2014年11月21日

読書雑記(113)松永兄弟の遺稿集『戦争・文学・愛』

 『戦争・文学・愛 ─学徒兵兄弟の遺稿』(松永茂雄・松永竜樹著、和泉あき編、三省堂新書、1968年)を読みました。松永茂雄と松永龍樹の兄弟の遺稿集です。

 戦地で古典文学作品を読む記事がある、というT君からのご教示をいただき、本書を深川図書館から借り出して興味深く読みました。


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 T君からのメールには、以下のような文言がありました。


 兄の茂雄は一高中退、弟の龍樹は國學院大學卒業です。
 兄弟ともに新古今集を愛し、遺稿集にも頻繁に言及されます。
 茂雄は「重機関銃の握把を握り締めながら新古今の歌を語っている学徒兵の姿を想像してほしい」とも書き記しています。
 新古今が中心ですが、ところどころに源氏物語への言及もあります。


 確かに、この時期に教えていただかなかったら、読む機会のない本でした。
 若者の生き様を通して、古典の意義を再認識させられました。

 まず、本書の裏表紙に書かれている文言を引きます。本書の内容を的確に示しているからです。


二人の死
「ぼくは追憶や感傷のために遺稿集を出すのを、一つのぜいたくとして軽蔑する」と書き残した松永兄弟の手記には、日中戦争から太平洋戦争にかけて、死を目前にして誠実に生きた青年の姿があますところなく描き出されている。
二人の兄弟には、詩・短歌・劇その他の小品などたくさんの遺稿があるが、本書では、学生時代の日記と、軍隊時代のノートを中心に編集した。
多くの学生が戦場におもむかざるをえなかった「学徒出陣」より、25年が経過したが、遠い大陸に死んだこの二つの青春は、現代に生きる人々に大きな指針を与えるであろう。


 「もくじ」は以下の通りです。


 略年譜
 松永茂雄・松永龍樹について
1 兄を憶う 歌日記 松永龍樹
2 学徒兵の手記 松永茂雄
   学窓の友へ
   学窓からの学界展望 方法自覚の問題
   空色の手帖・その他
     文学ニツイテノ メモ
     学徒兵メモ
     第三ノオト
   立原道造
   詩─美しい虚構 その他
3 学生時代の日記と従軍手帖
      ─「学徒兵の手記」に答えて 松永龍樹
   卒業論文のための「サロン」(一九四〇年一月〜八月)
   ゆかりのための「サロン」 (一九四一年四月〜十一月)
   最後の「サロン」 (一九四一年十二月〜一九四二年一月)
   従軍手帖 (一九四三年二月一日 於 保定)
 松永君のこと 佐藤謙三
 主要遺稿リスト
 編集に当たって 和泉あき

 
 まず、二人の「略年譜」を引用し、その人生を通覧しておきます。


略年譜

(松永茂雄)
一九一三年(大正二年)四月三〇日東京に生れる
一九三一年(昭和六年)四月、東京府立第一中学校を経て、第一高等学校理科入学、立原道造も同級で深交をもつ
一九三二年(昭和七年)、同校中退
一九三四年(昭和九年)一月二〇日、前年の徴兵検査で、陸軍第一歩兵連隊に現役入隊、翌三五年除隊
一九三五年(昭和十年)、練馬にあった私立花岡学院小学部で児童教育の実践にあたる。並行して文芸同人誌『ゆめみこ』を翌年四月まで八冊刊行。この年、劇作、詩、エッセイ、歌論等の創作さかん
一九三六年(昭和十一年)四月、国学院大学文学部予科入学。弟、龍樹も同級
一九三七年(昭和十二年)十月十五日、在学のまま応召入隊、約一か月後、上海派遣軍飯塚部隊高見部隊上野隊に配属される。翌年休学を決意
一九三八年(昭和十三年)秋、山地戦中、マラリヤ、気管支炎大腸炎を併発、十一月二二目細菌性赤痢と診断され、二七日より穿孔性腹膜炎併発、二八日午後四時二〇分、呉淞陸軍病院伝染病棟にて戦病死。二十五歳。陸軍伍長
 
(松永龍樹)
一九一六年(大正五年)八月二日、東京に生れる
一九三六年(昭和十一年)四月、東京府立第一中学校を経て、国学院大学文学部予科入学
一九三八年(昭和十三年)四月、同大予科より文学部国文学科に進む
一九四一年(昭和十六年)三月、同大学卒業、卒業論文は「新古今序説」、四月より同大学国文研究室助手。九月十四日、綾子夫人と結婚
一九四二年(昭和十七年)一月、海軍予備学生試験に体格のため不合格、陸軍入隊決定。同月二八日助手辞任、二月一日応召入隊。約一週間後、朝鮮を経て中国へ向う。幹部候補生試験に合格
一九四三年(昭和十八年)済南で実習。少尉任官
一九四四年(昭和十九年)五月八目、中国河南省魯山付近の戦闘で戦死。二八歳(ママ)。陸軍中尉(1頁)


