2011年03月19日

日南町の池田亀鑑(4)生誕の家と2人の「とら」さん

 池田亀鑑は、明治40年3月に神戸上(かどのかみ)尋常小学校を4年生で卒業します。
 その時点での同級生の名簿(『桜が丘 石見東小学校 創立六十五周年記念誌』石見東小学校同窓会、平成4年3月1日発行)は、先日書いたブログ「日南町の池田亀鑑(1)明治40年の小学卒業名簿」(2011年3月16日)で紹介した通りです。

 この卒業生の中に、後藤孝重がいます。この池田亀鑑の同級生である後藤孝重が、実に深い縁のある人物なのです。
 日南町で教育委員長をなさっている立脇立兌昶さんは、「池田亀鑑先生に学ぶ」(『桜が丘 石見東小学校 閉校記念誌』日南町立石見東小学校同窓会編、平成21年3月1日発行)の中で、小学校時代の池田亀鑑の様子はまったくわからない、と書いておられます(14頁)。

 今回の日南町訪問で、少しずつですがその手がかりが得られました。

 池田亀鑑が通った小学校は、一昨年に閉校となった石見東小学校です。かつて神戸上尋常小学校としてあった場所に、今も校舎は建っています。
 
 
 
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 この学校の校門を上がった校庭の横に、これまでにも何度も紹介した池田亀鑑の碑文が建っています。
 
 
 

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 この小学校から歩いて20分ほどの所に、池田亀鑑が生まれた所があります。この家が、神戸上尋常小学校長として赴任した父宏文の寄留先だった後藤家です。ただし、現在の家屋は当時のものではありません。
 
 
 
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 この家の庭に、「後藤孝重建之」と背面に刻まれた「池田亀鑑誕生地」を示す石柱がしっかりと建っています。
 
 
 
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 石碑が建つ後藤克美さんのお宅で、奥さんの八重さんから池田亀鑑に関する話をたくさん伺うことができました。
 お話によると、克美さんの父である広良さんの父が勇蔵です。
 後藤家は、この地域の資産家でした。今でも勇蔵の蔵書が残っており、なかなかの勉強家です。
 この後藤家では、代々の当主がさまざまな本を写したり版本を読んだりしています。その一端を示す本も拝見しました。
 御成敗式目の写本などは、写した意図がよくわかりません。往来物の版本が何冊かありました。特に、写真にも名前のある数代前の庄太郎さんは、さまざまな本を写したり購入していたようです。
 
 
 
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 その勇蔵の弟である孝重は、明治二十九年十二月八日に生まれています。
 
 
 
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 すでにお気づきの方もいらっしゃることでしょう。実は、池田亀鑑はその翌日の出生なのです。
 つまり、後藤孝重と池田亀鑑とは、相前後してこの後藤家で産声を上げたのです。このことは、日南町でもよく知られていることでした。

 幸いにも、昭和4年6月26日付けの戸籍謄本が、後藤さんのお宅に残されていることがわかりました。それによると、孝重さんの欄は次のようになっています。克美さんと八重さんの了解をいただきましたので、その部分を掲載します。
 
 
 
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父 後藤勇蔵
母   とら

二男  孝重
出生 明治二十九年十二月八日


 孝重は6番目の子供でした。

 母が「とら」という名前であることに、私は驚きました。
 ちょうど翌日生まれた亀鑑の母の名前も「とら」なのです。
 つまり、この後藤家では、2人の「とら」さんが同じ屋根の下で十月十日の臨月を迎えることになっていたのです。偶然なのでしょうが、果たしてそれを事実としていいのか、今もってよくわかりません。

 後藤孝重の母とらの欄は、次のようになっています。
 
 
 
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父 岸 惣助
母 空欄〈朱〉
出生 元治元年二月十日


 元治元年は実際には2月20日に改元されているので、後藤とらは、正確には文久4年2月10日生まれ、ということになります。後藤とらが6番目の子である孝重を生んだのは32歳の時です。たまたま、写真も見つけ出してくださいました。
 
 
 
