2020年03月27日

吉行淳之介濫読(24)宮城まり子『淳之介さんのこと』を追悼の気持ちで

 一昨日の「吉行淳之介濫読(23)宮城まり子『淳之介さんのこと』」で取り上げた、『淳之介さんのこと』(宮城まり子、文春文庫、396頁、2003年4月10日)を読み終えました。

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 先週、3月21日に93歳でお亡くなりになった宮城まり子さんが、いかに吉行淳之介氏を愛し、寄り添って生きてこられたのかが、思う存分に書かれていました。
 「あとがき」にあたる「こころのこり」から、本書の成り立ちがわかる一文を引きます。

 淳之介さん、おわったのよ。ウンウンうなって書いてたけど、一応おわったの。
 あなたのこと、何やかや、いっぱいある想い出を書いてみて、といわれて、書いていることで、あなたがそばにいて下さるみたいな気がして、涙をぽろぽろ流しながら、六年もかかって書いたの。まだまだ書くこといっぱいあるわ。淳はやさしいのね、私を一人ぽっちにあなたはしなかった。ずいぶん甘えて過ごしたわ。ありがとう淳。あなたと暮らした、生きていた日々、大切に大切にしますね。六年のおわりをむかえて、いまでも玄関のドアがあいて、オーイと呼ぶ声がする。
「はい、これでおわりにして下さいませんか?」
 と最後の原稿を渡した時、手も足もがくりとはずれちゃったみたい。でも、あなたは、まだ私のそばについていて下さる。
 そばにいてね、淳之介さん。(394頁)


 一昨日の本ブログ「吉行淳之介濫読(23)宮城まり子『淳之介さんのこと』」で、吉行氏の遺体の下に原稿用紙を敷き、右手に万年筆を握らせた話は、以下のような形でも語られています。

 淳之介さんが亡くなったあと、胸の上で組ませてくださった方のわからないよう、冷たすぎるその手をほどき、いつもペンを握るように指をうごかし、痛くないよう万年筆をしっかり持たせてあげた。きっと胸の上に手を組むスタイルを壊した私に非難はあるでしょう。でも、あの長い指に、ペンを持つのが一番あなたには美しかった。原稿用紙を忘れずに入れてもらった柩に、あなたは万年筆を持って逝きましたね。死んでからも書かせるのかい、と叱られるかもしれないけれど、闘病記を書くのにあなたの右手は必要でしょ。そしてそれが一番、私、好きなんだもの。
 最後の二十日間は、私を一時も傍らから離さなかった淳之介さん。真夜中、私はとうとう左手であなたの手首をにぎり、右手のひじでからだをささえ、あなたのしゃべることをベッドの下で懐中電灯でぼんやり照らし出し、書き取りはじめた。その前は手首だけにぎっていて呼ばれるまで、うとうとし、間隔が短くなってきたら、私はそうして起きていた。まりちゃんと呼ばれたら、すぐ、ハイって返事しなければ、淋しいものね。(「ガンの告知」、360頁)


 吉行淳之介の代表作である『砂の上の植物群』は、当初は「一つの稲妻」であったということ(72頁)など、吉行の作品が好きな私にはいろいろと興味深いことが語られています。
 また、「遺言書」の話もあります(「遺言」、215頁)。三島由紀夫の自決の話の後、三島が吉行の『暗室』は谷崎潤一郎の『卍』に「遠く呼応するものであろう。」という選評が引かれています。(「飛行機雲」、228頁)
 しかし、これらは今は省略し、以下では、二人の愛情の機微が語られているところを抜き出しておきます。

 まり子さんが「ねむの木学園」を作ったことに関することから。

私は、「私が必要? 私が好きならちゃんとして」はやめた。こんなに愛しているんだもの、彼を理解し、そして自分の仕事をきちんと持っている人、私は、女優、そして肢体に不自由を持った子に教育をと願う一人の人。彼を愛し、それをもっとも幸せと思う一人の女でいようと、努力しはじめた。法にないことが、なかなか通らないお役所からの帰り道、書いても書いても書ききれない書類、なんとなく笑われていると感じる事ばかり、(後略)(「外国へ行くこと」、173頁)


