2013年07月06日

読書雑記(69)本田宗一郎『やりたいことをやれ』

 稲盛和夫氏や松下幸之助氏の本を読むようになった流れの中で、息子の本棚にあった本田宗一郎氏の本も手にして読んでみました。これが、なかなかおもしろいのです。
 本田宗一郎著『やりたいことをやれ』(PHP研究所、2005年9月)は、今だからこそ読めた本だと思います。
 
 
 
130703_hondabook
 
 
 

 苦労を苦労ともせず、やりたいことを楽しくやり通した実業家の話は、本当に痛快感を残してくれます。本書はそうした意味で、日々を楽しいものに読み替えてくれます。いい本との出会いとなりました。

 開巻早々、こんな話で始まります。


まず第一歩を

 人間が進歩するためには、まず第一歩を踏み出すことである。ちゅうちょして立ち止っていては駄目である。なぜなら、そこにどんな障害があろうと、足を踏み込んではじめて知れるからだ。失敗は、その一歩の踏み込みだと思う。前進への足跡だと思う。
 わが国には「サルも木から落ちる」という言葉がある。慢心とか油断へのいましめである。心のゆるみだが、このための失敗には、私は寛容の心を持ち合わさない。なぜかといえば人間に許される失敗は、進歩向上をめざすモーションが生んだものだけに限るのだと思うからだ。しかし、私は猿が新しい木登り技術を学ぶために、ある試みをして落ちるなら、これは尊い経験として奨励したい。(14頁)


 この、まず第一歩の意味あいに、深い共感を覚えました。
 そして、2番目の話は次のように語られるものです。


人は給料でばかり働くのか

 人間、給料でばかり働くと思ったら大間違いですね。やはり、意気に感じるというところがある。たとえていうなら、うちの運動会でボクは赤組に入って綱引きをやった。ボクからすれば、赤が勝とうが白が勝とうが関係ないんですよ、どうせうちの人間同士でやってんだから。ところが、赤の帽子をかぶっただけでね、一生懸命引っぱるでしょう。次の日、腰が痛くてね。あしたの朝まで腰が痛いなんていう仕事したことないですよ、カネじゃね。
 だから私は給料で働いていると思ってる人は気の毒だな。人間、気のもんだといいたい。そういうものが積もり積もって、いろんな問題を解決していくんじゃないかな。(15頁)


 これで勢いがつき、その続きを一気に読み終えました。
 やはり、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉を設立したことがあるからこそ、本田氏の話を我が事のように照射する話として響いてくるのです。

 また、こんな話もありました。
 本田氏には、言葉に対する愛着があります。語ることが好きなのでしょう。


日本語の命

 "手の人"という一面に加えて、私は"言葉人間"としての一面も持っている。子ども時代は家の手伝いとか、村の子どもたちと日が暮れるまで遊びまわったりで、読書やつづり方などそっちのけだったが、十代後半からは、けっこう本も読んだ。雑誌『日本少年』や立川文庫の講談、『枕草子』『徒然草』『方丈記』など、今でもあの頃読んだものは、はっきり覚えている。
 私は、日本語が持っているリズミカルなこころよい語調が好きだ。そして、何世紀にもわたって使いこまれてきた言葉の中に、人間の深い知恵が宿っているところも好きだ。なるほどな、と納得するたびに、言葉の持っている命のようなものを感じるのである。(55頁)


 しかし、どうやら本田氏には、言葉や文学に対する知的好奇心はあるものの、その根底には不信感が根強く横たわっているようです。これは、どこからくるものなのか、興味を持ちました。創業者として、事業を展開する責任者として、その過程で自然と培われた、どうしようもない局面から得られた不信感なのではないでしょうか。


行動は全人格の表現

 人間の意志を一〇〇表現することのできるものは、文学でも言葉でもないと思う。なぜかといえば文字や言葉は、ときには計算された嘘も入る。場合によっては都合の悪い所は訂正もでき、消してしまうこともできる。
 しかし行動となるとそうはいかない。また一個の人格をもつ人間であったら、当然、自分の行動はつねに全人格の表現だという自信を持ち、それによるすべての責任をとるだけの覚悟がなければならない。
 行動というものはそうでなければならないし、そういうものだと思う。
 私は行動を信頼する。行動による話しかけに、私は一〇〇%の表現力を認めている。(203頁)


 また、次のようにも言っていることからも、そのことは確かなようです。


ゴマカシは通用しない

 人間、理屈をつける気になると、相当に無理なことも一見モットモらしい正当づけ、あるいは合理づけができるものである。高等技術を駆使する連中にかかると、権威づけまでやってのける。こうなると、言葉を自由に使いこなせない人間は、手も足も出ない。だから私は、言葉や文字を信用できない。科学や技術の世界なら、そんなゴマカシは通用しない。理論にまちがいがあったり、飛躍があったりすれば、実験がすぐに「それはまちがっている」と指摘してくれる。小さな部品が一つなくても、機械は絶対に動いてくれない。こんなシビアな世界で暮してきたせいか、私は言葉や文章を使う商売の人たちを、どうも百%信じきれないものがある。(226頁)


 さて、本田氏の心の中は、言葉と文学と行動が、どのように混在していたのか、興味深いところです。

 なお、最後の方で、こんなことも語っています。


年寄りのほうが世間知らず

 自分では若いつもりで、飛行機を操縦したりオートバイをすっ飛ばしたり、派手な色柄の服を着て喜んでいるが、私は要するに八十近いジジイである。世界のジジイ経営者同様、このジジイも、おれはだてに年をとっちゃいない、若い者が真似できない体験をしてきているし、いろいろ見てきている。そうした知恵はきっと役立つはず……と思わなくもない。それを認めた上で、私は老人は社会の一線から早く身をひくべきだと考えるのだ。理由は、今の世界というものは年寄りのほうが世間知らずだからだ。昔は若い人を世間知らずといったものだが、現在は逆。急激な世の中の変化に、もはや老人はついていけなくなっている。(253頁)


 これは、歳と共に、世の中の出来事を訳知り顔で解説する年寄りを、実に痛烈に批判するものとなっています。孔子の時代から、「今の若い者は」と言われながら、それでいて世の中は着実に発展を続けてきていることが想い合わせられます。

 私が大阪の高校の教員になった時、お世話になった中林功先生から「同じ職場に10年以上いてはいけない」ときつく言われました。長くいると、後から来た若者がすることが一々気になり、前に向かって進もうとするエネルギーを遮ることを言う羽目になり、邪魔者となりかねない、ということでした。
 その言葉を胸に刻み、3周した9年目に転勤することにしました。確かに、長居をするうちに、後から来た若者の発言を素直に聴けなくなっている自分を発見したのです。それまでに立ち働いてきた自分を庇おうとする、保身のなせる感情だったように思います。

 本書は、こうしたことに始まり、さまざまな自分を見つめ直す契機を与えてくれる本でした。
posted by genjiito at 22:57| Comment(0) | ■読書雑記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]