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 この後藤とらは、岡山県哲多郡片瀬村の岸惣助の五女でした。
 明治13年11月30日に結婚して、この神戸上の後藤家に入籍しています。岡山といっても、この日南町が岡山との分水嶺に近いところにあるために、そんなに遠いところではないそうです。

 後藤とらが孝重を生んだその翌日、池田とらは第1子である亀鑑を24歳で出産しました。2人の「とら」は、8歳違いだったのです。

 八重さんの話では、孝重は奥の納戸で、亀鑑は表の間で生まれたそうです。この後藤家には、8畳の間が8つもあったとのことです。それだけ大きな旧家だったのです。

 この時すでに、この後藤家は11人以上もの人が同居していたことになります。

 今私によくわかっていないことは、なぜ池田家は後藤家に寄宿したのか、ということがあります。
 この両家は、特に血縁はないようです。

 亀鑑の父である宏文が校長として近くの小学校に赴任してきたことと、後藤家が旧家としてたくさんの本を所有するほどの豊かで教養のある家だったことことから、この家が選ばれたのではないか、と想像しています。
 あるいは、小学校から至近の距離であること、家の大きさ、そして何よりも出産が近い妊婦がいる家(?)であること等が、その選定に影響していたことでしょう。

 とにかく、一緒に同じ屋根の下で、1日違いで生まれた孝重と亀鑑です。
 小さいときから後藤とらは、乳母のようにして、教員として忙しく立ち働く池田宏文校長ととら先生の代わりに、亀鑑を育てたことでしょう。この時期は、池田とらの父又次郎が池田家を潰したために、お家再興の想いでとらは奔走していたのです。亀鑑は後藤とらのお乳をもらって育ったのではないか、と、まさに平安時代の乳母のありように思いを致しながら、この亀鑑の幼少期を想像しています。
 まさに、平安時代の乳母の姿が瞼に浮かぶ状況だったのではないでしょうか。さしずめ小学四年生までは、孝重は乳母子として、亀鑑を支えるようにして成長したはずです。光源氏のそばに仕えた惟光や良清などのように。

 孝重が、自分たちが生まれた敷地に「池田亀鑑誕生地」という石柱を建てたのは、2人の生い立ちがそうさせたものだ、と言えるでしょう。2人にとって、ここは想い出の場所なのですから。

 この池田亀鑑が生まれた時の家屋が、実は今も残っていました。それは、この後藤家から歩いて10分もかからない、槙原熊男さんのお宅がそうでした。
 
 
 
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 すでに改修の手が入っていますが、床下や壁面に池田亀鑑が住んでいた当時のままの木材や土壁の姿が残されていました。
 家の大きさは、当時と同じだそうです。
 
 
 
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 槙原家からの帰りに、後藤孝重さんが住んでおられた家の前を通った時です。
 すぐ近くにお住まいの立脇兌昶さんがたまたま玄関の外に出ておられ、せっかくだから後藤孝重さんの息子さんを紹介してあげよう、ということになりました。お言葉に甘えて、後藤さんのご自宅にお邪魔しました。

 お話によると、孝重さんがお亡くなりになったときに、親しかった池田亀鑑からの手紙などすべてを処分した、とのことでした。亀鑑が上京してからも、折々に物のやりとりもあった、とのことでした。しかし、えてして手紙などは一部が人の手にあるなど、散佚して残っていることが多いものです。
 今後ともあきらめずに探し求めていきたいと思います。

 最後になりましたが、日南町教育委員会の松本道博さんと西田 耕一さんには、2日間にわたり私をいろいろなところに案内してくださいました。また、資料も用意してくださいました。本当にお世話になりました。おかげさまで、こんなにたくさんの成果を入手することができました。
 今回は、短時間のうちに、幸運にもたくさんの新しい情報が得られました。
 今後は、こうした情報の断片をジグソーパズルのようにして組み合わせ、池田亀鑑の日南町時代を再構成していきたいと思っています。
 これに懲りず、またの機会にも一緒に謎解きのお手伝いを、どうかよろしくお願いいたします。
posted by genjiito at 01:48| Comment(0) | □池田亀鑑
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