「あのね、前から心の中にあったことで、ずっと考えて来たんだけど、病気でね、手とか足とかが不自由で知的障害があって、お家でお父さんとかお母さんとかがね、めんどうみられない子がいるの。そして、その子たち就学猶予って法律で、小学校も中学校も行かなくてもいいんですって。つまり義務教育を受ける権利がなくなるの。私、そういうの知ると考えちゃって。私、仕事で、こどもちゃんたちのいるところへ行くことが多いでしょ、それに、私自身が舞台でこどもの役が多いでしょ。だから知る機会がありすぎたんだと思うの。私、淳といっしょに暮らせて幸せすぎる気がしてるし、申し訳ないことと思ってます。私にやれることさせてほしい。お医者さんにちゃんとかかれること、教育は正しく受けられること、こどもとして愛されることのお手伝いしたい。出すぎることかも知れないけど。おかしいかもしれないけど」
 淳之介さんは言った。
「この話は十年も前から言ってたね」
「あなたと知り合った頃からね」
「昨日、今日、言い出したのならやめなさいって言うけど、ずっと前から思いつづけていたみたいだから、いいでしょう。その代わり約束」
「はい」
「一、途中でやめると言わないこと。二、愚痴はこぼさないこと。三、お金がナイと言わないこと。これ守りなさいよ。君を信じて来る人に、途中でヤメタって言うのは大変無礼だからね」
「うん」
 涙があふれて何も見えなくなった。私のわがままを聞いてくれた。
 改めて厚生省に書類を出しはじめた。一つだけ相談にのって下さいと淳之介さんに頼んだことは、その名前だった。ねむの木ホーム、ねむの木の丘、きょうだい学園、ねむの木学園、いくつか、役所と相談したのを見せたら「考えるよ」。そして、朝、目がさめた時、私の部屋のドアの下の透き間に原稿用紙に大きくねむの木学園=A横に小さく、迷わずこれに決めなさいと書いてくれていた。(「三つの約束」、204~205頁)


 一九六八年四月六日、静岡県の浜岡の砂丘に、寝室二つ、保母室一つ、食堂兼教室兼雨天体操場一つ、台所、お風呂と三畳の当直室、二つのお手洗い、お客様とお会いする場所兼廊下、たったそれだけ。十二人のこどもたちのための、住むところとそれでも教室のあるねむの木学園が開園した。
 私は帝国劇場の『風と共に去りぬ』が終わり、四月十日まで休暇。淳之介さんは一月に、ヘンリー・ミラーの翻訳『愛と笑いの夜』を河出書房新社より刊行。そして、二月から四月まで『堀部安兵衛』を「週刊朝日」に連載していた。
 海のそばの砂丘の松林を切り開いた土地に、ぽつんと建ったあまりにも小さい、けれど、日本で初めての障害を持つ子の家〉と〈教育〉を受けられる場所。〈社会福祉法人〉。国で認められた制度の中で、こどもたちの権利の追求がはじまった。(「松林の中の学園」、207頁)


そして翌日の開園式。改めてこどもたちに逢い、手足の不自由な子の転びようのはげしさ、泣く声の大きさ、知的障害のための鼻水の多さ、よだれの多さ、ききわけのなさに、びっくりした。
今ならやめられる。園長さんもいる。≠ソらりとかすめたけれど、こどもたちを新聞社のカメラの放列にさらすことの少ないよう、近くの学校から、小学校六年生を二クラスお招きして、その中にとけこませた。障害を持っている子も持たない子も一緒。
 知事さんは、私のつくった、こどもたちも読めるようちじさん≠ニ書いた小さなリボンを胸にピンでとめ、ささやかに植えたラッパ水仙のある砂の遊び場で、あいさつして下さった。
「こどもたちの明るい未来を期待します」
 私は、主催者の席でも、来賓席でもない、こどもたちの中で、三十九キロに減ったからだが飛びそうなかたちで、胸と顔をまっすぐ風に向けて、やり通すんだと、立っていた。こどもたちの代弁者だと両足を砂地にふんばっていた。風にさからって立っている私のワンピースの胸の中に、淳之介さんの写真の入ったロケットが入っている。(「松林の中の学園」、210~211頁)


 白内障の話もあります。

 その頃、お客様が来られた時、淳之介さんが、必ず座る、ソファの場所、窓から、外のあかりが入る横にいると「眼球」が診察するようによく見え、黒目のところに白が、少しずつ、少しずつ、多くなっていくのが痛々しく悲しく、白内障にとって最高の治療が出来ますようにと、ただ胸が痛いだけだった。
 昼間、急にお客様のいられる席の真ん中に座る私が、淳之介さんの「目」を見ているとは、彼も気がついてはいなかったようだ。
 いつの間にか自分でたくさんの資料を集め、武蔵野日本赤十字病院の眼科の若い清水公也先生に、進んだ国では、もうやっていた白内障の手術(人工水晶体移植)を受けて成功した。(「飛び跳ねる悪魔」、201頁)


 淳の病気との戦いは、いっぱいだ。その上、腸チフスの高熱で歯をいじめすぎている。目は、喘息の治療薬の副作用の白内障で、いたいたしい。その目で、原稿用紙にむかって原稿を書いているのを、うしろからみると、大きな結核の肺切除のあとが見えるようで、着ている着物まで重そうで、パジャマのままだ。セーターさえ、重いのではないかと、着せるのをやめてしまう。(「うれしい日の影」、242頁)


