第19巻「薄雲」で、「ん」という文字を「も」と訂正する場合がそうです。
現在われわれが使う平仮名の「も」の元の漢字(いわゆる字母)は「毛」です。学校で教わったことですが、漢字が崩れて平仮名ができているのです。
しかし、かつては「无」を崩した「ん」も、「も」という文字の一つとして使っていました。平仮名は、今のように1つではなくて、何種類もありました。変体仮名と言われるものです。
ややこしいことに、「む」の字母は「武」です。しかし、この「む」に「无」の崩しである「ん」を使うこともありました。
「む」を「ん」と表記することは、推測しやすいものでしょう。助動詞の「らむ」を「らん」と読んだりしますから。
それに比べて、「も」を「ん」と表記することは、現代の用字からみると、素直に類推できない人が多いかと思われますが……。
さて、大島本の「薄雲」には、この「ん」と書いた後に「も」と訂正する例が7例あります。
それも、いずれもが朱筆による訂正です。
・「ことん」→「ことも」 3例
・「ねとん」→「ねとも」 2例
・「なとん」→「なとも」 1例
・「とんの」→「ともの」 1例
この内、古写本でよく見られる「ヒ」(または「」は「止」から生まれた訂正記号)を使うのは、次の「ことん」だけです(以下、掲載写真はDVDで刊行されている画像を加工しているため、少し不自然になっています)。
これ以外の6例は、「ヒ」( )ではなくて、次のような「×」印の訂正記号を使っているのです。
現代人が使う「×」印に近い記号となっています。
この「×」の記号は、いつごろから使われているのでしょうか。
乏しい経験ではありますが、私はこれまでに訂正記号としての「×」を見た記憶がありません。
というよりも、大島本はこれまでにも何度か通覧しているのですが、このような訂正文字については注意が向いていませんでした。今回、改めて疑問に思ったしだいです。
あるいは、他の写本にも「×」印があったかもしれませんが、今は思い出せません。
上の2枚の「×」印の写真を見ていると、3つのことに気づきます。
まず、「×」の記号でも、右上から左下へと筆を下ろすものと、左下から右上に跳ね上げるものがあることです。
次に、朱で書かれた修正文字としての「も」が、最初に掲示した「も」と、文字の形が違うことです。
最初の「も」の方が、字母である「毛」に近い形をしています。
さらには、朱の色が幾分異なります。
こうしたことから、朱で「×」印を付けた後その右横に「も」と書く訂正は、他の朱の訂正などとは時間的にも、また書いた人も違うようです。
この「×」印を用いた最初の例は、いったいいつの時代なのでしょうか。
まったくの想像ですが、この大島本の「×」印は、比較的新しい時代の訂正なのでは、と私は思っています。
一昨日の本ブログ「幻の『校本源氏物語』には改訂版があった?」で確認したように、こうした手が入ったのは昭和7年以前のことであることは明らかです。
具体的には、室町時代から大正時代の間のいつか、ということになります。
どなたか、ご教示をいただければ幸いです。
とにかく、大島本には膨大な訂正が書き込まれています。
さらには、文字の削除も頻繁です。胡粉で塗りつぶしたり、刃物で削り取ったりと、その修正にかける執念には凄まじいものがあります。
現在一般に流布する『源氏物語』のテキストは、この大島本を基にした本文に依っています。というよりも、この大島本による流布本しかありません。
大島本に施された膨大な補訂の跡を取り込んで作成された『源氏物語』の本文を、われわれは校訂本文として読んでいます。
ただし、その至る所に見られる補訂については、いつ、誰が、どのようにして加えられたものなのか、ほとんどわかっていません。とにかく、今は江戸時代までに多くの人が訂正した後の本文を、歴史的仮名遣いに統一して、漢字を当て、句読点を施した上で、活字に組んだもので読んでいるのです。
今後とも、大島本を根気強く調べることにより、今読まれている本文の素性がどういうものなのかを、明らかにしていく必要があります。
これには、ぜひとも若い方々の参加が大事です。
和紙に書かれた文字を調べて読むことは、非常に地味な作業の連続です。
しかし、1人でも多くの若者の参加を得て、『源氏物語』の基礎的な本文の問題を、1つでも解決していきたいと願っています。
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