会場である京都市勧業館(みやこめっせ)の入り口(西側広場)には、『源氏物語』の主人公の石像がありました。
この石像について、「みやこめっせ」のホームページでは、おおよそ次のように説明していました。
京都府石材業協同組合石青会が京都市に寄贈したもので、第12巻「須磨」における、光源氏と紫の上とが和歌を交わして別れを惜しんだ場面を題材としている、と。
石碑には頭に、
源氏物語が世に出て一千年
源氏ゆかりの地「京都」へ
と記してあり、その下に次の二首が刻まれています。
身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡の影は離れじ(源氏の君)
別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐさめてまし(紫の上)
この石碑について、同ホームページの文章を引きます。
世界平和への願いと「あなた一人ではなくいつもあなたの事を考え見てくれている人が傍にいますよ」というメッセージが込められています。
見る角度や天候により、変化する表情も楽しんでいただけます。
この説明による限りでは、世界平和と『源氏物語』における二人の惜別の情とがどう結びつくのか、私にはよくわかりません。
少し詳しくなりますが、この和歌の前後の文章をあげます。
女君、涙ひと目浮けて見おこせたまへる、いと忍びがたし。
身はかくてさすらへぬとも君があたり
去らぬ鏡の影は離れじ
(わたし自身はこうして遠くへ流浪していこうとも、
心はあなたのそばを離れない鏡みたいに、
あなたからかけ離れはしないでしょう)
と聞こえたまへば、
別れても影だにとまるものならば
鏡を見てもなぐさめてまし
(お別れしましても、
せめてあなたの影だけでも鏡にとどまるものなら、
それをみて心を慰めることもできましょうけれど)
柱隠れにゐ隠れて、涙をまぎらはしたまへるさま、なほここら見るなかにたぐひなかりけり、とおぼし知らるる人の御ありさまなり。
(『新編日本古典文学全集』(小学館)一七三頁)
紫の上は、須磨へ退去する光源氏との別れに堪え難く、涙を見せまいとしています。
唱和の後、紫の上は柱の陰に隠れて座っているのですが、このような別れには不吉な涙を必死にこらえています。別れを惜しむ光源氏と、ひたすら耐えることになる紫の上が描かれています。
また、『新編日本古典文学全集』の頭注には、「姿を映した人の魂は鏡に留まるという民俗信仰があったものか。」とあります。いろいろと、興味深い場面です。
さらには、この部分には異文があります。
〈河内本群〉では、この和歌の後を、「いふともなくまきらはして、はしらかくれにそひふして、うしろむきてなき給へる」という表現で伝えています。
〈河内本群〉の本文は、紫の上が柱の陰で後ろ向きに泣くさまを語るのです。現在流布する〈別本群〉が、涙を見せまいとして悲しさを紛らわそうとする紫の上を描くのとは、また違った読み取りができる場面となっています。特に、歌の直後に見える〈河内本群〉の「いふともなくまきらはして」という一文は、〈別本群〉にはまったくない語句です。紫の上の様子を、その心情に立ち入って情景描写を意識した語りになっている点に、〈河内本群〉の性格が読み取れるでしょう。
話が専門的になってきました。とにかく、それは措くことにしましょう。千年紀の記念のモニュメントなのですから。
ただし、この和歌を石碑に刻んだ意図は、『源氏物語』の書かれた内容からは離れたものであることは確かです。二人のおかれている状況を無視した、物語の中の歌だけを切り出してきてものなのです。よりによって都を去る別れの場面を選ばなくても、というのは勝手な個人的な感想ですが……。
日本語の高度な働きが理解できず、ほんの表面的な意味からの選択としか思えません。このような陰鬱な場面ではなくても、『源氏物語』にはもっと明るいものがたくさんあるので、次の機会にはことばの意味をよく考えて選定されることを望みます。
また、みやこめっせの入り口には、お土産コーナーが外にまで出て来ていました。
これは、地下にある「京都伝統産業ふれあい館」の「ふれあいしょっぷ」の特別販売コーナーです。お香や匂袋が、一際めにつきました。
さて、志村親子のレクチャーは、地下1階の大会議室でありました。百人以上が集まっていたと思います。事前の申し込みによるものです。
今回、志村ふくみ氏がお話に来られたのは、細見美術館の春季特別展「源氏絵と雅の系譜 ―王朝の恋―」に、「花散里」「須磨」「明石」「朝顔」「蛍」「若菜」など、『源氏物語』から想を得た紬織りの作品を出品なさっていたことによるもののようでした。これは、以前に展覧会で拝見していたので、後半の作品の話では、思い出しながら聞きました。
ただし、スライドによる説明だったので、せっかくご本人がお出でなので、作品を目の前にしてのお話だったら、もっとよくわかったのに、と思いました。
ご一緒のお嬢さん洋子氏も染織作家で、「都機工房」を主宰されているとか。
このお二人が、染め織りの制作においても重要な役割をもつという神秘の「月」をキーワードに、華麗な王朝文学の世界を語り合う、というものでした。
2時間の内の最初の1時間は、源氏絵をスライドで映しながら、お二人が適宜コメントを付ける、という流れでした。源氏絵のことや、登場人物の女性のことなど、多方面にわたっていました。それだけに、散漫であり、作家の立場から『源氏物語』の作品そのものを語るのは、無理があったように思いました。
お話の内容を少しだけ。
ふくみ氏は、『源氏物語』は与謝野晶子訳で最初は読み、次に谷崎訳を読んだそうです。そして、月の光と紫色が補色の関係なので … とか、男は月なしには女のもとへ徘徊できない … とも。話がだんだん飛躍していきました。
洋子氏は、今回初めて、それもこの3ヶ月で谷崎訳で読んだそうです。女性の描かれ方に、理不尽な思いで腹がたった、とおっしゃっていました。月の光が藍瓶に入ることによっていい色になるのは、科学的実証のできないことだそうです。
お二人とも何となく、お題に合わせるのに苦労しておられるようでした。
全体的に、「月」と『源氏物語』という取り合わせが、うまく噛み合っていなかったように思いました。お二人には、難しい注文だったようです。もっと自分の作品に即した話を中心にして、その作品と『源氏物語』との接点に触れる、という程度でよかったのではないでしょうか。『源氏物語』を正面に据えると、いろいろと無理が生じますから。
これは、主催者側の問題です。司会進行役の方は、よく『源氏物語』と源氏絵について勉強なさっているようでした。事前に、進行の打ち合わせがあったようですが、講師のお二人にはきつい進行だったようにお見受けしました。
次回は、もっと自由に染色と古典文学の接点について語っていただきたいものです。
お二人がお帰りになる時の会場の参加者の様子を見て、お弟子さん筋の方々が集まっていらっしゃることに気付きました。私のように、一般参加の者はどれくらいいたのでしょうか。それも、タイトルの『源氏物語』に引かれて来た者は … 。
お二人を見送りながら、これからもいい作品を作り続けられることと、たくさん語っていただくことを楽しみしよう、と思いました。特にふくみ氏は、エッセイストクラブ賞をお取りになっているので、そのご著書を読んでみることにします。
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