2015年03月20日

読書雑記(120)新井たか子著『愛情の庭 若き盲女の日記(復刻版)』

 新井たか子著『愛情の庭 若き盲女の日記 復刻版』(社会福祉法人 桜雲会 点字出版部、2014.7.25)を読みました。


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 戦前、東京盲学校師範部で学んでいた女学生の日記を編集したものです。昭和17年に「愛情の庭」(興亞書房)として発行された後、約70年もの間「幻の名著」と言われていた本です。
 戦中戦後の混乱期を潜り抜けた1冊が、偶然に著者の手元で見つかり、こうして復刻されたのです。

 著者である新井たか子さんは、1920年に栃木県足利に生まれました。高等女学校の時に字が見えなくなります。足利盲学校から東京盲学校師範部鍼按科を卒業した後は、弱視ながらも多方面で活躍します。「和歌の会」を結成し、歌人窪田空穂の指導を受けたりもしました。

 本書の巻頭には、西條八十の「二元の生活者」(昭和17年5月)、川端康成の「序」(昭和17年5月)を置く、贅沢な編集となっています。

 著者は、しっかりとよく物を見て考えます。感受性の豊かさが伝わって来ます。
 弱視のため、全盲の人との間に入って悩む姿が、読む者の心を惹き付けます。
 学校での明るい生活と、その反面も対照的に語られており、見えないことと生きることの苦渋が、行間から直に伝わってきます。

 日記として記される文章も、表現がしっかりしています。二十歳そこそこの少女とは思えない、さまざまな思いが言葉としてつづられています。この日記には、硬軟取り混ぜての、理知的なものと抒情的な表現が散見します。

 なお、引用文を作成するにあたっては、校正の手間を省いたために、所によっては旧漢字で引いていない箇所があることをおことわりしておきます。


一すぢにもえ上る友情を、冷静な、しかも底に涙を藏した學校當局の處置、經験と境遇の相異からくる生、死といふものへの見解の差、死といふものを大したことに思はぬ私等と、最大の不幸となす先生との間に横たはる大きな距りはまたなんといふ接近し、感電しやすい兩極であらう。先生の氣持をうなづきつゝクラスの熱意を支持してやまない私ではある。(17頁)

 (中略)
 あゝ、なんといふうらゝかな日和だらう。木々は緑に萌え、空は限りなく優しく、花壇には赤や白や黄のチユーリツプが絢燗と咲きき匂つてゐる。はら/\とちりゆく櫻の花びらを掌に受けとめて、櫻貝のやうな一ひらをそつと唇に當てれば、甘い、やはらかな感觸は溢れるやうな抒情そゝる。(40頁)

 (中略)
 護國寺のものしづかな丘をあゆみながら、春井さんは私の取つてあげたうす紫の野菊をそつと唇にあてゝ、うつとりしてゐたが、その可憐な小菊を親指と人さし指とで輕くつまんで、斷髪にかけたそら色のリボンにそつとさす。そしてちよつと小首を傾けて、
「ね、似合つて?」
 とにつこり笑ふ。
 私の返辭は、このひとへの鏡になるのだ。
 あたりの景色はみんな冬枯れた褐色と灰色に蔽はれてゐたゞけに、嚥脂のワンピースを着た春井さんの姿は浮繪のやうに美しくあでやかだつた。(218頁)


