2009年01月25日

英訳源氏の新たな切り口が見える本

 「源氏千年紀」ということで、2008年は『源氏物語』の話題で大いに盛り上がりました。
 2008年11月1日には、国立京都国際会館で天皇・皇后両陛下をお迎えしての記念式典が行われました。そこでは、「古典の日宣言」もなされました。
 11月2日から3日間は、「源氏物語国際フォーラム」として、世界各国の文学研究者・翻訳家・作家などが集合して意見が交換されました。私はその時に初めて平川祐弘氏の話を聞きました。平川氏は比較文学・比較文化が専門で、マンゾーニ著『いいなづけ』の翻訳で読売文学賞研究翻訳賞をとっておられます。
 当日の講演は、「ウェイリー源氏の衝撃」と題するものでした。チェンバレンによって退屈だとされた『源氏物語』ですが、アーサー・ウェイリーの翻訳は、「英語芸術作品」としてもすばらしいものだ、という趣旨でした。なかなかウィットに富んだ話しぶりで、大変刺激的でした。
 その折、近日中に『源氏物語』とアーサー・ウェイリーに関する著書を刊行する、とのことだったので、楽しみにしていました。

 『ア−サ−・ウェイリ− ― 『源氏物語』の翻訳者』(平川祐弘、白水社、488頁、2008年11月、4,200円)は、手にズッシリときます。しかし、その語り口は平易です。『源氏物語』のすばらしさを、芸術作品とも言える英文で世界に広めたアーサー・ウェイリーの、その生涯と業績について丁寧に実証的に語っている本です。
 原文(古文)、現代語訳、英文、日本語訳と、日頃は馴染みのない英語などの引用文がたくさん引かれています。ただし、引用された英文のほとんどが平川氏の翻訳なので、借り物ではない温もりが伝わってきます。
 通読しながら、引用が恣意的なように感じました。都合のいい場面が列挙されているようで、他の場面などがどのように訳されているのか知りたくなりました。もっとも、そうすると論点も複雑になり膨大な分量になるので、後は今後に期する、ということでしょう。これはこれで、若い人にはいい刺激となることでしょう。『源氏物語』の新しい切り口が示されたのです。そのように仕向けながら、独断と偏見というと悪く聞こえそうですが、小気味よく展開していきます。

 本書は刊行以来、たくさんの書評に取り上げられています。朝日新聞、京都新聞、読売新聞、東京新聞、中日新聞などなど。雑誌をあげると、さらに多くのものが見いだせるでしょう。それだけ、注目度の高いものだといえましょう。
 著者の目論見が一般読書人にあるようなので、これは社会的に受け入れられた証拠でもあります。もちろん、語られる内容については、今後とも検証が必要であることはもちろんですが…。

