくるのを感じた。靭負のために何もできないことがもどかしい気がした。(161〜163頁)
せっかくの雅な話題と設定が、ここでも生かされずに話は進んで行きます。
終盤に至って、突然幕府の隠密の存在が明らかにされます。そして、黒島藩という大きな組織がたち現れます。藩主登場のことは、もう少し早く匂わせておいた方が、読者は失望しないですんだと思いました。
藤尾の自死をめぐって長々と物語られた靫負の話も、急展開します。
最後は、息を詰めて一気に読みました。
しかし、妻に対する思い入れが、あまりにもくどいと思いました。その一点が、この物語を支え、引っ張っています。お茶室という狭い空間に閉じ込められた、こじんまりとまとまった話です。もっと別の語り口はなかったのでしょうか。
例えば、次のような死者との対話は、井上靖が得意とする手法ながらも、これではあまりにも中途半端です。
「もし、わたしが十六年前にこの心で茶を点てることができたなら、そなたを死なせはしなかったであろう。しかし、わたしはあのとき、至らなかった」
すまなかった、許してくれ、と靭負は絞り出すような声で言った。女人はさりげなく笑みを含んだ声で答えた。
「何を仰せになります。十六年の間、旦那様は片時もわたくしのことをお忘れになりませんでした。ひとは忘れられなければ、ずっと生きております。わたくしは死んでなどおりません」
「そう言ってくれるのか」
「はい、わたくしは十六年の間、旦那様がお点てになる茶の中に生きておりました。温かく、よき香りに包まれて幸せでございました」(237頁)
また、女性の描き方に精彩を欠きます。情に流された文脈の中で語られているからではないでしょうか。
それはさておき、山月庵には、月がよく似合います。
亡き妻と飲むお茶もいいものです。
最後はきれいな場面となっています。【4】
初出誌:『小説現代』2013年2月号、9月号〜2014年4月号
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