2008年03月02日

源氏文論尚友(1)2008室伏「本文研究を再検討する意義」

 「読書尚友」ということばがあります。
 これは、書物を読むことによって古の賢人を友とする、という意味です。
 「尚友」の気持ちをもって、『源氏物語』の本文に関する研究成果をたどったいきたいと思います。
 これまでに私は、さまざまな研究論文を読み漁り、読み飛ばしてきました。
 これではもったいないとの気持ちから、何か形として残しておこうと思い立ち、このブログの1項目として「源氏文論尚友」を立てました。専門家に向けた研究論文が対象なので、一般的な内容ではありません。しかし、あくまでも私が読んだ痕跡を残すことも必要ではないかとの思いから、読後感などを思いつくままに記すものです。

 先日刊行したばかりの、私が編集者となっている本から始めるのが順当でしょう。
 その内容については、
http://blog.kansai.com/genjiito/191
を参照願います。

 いつも、さまざまな形で教えを受けている室伏信肋先生の巻頭論文、「本文研究を再検討する意義」(『講座 源氏物語研究 第七巻 源氏物語の本文』、おうふう、2008.2) からです。

 氏は、非常に禁欲的に『源氏物語』の本文と立ち向かわれます。
 それは、本論文末尾の次の言葉に集約されます。

源氏物語を正しく読む唯一の手段は、いま目の前にある一本、それのみである。しかも一本は無数にあるが、相互に比校して訂正すべきではなく解釈にすべてを注いで、伝本を伝えた古人の篤い心を理会してほしい。古典を読む道は、まずそこに始まる。(18頁)


 写本をあるがままに読んで解釈すべきで、新しい異本は決して作ってはいけない、という姿勢が鮮明に示されています。
 本論で例にあげられたのは、第5巻「若紫」における、「日もいと長きにつれづれなれば」と「人なくてつれづれなれば」です。教科書にもよく出てくる箇所なので、日本の高校で古典を教わった方は、ほとんどの方が見たことのある文であるはずです。しかし、学校で異文を教わることはありません。流布本の解釈で留まっているのです。これは、仕方のないこととはいえ、古典はことばが流動しているものだ、というおもしろさを、若い時に摘んでしまうことになっています。
 私は、かつて清水書院の教科書で『源氏物語』の教師用指導書を執筆したことがあります。その時には、異文の存在から古典のおもしろさを教えることを提唱しました。しかし、これは省みられることもなく、今も一つの流布本が全国の学校の教室で読まれています。残念です。

 さて、氏は、この「つれづれ」は「女性を求めて苛立つ光源氏の心理を見事に表現したすがた」だとされます。そして、次のように言われるのです。

「つれづれ」という古語に対する無理解が、本文校訂を誤らせる結果となったとすれば、本文研究の再検討は、諸本探求より以前に古語に対する十全な理会が前提であると思考されるのである。(12頁)


 これは、現在の流布本を読む時ばかりではなくて、異本や異文を読む上でも、大切な心構えであることを、改めて思い知らされることです。

読みやすく活字化されたテキストだけを見て論を立てる前に、せめて新大系本の「補訂の例と表の見方」を熟視してほしい。(14頁)


 これも、現在の『源氏物語』の研究において、手厳しい評言となっています。

 次の文章は、遅々として進まぬ私への批評であるとともに、少しは理解を示してくださったことばではないか、といい意味で捉えています。本書の編者への、ほんの少しばかりの労いの言葉だと、私は勝手に読んでいます。

 青表紙本(定家本)でもない、河内本でもない、それ以外の諸本を一括して呼称されるいわゆる別本も、近年の研究成果や新しい時代の要請によって、別本を底本とした画期的な集成が作成され、その第二次集成まで刊行中で、早くから別本に着目してその重要性を認識していた研究者にとっては、新時代の到来かと喜んだが、まだそのテキスト化は一部にとどまり、一般化するまでには到っていない。しかし、研究の新しい方向としては従来、諸本の中心的役割を担ってきた青表紙本が、本文の性格から、平安時代に伝来した別本の一つという、これまでとはまったく異なる本文の類別化が提唱され、それに賛同する研究者が、ことに本文研究を心がける人たちによって認識されるようになり、これに伴って、諸本を類同化せず、一本を見つめる傾向をたどり始めてきたことは、早くからその意見を推奨してきた筆者にとって、まことに喜ばしいことだと思っている。(16頁)


 このご意見を重く受け止め、現在作成を進めている陽明本・池田本・天理河内本の3本の校訂本文を、1日も早く先生にお目にかけたいと思っています。

 源氏物語は作者生前から、複数存在したという事実は、当時からこれを一元化する可能性が断たれていたことを示す。原形が単数でないところに、その原形を求めて文献を操作しても、その方法論は無効であることは、当時の本が、一本も残っていないという事実よりも重いといわなければならない。(17頁)


 これに対しては、何か私なりの意見が言えそうです。
 しかし、しばらくは反芻して考えたいと思っています。

 とにかく、氏の言葉は、一語一語が重くのしかかってくるものです。
 今一度、『源氏物語』の本文のありようを見つめ、新たな展望を求めて、資料の整理を進めていきたいと思います。

posted by genjiito at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ◎源氏物語
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