 本書の構成は、次のようになっています。


目次

はじめに

第一章 中国詩の新世界

第二章 西洋人の謡曲発見

第三章 日本の女たち

第四章 世界文学の中の『源氏物語』

第五章 翻訳の諸問題

第六章 大英帝国の衰退

第七章 晩年の諸業績

第八章 平安朝の恋とブルームズベリーの恋

むすびに




 私は、「はじめに」の後に、「第三章 日本の女たち」から読み始めました。
 この章の節を書き出しておきましょう。


・光源氏の「御心浅さ」

・空蝉の小袿か、スカーフか

・末松謙澄の英訳

・きぬぎぬの別れ

・夕顔のたわむれ

・夕顔の死

・文学の源泉としてのghostly Japan

・不可知論者ウェイリー

・物の怪とウェイリーの『源氏物語』発見

・フロイト的なるもの

・英語芸術作品としての首尾一貫性

・六条御息所の生き霊

・葵上の出産




 私にとっては、この章で8割方は興味が満たされました。そして、さらに多くの疑問に始まる問題意識を新たにしました。

 本書全体の内容紹介と寸評は、また別の機会に記します。

 ここでは、巻尾に付された「註」を通覧することで、本書のおもしろさを実感していただきたいと思います。

 平川氏の註は、単なる補足的なものではありません。
 多分に、平川氏の本音が出ていて、楽しみながら読み進んでいけます。

(1)「Arthur Waley」という名前を、日本語でどう表記するか、ということです。
 「近年は英語の一部二重母音を片仮名にも写そうとする新傾向というか流行のためにウェイリーと書く日本人が多数を占め、それに固定化しつつあるかに見える。」(434頁)として、自分も今後は「アーサー・ウェイリー」とすることを宣言しています。

(2)「蝉」がいないイギリスでは、空蝉の意味をどう伝えるか、ということについて。
 「「蝉」は英訳ではしばしば「蟋蟀(こおろぎ)」criketや「きりぎりす」grasshopperに置き換えられて登場する。それは、南フランスやイタリアと違って、イギリスには蝉がいないからである。(中略)ちなみに北京の蝉「知了」の聲は細くて、日本の蝉の声とずいぶん違う。」(441頁)
 文化や風土の違いを、翻訳はどのようなことばに置き換えるのか、ということは、翻訳論の大事なところです。こうした例を、今後ともたくさん例示し、訳者の工夫と文化の移植に注目する意義を感じました。

(3)日本の国文学界の『源氏物語』研究は微に入り細を穿っているが、学際的な研究は必ずしも発達しておらず、精神病理学的な方面からのアプローチにはいまだに見るべきものは多くない由である。(中略)ウェイリーは浮舟を「精神分裂症」と考えていたのかもしれない(第六分冊 The Brisge of Dreams 初版のイントロダクション、一八頁)。」(444頁)
 いわば、学際的な研究というものの必要性が強調されています。

(4)「いぬきは犬君(いぬき)とも書き、召使いの童女の名だが、ウェイリーは誤って男の子と取った。」(449頁)
 誤訳についての指摘はおおいのですが、それはウェイリーの評価に直結しないことは著者も何度も言うところです。ただし、この例はおもしろいので、ここに引いておきます。

(5)「日本文学を世界文学の中で鑑賞するためには、影響関係を探り出して比較するにせよ、無関係な二作品を比照するにせよ、適切な尺度の選び方が大事となるのではあるまいか。」(453頁)
 まさに、この「適切な尺度」なるものがなかなか見つからないのです。何かを固定しておかなければ、比較ができません。今後の検討課題です。

(6)「筆者が先に第三章で話題とした「小袿(こうちぎ)」を「スカーフ」に置き換えたような決定的に重大な問題点が吟味されていない。」(454頁)
 このことは、ぜひ本論で確認していただきたい、非常に興味深い話です。

(7)ウェイリーが用いた『源氏物語』について。
 「小西(甚一)は古田拡ほかの『源氏物語の英訳の研究』の誤った記述を踏まえてウェイリーは『湖月抄』本によっているなどと述べている。」(455頁)
 これについては、ウェイリー自身が翻訳初版の第二分冊の「翻訳底本についての註」で「博文館本を用いた」と書いていることから、本書の『源氏物語』の引用本文は、この博文館本(池邊義象校註、国文叢書本、1914年版)をあげています。

(8)正宗白鳥の「英訳を新たに日本文に翻訳したら、世界的名小説として、多くの読者を得るかもしれない」という推測に対して。
 「その日本文翻訳の出来映えがよければそうなるかもしれないが、英文直訳調の翻訳ならば結果は惨憺たるものになるだろう。」(455頁)
 平凡社から昨秋より『ウェイリー版 源氏物語 全4巻(平凡社ライブラリー) 』(佐復秀樹訳)が刊行されています。さて、この日本語への訳し戻しは、今後どのような評価を受けるのでしょうか。

