2015年05月11日

井上靖卒読(196)『射程』

 終戦直後の社会的に渾沌とした世相が、本作の背景にあります。二十歳の若者が大阪周辺を舞台とする、事業と女性をめぐる精力的な生き様を活写した物語です。

 諏訪高男が、大阪の吹田で瓦工場を立ち上げるところから、この物語は始まります。若き事業家の始動が、スローテンポで語り出されます。この展開は、井上靖が7年前に受賞した芥川賞(第22回、1949年)の『闘牛』と、社会状況や若者の生き様を描く着想において、非常に近いものを感じました。いわば、博打のような仕掛けで階段を上り詰め、成功していく話です。

 作業場の様子などが丹念に描かれ、現実的な描写に徹しています。こうした事業の話は、井上が好きだったネタの一つです。井上作品に、社長などがよく出てくることに通じます。男の夢を賭けた情熱を描きたかったようです。

 上から三石多津子に懐中電灯で照らされることで、スポットライトを浴びるようにして佇む男のシーンが印象的です。月光の下で、洋装の吉見鏡子が立っている場面の点綴も記憶に残ります。丸山みどりと、夜空の星を見上げる場面も。
 こうした光の使い方が、井上はうまいのです。

 次の語り口に出会い、意外な思いをしました。

多津子と対かい合っているいまの場合、それよりも美しいものに奉仕する下僕の自己卑下の陶酔感が自分の心を隅々まで極く自然に充たしているのを感じた。(『井上靖全集』第11巻、300頁上段)

 井上は、こうした女性崇拝の描写を他の作品でもしていたのか、今すぐには思い至らないからです。谷崎潤一郎のような女性へのまなざしを、これまで井上靖の作品からは感じていなかったように思います。あっても、こうしたことばでの表出に出会わなかったように思われるのです。これは、また後に確認してみたいと思います。

 物語は、男の野心と女の思惑が交錯しながら、戦後の阪神間を幅広く飛び回る二十歳の青年実業家が育っていく様が、壮大なエンターティンメントのドラマとして描かれていきます。

 瓦からセメントへと、事業はますます大きくなっていきます。そして、人間関係の中で、高男は八面六臂の活躍をします。悪事を働くものが配されるものの、基本的には善人たちで構成される社会が描かれた物語です。その間には、お金というものがどっしりと居座っています。お金の力が人を動かしている様子も、生き生きと描かれています。男も女も、お金によって行動が束縛され、人生が影響を受けているのです。

 とんとん拍子に事業を成功させていく高男は、順風満帆です。しかし、やがて朝鮮戦争が勃発し、世相が複雑に入り組んでいきます。そのような中を、高男は持ち前の発想力と前向きな精神力で、精力的に泳ぎ出します。当時の社会や世相も、丹念に描かれていきます。

 高男は、綿糸や船舶や毛糸で儲けます。ついには、闇市の時代を乗り切り、心斎橋筋の丼池で繊維問屋を持つに至ります。その後、高男の成功物語がどうなるのか、読者は後半から一気に読まされます。

 結局、高男は、鏡子、みどり、多津子の三人の女性の誰を一番好きだったのでしょうか。最後に射程距離に入った女性が、その人だったのです。そして、意外な結末を暗示して、長い物語が閉じられます。
 いつものように、作者は終わり方にはっきりと白黒をつけていません。もう少し先を語ってほしかった、という思いになるのは、いつものことです。これがまたいいのです。読者として自由にこの後を想像して楽しめるのですから。【4】
 
 
初出誌︰新潮
連載期間︰1956年1月号〜12月号
 
新潮文庫︰射程
井上靖小説全集9︰黒い蝶・射程
井上靖全集11︰長篇4
 
 
〔参照書誌データ〕
「井上靖作品館」
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | □井上卒読
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]