2008年01月10日

井上靖卒読(19)『化石』

 主人公が十二指腸ガンの病魔と闘い、死を見つめて生きる日々の中で、日頃は見えなかったものが新たな視点で見えてくるのです。その新鮮さに、読者も引き込まれます。
 最後は井上らしく、生きることへの価値観の転換に戸惑いながらも、生きることへの再スタートを歩み出す一人の男の姿を描いて、長かった物語の幕が閉じられます。

 最終場面で主人公は、死を意識して以来ずっと付き合ってきた、自分の中の同伴者に、こう語りかけています。

おれは長い一生の中で、八か月ほど、そこだけ全く違った人生を歩いたのだ。その間、おれは死という眼鏡をかけさせられた。暗く、悲しく、辛い色をした眼鏡だった。その眼鏡を通して見ると、心に触れるものも、みんなそれまでとは違って感じられた。(角川文庫743頁)


 これは、まだ生きられるとわかった時の、己の内にいる同伴者との自問自答です。しかし、生きる側に立っての同伴者との会話は、死を意識していた時の同伴者よりも張り合いがないというのです。生という同伴者には、生彩がない、とも。(743頁)これは、非常に興味深い指摘です。

 私は、この物語の行き着く先は、主人公の死だろうと思っていました。生への展開は、あまりにも当たり前すぎて、おもしろくないと思えたからです。しかし、井上はあえて、常識的な生きる道を選びました。そして、それにふさわしい、人生を肯定的に捉えた、みごとな主人公の心の内の変化を描き出しました。

 死の同伴者との心の内の対話が、生の同伴者との対話に変化した時、人間はこんなにも緊張感がなくなるとは……。人生論に転嫁したくはないのですが、生き甲斐というものの本質に触れています。
 みごとな構成の物語となったと言えましょう。

 私の父は、ガンで亡くなりました。本人には知らせなかったのですが、感づいていたようです。父は、病院の中で存在証明としての川柳句集を編集し、病床で発送をし終えて亡くなりました。産まれて半年の孫娘に宛てて、最後の句は次のものでした。


  病窓にいとし笑顔見る今宵
  週毎の成長の度を支えとし
  ランドセル背負う姿をみるまでは
  幼くも私一人は平群人
  みな持つて行くぞこの子の苦と病い


 この『化石』を読みながら、私の父の最後を重ね合わせてしまいました。それだけ、病を抱えた男の心の内が、みごとに描き尽くされていると思います。
 物語の主人公は、死の同居者に、こんな別れのことばを言っています。

おれは交替する。生命若く、汚れなき、稚き美しいものと交替する。おれは玲子と交替する。(722頁)


 ここで出てくる玲子とは、主人公の孫娘で、生後1年ほどの赤ちゃんです。
 私の父もそうでしたが、自分が病気であることを意識してか、自分の手で初孫を抱くことに慎重でした。というよりも、臆病でした。
 生と死の特殊地帯にいる人間は、世の中から下りているという意識からか、新聞に手を出すことに躊躇っていたことも、ウチもそうだったとうなづいてしまいました。

 井上は、人間をよく観察して描いています。

 読みながら記したメモがたくさんあります。この小説は再度読むことがあるはずです。その時に、またいつか、まとめたいと思います。長くなりそうなので。【5】



初出紙:朝日新聞
連載期間:1965年11月15日〜1966年12月31日
連載回数:409回

角川文庫:化石
井上靖小説全集24:化石
井上靖全集17:長篇10


映画題名:化石
制作:東宝
監督:小林正樹
封切年月:1975年10月
主演俳優:佐分利信、岸恵子

◎この映画については、ウェブサイト「文庫本限定!井上靖作品館」の掲示板で、伊豆さんが次のコメントを書いておられますので、参考までに引きます。

12月9日にケーブルテレビで幻と言われていた映画版「化石」が放送されていたのでビデオに録画しながら途中まで見ました。この映画はもとは1972年(昭和47年)の1月から3月までフジテレビの月9で放送されたテレビドラマをそのまま200分に編集して3年後の1975年(昭和50年)に劇場公開されたものでその年のキネマ旬報ベストテンの第4位にランクインした名作です。(2001/12/12)


 また、伊豆さんはその後、映画の詳しいキャストも紹介されています。



一鬼太治平 ・・・・・・・・・ 佐分利 信
一鬼の長女・朱子 ・・・・・・ 小川真由美
一鬼の次女・清子 ・・・・・・ 栗原小巻
船津 ・・・・・・・・・・・・ 井川比佐志
岸昭彦 ・・・・・・・・・・・ 山本圭
岸の妻 ・・・・・・・・・・・ 佐藤オリエ
一鬼の義母 ・・・・・・・・・ 杉村春子
矢吹辰平 ・・・・・・・・・・ 宇野重吉
一鬼の弟・泰助 ・・・・・・・ 中谷一郎
木原 ・・・・・・・・・・・・ 神山繁
坂上 ・・・・・・・・・・・・ 滝田裕介
須波耕太 ・・・・・・・・・・ 宮口精二
<ナレーター> ・・・・・・・ 加藤剛
マルセラン夫人/喪服の女 ・・ 岸 恵子

※岸恵子さんは1人2役をされています。2人はそれぞれ全くの別人。「喪服の女」は原作の一鬼太治平の‘死の同伴者’の脚色。
 原作とは違い女性の言葉遣いになっていますがセリフの内容は原作の‘(一鬼の)死の同伴者’とほぼ同じです。ちなみに喪服は和服です。髪型もマルセラン夫人とは全く違って、ちゃんと和服に合った髪型です。
(2002/09/07)


posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | □井上卒読
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/178852173
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック