2013年07月29日

京洛逍遥(282)『都名所図会』の河原町三条界隈

 小雨の中を、中村武生先生がなさっているイベントの〈「都名所図会」をあるく・平安城篇〉に参加しました。
 京都新聞の「まちかど」覧には、いろいろな京都近辺でのイベントを紹介するコーナーがあります。その中の一つに目が留まり、テレビや著書でよくみかける名前であることから、初めてですが参加したのです。

 地下鉄京都市役所前駅改札口で集合し、まずは寺町通りの天性寺へ行きました。
 参加者は9名でした。この企画は自由参加で、これくらいのこぢんまりした歴史探訪ウォーキングがちょうどいいと思いました。

 今回のテーマは「河原町三条界隈の寺社」ということです。
 山本兼一の〈とびきり屋見立て帖〉を楽しみにして読んでいる私は、この三条界隈に反応しました。「とびきり屋」という道具屋を、真之介とゆず夫婦は三条木屋町で営んでいることになっているからです。そこに、新撰組の面々が出入りするのです。もちろん、それは架空の話ですが。

 さて、最初に訪れた天性寺の墓地(本能寺の南側)では、三条通りが秀吉による土地の嵩上げで出来たものである、という証拠を見せてもらいました。確かに、三条通りの北側にある墓地から南を見ると、明らかに高台とでも言えるほどの高さに三条通りがあることが一目瞭然で確認できました。

 また、この境内には石橋が残っていることも、興味ぶかいものでした。
 
 
 
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 天性寺の前の寺町通りに、かつては中川が流れていたそうです。その中川に架けられていた石橋が、これだということです。
 中川というと、寺町通りを北にまっすぐに上がった廬山寺と梨木神社の前を流れていた川と川筋を同じくしているものです。その中川は、『源氏物語』の第3巻「空蝉」に出てきます。この寺町通りは平安京の東端で京極です。少しこの通りを下がると、藤原定家の京極邸跡があります。

 そこで、梨木神社の前を流れていた中川のことを伺ったところ、それが平安時代にもそうだったかどうかは実証されていない、とのことでした。
 中村先生は江戸時代を中心とした勉強をしておられるので、あまり平安時代には結びつけては話されませんでした。しかし、私はなんでも平安時代に関係づける癖があるので、話を伺いながらいろいろと置き換えて楽しんでいました。

 おそらく、次の写真の石畳と石板の境目あたりを、中川が流れていたと思われます。
 
 
 
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 今回手渡してくださった資料には、版本の『都名所図会』が印刷されていました。これは、国際日本文化研究センターのホームページで確認できますので、参考までにアドレスをリンクさせておきます。
 ただし、天性寺に関しての絵はありません。左端の説明文だけです。

「『都名所図会』の天性寺の記事」

 続いて、すぐ南の矢田山金剛寺に行きました。現在は矢田寺と言っています。『都名所図会』の天性寺に続いて説明のあるお寺です。ただし、現在は寺の説明に言及される「送り鐘」と、それが六道珍皇寺の「迎え鐘」と関係することは、『都名所図会』にはありません。また、『都名所図会』にある「夕顔薬師」は、今は何も説明されなくなっています。時代と共に、説明にも変遷があるようです。

 すぐそばの三条通りを鴨川に向かって歩きながら、この道が秀吉によって嵩上げされたことの証拠を、また見せてもらいました。

 京極には、坂はなさそうです。
 
 
 
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 しかし、その西側の新京極の「たらたら坂」と呼ばれる場所では、確かに1本東を通る京極にはない坂があります。
 
 
 
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 また、三条木屋町の池田屋の前から南に通る抜け道も、結構急な坂道となっています。
 
 
 
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 この京極から東の鴨川一帯にかけては、ここがかつては河原であったことがよくわかりました。

 高瀬川に架かる「三条小橋の生洲」の場所を確認し、橋の袂の「瑞泉寺(画像の左頁)」へ移りました。ここは、中村先生にとっては思い入れのある場所だそうです。そのことは、長くなるのでまたいつか。

 なお、この瑞泉寺と縁の深い豊臣秀次は、「ひでつぐ」ではなくて「ひでつぎ」と今は読むそうです。ひらがなで書かれた資料が見つかったからだとのことでした。
 また、『都名所図会』のふりがなは間違いが多いとのことでした。よみがなは、いつの時代にも問題があります。固有名詞の読み方は難しいものです。もちろん、何が間違いかは、これまた難しい問題を抱えることですが。

 「『都名所図会』に描かれた三条大橋」は、興味ぶかいことをたくさん教えてくれました。

 三条大橋の左下(三条小橋に近い中央左寄り)に、川に向かって降りる坂があります。これは、馬車などの動物が川を渡って通る車道なのだそうです。橋を動物が通ると事故にも繋がるし傷むので、こうした配慮がなされていたのです。
 この小さな坂は、形を変えて今でもあります。私は、賀茂川から鴨川に沿って自転車で南下して、三条や四条に出る時には、この坂道を自転車を押して木屋町に上がるのです。秀吉の時代に作られた坂だったのです。おもしろいことを知りました。

 また、この三条大橋の擬宝珠には、『都名所図会』にもあるとおり、「天正十八年」と刻まれています。こうして、古いままの擬宝珠が残っているのです。もちろん、この三条の橋は秀吉が架けたもので、それまではここに橋はなかったとのことでした。それ以前は、五条の橋に回って鴨川を渡っていたそうです。
 ということは、もちろん、光源氏も?
 『源氏物語』の第4巻「夕顔」で、鳥辺野への葬送場面を思い起こしました。
 
 
 
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 さらには、三条大橋の袂に築かれた石垣は、二条城の石垣と言ってもいいほどに立派なものでした。
 
 
 
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 日頃は、こんな所に目が行っていません。説明を聞くまで知りませんでした。

 この橋のことは、これも長くなるのでまたいつか、ということにしておきます。

 最後は、「檀王法輪寺(画像の右頁)」へ行きました。先の三条大橋の図には、右下に描かれています。

 雨も激しくなり、時間も超過したので、ここで今日は終わりとなりました。

 近世の歴史と地理を専門とされる方の説明を、実際に歩きながら見聞きすると、京洛の歴史地誌がよくわかります。新たな楽しみが増えました。

 折々に、空いた時間に参加したいと思います。
posted by genjiito at 23:01| Comment(2) | ◎京洛逍遥
この記事へのコメント
中村武生です。拙会に参加くださりありがとうございます。丁寧なご紹介恐縮です。またぜひおこしください。なお豊臣秀次は、同時代史料に「ひでつぐ」とあるものに気づきましたので、「ひでつぐ」でよいかもしれません。念のため申し添えます。
Posted by 中村武生 at 2014年02月14日 10:13
コメントをいただきながら返事を失念していました。
バタバタする毎日です。
ご寛恕のほどを。
新聞で開催日を確認しながら、なかなか参加できません。
また、ひょっこりと参加させていただきます。
Posted by genjiito at 2014年03月10日 19:56
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