2010年12月23日

井上靖卒読(118)『黯い潮』

 昭和24年に起きた下山総裁の行方不明事件から始まります。かつて新聞記者であった井上靖の本領発揮、というところです。ただし、小説ということを意識して、作者は用意周到にモデル探しにならないように配慮しています。

 中学時代の恩師である雨山が、『日本彩色文化史の研究』という日頃の成果を出版したいと、主人公である記者速水のところに持ち込みます。『枕草子』の例など、日本の古代文化と色彩について誘ってくれます。一つのことに打ち込む雨山という男が、活き活きと語られます。井上靖の小説によく出てくるタイプです。

 その雨山の娘の景子に、速水は惹かれていきます。
 波打ち際での二人を描写する中で、裾の砂を払う仕草で景子が着物を着ていることに気づかされました。井上の小説では、女性の服装が着物であることがよくあります。この服装については、女性像を形成する要素にもなるので、時代背景と共に今後とも気を付ける必要があります。
 また、本作でも、ラブシーンは非常に抑制されたものとなっています。これも、井上靖の特長といえるでしょう。

 ここで、一転して下山総裁の死体発見となり、物語は緊張感を増していきます。うまい展開です。ただし、事件の扱いは、あくまでも客観的です。もちろん、井上靖は毎日新聞の記者だったこともあり、自殺説のもとでの展開です。その点では、事実と真実を問題にする姿勢が強調されています。
 なお、松本清張は他殺説です。この下山事件については、たくさんの本が刊行されています。その中では、この『黯い潮』はあくまでも小説として読むことが求められている、と言えるでしょう。これは、井上靖も気遣っています。

 さらには、速水の妻はるみが、歌手と和歌山県の潮岬で心中した話が回想されます。速水にとって、はるみとの結婚生活3年目のことでした。
 社会的な事件と個人的な事件が絡み合いながら物語が進みます。ただし、私には、この二つの流れに景子との恋愛の問題がどのように連環していくのか、最後までよくわからないままでした。
 他殺と自殺に揺れる下山事件が、物語の中心となっています。それと、速水の個人的な問題である16年前の妻の自殺、そして現在進行形の景子への愛情が、接点を持たないままに進むのです。

 妻「はるみ」の死体は上がらず、男だけが見つかります。井上靖の作品では、水死のイメージをもったものとしては初期に属するものです。これが後年の『星と祭』になると、琵琶湖で水死するのは「みはる」という娘になります。そして、本作でも、死体は上がらない方がいい、と潮岬の巡査が言います。『星と祭』でも、琵琶湖の警察官が同じことを言います。このあたりは、作者の中にしまい込まれた場面なのでしょう。

 妻が残したノートに記された「愛する者よ、さようなら」という一語は、結末での速水の決断に決定的な影響を与えます。井上靖は、人間に救いの手を差し伸べることで、決定的な悲劇を回避することが多いようです。これも、その例と言えるでしょう。ただし、私には多分に精神的な世界に引きずられての強引さを感じましたが……

 なお、南紀串本へ行く経路など、現在との違いも楽しめます。井上靖の作品には、いろいろな土地が舞台となります。旅が描かれることが多いのです。私は、その道程が今と違うところを、いつも楽しみながら読んでいます。

 話がよく噛み合わないかのような感じを受けながらも、物語としては非常におもしろい小説でした。三つの話の交点が曖昧でしたが、不思議なブレンドがなされた物語です。私にとっては、速水の妻はるみの存在が印象的でした。下山事件の陰に隠れたしまったのが勿体ないように思われます。

 なお、この作品には、過去の事件に関して年数の食い違いがあるようです。
 『井上靖全集 第8巻』では、319頁下段で、はるみが自殺をした年齢を、他の2箇所に合わせて「二十歳」から「二十三歳」に補訂されています。下山事件の描写に気を遣いすぎたためのケアレスミスではないか、と私は思っています。毎日新聞社というものを背負う井上靖にとって、それだけ神経を使った素材とテーマだったと思われます。何か専門家による研究成果があるのかもしれませんが、今は措いておきます。【3】
 
 
 
初出誌︰文藝春秋
連載期間︰1950年7月号〜10月号
連載回数︰4回
 
文春文庫︰黯い潮・霧の道
角川文庫︰黯い潮
井上靖小説全集2︰黒い潮・白い牙
井上靖全集8︰長篇1
 
■映画化情報
映画の題名︰くろい潮
制作︰日活
監督︰山村聡
封切年月︰1954年8月
主演俳優︰山村聡、津島恵子
 
 
〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | □井上卒読
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