2011年04月18日

読書雑記(32)【復元】物語の作者とは?

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2004年12月31日公開分
 
副題「『物語消滅論』を読んで」
 
 『物語消滅論』(大塚英志、角川書店、2004.10)を読みました。
 
 
 
110418_bookmonogatari
 
 
 

 サブタイトルが〈キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」〉とあるのを見て、少し理屈っぽい内容かと思いきや、なんとか読めました。現代の社会問題を切っていくので異論はありますが、新鮮な語り口に学ぶことの多い本でした。また、現代を取り上げていますが、「物語」を考える上で、参考になる視点をもらいました。ただし、難解な、そして私にとっては馴染みのない用語の頻出には、ついていけないもどかしさを感じました。

 本日の新聞には、我が町「平群」を巻き込んだ事件の記事が埋め尽くされていました。この犯人と思われる男も、自分の〈物語〉の中を生きていたのでしょう。今を生きる我々と〈物語〉の役割については、機会を改めて記します。

 さて、本書で私がチェックした所を、思いつくままに紹介します。


 アメリカが文化的に他国に進出(侵略とは敢えて記しませんが)する際、その地の民俗学者や文化人類学者を抱え込むことは前例があります。太平洋戦争の敗戦後、GHQは占領統治のために岡正雄や石田英一郎ら文化人類学者を雇用しています。(中略)GHQが集めた文化人類学者も、戦時下は植民地支配のための民族学研究を行なった人々です。しかし、そこのところを特にぼくの出身である民俗学は戦後ずっと隠蔽してきたのです。(40頁)


 私は大学の学部生時代には、文学と民俗学の分野の勉強をしていました。柳田国男や折口信夫の著作物を読みあさり、大学の卒業論文は唱導文芸に関するものでした。
 今思えば、大変恥ずかしいものです。当時は民俗学の論理で〈文学・物語〉を読み解くことを目指していました。その手法に疑問を持ち、その後は〈物語〉の生成過程をテーマにしました。

 さらに自分のテーマは〈物語〉の受容と本文に移り、今に至っています。
 研究というものに興味を持ち、民俗学に親しんでいたころに、その背景に大塚氏が指摘されるようなことは一度も耳にしませんでした。このことは、自分のこれまでを整理する中で、いつか再考したいと思います。


 誰でも物語れるコンピュータ上の支援ソフトは、近代文学を支えてきた「作者」を根源的に無化します。つまり、「作者」とは「Dramatica」の存在によって、アプリケーションに還元し得るものなのだということが、はっきりしてしまったのですから。(81頁)
プラム


 『源氏物語』の作者を紫式部一人と限定しない私見を提示している私には、これは大いに参考になる視点です。物語を生み出した作者とは何か、ということを考える上では、それが特に千年前の『源氏物語』と呼ばれる〈物語〉であることを考えると、近代以降の一人の人間による産物という視点に縋るのではなく、今発生している〈物語〉の作者とは誰を指すのか、という問題に返って考えるべきです。それをいかにして証明するのか、なかなか難しい問題です。しかし、本書はその問題にいろいろな考えるヒントを与えてくれます。

 後半の「「よってたかって創る」ことの可能性」の項を、少し長くなりますが引いておきます。


 情報論的な世界においては「固有の作者」は成立しにくい。確かに辿っていけば誰がインターネットを作ったのかとか、LINUXのOSは誰が作ったのかといった「起源」があるにしても、進化の仕方そのものは一人の神によって管理されているわけではありません。ある不完全なソフトウェアがネット上におかれたときに、次々と色々な人間がバージョンアップをしていく。すべての記録が残っていく世界だから「ここまでは誰々の修正です」と署名はできるのかもしれませんが、逆に分担が明らかな分、ネットワーク全体の作者はいないわけです。
 こういう創作のあり方を川田順造はかつて「シンローグ」及び「ポリローグ」という概念で説明しました(川田順造「口頭伝承論」(一)『社会史研究』2/日本エディタースクール出版部)。作者が一人で語る「モノローグ」、受け手と対話しながら語る「ディアローグ」に対して「シンローグ」「ポリローグ」では固有の作者はもういません。「シンローグ」とは昔話が人々が集まる座の中で、そこにいる一人一人の即興の語りの相互作用の中で昔話が語られる、というものです。しかし、「シンローグ」は座に居あわせた互いに顔見知りの人間たちが彼らが共有している昔話を「再現」するのに対して、「ポリローグ」は、街中や広場において、それぞれが勝手に発話している喧騒状態を言うのです。しかし、その喧騒は無秩序ですが、そこに不定型であるゆるやかな一つの物語がやがて生成する可能性もあるのです。かつて川田のこの議論を読んでもぼくはピンときませんでしたが、LINUXのことを知ると、とてもよくわかります。LINUXは「シンローグ」及び「ポリローグ」の水準の「創作」なのです。
 (中略)それはともかく、勝手にジブリにやってきてシーンを追加したり、宮崎さんの原画に修正を入れて「この顔の方が可愛いじゃない」って描いて、また第三者が「うん。こっちのほうが可愛いよね」という評価軸のなかで変わっていく。そこで宮崎さんが「勝手なことをするな」と怒ってはいけない、というのが新しい創作の中での個々のポジションですね。LINUXの作者が「俺のソフトを勝手に改造しやがって」と怒ってはいけない。その違いがおそらく創作や世界を構成していくときに大きな違いになっていくのではないか。(150頁)


 この文章は、現代の〈物語〉だけでなくて、古代の〈物語〉の作者を考えるときにも、意味を持ちます。

 また、「検索ソフトは情報を「物語」に変えてしまう」という項目も興味深いものでした。


 ネットの検索結果の画面とは、同一の説話構造を持った異質の情報が重層的に表示される奇妙な情報空間だと気がついたのです。(194頁)


 検索することの意味を、改めて考えさせてくれました。情報を検索する行為は、物語を創造する行為と深く係わっているのでしょうか。物語の構造を考えることと、キーワードで情報を検索する行為の関係について、考えてみたくなりました。

 「あとがき」で作者は、自分が構造主義以前の「物語論」に準拠する意味を記しています。また、ハリウッド的な因果律である「善と悪の対立」という構造の物語が、イデオロギーの代替物とされていることへの問題提起にも興味を持ちました。大塚氏の語り口にひかれ、ただいま『定本 物語消費論』(角川文庫)を読んでいます。

 大塚氏の文章は難解ではなくて、はっきり言って日本語の表現がへたな方のようです。文意のわかりにくさは、悪文に起因するものです。しかし、内容がおもしろいので、しばらく大塚氏に付き合ってみます。"
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 23:27| Comment(0) | ■読書雑記
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