2015年03月26日

井上靖卒読(195)『満ちてくる潮』

 静岡の酒場を出た紺野は、月を見ながら久能山下から清水にかけてタクシーでドライブします。そして、月光の下で和服の美人、瓜生苑子と出会うのです。
 本作は、大井町や銀座など、井上靖の生活圏が舞台の一部となって出てきます。
 銀座では、婚約破棄の話し合いがなされるなど、結婚したくない女性の気持ちが語られます。

 そんな中で、「〜である。」という文体が集中的に出てきて戸惑いました(『井上靖全集』第十巻569頁)。井上らしくないので、新聞連載の時期に関係しているのかもしれません。今はメモとして残しておくに留めます。

 酪農の話やダム建設のことなど、日本の自然や社会と結びついた話題が展開します。その背景に、恋愛と結婚について語られていくのです。
 やがて、紀州路への旅となります。大阪、湊町、王寺、五条、十津川と、私にとって懐かしい地名が出てくるので、自分が旅をしている気分を味わいました。井上作品の舞台として、逃避行の地としてよく出てくる紀州です。地理的な隔絶性と山地と海岸のイメージが、作者にとって好都合の地だからでしょう。
 大自然の中での会話が、ごく自然に交わされます。何気ない描写が井上の特徴です。その隙間に、恋愛感情を巧みに織り込んでいくのです。
 男と女が魅かれ合う心情が複雑に交錯する様を、淡々と語ります。男女6人の純愛と不倫が輻湊する設定で、後半は特に目が離せない展開となります。静かに、ゆっくりと進展していきます。井上靖の間の取り方も絶妙です。
 恋愛を知らないという2人の学者の役割も、うまく配されています。男は、とにかく恋愛が下手で、気持ちの表現も不器用です。それに引き換え、女の積極的な行動と決断が表に出てきて、男女の心理劇に絡み合います。
 2組の夫婦の関係が微妙な中に、独身の男と女がそれぞれに縦糸と横糸となって割り込み、付かず離れずの行動を見せます。その先にどのような展開があるのか、結果が知りたくて読み進みました。
 スローテンポの前半から、後半は一転して突然の自殺という行動を挟んで一気に語られます。何となく余韻を漂わせて終わるところは、その先を語ってほしかった、と思う方が多いことでしょう。この、その後を読者に預けたまま閉じるのは、この作者の手法です。
 この作品を新聞に連載し終わってから、作者は次のように言います。どのような見通しを持ってこのテーマに着手したのか、そしてこの結末に至ったことに対してどう思っているのか、作者の小説作法と共に知りたいところです。


 これまでは毎朝、床の中で目を覚ますと、必ず紺野か安彦か苑子か笙子の誰かが私の頭の中へはいってきた。私ははらはらしたり、あるいは、はがゆく思ったりしながら、彼らの訴えや言訳を聞いたり、彼らの主張に耳を傾けたりした。私はいつも聞き役で、彼らはいつも語り手であった。そして私は毎日、彼らから聞いた彼らの考え方や感じ方や、あるいは彼らのなしたことをそのまま三枚の原稿用紙に認めて、それを新聞社に送った。
 こういう言い方をすると、作者はどこにも居ず、自分の小説に対する責任を回避しているように思われそうだが、私は「満ちて来る潮」を書く場合、誇張でなしにそのようにして書いた。(中略)

 四人の主要主人公たちは勝手に行動したと言っていい。作者としては多少この小説の結末というものに予想を持っていたが、それらはみんな違ったものになってしまったようである。(中略)これから先、登場人物たちがどのように生きてゆくかは、別の小説の世界になる。(「『満ちてくる潮』を終わって」毎日新聞「学芸欄」昭和31年5月17日)


 なお、本作品の章題について、次のような指摘があります。井上靖の作品の小見出しについては、かねてより興味をもっていたので、こうした点は気に留めておきたいと思っています。おそらく、作者としては、章題が読者のイメージ形成を邪魔しないように、話の句切れとして言葉を数字に置き換えたものかと思われます。また、これが新聞の連載小説であったことも、作者にとってはその句切れが意味をもっていると考えていたのでしょう。【3】


初刊本では全十八章の各章に章数抜きで「月明」「しゅうまい」「白い雲」等々の章題が付けられていたが、新潮社版『井上靖文庫』第13巻(昭和37年3月31日刊)に収録の際、現行のように「一章」「二章」「三章」等々に改められた。(『井上靖全集 第十巻』780頁、曾根博義氏の解説)

 
 
初出誌︰毎日新聞
連載期間︰1955年9月11日〜1956年5月31日
連載回数︰243回
 
角川文庫︰満ちて来る潮
井上靖小説全集12︰満ちて来る潮・河口
井上靖全集10︰長篇3
 
映画の題名︰満ちて来る潮
制作︰新東宝
監督︰田中重雄
封切年月︰1956年7月
主演俳優︰山村聡、南原伸二
 
 
〔参照書誌データ〕 井上靖作品館  http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
posted by genjiito at 00:56| Comment(0) | □井上卒読
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