(9)「谷崎訳や晶子新新訳がウェイリー英訳によって触発されたという可能性はないとはいわないが、河添(房江)のように断定するだけの根拠もない。」(456頁)
 これは、今のところは軸が揺れている段階です。しかし、おもしろいテーマではあります。

(10)「「葵」の巻の英訳は原文からの乖離がとくに著しい章だが、(中略)六条御息所の人格を英文でウェイリー流に造形してしまったのであろうか。」(456頁)
 平川氏らしい指摘です。

(11)「ウェイリーは富山房名著文庫、一九一四年刊の『源氏物語忍草』をたいへんよく使い込んでいる、と井原眞理子は報告しいてる。」(458頁)
 この井原氏の仕事は、今後とも注目されることでしょう。なお後出。

(12)「ウェイリーは一九三三年に出した最終の第六分冊 The Brisge of Dreams のイントロダクションの末尾(二四頁)で、第五分冊 The Lady of the Boat と第六分冊の英訳に関しては金子元臣に依拠した、と書いて、金子の本文校合だけでなく註釈も、仏教関係の言及を除いては、高く評価している。明治書院から出た三冊本の『定本源氏物語新解』をさすのであろう。」(459頁)
 この金子本をはじめとして、昭和10年前後は河内本という本文が注目されていた時代です。ウェイリーの英訳に、この河内本の本文による影響はないのでしょうか。英語力のある方は、ぜひこの問題にも注目していただきたいものです。

(13)「古文に対する自信のなさもあって日英対訳で『源氏物語』を読み出したような気もしいてる。」(462頁)
 本論でも、平川氏ご自身ことが語られています。

(14)「第二次大戦前には岡倉由三郎のような英語の大家でありながら、ナショナリズムのせいだろうか、ウェイリー訳源氏より末松訳源氏の方がいい、などと口走った日本人もいた。」(465頁)
 本論部分でも、末松謙澄にたいしては批判的な指摘がなされています。

(15)「宮本昭三郎『源氏物語に魅せられた男』(新潮選書、一九九三年)という伝がある。著者の宮本はロンドン大学東洋アフリカ学院に司書として長く勤めた。周辺部はよく調べてあるが、ウェイリーの作品内部に立ち入っていない点が物足りない。」(471頁)
 これは、立場の違いというものではないでしょうか。宮本氏は、人物に視点を当てての語り口でした。

(16)「ウェイリーは携帯用の大阪積善館の『源氏物語湖月抄』、一九一四年刊の有朋堂文庫本なども所持していた。与謝野晶子の一九一三年刊の『新訳源氏ものがたり』も持っていたが、これは抄訳だからこれをもとにウェイリーが英訳したという風評はもともと滑稽だある。『源氏物語』関係の書物は後年刊行された研究書を含めて三十一点が井原のリストに挙げられている。井原のウェイリー研究の公刊が待たれる。」(471頁)
 ウェイリーの生活実態が明らかになれば、その翻訳の背景や過程が少しずつ解明されてくることでしょう。この分野の研究は、今後ともますます目が離せない、という状況にあるようです。

 英訳源氏の研究において、あくまでもテキストに拘って検討していくという平川氏の姿勢は、本来あるべき手法だと思います。
 比較文学や比較文化は、えてして物差しが揺れて、恣意的な結論を導いたり、どちらでも言えるようなことになりかねないのです。その点では、本書は書かれた文をどう読むか、ということに徹しているので、その姿勢が明確です。

 ただし、私は論拠としてあげられた例が、はたして『源氏物語』の翻訳本文を論じるのに適切なものであったのか、ということと、それを裏切る例も多いのではないか、という危惧の念を抱きました。これは、私には英訳が読めないので、反論できないので引き下がらざるをえません。平川氏はシャープな視点で論破されているので、これはぜひとも今後の検討を待つしかないでしょう。

 いささか無責任な物言いとなりますが、若い人への期待ということに留めることにして、平川氏の業績を高く評価したいと思います。
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | ◎国際交流
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