2015年05月25日

読書雑記(129)『聾史レポート 第二集』

 近畿聾史研究グループ編『聾史レポート 第二集』(2012.10.31)を読みました。


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 本書は、『聾歴史月報』の59号までに掲載されたレポートから、精選された5本に加筆修正を施したものを発表順に編集したものです。

 まず、「目次」をあげます。

はじめに
近世儒者の障害者観…熊田寿貴(42号)
新聞記事にみる大阪摸範盲唖学校…新谷嘉浩(37、38、39号)
奈良県立ろう学校創立以前の私立奈良盲唖学校について…山中照章(51号)
浜松聾唖学校の助詞手話…梶本勝史(36号)
近畿聾史研究グループの活動経過…(新谷嘉浩)
執筆者紹介
あとがき


 既発表の論稿を再編集した構成となっている報告集なので、以下にわかる範囲での個人的なメモを適宜記し残しておきます。

■「近世儒者の障害者観」(熊田寿貴)
 本稿は、次の視点でまとめられたものです。

 海保青陵の思想と盲児や聾児を教育した寺子屋があったことの違いが、当然疑問になる。そこで、江戸時代における儒者が聾者に対してどう考えていたのかについて、生瀬氏の解釈や評価に言及し、この疑問に対して説明を試みる。これが本稿の課題である。(7頁)


 ここに引かれる「生瀬氏の解釈」とは、『近世日本の障害者と民衆』(生瀬克己、三一書房、1989年)に収録されている「儒者の障害者像」を指します。
 生瀬氏の言及を検討した結果、筆者は次の結論に至っています。

 それ(私注・生瀬氏の著書)によれば、江戸時代初期の儒者は、聾唖者を含む障害者への思いやりをもって救済せよと主張していたが、幕末になると、海保青陵の見殺し理論によって障害者が差別を受けるようになったと結論している。しかし、これは近世における儒学史を参考に考察すると、一部分訂正が必要である。すなわち、幕末の儒学では、道徳的に救済することと、経済的な発展のために障害者を排除することなどの考えが混在していた。このような中で、庶民は道徳的に聾児を寺子屋で教育したのである。(25 - 26頁)

 
■「新聞記事にみる大阪摸範盲唖学校」(新谷嘉浩)
 本稿は、明治12年に大阪で初めて開校された公立盲唖学校に関する新聞記事を、丹念に整理してまとめたものです。
 その中から、京都盲唖院の開校前後の記事と、「教唖五十音図」に関するもの、そして盲唖生徒の実数がわかる記事を引きます。

No.4 一八七九(明治一二)四、一七(大朝)(私注・「大朝」は「大阪朝日新聞」の略称)
《雑報》
○西京にて盲唖学校を開かれし遠山氏は今度當地へ来られ中の嶋中学校にて官立摸範学校を開かれる由を願ひ出られしに既に許可になり近々より開校のよし
◎この遠山氏とは遠山憲美〈とおやまのりよし〉(一八四九〜一九一二)のこと。遠山憲美は一八四九(嘉永二)年三月一日に宇和島伊達藩士の遠山帥総の次男として宇和島で生まれた。明治初年に横浜へ留学し、一八七一(明治四)年にアメリカに渡り、サンフランシスコの仏商館で働いている二人の聾唖者の姿に感銘し、日本での盲唖学校設立の必要性を痛感する。一八七七(明治一〇)年に京都に止宿し、愼村正直京都府知事に「盲唖訓黌設立ヲ促ス建議意見書」を提出した。
 遠山の建議提出を知った古河太四郎は、一八七八(明治一一)年一月九日、横村知事に盲唖教場の拡大計画による「盲唖生募集御願」を提出。二者競合のうちに盲唖院設立の運動は急速に盛り上がる。五月二四日、京都盲唖院が開校し、古河太四郎は教員、遠山は用掛として採用された。しかし、古河と遠山の両氏の関係が悪化し、古河と遠山の問題から遠山対京都府に発展し、遂に遠山が退職することとなった。(37 - 38頁)


 次の記事に出てくる「教唖五十音図」は、本『聾史レポート 第二集』の表紙に使われています。
 前掲表紙画像を参照してください。
 この「教唖五十音図」によると、あ行に「ヱ・ゑ」があり、や行に「エ・江」があり、現行の五十音図と異なっています。この明治期の五十音図には、興味深いひらがなとカタカナから配置されています。後日、整理します。

No.34 一八七九(明治一二)一〇、二六(大朝)(私注・「大朝」は「大阪朝日新聞」の略称)
《雑報》
○末吉橋通三丁目和田喜三郎が編輯にて出板せし盲唖五十韻は盲唖院にあるより他に原稿而はなき者なれば同人を呼出し取調られしに道路の夜店にて買入し旨を答へ曖昧なれば戸長等を呼出し取調べられると
◎この和田喜三郎が編輯した「盲唖五十韻」は"教唖五十音図"の事であり、『聾唖教育』第六三号(一九四一年五月二〇日、日本聾唖教育会)に論文と図が紹介されている。それによると"教唖五十音図"は「明治一二年一〇月七日出版御届とある。そして同年同月同日刻成りしものとして、図音出版人は大阪府平民和田喜三郎(大阪府下南区末吉橋通四丁目十六番地)とあり、賣捌所は順慶町心斎橋西、保田與三郎である。そしてこれは指文字による五十音図であり、しかも明治一二年という日付に極めて深い意義がある」と述べている。
◎和田喜三郎は、大阪府下南区末吉橋通四丁目十六番地(現大阪市中央区南船場二丁目辺り)に住み、大阪の版元であり、文楽の筋書きなどの木版本を刊行した。峯入木目込人形を出品。また、他の論文から和田喜三郎が指文字を考案し図を作成したとは考えにくい。では、誰が何の目的でどのようにして指文字を考案し図を作らせたのかを考えると、大阪摸範盲唖学校の教員として正式に採用された(記事 No.28・42)遠山憲美ではないかと考えられる。遠山憲美が古河太四郎に対抗するため独自で考案し、和田喜三郎に"教唖五十音図"の印刷を依頼し、京都盲唖院開校式(一八七八年五月二四日)の時に古河太四郎が考案した指文字を配布した(注47)様に、一一月五日に開催する大阪摸範盲唖学校の開業式の際、唖生に配布する予定だったのではないかと推測する。(68 - 70頁)


