2011年08月12日

コーツ先生ご所蔵の源氏画帖は江戸狩野派の粉本

 ケンブリッジ大学のコーツ先生がお持ちの源氏絵は、粉本27枚が1冊の画帖としてまとめられたものです。2冊あったと思われる内の後半の1冊、第28巻「野分」以降の粉本がコーツ先生のお手元にあるのです。しかも、源氏絵とともに詞書も一緒にセットとなっていることが、この画帖の貴重なところだと思っています。

 この画帖について最初は、以下のブログで2回に分けて紹介し、情報を募りました。
 初回に、7巻分の詞書と源氏絵を公開しました。

「在英国・源氏物語画帖に関する情報公開」(2011年1月10日)

「在英源氏画帖に関する続報」(2011年1月28日)

 その後、コーツ先生から残りの20巻分の画像をお預かりしたので、「在英国・源氏画帖の情報(続1)」(2011年4月26日)以降、少しずつ詳細な解説を付して紹介しているところです。

 ちょうど「在英国・源氏画帖の情報(続13)」(2011年8月 5日)を掲載した直後に、この粉本が狩野派のものではないか、というご教示を赤澤真理さんからいただきました。
 赤澤さんについては、「源氏絵を寝殿造から見た好著」(2010年3月30日)で紹介しています。
 現在は、日本学術振興会の特別研究員として国文学研究資料館で研究を続けておられます。

 さて、赤澤さんから寄せられたご教示は、私がブログに掲載した源氏絵の粉本について、以下のような貴重なものでした。


桂宮家に伝来し、三の丸尚蔵館所蔵の源氏物語図屏風、狩野探幽筆に図様が似ているように思います。江戸狩野派系の粉本かもしれません。


 そして、ご丁寧にも、次の2冊を参考文献として教えて下さいました。

『絵画でつづる源氏物語−描き継がれた源氏絵の系譜』徳川美術館、2005年
『江戸の美意識−絵画意匠の伝統と展開』宮内庁三の丸尚蔵館、2002年

 早速、三の丸尚蔵館所蔵の源氏物語図屏風(以下、三の丸源氏屏風と略称)を掲載する図録類で確認し、赤澤さんからいただいた指摘がもっともと思われることを確信しました。
 この屏風は、次のようなものです。


源氏物語図屏風 狩野探幽筆 六曲一双
  江戸時代 寛永十九年(一六四二)
  紙本着色 各本紙一六七・六 cm × 三七〇・〇 cm(各隻)


 たとえば、先日公開した第44巻「竹河」の場合、コーツ先生がお持ちの絵は次のものでした。
 
 
 
110708_img_4275_44takekawa2
 
 
 

 この同じ巻を、三の丸源氏屏風ではこういうふうに描いています(『皇室の至宝2 御物 絵画U』協力︰宮内庁、監修︰徳川義寛・井上靖、毎日新聞社、平成3年5月、図版4)。
 これは、54枚の源氏絵が描かれた屏風の、左隻第四扇下段にあるものです。
 
 
 
Dsc02843_44takekawa3
 
 
 
 参考までに、この絵を白黒にするとこうなります。
 
 
 

Dsc02843_44takekawa3bw
 
 
 
 また、この絵を輪郭線だけにすると、こんな感じになります。
 
 
 

Dsc02843_44takekawa3rinkaku


 あらためてコーツ先生ご所蔵の絵と較べると、図様が非常によく似ていることに驚かされます。

 なお、上記図書に掲載されている写真を、このようなブログでその一部を引用する場合にも、研究上の学術的引用として出典を明示すれば転載が認められる、と考えていいのでしょうか。もし許諾が必要であれば、それはどのような形になるのか、ご存知の方からのご教示をお待ちします。引用として問題があれば、大至急この画像をとりさげます。

 さて、この二つの絵を見比べると、いくつか微妙に異なるところが確認できます。

(1)左端の女性の顔の向き
(2)簀子にいる女性の数
(3)桜の木と女童の位置

 これ以外は、ほとんど同じように描かれています。

 (2)が一番大きな違いです。
 コーツ先生の源氏絵は、明らかに清書をするための下絵としての粉本です。
 その絵の簀子には、女性が一人しかいません。しかし、三の丸源氏屏風には、二人の女性が描かれています。物語本文と照らし合わせると、コーツ源氏絵の方が正確なようです。しかし、作品として仕上げるにあたって、さまざまな工夫や手が加えられることは、こうした工房での絵画制作においては常套的だと思われます。下絵とそっくりそのままには描かない、と考える方が自然です。

 狩野探幽は、狩野派という絵師集団の棟梁として、江戸幕府開設当初から御用絵師として活躍していました。この一派は、特に粉本(下絵・画稿・模本・縮図)を、絵画の技量習得から制作段階において重視していました。粉本は、学ぶ上での教本であり、描く時の参考資料だったのです。そして、絵の注文を受けたときに、施主の注文や希望を盛り込むところに、創意と工夫がなされたと思われます。

 少し専門的になりますが、『狩野派障屏画の研究』(武田恒夫、吉川弘文館、2002年2月)から、参考になる記述を引用しておきます。


 後日の制作のために、具備される粉本にも注目する必要がある。粉本という用語は本来草稿を意味するものであったが、一連の小下絵群とは別に、小下絵そのものの模写、或いは完成図の縮写といったケースも無視できない。再建(引用者注︰江戸城本丸西の丸)後に何らかのかたちで木挽町家(引用者注︰狩野尚信に始まる狩野派四家の一つで、木挽町に居を定めた。)以外の家系によつて、写された粉本が、諸機関に所在する。(314頁上段)

 

 諸粉本から種々の絵様を採り上げ、それらを組み合わせたり添削したりすることが、当時の制作にとって、常套手段となっていた。各塾において、より豊富な粉本を収集することは当然の要請となった。粉本は画塾内の絵本方によって保存修理に万全が期されたのみならず、さらにその蓄積にも働かざるを得なくなる。晴川院が自分自身も模写の労を惜しまなかったことはいうまでもないが、門下生らを動員して各地に出張させ、古画名品の模写活動を行なったことは有名である。(314頁下段)

 

寛延元年(一七四八)、栄川典信は朝鮮国王に贈与する「源氏初音、藤、裏葉」屏風一双を描いた際、探幽の図を写している。(315頁上段)

 
 それでは、この「竹河」以外の絵ではどうでしょうか。
 このことについては、もう少し調べてから、日を改めて報告することにします。
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | ◎源氏物語
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