 著者は、弱視で本を読むことは何とかできます。読書と批評の様子も記されています。


 朝からぶつつづけに小読「若い人」をよむ。終ひには、目がぼんやりかすんで活宇が、ごちや/\になつておどり出してくるやうな氣がする。酷使だと思ひつゝも、よみだしたら終る迄やめられないのが私の性分だ。聲を出すのでのどがカラ/\になつて聲がへばりついて出ない。二三頁よんでは休み、一頁よんでは目をつむる。
 春井さんは机によりかゝりながら熱心にきいてゐる。私の何時も驚歎する事は彼女がとても鋭い感受性で、私などの氣付かないやうな批評をし、感動を物語ることだ。何時だつたか、「女の學校」と「ロベエル」の批評を互ひに言ひ合つた時、「ジイドの意圖したもの」に對する鋭い解剖と批剣の正確さに、私は全く壓倒されてしまつた。今日も江波の性格、その母のタイプを解剖して、彼女の本質を驚くべき記憶力で捉へて、時々の會話、動作等の適切な例を引いて究極までつつ込んでゆく。彼女の頭の中には聞いたストーリイの一語一語が整然と收つてゐるやうな氣がする。(44頁)


 著者は、何よりも本を読むことが好きだったのです。『更級日記』の作者を彷彿とさせる、とにかく本が読みたい盛りの少女だったのです。それを支える母の存在の大きさには圧倒されます。


 今日のやうなことがあると私は泌々と十五六歳頃の自分の日々の生活を思ひ出す。
 私の視力は殆んどなく、僅かに明暗が分る程度でしかなかつた。女學校へ通へなくなつた私は全く絶望して終つた。友だちとも一時全然會ふ事をさけた。暗黒と孤濁の世界にとぢこもつて、われと我身を憎み、世間を、果ては親をさへうとましく思はれた。
 けれど家人にきづかれぬやうに、こつそりと一町許りはなれた鎭守の杜にひざまづいて、ひそかに祈つた願ひ─。
 ”何も見えなくてもいゝ、どんな不幸になつてもいゝから、どうぞ本をよまして下さい。本に向つた時だけでも私に視力をお與へ下さい”
 あゝ、なんといふ可憐なひたむきな祈りだつたらう。あの時の自分の最も苦しかつた事は御飯よりも好きな本がよめなくなつたことだ。鎭守の杜から歸つて來ては本を開いて見る。けれど相變らず、私の網膜は私の期待する一字をさへ反映してはくれないのを知つてどんなにくやしく、情けなく思つたらう。
 母や?母は、私の一生を考へて、ずい分心配したらしいが、私が苦しんだのは只”本がよめないこと"そのことだけだつた。
 母は毎晩十時十一時迄、私の爲に本をよんで呉れた。母は疲れと眠さの爲に聲が出なくなり、本を掩つてウト/\とする。私は母の寝息をきゝながら、焦燥とやるせない悲しみとを以て母が再びめざめてよんで呉れる迄ぢつと待つてゐる。しばらくすると母は又首をあげてよみはじめる、が直ぐに再びねむつてしまふ。ぢつと私は待つてゐる。
 ついに堪らなくなつて床に入るやうに母に言ふ。その言葉にやゝめざめた母はまた、一しきりよみつゞけるのだ。うす暗い電燈の光は、この戰ひゆく母子の姿を毎夜ぼんやりとてらしてゐるのだつた。
 幾夜、布團をかぶつて涙をかみしめたことか─。
 あゝ、お母さん!! かう書いて來ると私はたまらない。涙が、こんなにポタ/\とおちてくる。
 なんと淋しい、哀れな姿。そして又なんと尊い美しい姿だつたらう。二人の間には一分のへだたりもなかつた。お母さんは私の心を一番理解してくれてゐた。口にはなんにも言はなかつたが……。進んで盲學校へ入れたのもお母さんだつた。
 未亡人として二兒を育てあげて來た母の生活は、本當に人生とがつちりと組合つたやうな強く逞ましいものであつた。けれどもまた弱い脆い一面を持つ母だつた。
 私が目が見えなくなつたあんな時でさへ母は私に不安な色ひとつさへ見せず、勇敢に次に進むべき道を示してくれた。しかしその反面で母はどんなに尊い涙を流してゐたことだらう。
 私は全く母の愛によつて更生したのだ。母は私の命の根だ。この母のためなら自分はどんな困難と戰つても立派に生きぬいてゆける。(46〜48頁)


