2008年10月02日

井上靖卒読(45)『白い風赤い雲』

母親に起こされて歯磨きをする場面から始まります。
これが、実にみごとです。
全編を通してのこの親子の会話が、なにげない会話が、自然と心に沁みます。
5年前に父親を亡くした卓次は、もう10歳になりました。

「来年からは、ちゃんとしたお家に住みましょうね。タアちゃんが学校から帰っても、いつも母さんがお家にいるようにしましょうね」(25頁)


と抱きしめながら言う母の姿は、最後にその意味がわかります。
最終章近くで、母はこう言います。

タアちゃんは今夜、こうして母さんと夜店へ金魚を買いに行ったことを大きくなっても覚えてるかしら」
と言った。
「どうかな」
「覚えておきなさいよ。今夜はタアちゃんの一生にとっても、きっと大切な日だと思うわ」
と言った。
「どうして大切なの」
「それはね」



これは、子供のために生きようと決心した母親が、愛に生きることを諦めた場面です。
こころ優しい母親です。

子供の眼から見た世界が、克明に描かれています。
子供の物の考え方や見方が、生き生きと鮮やかに描かれています。
子供の世界と大人の世界の境界を行き来する、子供と大人の心のありようが、なにげない日常の生活を通して、興味深く巧みに描かれています。

母親を見る息子の心に映る映像が、そして心の動きを丹念に語る作者の筆致は、温かいまなざしに満ちています。少年の鋭い感覚もみごとに描き出されています。
井上靖の観察力に感心しました。
目の前に展開する大人の世界を、素直に受け取る10歳の卓次少年。
人間の純粋な心が伝わってきます。気持ちよく、爽やかに読めます。

息子が見た母の心遣いや思いやりが、読者である私自身の母親と生き写しになる時が何度も、いや屡々ありました。
これは、生きる上での生活環境や社会事情は異なるとしても、母親というものの普遍的な姿を描いているからではないでしょうか。

最初この小説の題目を見て、戦国武将の物語かと思っていました。それが、まったく意外な内容でした。それも、親子のありようを非常に感動的に語るものだったので、いまだにこの題名がしっくりときません。
この題名の意味するものは何なのでしょうか。
井上靖の小説には、私にとっては題名と内容がうまく連接しない作品が、時々ですがあります。【4】


初出誌︰主婦の友
連載期間︰1956年1月号?12月号

角川文庫︰白い風赤い雲
井上靖小説全集20︰渦・白い風朱い雲



参照書誌データ:井上靖作品館
  http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | □井上卒読
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