2011年08月23日

銀座探訪(26)狩野画塾跡の説明板

 2週間ほど前に、「コーツ先生ご所蔵の源氏画帖は江戸狩野派の粉本」(2011年8月12日)と題する拙文を書きました。

 江戸狩野派に関係する場所として、現在工事中の歌舞伎座の近くに「狩野画塾跡」があったことを思い出したので、自転車を飛ばして行ってきました。

 みゆき通りと昭和通りの角のビルの側壁に、ひっそりと説明版があります。写真の矢印の場所です。気をつけないと見つけられません。
 
 
 

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 この説明版には、次のような文章が記されています。
 
 
 
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  狩野画塾跡
       所在地 中央区銀座五−十三−九〜四付近
 江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探
幽(守信)、尚信、安信の三兄弟を祖とし、鍛冶橋・木挽町・
中橋の三家と木挽町の分家浜町と、四家全て区内に拝領屋
敷がありました。
 木挽町狩野家の祖、狩野尚信は寛永七年(一六三〇)に江
戸に召し出され、竹川町(銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥
絵師になりました。のち、安永六年(一七七七)六代典信(栄
川)の時に、老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の
西南角に当たるこの地に移って、画塾を開きました。
 奥絵師四家のなかでもっとも繁栄した木挽町狩野家は、
諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人もまた集まり
ました。門人のほとんどは諸候のお抱え絵師の子弟で、十
四、五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。修行を
了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一
家を成す資格を持つといわれました。
 この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出しましたが、明
治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦
はともに、木挽町狩野最後の雅信(勝川)の門下生です。
   平成九年三月
                  中央区教育委員会


 狩野家には、鍛冶橋、木挽町、中橋、浜町の4家がありました。狩野探幽は鍛冶橋狩野家を興しました。
 この銀座にある「狩野画塾跡」は、4家の中でも一番栄えていた木挽町狩野家の跡地です。
 明治の近代日本画家として大きな足跡を残した狩野芳崖と橋本雅邦は、この木挽町狩野家最後の門下生でした。

 ケンブリッジ大学のコーツ先生がお持ちの『源氏物語画帖』の粉本は、この狩野家の系列に属する下絵である可能性が高いと思われます。とすると、この木挽町狩野家に関係する者が所持しており、この地で源氏絵を制作するときに模本として利用されていことがあったのではないか、と考えても、あながち妄想とも言い切れません。
 俄然、具体的なイメージが浮かぶようになり、楽しくなりました。

 コーツ先生は、今年の3月に慶応大学の招きで来日される予定でした。私も、お目にかかれるのを楽しみにしていました。しかし、東日本大震災が発生したことにより、残念ながら中止となりました。
 この次にコーツ先生が日本にお出でになった折には、ぜひともこの銀座五丁目の「狩野画塾跡」にご案内するつもりです。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ・銀座探訪
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