2020年06月18日

読書雑記(288)井口貢『反・観光学』

 『反・観光学 柳田國男から、「しごころ」を養う文化観光政策へ』(井口貢、ナカニシヤ出版、2018年9月)を読みました。

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 柳田國男の著作に刺激を受けながら、観光について語ります。しかし、終始、一つのことをさまざまな視点で語っていくため、文意が辿りにくい文字列の集合体となっています。この種の文章は、読み進むのが苦手な方が多いのではないでしょうか。私も、この表現の連続に、なかなか慣れることができず、行ったり来たりしながら読み進めました。時間がかかりました。疲れる文章でした。なかなか、語られている文章の中に入り込めないのです。
 漢語が散りばめられ、しかもこの意味が連環せずに上滑りしているので、語ろうとする意味はなんとなくわかるものの、すんなりとは入って来ません。話題が飛びすぎる傾向が強いので、そのつながりを読者が構築しなければならないこの語りの手法は、読者に多大な負荷のかかる文章となっています。
 例えば、次の文章は意味深なことを言っているようで、その実よくはわからない表現です。

 現象に終始する流行り言葉となってしまった観が強いコンテンツ・ツーリズムを理性という枠組みのなかで克服できるのは、実は底流として流れる文学の力(本当の意味でのコンテンツ)に他ならない。(20頁、「底流として流れる文学の力」の右横に傍点が振られている)


 オーバーツーリズムについての言及は、柳田の例を引いた後に次のように言います。

 実際にはあり得ない例かもしれないが、文化政策の評価を経済効果と計量性に大きく委ねてしまうと、起こり得ることに近いのではないだろうか。観光という側面で考えても同じようなことは生じ得る。観光政策が経済効果や商業主義への比重が大きくなればなるほど、「入り込み観光客数、インバウンド増収策」至上主義に傾き、そのまちに住まう人々、そしてひいては邦人であるか否かにかかわらず、己が国にくらす人々のくらしと文化を損ないかねないものにしてしまう。ましてや、入り込み観光客数が多いまちほど、観光政策もより優れている、あるいは観光という行為において、質的高さを保っていると、はたしていえるのであろうか。
 逆にいえば、文化政策の真骨頂は、そういう捉え方に堕さないための、批判的視座を留保する理性の枠組みとならなければならないのである。にもかかわらず、現状は定量・計量重視型で評価され定性的に語りその視点からのより良き改善、政策の軌道修正を図ることが少し欠落しているのではないだろうか。「名が有つて形が整わない」という柳田の危惧は、いつ克服されるのであろうか。(66頁)


 ここには、さらなる解説がほしいところです。著者の読解が、取り上げられた対象に深く切り込んでいかないのです。食材が投げ出されたままの状態が多いので、消化不良が続きます。
 松本清張の『砂の器』のことが引き合いに出されています(20、79頁)。そこで筆者は、清張は柳田の「着想をヒントにしたのであろうか」と言います。確かに、『砂の器』には柳田の「方言周圏論」のことを国立国語研究所で教えてもらいます。このことに言及するのであれば、観光・文化・芸術・地方・言葉(方言)・人間関係という切り口から、さらに考察が展開するはずです。しかし、残念ながらそれは「横道」(79頁)として切り捨てられてしまいます。もったいないことです。
 話題のチョイ出しで終わる例としては、十一面観音や私の好きな井上靖の『星と祭』が出てきたところでも、大いに失望しました。話が膨らむかと思いきや、何ということはない少し触れただけで終わるのです。

さらにいうならば、この里の十一面観音をモチーフに、主人公・架山洪太郎の愛娘の死と死生観を巧みに描いた井上靖(一九〇七-一九九一)の名作『星と祭』(初出は朝日新聞に連載、一九七一 - 七二年、現在は角川文庫、二〇〇七年)の存在も忘れてはならないが、ゆえに冥界で嘆息する作家はさらに増えそうだ。
 なぜ「観光」がこうなってしまうのだろうか。十一面観音像の多くは「遊び足」で表現されている。こじつけになるかも知れないが、この「遊び足」が今の観光では、足りなくなってきているのも一つの原因ではないだろうか。(159頁)


