2013年08月03日

読書雑記(75)宮尾登美子『伽羅の香』

 宮尾登美子の『伽羅の香』(中公文庫、昭和59年)を読みました。
 宮尾登美子の作品を読むのは初めてです。
 
 
 
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 どっしりとした、安定感のある文章で綴られています。いかにも作家の文章だという趣が伝わる、しっかりとした文体でした。久しぶりに小説家の文章だと思い、安心して語りに耳を傾けながら読み通しました。
 時代背景と社会が、丹念に描き込まれているので、文化史的な価値も高いものとなっています。

 話は、明治27年に葵が生まれた時から始まります。明治後半の三重県が、そして大正以降の東京の様子が活写されていきます。

 葵は、御家流から分かれた大枝流を継ぐ杉浦秀峯にお香を教わることになりました。
 お香と古典文学のことや、学問を積むことも出てきます。

 葵は二人の話のやりとりを聞いていて、葵がまだ全く判らない組香の話になると、例えば源氏物語をはじめ宇津保物語、更科日記、栄華物語、明月記、宇治拾遺物語、沙石集、太平記に至るまで、古典の名が次々と口に載せられ、それがごく当然のこととして話し合われるのを、まるで見知らぬ世界を眺め入るような面持ちで聞いているのであった。(129頁)

 現在私は、お香と古典文学をテーマにした博士論文執筆中の大学院生と一緒に、香道周辺の勉強をしているところです。そのこともあって、こうして語られるお香の世界に、少しずつ引き込まれて行きました。

 お香の道に入るために、自分の生家の炭屋を忘れ去ろうとする葵の意識に、昭和初年の時代背景が見えてきました。故郷を捨てて東京で生きる決心をした葵が、活き活きと表現されています。それだけに、結末が読む者に感銘を与えるのでしょう。

 新居に移ってから、『源氏物語』の「桐壺」巻の後半の講義を聴きます(159頁)。源氏香についても説明があります(173〜175頁)。ただし、私としては、もっと源氏香のことを語ってほしいところでした。とくに、その種類や由来やおもしろさについて。この組香の内容や具体的なことが、思いのほか平板でした。

 お香の道を用意してくれた貢の死を契機として、その隠し子のことが出てきます。これが、最後まで話を興味深いものにする一つの種となります。さらには、夫が葵の女学校時代の旧友と関係をもっていたことも。

 両親、娘、息子の死。波瀾万丈の人生が、40歳を前にした葵に襲いかかります。1年に7人という、相次ぐ家族の死という不幸の連続の中を、葵は戦中戦後を1人強く生き抜きます。

 香道をめぐって、人間の心の動きが丹念に描かれています。その精緻さは驚くばかりです。人の心の中が、鮮やかに語られて行くのです。芸術的と言えるほどの言語作品に仕上がっています。
 死に行く息子を照らす月光の中で、葵は髪を切ります。このシーンは、美しく、そして迫力がありました。

 養女にも、と思って大切に面倒を見た貢の娘楠子に裏切られます。人を信頼できなくなった葵は病の身にあります。その哀れさ辛さが、しみじみと伝わって来ます。

 最後に葵が独り言として、「こんな偽りに満ちた、体裁だけを繕う人間との付きあいなんてほとほと嫌気がさしました、」(359頁)と言い続けます。あまりにも寂しい結末に至る展開に、もっと明るく元気に語り納めてほしいと願いました。読者としての勝手な思いなのですが。

 幸せ薄い女の物語です。しかし、香道という芸道に一生を捧げた中に、人間としての満ち足りたところがあるのが救いです。そして、静かに晴れやかに終わります。しかし、明るい未来があるわけではないのです。
 こうした物語に慣れていない私は、中途半端な、落ち着かない気持ちのままに本を置くことになりました。【5】
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | ■読書雑記
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