 茂雄二十五歳、龍樹二十八歳の命でした。大正2年から昭和19年の間に、二人が短い人生を駆け抜けたことが、本書に描かれている姿からはすぐには結び付きません。自分でしっかりと考えて生きているからでしょう。

 読み進めながら、メモとして抜き書きした文章を以下に列記しておきます。
 この記述の背景にある、想像を絶する戦時下という状況を忖度しながら、今は自分の中で未整理ながらも今後のために記録として残しておくものです。
 二人は『新古今和歌集』や藤原定家に篤い想いを抱いています。しかし、私は自分の興味から、『源氏物語』に言及する箇所を中心にして抽出しておきます。


☆私は陣中で源氏物語や古今集を講義させたという戦国の武将の故事を思いうかべながら、時に社会科学を論じ、時に定家の芸術を語った。(58頁)
 
☆源氏物語をはなれて伊勢物語を愛した高原の夏、…戸隠の冬…ボクが作った歌は新古今風のそれであった。死んでいった愛する人々を思う哀傷は、どんなものよりも定家の"なき人恋ふる宿の秋風"でなければならなかった。(そのころドストエフスキーとシエストフを愛した)現世にあらゆる望みを失い、しかも古典の教養を身につけかけてしまった者に、興味にはなりえない苦痛の興味は、ただ、新古今の恋と哀傷にひそめられていった。
 十三代集はもうみむきもされない。十三代集は心の深さがない。それはただ、技巧と形式のなごりにすぎない。そこには悩む者の姿がない。ボクがどうにでもして、新しい人生を始めようと努力する時、ポクは本当に、身において、新古今人の苦悩を感じた。しずかで意欲のない人々の時代には十三代集こそ真の詩であろう。意欲を持ちながらそれを現実に社会の中に満たしてゆかれない時、私たちの心は、本当の意味での新古今の本質をつかむ事ができる。(85頁)
 
☆例の原稿二十三枚、折口先生におわたしする。(十八日)
 論究に源氏論わたす(同日)。(91頁)
 
☆君は君らしく、やさしく物を思わない方がいい。君が物を思うのは"若菜"以後の巻でよい。"若紫"ボクのゆかりちゃん! おやすみ、ボクも美しい眠りにはいろう。(101頁)
 
☆ボクにはもう文学がいらない。ボクには"江戸紫"の必要がない。だってボクには"ゆかり"がある。綾ピン! いつ君と時間を惜しまず語れるのか。今夜もあいたいが、がまんしている。明日電話かけようか。なぜ昨夕約束しなかったのだ、今度からいつも次の約束をしてしまおう。電話で呼んでくれやしないかと夜待っていたがだめ。(104頁)
 
☆ ことばの心理学は、現代文学の粗悪をきらい日本語の美しさを古典の中に追いはじめる。そしてあの幼かったセンチメンタリズムは王朝の女性に文学を見いだす。"蜻蛉日記"や"源氏物語"が理想とされ"新古今"の形式主義は無上のものと信仰される。それらの言語の心理的な巧妙さは、谷崎や藤村のレトリツクの比ではなく、そのニヒリズムやロマンチシズムもまたはるかに深い美しさをたたえていた。古典の発見はボクの"文学"の転換であった。さがしてもさがしても立原君の詩以外に叙情できる文学のない明治以来の小説は、もう"文学ではない"と安心して言い切れる。文学と学問とが一つになる時が来た。"吉野拾遺"や"増鏡"に出発した古典へのやさしい愛は、やがて源氏・蜻蛉・新古今・枕草子をとらえ、次いで"文学史"への意欲と燃えた。こんな昔の形式の中に、こんなにボクのための文学が待っていようとは! そしてそれらの文学を、国学者は何と無味乾燥に扱っていることか。文学者はそれらの存在をすら知らないではないか。ボクの心理学は、ここでその対象を古典に限りはじめた。(145頁)
 
☆もう一つは、古典と空想の世界、定家や雅経がどんなにリアルな肉体を持った精神となって、僕に迫りだしたことか。戦友たちが都の女のうわさをする時、僕は、平安の歌人たちと膝を交える錯覚にひとり興奮を覚えるのだ。(173頁)
posted by genjiito at 23:05| Comment(1) | ■読書雑記
この記事へのコメント
『戦争・文学・愛 ─学徒兵兄弟の遺稿』は、あとがきにありますように、山田俊幸先生(私の友人)が資料提供したものです。和泉あきさんが戦没学生記念会常任理事でしたので、裏方にまわられたようです。その後、風信社というご自分の版元から、ゆめみこ双書『流れるいのち』という松永茂雄の遺稿集を出していらっしゃいます。私もこの優れた才能の兄弟のことを書きたいと、この本を手にしてからずっと思っていました。
Posted by 田中淑恵 at 2019年04月05日 00:02
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