2013年01月17日

読書雑記(60)アガサ・クリスティー『ブラック・コーヒー』

 アガサ・クリスティーの作品はほとんど読んだつもりでした。しかし、1930年に初めて戯曲として書かれた『ブラック・コーヒー』は、書店で手にしてパラパラとページをめくっても、読んだ記憶がまったく蘇りません。
 
 
 
130116_blackcoffee
 
 
 

 早川書房の〈クリスティー文庫65『ブラック・コーヒー』麻田実訳〉には、クリスティーらしくないと言われながらも幻の傑作とも評される『評決』が併載されていました。最近、コーヒーを飲むのが楽しみの一つになっていることもあり、読んでみることにしました。読み進む内に、読んだものだと気づいたらその時点で辞めればいい、という軽い気持ちで。
 『評決』の方は、また読みたくなった時にと、今はとっておきます。

 読み始めて間もなく、夫と一緒にインドへ行ったエドナに私の注意は向きました。科学者クロード卿は、原子爆発の研究を完成させ、その方程式のメモが盗まれます。そして、名探偵ポアロの登場です。
 エドナはクロードの妹で薬剤師です。殺人事件に発展した時点で、私はこのエドナが怪しいと見ました。しかし、このエドナは最初に触れられるだけで、後は出番がまったくない人物でした。みごとにハズレだったのです。

 この作品の展開は、舞台で見るに限るようです。コーヒー茶碗を誰がいつどうしたか、とか、誰が読書室のどの位置にいて、いつ出入りしたかなどなど。文字を追っていく読書スタイルでは、この話のおもしろさが存分には味わえないように思いました。舞台と読書では、楽しみ方が違ってくることを実感したのです。

 推理劇の台本を文字で読むと、イメージを喚起するのに手間取って、おもしろさが半減しているように思えます。推理だけを楽しむには、この方がいいと言う方もいらっしゃるでしょう。しかしこの『ブラック・コーヒー』は作者の戯曲第一作目であり、劇という総合芸術仕立てでの発表形態が、作者の願う本来の目的だったはずです。
 身振り手振りに加えて表情豊かだった桂枝雀の落語を活字化したもので読む時のような、隔靴掻痒の感が最後まで付きまといました。
 つまり、作者がサービスとして少し長めに書いてあるト書きによって、舞台の臨場感を感じ取るしかないのが、もどかしく感じられたのです。

 芝居という視聴覚で楽しむ点は最初から考えないと割り切って、自分のイメージだけで楽しむ読書とした方がよさそうです。あまりこうした読み方に慣れていないので、あらためてそんなことを感じました。

 ただし、その場合には、翻訳という壁が立ちはだかります。異文化をどのような単語で訳すか。原文が織りなすクリスティの世界を、どのような表現で日本語化して伝えるか。翻訳者の腕次第で、作者の意図が大きく左右されます。

 今回は、麻田実氏の翻訳を読みました。これまで、翻訳による違いはあまり気にしていなかったので、機会があれば他の方の翻訳を読んでみるのもいいかもしれません。

 いろいろな意味で、この『ブラック・コーヒー』は楽しく読めました。そして、まだ読んでいなかったこともわかりました。
 日頃は日本の作品ばかり読んでいます。しかも今回は戯曲という異分野だったので、刺激的な読書時間を持つことができました。私は、この『ブラック・コーヒー』を電車の中で読みました。しかし、これはやはり、大好きなコーヒー豆をハンドミルで挽き、そして挽き立ての粉をドリップし、そうした薫りに包まれた部屋で、一人でコーヒーを飲みながら飲むのが最高でしょう。いつか、果たしたいものです。
posted by genjiito at 00:11| Comment(0) | ■読書雑記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]