2011年12月10日

若手の春画と翻訳に関する研究発表を聞いて

 総合研究大学院大学(総研大)文化科学研究科による「学術交流フォーラム2011」が、京都の国際日本文化研究センターで開催されました。これは、学生主体の事業です。そこに我々教員がシンポジウムなどに参加して、一緒に学術交流を深めようという取り組みです。

 昨日は、今西館長の科研研究会終了後に、夜遅くまで立川で懇親会がありました。楽しい情報交歓会をしてすぐに、こうして京都への移動となりました。

 国際日本文化研究センターは京都でも少し不便なところにあります。いつもは阪急桂駅からバスでいくのですが、今日は東京から直行なので、京都駅からバスで50分以上揺られて到着しました。
 裏山の紅葉は、山奥にあるせいか赤や黄色が明るく輝いています。
 
 
 

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 国立大学法人の総研大には、いくつかの研究科があります。その中でも文化科学研究科は、次の5つの文科系の研究基盤機関が専攻を持ち寄って構成する大学院大学です

国立民俗学博物館
国際日本文化研究センター
国立歴史民俗博物館
放送大学
国文学研究資料館

 本部は、神奈川県三浦郡葉山町(湘南国際村)にあります。

 今回のフォーラムの会場は、国際日本文化研究センターです。
 今日の総合司会は、日本文学研究専攻(国文学研究資料館)の紅林健志君でした。
 紅林君は、韓国で講師として教員生活を経て、また総研大に復帰して博士論文の執筆に励んでいる、元気いっぱいの若者です。
 今日予定されていたのは、「学生による口頭発表」と「ポスター発表」そして「レセプション」というプログラムです。
 
 
 
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 自分の備忘録として、忘れたくないことを以下に記しておきます。

 開会式の後、早速「学生による口頭発表」となりました。
 トップバッターとして登壇した鈴木堅弘君(国際日本研究専攻)は、非常に明るく元気な発表が始まりました。
 その題目は「春画における背景表現の機能と変遷 ─江戸期と明治期の図像比較を中心に─」という、えっ、と思うテーマです。
 発表内容はしっかりとしており、裸体画は猥褻か美術かというところにまで展開しました。以前にも、彼の研究発表を聞いたことを思い出しました。

 その「まとめ」は、以下のようになっていました。

 本発表を通じて、江戸期と明治期の「春画」の「背景表現」に着目することで、次の三点の視座を新たに示すことができた。
@江戸期の春画には、その「背景表現」に「見立て」・「趣向」・「もじり」などの演出が複合的に描かれている。
A明治期の春画では、それらの「背景表現」が失われる。
B今日のわれわれが「春画」に抱く「猥褻画」(ポルノ)という認識(「春画」の「性交表現」のみに着目する近代的視座)そのものが、実は歴史的に作りあげられてきたものである。

 また、

江戸時代の春画は「性交表現」のみで成り立っているのではなく、その周辺の「背景表現」の方に多くの表現が重ねて描かれている。
 また、「背景表現」の描写を統計的に把握すると、江戸期の春画には約八割以上に「背景表現」が描かれている。

ということを踏まえて、それがなぜ明治期になると「背景表現」描かれなくなるか、ということを問題にしていきます。次を聞きたくなる構成です。

 その一例として、上村松園の肉筆春画などを見せられると、いかがわしさが払拭されて芸術的な香りがしてくるからおもしろいものです。
 さらには、明治38年に黒田清輝が友人へ出した手紙で、

裸体画を春画と見倣す理屈が何処に有る……日本の美術の将来に取つても裸体画の悪いと云事は決してない 悪いどころか必要なのだ」

と言っている資料を見ると、時代の美術認識を新たにしたくなります。

 日頃はあまり耳にも目にもしない情報のオンパレードだったので、新鮮な気持ちで聞きました。おもしろい研究テーマがあるものです。本人は大変でしょうが、はたから見ると、楽しそうな博士論文になるのだろうな、とこれからの研究の進展に期待がもてます。
 
 続いて、屋代純子さん(日本文学研究専攻)は、「田山花袋の翻訳・翻案に関する調査研究 ─明治34年「村長」における「受容化(domestication)」と『異質化(foreignization)の問題」と題する発表でした。
 常日頃、日本文学と翻訳についての異質性に興味を持っている私は、非常に興味深く聞きました。ここでは、モーパッサンの「ロックの娘」を田山花袋が明治34年に「村長」という作品に翻案したことを取り上げたものです。
 屋代さんは、昨年度、国文学研究資料館で私が授業としておこなった「海外における源氏物語」に参加していました。ハングル訳をはじめとして、海外の翻訳について詳しかったことを覚えています。そうした興味が、今日の研究発表の下地にあるようです。

 今日の発表のまとめとして、次のように整理していました。

明治期翻案作品としての再評価
●「受容化」の側面から
「村長」は西洋文学からの翻案作品である。だが、それだけでなく同時代の日本の読者意識を反映させて、新たな奇談として再編成された作品と評価することができる。
●「異質化」の側面から
日本に舞台を置き換えた翻案作品でありながら、「村長」には文化的に相容れないはずの表現が用いられている。

 そして、その結論として、次のように言います。

『受容化」「異質化」双方の諸要素の相克する場として、作品を捉え直すことができる。

 全体的に、もっと元気な声で、メリハリをつけることで、聞く者に何だろう、と思わせる工夫が必要だったように思います。
 これも経験です。今後とも、積極的に多くの場で発表をして、度胸をつけてほしいものです。
 たまたま私の隣に、屋代さんの主任指導教授であるT先生がいらっしゃったので、私がふと疑問に思ったことを聞いてみました。それは、モーパッサンがフランス語で書いた作品なのに、それを英語で訳されたものを使っているのは、これでいいのか、と。フランス語から英語に移し替えた時点で、作品が変質していないかとの疑問をもったからです。
 この単純な問いかけに対してT先生からは、花袋が英語訳で読んでいるのでこうした研究手法になる、とのことでした。なるほど。

 それなら、と私は1人勝手に想像をめぐらしました。
 私なら、モーパッサンが言いたかったことが英語訳でどのように変質し、さらに花袋がその英語訳から翻案することで、日本人にはモーパッサンが描いた作品世界がどのように受容されることになったか、ということを問題にしたくなるところです。こうなると、ことばを通じた文化の受容と変移という問題になっていきます。ますますおもしろいテーマとなるはずです。しかし、それだけで、総究大での目標である3年間で博士論文を仕上げるのは大変かな、などとも思いました。

 その後の3人の発表は、エチオピア・コミュニケーション・韓半島をテーマとするものでした。学生さんには申し訳ないのですが、以下ここでは省略、ということにしましょう。
 一昨日は、私自身の研究発表の準備で徹夜をし、昨日は遅くまで館長共々飲んでいました。明日もシンポジウムがあるので、このへんで早々に身体を休めることにします。
posted by genjiito at 22:17| Comment(0) | *身辺雑記
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