 観光文化学科を創設する時の話は、もっと聞きたいところです。

 「観光文化」という言葉を使用すると、泉下の柳田がどう思うのか不安がないわけではない。ある意味では私事になるが、二十年近く前に岐阜市のある大学の文学部に「観光文化学科」を設置することになり、その文部省(当時)の設置認可に対応してカリキュラムの作成から教員の採用に関する部分まで関わった経験がある。そのころおそらく、観光文化という言葉は、一般的に広く認識されていたそれではなかったと思う。文学部に設置するということが大前提であったこともあるが、個人的にいえば、「観光文化」を表記する以上、極力「観光経営」や「観光経済」あるいは「観光業に関わる資格の取得や検定試験対応」という色彩を、カリキュラムのなかで出したくなかった(それが良かったかどうかは、と
もかくとして)。専門学校との差異も出したかったが、このころ全国の大学では観光に関わる学部・学科はもちろんのこと「科目」としての存在も、決して多くはなかった。学部としては、立教大学に初めて設置される前後のことであったと記憶している。
 誤解を恐れずにあえていうならば、「観光業学」よりも「観光学」を学ぶことによって、業界人よりもむしろ教員や学芸員、官公庁で観光に携わることができる学生たちを養成したいと思っていた。ゆえにカリキュラムの基幹で想定したのは、柳田國男の思想や志半ばで絶筆とはなったものの『街道をゆく』という大作を世に遺した、司馬遼太郎の足跡であった。そしてさらにこの分野で彼らと匹敵する思想家として意識したのが、宮本であった。いやそれ以上に、学としての「観光文化」というときには、「観光文化論の創始者・宮本常一」という名と彼が生涯を通して考え求めたことを、学生たちに伝え読み込んでいってほしいと、強く念じていた記憶がある。(94〜95頁)


 痒い所に手が届かないままに投げ出された文章の例をさらにあげます。

 宮本の京都観の一端を紹介した。京都に長く住まう人たちの多くは理解しているに違いないこれらの言葉を、観光振興に携わる人たちこそがまずは読解する必要性があると思う。観光文化を理解するうえで、「くらして良いまちこそが、訪れて良いまち」ということは大前提である。決して「訪れて良いまちが、くらして良いまち」とはいえないはずである。直前に記した京都の使命を達するためには、入り込み観光客数に拘泥するのではなく、「訪れて良いまちが、必ずしもくらして良いまちとはいえない」ということを認識すべきである。そしてそれが、全国の地方のまちの観光をより良きものとするための手本となるに違いない。数年前に行なわれた「四条通りの歩道拡幅」のこれからの行く末が楽しみでもあると、皮肉を込めつつ記しておこう。(104頁)


 ここで「皮肉」とあることについて、何にどう皮肉が込められてのことなのかがわかりません。しっかりと語ってから次の話題に移るべきです。このままでは、読者に対して無責任です。京都に住まう人に対しても、技の懸け逃げとしか言いようがなく失礼です。
 観光地が観光客に媚び諂っている様も指摘しています。

 観光客に対してギャグを交えおもねるような設えづくりは、決して本当の意味での町おこしでもなければ、観光でもないのである。宮本常一は「観光とは」という小論のなかで「少し旅行者にこびすぎているようにさえ思うのである」と、すでに一九七六年(昭和五十一)に述べている。こうした現象は、昨今の観光立国を目指す勢いと歩調を合わせるようにして、増幅していないだろうか。それは結局は、単なる数字合わせだけを是とする、しかし、"自治体の正義"としての、通俗的な観光政策評価に堕して終わるだけのことにすぎない。(139頁)


 ただし、説明はそれ以上はなく、ここでも話は流れていきます。言葉だけが上滑りしています。本書で散見する、キレの悪さを見せるところで、残念な思いをしました。

 「おわりに」で、次のように本を読むことについての要望が書かれています。この文字列を目で追いながら、ここまで本書を読んできて、著者の意識とその産物である本書の実態の落差を思うと、戸惑いを禁じえません。あくまでも、これは「古典」の場合の話である、と言われても、それは詭弁でしかないと思います。

 抽象的に表現されていることは、具体的に思考し理解してみる。具体的に書かれていることについては、読者自身のなかで抽象化し、敷衍化できる部分として読み解いていく。そんな知的作業を読書として、若い人々はもちろんのこと、第一線をリタイアした高齢の方がたもぜひ取り組んでいただければと思う。さらに社会人まっただなかで、読書といえばもっぱらビジネス・ハウツウ本と雑誌という多忙な人たちも、少しの間隙をぬってそんな「古典」に触れてほしいと切に思う。(220頁)


 この分野を専門に研究されている方には、内容が読み取れるのでしょうか。専門外の私には、文体と飛び飛びの内容が集中力を切らせて、わかった気にもならなかったのは、残念です。学びの必要があったために読んだだけ、ということに終わってしまいました。
 なお、南方熊楠のことを扱う最終章は、本書全体から見ると不要だと思います。ただし、「おわりに」(219頁)に記されているように、これは出版社側からの依頼があったからということのようです。そうであっても、生煮えの煮崩れしたネタが並ぶ文章を読まされる読者のことも、少しは考えてもらいたいと思いました。
 さらに、冒頭に掲げた写真にあるように、本書の帯には、「観光学は「金もうけ学」でいいのか!?」と書かれています。私が読んだ理解では、本書はこのようなことを語る内容ではなかったように思います。ますます、本書のありようが理解不能になりました。【1】
 
 
 
posted by genjiito at 19:58| Comment(0) | ■読書雑記