2012年11月18日

「たけくらべ」の自筆原稿における本文の異同

 第36回国際日本文学研究集会の2日目です。

 本日最後は、戸松泉先生の公開講演「「たけくらべ」自筆草稿を開く ―樋口一葉〈書くこと〉の領域―」でした。
 会場の真下にある1階の展示室では、「たけくらべ」の自筆原稿が展示されています。それと連動しての、貴重な勉強の場となりました。
 
 
 

121118_itiyou
 
 
 

 戸松先生は、樋口一葉の「たけくらべ」の自筆原稿を素材として、作品の本文の変遷を語ってくださいました。『源氏物語』の本文の異同に取り組んでいる一人として、その近代文学研究の実態と対処に共通点が多く、非常に刺激的な内容でした。

 『文学会』掲載本文(『新日本古典文学大系明治編24 樋口一葉集』岩波書店)と、『文芸倶楽部』再掲載本文(『全集 樋口一葉』小学館)との本文の違いが、プリントを元にして丹念に追求されました。。
 どちらの本文を読むべきか。これは、いつの時代でも、どの作品にも共通する問題のようです。

 今日のお話では、第12章あたりから本文が特に変容するようです。

 詳細な本文の違いを検討した結果、『文芸倶楽部』へ再掲載するにあたって、作者は変貌したのではないか、ということでした。真如をどう描写するかが揺れているようです。

 今後の検討課題として、再掲載の原稿で、作者である一葉自身が、通読する読者になっているのではないか、ということを考えていきたいとおっしゃいました。

 論証が難しい問題が、数多く提示されました。本文をどう読むか、というところに帰結する内容だったので、原典を基にしたさらなる本文研究が必要だと思いました。

 なお、配布されたレジメの最後に、気になる言葉が目に留まりました。

「〜ではないか。」「ようである。」「気がする。」「感じられる。」

 こうした言い方は、実証的ではなくて、印象批評に受け取られかねません。

 全体を通しては、非常に興味深い内容でした。
 『源氏物語』に通ずる、視点を変えてのいい勉強をさせていただきました。

 これで、近代文学における身近な本文の問題として、与謝野晶子、谷崎潤一郎、そして樋口一葉の自筆原稿が確認できるようになったのです。千年前の『源氏物語』とは異なり、まさにこの100年間に書かれた生の原稿と、容易に対峙することができます。

 作者の手元で文章が揺れ動いていたことを考えるのは、本当におもしろいことです。その環境が充実してきたことと、具体的な資料が提示されたことは、今後の大いなる楽しみとなります。
 古典を敬して遠ざける方々とは、この近代の自筆原稿の話でつながりを持ちたいと思うようになりました。
posted by genjiito at 22:56| Comment(0) | ■古典文学
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]