2010年04月07日

わが母の記(7)叱られると押し入れに

 私が小さかった頃、小学校の低学年の頃のことです。何かいけないことをすると、母は私を押し入れに閉じ込めました。

 当時は、父が大阪に出稼ぎに行っていたので、母と姉と私の3人で、出雲市の町営住宅に住んでいました。私が、小学校の4年生までのことです。

 田舎のことでもあり、一応ささやかな庭というか、畑がありました。
 母は、いつも割烹着を着ていました。
 
 
 
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 この庭から部屋を写した写真が、たった一枚だけ残っていました。
 
 
 
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 南向きの6畳間の奥に、3畳の間と台所がありました。台所では、かまどに薪を入れて煮炊きをしていました。昭和30年代のことです。
 水は、北側の玄関の前に、共同の手押しポンプがありました。冬は、熱湯で溶かしながら水を汲み上げたものです。

 この南向きの6畳間には、一間の押し入れがありました。
 母は、いつもニコニコしていましたが、私が何かよくないことをすると、突然豹変して鬼になりました。そして、決まって、6畳間の押し入れに、小さかった私を持ち上げ、そこに押し込まれました。その怖さに縮こまり、押し入れの中の布団の隙間でシクシク泣いていたことが、何度もあったことを思い出します。怖くて襖を自分で開ける勇気もなく、とにかく出してもらえるまで泣き続けていました。

 当時、私は身体が弱く、虚弱体質として、運動を禁止されていました。運動会で走れたのは、小学3年生の時からです。その時は、リレーのアンカーを走りました。初めて私が走るのを見て、みんながアンカーにしてくれたのです。結構早かったのです。今でも、運動神経はいい方だと思います。

 水泳も禁止されていたので、いつも八岐大蛇で有名な神戸川での水泳の時には、河原で見物でした。水泳は、出雲から大阪に引っ越しをして、大阪市立豊里菅原小学校に転校してから、初めて泳ぎました。というより、泳げないので、水浴びでしたが。

 母が厳しかったのは、この出雲の時代だけでした。それ以降は、いつも私のことを思ってくれていて、私が言うことは、何でもやらせてくれました。何でも許してくれました。これは、亡くなるまで一貫して、私を何事においても信じてくれたのです。父は、高校時代以降に、私がすることをすべて認めてくれました。その意味では、ありがたい両親です。
 何一つ、反対されませんでした。1人でヒッチハイクで富士山から帰ってくる旅の時も、おまえが行きたいなら行ってきなさい、と言って、両親は見送ってくれました。高校卒業後、1人で上京して新聞配達をしながら勉強すると決心した時も、好きなようにしたらいい、と応援してくれました。

 この、両親に信頼され続けたことは、私にとっては代え難い財産です。
 そんな両親に、今、感謝しています。もう、この気持ちを伝えようもないのが残念です。
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | *回想追憶
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