2020年03月23日

京洛逍遥(600)四分咲きの桜と新聞記事の意義

 半木の道の桜は、昨日よりも花の数を増しています。一番早く咲き出した樹では、今日はもう四分咲きでしょうか。この樹は、ちょうど比叡山を背景にしているので、撮影のポイントにしています。私が好きな山桜は、見上げるような高いところに咲いているので、背景が空の青にしかならないので味気ないのです。撮影に向いた山桜は、また探しておきます。

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 今日の京都新聞(2020年03月23日月曜日)に、いつも楽しみにして読んでいる小林一彦さんの文章が掲載されていました。毎回、「古典に親しむ 新古今和歌集の森を歩く」というテーマで、紙面の3分の2を使っての連載です。今回は47回目で「薄曇り」です。

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 四十七  薄曇り
いま桜咲きぬと見えて薄ぐもり
  春にかすめる世のけしきかな
(式子内親王・春上・八三)

訳 いま桜が開花した、と見えて、空には薄く雲がかかり、いかにも春の季節にかすんでいるような、世のなかのようすだなあ。


 優しい語り口で、毎回わかりやすく『新古今和歌集』の歌を解説してくださいます。お人柄が伝わってくる温かさが感じられるので、幅広い読者を獲得している記事になっていることでしょう。私もファンの一人です。もちろん、国文学研究資料館の委員としてお越しになった時や、大島本の調査を京都文化博物館の地下でやっていた時、指導してくださっていた藤本孝一先生のご紹介で挨拶に来られたことがありました。ただし、分野が微妙に異なることもあり、親しくお話をしたことはありません。

 さて、本日は次のように始まります。

 最近、京都から「薄曇り」の空が消えた。気象庁は、多発する自然災害に備えて人手をさくため、目視から機械観測に替えたという。機械には微妙な「薄曇り」が感じ取れないそうだ。防災情報は大事だが、さびしい気もする。


 まさに、和語の微妙な言い回しを可能とする表現として、「薄曇り」ということばがあるのです。今話題のAIが、これからますます世にはびこります。しかし、流れはそうであっても、機械に頼り切らない物の見方で、日本の文化を次世代に伝えたいものです。今は、そのことが新聞の紙面で問題になっていくのではありません。

 この文章で小林さんは、和歌の機能や役割や心情を、式子内親王と維明親王とのやりとりを通して、その背景にまで言い及びながら丁寧に語られます。そしてその最後は、次のように結んでおられます。

 「いま桜咲きぬ」とは、待ち望んでいた桜の開花宣言である。それを「薄ぐもり」の、けだるい歌によみなした式子の技量は、さすがである。さらに、膨大な桜歌群を、やや重い雰囲気の彼女の歌ではじめた撰者たちの見識も、特筆される。新古今ならではの、美意識の反映であろう。
 人の動きがなくなった春に、「薄ぐもり」のこの歌は、身にしみる。桜は咲いても、もう一つ、心が晴れない。


 時宜を得た、名解説だと思います。
 こうした紙面を通して、新聞の役割を再評価したいと思います。電子版のニュースで事足りるのではなく、事実を伝える役割はもちろんのこと、折々にこうした人の心に感じ入る文章が読めるメディアとして、紙に印刷された新聞が果たす役割は大きいように思います。文字の配置や配列はもちろんのこと、写真も効果的です。
 私は、かつては新聞少年でした。毎朝毎夕、450部の新聞を1軒1軒に配っていました。楽しみにして待っていてくださる方がいらっしゃいました。集金に行った時には、いろいろな話をしてくださる方もいらっしゃいました。電子版は、手軽に大量の情報が手に入ります。しかし、人の手を介して運ばれてくる紙媒体の情報掲載紙の存在は、記憶に残る情報を運ぶメディアとして守り続けたいものです。
 その意味から、この記事の最初に新聞紙面のイメージを揚げてみました。新聞の紙面構成を知らない若者が多いそうです。駅売りではなく、家に運ばれて来る新聞の再評価の一つとして、小林氏の文章は良い例としてあげられると思います。いずれは、このコーナーの記事は書籍にまとめて公刊されることでしょう。そうではなくて、今ここに書かれたばかりの文章で物を見たり考えたりすることも、生きた学習や体験につながることでしょう。
 
 
 
posted by genjiito at 20:55| Comment(0) | ◎京洛逍遥