 著者は、『更級日記』などの古典に親しんでいたから、このような描写になったのか、あるいは少女に相通ずる資質なのか、興味のあるところです。
 後に、「紫式部」という言葉が出て来るので、そこも参考までに引いておきます。
 これなども、『紫式部日記』のことを知ってのことなのでしょうか。


 學校時代に、歴史の試験答案を七五調の韻文で書いて先生を驚かしたといふエピソードを持つてゐる友は、クラス雑誌に盛んに小説をかき、短歌をつくり、詩をよんだ東盲の才媛だつたのだ。
 「紫式部」、それが彼女の仇名だつた。ある先生などは、若し彼女が目が見えて、適當な教育を受けて行つたら、實にすばらしいものになつたらうと語つてゐるほどだ。(204頁)


 文学少女は、夏目漱石の『心』を読み、雑司ヶ谷の墓地へも行きます。


 雑司ケ谷の墓地は夏目漱石の墓があり、彼の「心」といふ作品をよんでから私は、こゝがなんとなく壊かしく、時々氣の合つた友と、或ひはたつた獨りで時を忘れて逍遙する。初夏のたそがれの此處は、殊に私たちの若い心を優しくやわらかく愛撫して呉れる。─貴女の好きな文學を專心おやりなさい。若し私で出來ることだつたら、どんなにでもお手傳ひしませう、と私は心から桑野さんを勵ます。(50頁)


 作者の眼は、温かく周囲を見ています。そして、甘えない厳しい眼も見せます。
 みんなが一所に集まり、生活を共にし、いろいろと悩み考え助け合った日々。
 その一日一日を書き記した日記にも、東京盲学校を卒業すると共にみんなが別れる辛さ寂しさを感動的に語ります。ありのままの思いを書き付けているので、素直に読み手に伝わってくるのです。


「目が見えないのに、寫眞を下さいなんて恥しいけど、でもかたみには何よりも寫眞がうれしいわ」
 などゝ言ひながら、私のを貰つてくれた。この寫眞にはかの人のうつし姿が生きてゐるのだとその滑らかな面をそつとふれて見てなつかしむ時もあることであらう。(272頁)


 また、この日記の背後には、第2次世界大戦が横たわっています。そのことに言及する記事も、貴重な記録となっています。


 みんな各部屋でつゞつた慰問文に點字のはカナを振つて封筒に入れ、一個に四五通づゝ入れる。かはいゝ初等部の子のや中等部、師範部の生徒の烈々やくが如き熱誠あふるゝ文など、兵隊さんはどんなお氣持ちでおよみ下さるだらう。
 點字にふつたかなの文字を月の光にすかしてよむ尊い勇士のお姿があり/\としのばれる。
「おゝ目の見えぬ子からのおくりものだ」
 この慰問袋を開いた時、鬼をも恐れぬ勇士の胸は一種の強い感動に動揺するのではあるまいか。
 一室に二十人許りの女子が集つて、見えない人は鋭敏な觸覺で手ぬぐひをきちんと折り、脇と底を裁縫にして口をくゝる。四五十の袋が忽ち出來上ると、めい/\一品づゝ受持つてそれを袋に入れると次の人にまはす。袋が一周すると手ぬぐひがはち切れさうに一杯になる。(101頁)

 (中略)
 私たち女同志が手をとり合つて出かける時、街のちまたに立つてどうぞ一針と出される千人針。ハツと思ふが、目が見えませんからとそのまゝ通りすぎる事が出來ようか。さし出した人もハツと一瞬當惑と後悔が胸をかすめる、がすぐに「恐れ入りますが」と圓いしるしの所へ針をさして貰ひ、それをぬいて二度三度、糸をかけて結ぶそのまごころ……。どうもありがたうございました、と心からお禮を言はれて、かへつて恐縮して歸つて來る氣持ちは複雑だ。
 今日の慰問袋がどこの勇士の手に抱かれるか誰も知らない。けれど私たちの眞心は、荒野の果てに假寝の夢をむすぶ勇士の一人一人の心にあたゝかく通つてゐるのだ。
 さう思ふ時、私たちの心も安らかに、今日の終りを感謝してねむることが出來るのだ。(103頁)