 引用文中後半の「※47」とある箇所には、次の注記があります。

(47)京都盲唖院の古河太四郎が考案した「唖五十音字形手勢(形象五十音文字)」は幼児や聴者用に、高学年(三級以上)や唖者互談用には京都盲唖院の開業式で配布した「瘖唖手勢五十音」や私立大阪盲唖院で用いたと見られる「五十音手勢捷法(五十音符号手勢)」がある(岡本稲丸『近代盲聾教育の成立と発展 古河太四郎の生涯から』NHK出版、一九九七年、一七六ページ)。(111頁)


 次の記事には、明治11年から12年の時点で、大阪府盲唖学校で唖生徒25名、盲生徒15名とあります。また、遠山憲美の動静もわかります。

No.44 一八七九(明治一二)一一、一二(大朝)(私注・「大朝」は「大阪朝日新聞」の略称)
○當府盲唖学校は去八日より開業になり就学生徒四拾名の内盲生徒拾五名内八名は予て記せし通り緒方軍医の施療の診断に依りて治療し得べき者なれば此頃同氏の施療を受け追々実効を奏するに至れりと実に該生徒の幸甚なり
○又同校長遠山氏は盲唖の教育法に老熟なる人にて前に西京の盲唖院を開かれしも同氏の尽力なりしが来年三月に至れば鹿児島県へ盲唖院開設に赴むかれる筈なりと
◎大阪摸範盲唾学校々長遠山憲美が、以前に京都盲唖院の開設に尽力したように、来年三月に鹿児島で盲唖院を開設するため、当地へ赴くという記事。鹿児島では盲唖学校開設にむけて着手しているが、未だに開業に至っていないと文部省に報告している。
「廃人学校設立ニ着手シ十一年中在テハ未夕開業二至ラス」
実際に聾唖学校が設立されたのは、一九〇〇(明治三三)年七月五日である。(79 - 80頁)

 
■「奈良県立ろう学校創立以前の私立奈良盲唖学校について」(山中照章)
 本稿は、奈良県で聾学校の設立が立ち後れたのは、財政力の欠乏により余裕がなかった、とした上で、次の問題意識と視点から論ずるものです。

 本稿では、奈良県設置以後、明治半ばから大正まではなぜ設立しなかったのか、良県行政はどのようにろう学校を設立したかについて述べる。
盲唖学校創立以前
 奈良県では、明治三十六(一九〇三)年、東京盲唖学校長の小西信八を招いて、講演を行った。日時・場所など、詳細は載っていない。しかし、奈良県はまだ聾学校を設立する意思がなかっただろうが、なぜ小西を招いたのか、理解できない。(118 - 119頁)


 次は、ロート製薬の創立者山田や天理教に関する記事です。
 紆余曲折の末、昭和六年にようやく奈良県立盲唖学校が設立されたのです。

 大正八(一九一九)年秋頃から奈良盲唖学校の設立を準備しようと立ち上がったのは、小林卯三郎と山田安民であった。(中略)
 山田安民はロート製薬社の創立者であり、盲唖教育について熱心であった。山田は明治元年宇陀郡池上村(現宇陀市榛原)に生まれ、関西法律学校(現関西大学)に入学したが途中で東京に行き、英語を学んだ。しかし、病気にかかり中退し、明治三十二(一八九九)年製薬会社「山田安民薬房」を創立して、胃薬の販売に成功した。明治四十一年目薬の製造に成功した。それがきっかけで盲唖教育について関心を向けることになった。彼は、奈良県には盲唖学校がないことに気がついた。
(中略)
 知事は「予算が付けられるようになったら、県に移管してもらうので、当分は県立代行として、天理教にお願いしたい」と天理教の二代真柱中山正善に経営を依頼した。
 二代真柱は旧制高校生だった。一言で「よろしい」と引き受けた。
(中略)
 そして、昭和五(一九三〇)年頃、県が重い腰を上げて県立移管へ準備を進めた。昭和六年三月二十日に奈良県令十六号が制定され(『奈良県報』八百六十一号)、奈良県立盲唖学校が設立された。
 この年四月に、奈良県立図書館の中二階に最初のろう児六名が入学し、授業が始まった。十月、吉田角太郎校長先生を迎えて、口話教育が始まった。そして、昭和七年四月奈良市油阪町(現奈良市大宮町)に新校舎が完成し、聾学校と盲学校ともに移転した。新しい校舎で本格的な教育が始まった。
 昭和四十四(一九六九)年、現在の聾学校、盲学校の校舎に移転し、現在に至っている。(120 - 127頁)


■「私立浜松聾唖学校の日本語指導 ─「助詞の手話」についての聴き取り調査─」(梶本勝史)
 「助詞の手話」とは、手指の動作で助詞や助動詞等を指導するものです。本稿は、太田二郎氏をモデルとして、写真で説明するものです。
 
 目や耳が不自由な方々をとりまく問題点は、その歴史的な変遷と現状確認も含めて、私はまだ勉強中です。その中で、本書からは、これまでまったく知らなかったことを数多く教えてもらうことができました。牛の歩みのような速さではあっても、少しずつ理解を深めていくつもりです。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | ■読書雑記
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