 まり子さんの女性としての物の見方の一端がうかがわれる文章もあります。

 一緒に住みはじめて、九年たっていた。前の家の玄関にはマジックで郵便受けに「吉行・宮城」と彼が書いた。時々、雨やほこりで字が消えるので、書き直したり、書き足したりしていた。恋して、愛して、やっと一緒に暮らす、とってもうれしいことなのに、なぜか私は表札を出すことがはずかしかった。
 一緒に向き合って、食事をするみたいで、羞恥心が、肩の出ているイブニングドレスを昼間着ているようにひりっとした。建畠さんに家の設計をたのむ時、お互いに仕事を持っているから、生活の時間が違うからと、できるだけ部屋を別に離して下さいと頼んだ。その家に表札を真新しく出すなんて、あつかましいはずかしさだ。彼もきっとそうだ。そう感じたら、「かけてください」とはなかなか言えなくて、半年ほども、自分の部屋に並べておいた。高見順先生の玄関も高見だった。近くの五島昇さんのお屋敷も五島。住んでいるものが二人で二つ出すなんて、あたり前のことがあたり前に感じなくて、はずかしかった。表に名前がないと配達物が困るといわれてそれをきっかけに、ようやくかけてもらった。
うれしくて、はずかしかった表札=B
 亡くなったら、表札は、はずすものなのかナ、そのままにするものかナ、と思いながら、私はそのままにする。そのままにしている私は、感じない女になったのかナ、あつかましくなっちゃったのかナ、向き合って食事をするその口元を、みられる人がいないからかナ、彼のワイシャツや靴下をそろえるそんな女らしい仕事の、今は私の姿勢がないからかナ、ここは吉行と宮城が暮らした家。夫婦別姓なんだゾ。(「表札」、179~181頁)


 私達は、結婚して籍に入っているわけではない。彼が私を好きになり、私が彼を好きになったとき、もう彼には戸籍の上に妻がのっかっていた。ただ、愛して、一緒に住んだ。
 感じることや好きなものが似ている。そんなことがうれしかった。いい作品が出来ると、私が役に立っているのかナと、うれしかった。一つの喜びの共有がなによりうれしかった。うれしかったが、私のからだの中の半分は、淳之介さんの残した小さなお嬢さんのことが気になった。私の抱き上げられるくらいの大きさかナ、それとも私の肩ぐらいかナ、淳とそっくりかナ、今、私がうれしい時、彼女はなにをしているかナ、いつも彼と話をしている間中、影のように淳の横に、彼女のことが見えていた。うれしいと笑った半分、彼女の代わりのような気がしていた。このカットの時でさえ、すまないと思った。
 その本は出帆社というところから出る、かわいい形の本であった。(「うれしい日の影」、246頁)


 終盤では、医療とは何かを訴える内容になっています。
 最愛の吉行淳之介氏を偲びながら、心にはその医療の至らなかったことが、最後に溢れ出たのです。

 医療とは医だけじゃ駄目、療がなくちゃーね。淳之介さんに、ごらんと言われて彼のベッドのすみっこに寝てみた。ほんとに、目の上に点滴の棒がぶら下がっているのがこわかった。他の患者さんも同じだから、がまんしましょうね、でも点滴もろとも、彼の上に、棒がおっこちたこともありましたものね。
 こういうことを病院のベッドの下で、廊下をながめながら考え、深夜、一度、廻って来てくれる看護婦さんのお手伝いに、じっと、そばにいた。ナースコールは外の部屋にもきこえるからわるいよと鳴らさない彼の代わりに、ただただ心配でいっぱいの女が、わめきたい心をノートにしるしていたのだ。患者が精神的に安定していれば、付き添いは安心で幸せ。
 おなかのドカーンの注射の夜、淳之介さんは私の顔を見て言った。
「まりちゃん、ぼくの手をしっかりにぎっていてはなすなよ」
 私は不安になって、ちょっと行って来ますとナースに報告に行こうとした。淳之介さんは今度は私の手をぎゅっとにぎって、
「駄目、行っちゃ駄目。手をはなすな」
 この言葉をドクター、あなたはなんときいて下さいますか。ああ幻覚がひどくなったナだけですか?
 最終的にもう治療法がないと言われた時、私は淳之介さんの心を和らげることのできる病院に移ろうと転院を決意した。虎の門病院と交渉し、それまでのデータをすべてもらい、聖路加国際病院に移った。病室の窓から、あれ勝鬨橋、あそこ銀座、ほらむこうがレインボーブリッジと教えたら、しばらくベッドに座って見ていた淳之介さん。行こうか? と言った淳之介さん。
 七月二十一日に移った聖路加国際病院で、十八日の虎の門病院での採血の結果を初めて知った時、私は驚いた。もういつ淳之介さんに急変があってもおかしくない数字だったのだ。それから三日もたっている。全身から血が引いて行くのを感じた。
 そして六日目、淳之介さんは「まりちゃん」というやさしい言葉を残して息を引き取った。美しい顔をしていた。
 日本のすべての病院があのピッツバーグの病院のようになることは不可能なのでしょうか? 一日も早く、医と療が一つになりますよう。(「治療と医療」、382~384頁)


 宮城まり子さんは、今は吉行淳之介氏の仕事場を探して、あの世を歩いておられる頃でしょうか。また、仲むつまじい生活が始まることでしょう。お幸せに。
 
 
 
posted by genjiito at 19:43| Comment(0) | □吉行濫読