2020年08月29日

読書雑記(294)小笠原敬承斎『誰も教えてくれない男の礼儀作法』

 『誰も教えてくれない男の礼儀作法』(小笠原敬承斎、光文社新書、2010年10月)を読みました。

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 あらたまった席に出ることや、これまでに出会ったことのない方々との面談が増えてきたので、正式な礼儀作法を確認しようと思っての選書です。

 本書には、約700年前の室町時代に確立し、「お止め流」として伝えられてきた小笠原流の礼法を本格的に紹介する初の試みである、という宣伝文句が付いています。また、門外不出の古文書からの抜粋を、一般の方々に対してここまで公開するのは初めての試みだ(5頁)、ともあります。しかし、そのような内容であるという実感は、私には読み取れませんでした。
 男に我慢を強い、慎みのある行動を求める内容です。今回の私の動機には、あまり得るものがありませんでした。一般的な内容に留まり、具体的な事例の紹介がなかったからです。執筆の意図と私の求めるものが一致しなかったのは残念です。

 その中でも、目が見えない人に対する記述には、私の興味と関心から注目しました。その説明が、私にはよく理解できなかったからです。著者は、実際に目が見えない方のお世話をなさったことがあるのだろうかと。ご自身の想像の世界でおっしゃっているようにしか読めませんでした。

 伝書には次のように説かれている。

 座頭の案内者する事。右の袖をひかえて出でその座のおとなしき仁躰 高下を云いて聞かすべし

 目の不自由な方を案内するさい、その方の手を引いて差し上げるような行為は、かえって目の不自由さを強調してしまう可能性がある。
 そこで、案内する人は、自分の袖を目の不自由な方が持って歩けるように少々後ろに引き、目立たずに案内することにつとめた。
 さらに、ここでいう「おとなしき仁躰」とは、その席にいらっしゃる高貴な方のことを指す。目が不自由なゆえに、立場の高い方に対して、まったく違う方向に視線を傾けてしまうなどという失礼がないように、またその動作によって目が不自由だということを目立たせてしまわないように、その方が座についたときに向かって左側、右側にどなたがいらっしゃるのかをさりげなく伝えた。それによって、正しい方向でお辞儀をすることができたのである。

 「取り回し」も相手や状況によって略する

 目の不自由な方への気遣いに関して、別の箇所には、

 始めより座頭の引くように持ちて出で候てもよきなり。大方この趣然るべきなり。座頭の前にて取り直し候も如何にて候

 とある。相手に物を渡すさいには、取り回しといって、まず物の正面を自分に向けて持ち、さらに相手へ正面が向くように回すことが礼儀とされているが、目の不自由な方に対しては、その動作を省くことを薦めている。目の不自由な方に、一辺倒の考え方で取り回しをすることは、かえってその取り回しの間が、目の不自由さを目立たせてしまいかねない、というこころ遣いからの振る舞いである。
 身体の不自由な人と出会ったとき、どのような気持ちで相手に接しているだろうか。もちろん、健康に生まれ、何不自由なく動くことのできる人と比べ、身体に障害を持った人は想像もできないほどの苦労や悩みがあるだろう。しかし、苦労されているだけに、健常者とは比べものにならないほど、はるかに強いこころを持っている人も多くいらっしゃると思う。

 本当に相手を思いやる気持ちがあるのならば、相手の不自由さが目立たないように、というこころ遣いからなる立ち居振る舞いが大切なのである。
 これは礼法全体に共通することであるが、すべての作法の根底には相手を大切にするこころが存在するからこそ、相手や状況によって作法を略すことができる。しっかりと作法の心得を身につけたうえでの礼の省略は、相手に不快感を与えることなく、さらにやさしい立ち居振る舞いに通ずるということを読者の方々にご理解いただきたい。(85〜87頁)


 この文章を読んで、示される例の意味がよくわかりませんでした。ここに書かれていることが、目が見えない方々を思いやる気持ちからの対処なのでしょうか。憐れみの気持ちと同情の視線に加えて、押しつけがましさも伝わってきたからです。私には、大いに疑問を感じた礼法の説明文でした。
 また、本書には図がまったくないので、語られている動作が具体的にイメージできません。
 著者は、男の礼儀作法は武士の心得が基本である、という立ち位置で語っておられます。しかし、それは語る時代が違いすぎるのではないでしょうか。想定されている読者と、語る意図が、うまく伝わってこず、また今後の参考になる情報が読み取れませんでした。【1】
 
 
 
posted by genjiito at 23:48| Comment(0) | ■読書雑記