 (中略)
 美しい便りが來る。軍事郵便と赤い判のおさつた角封筒を受け取つて、見知らぬ名前に急いで披いて見る。と、きちんとたゝんだ便箋の間から、ハラ/\とおちた幾葉かの押花。拾ひあげて見ると、丹精した後の見える美しい鈴蘭の押花ではないか。
 "僕は先日、陣中クラブのグラフで御校、東京盲學校の女子寄宿舎生一同が、見えぬ目に慰問袋をつくられ、陸軍省へ献納された寫眞を見まして非常に感激しました。銃後の皆様の熱誠は、前線の僕等の心を激勵してくれます。僕等はきつと皆様の御期待にそふことを心から誓ひます。
 皆さまには、御不自由にて何かと大變でせうが、どうぞ一生懸命勉強して立派な大和撫子になつて下さい。
 これは北滿の國境にさく鈴蘭です。警備の合ひ間に採集したものです。どうぞお受け取り下さい。生々とした鈴蘭の香りをお送り出來ないのが残念です。"
 短い文章だつたが、この鈴蘭の香にもまして、なんとかほり高いなつかしい武人の心だらう。戰野に鈴蘭をつみ、美しい抒情をこめて押す心、目の不自由な者に特に同情して優しい便りをよせる心。
 緩急あれば身を挺して敵陣におどり込み、鬼をもひしぐ勇士の、あゝなんといふ尊とい美しいお心であらう。
 私達はこのおほらかな、豊かな愛情に抱かれてゐる。なんといふ幸幅な惠まれた私達だらう。


 女性と男性を対峙させた記述もあります。


 「目の見えぬ女性」それは「目の見えぬ男性」と並べて考へうるものではない。
 この「目の見えぬ世界」にも、また、宿命的な女性の道が横はつてゐるのだ。
 一般社會の女性が、結婚といふことについて「選擇する」とか「選擇される」とか言ふ事に悩み苦しんでゐる時、目の見えぬ女性たちは、より根本的な「可」「否」といふ問題に苦しまねばならぬのだ。前者は、巳に「可」といふ前提が暗黙の中にもうけられてゐるが、後者にはそれが自覺によつてもうけられねばならぬのだ。そして、そのいづれにもせよ、いかに多くの忍從と犠牲とが必要であるかは明らかである。
 目の見えぬ女性が瞬間的、享樂的にならうとする自己を持しつゝ、如何に困難な勉強をつゞけつゝあるか、それは一般人の想像以上であらう。
 私はこの女性の危險な、一歩あやまれば自殺もしかねないやうな心的状態を救ふ道は、偉大なる精~力によつて文化的事業に身をさゝげられる喜びを與へるにあると思ふ。
 それは教育でも治療でも又その他のなんでもよいのだ。(207頁)

 (中略)
「目の見えぬ者」といへども人間である以上、女性は女性としての道を進みゆくことは望みたいことである。又、出來得る限り、さうせねばならぬと思ふ。
 要はいづれにもせよ、女子の自覺、覺醒と實行力、及び、偉大なる精~力である。それが女性の「幸」「不幸」を決する。
 結局、女性には、男性よりも更に大きな宿命的重荷があり、それを征服してゆくには、血のにぢむ努力が必要とされるのだ。(208頁)


 この日記に記された、東京盲学校で受けた教育と寄宿舎での生活から得たことが、著者のその後を後押ししていくことが容易に想像されます。

 本書の巻末には、日本盲教育史研究会会長である引田秋生氏の解説が付されています。
 本書をお読みになる前に、この解説に目を通してから読み進めると、本書の位置づけが明確になり、読みやすいかと思います。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | ■読書雑記
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