2020年02月19日

若者と話をしていて「死語」とか「廃語」について考える

 科研運用補助員として研究協力をしてもらっている学生さんと話をしていると、単語が共有できないことがしばしばあることに気付かされます。私が使う単語を、聞いたことはあるが、とか、知らなかった、と言われると、世代間のギャップをストレートに肌身に感じます。
 たとえば、こんな言葉がそうです。

「アベック」
(ホームランで聞いたことがあるとか)
「ザ・ピーナッツ」
(映画『ゴジラ』の話をしていて)
「スラックス」
(私は「パンツ」に違和感あり)
「デート」
(近所の喫茶店の名前でもある)
「VHS」
(私はソニーの「β」派でした)

 よくわからないながらも、なんとなくわかる、という程度の言葉が、いろいろと出てきます。いつの時代にもあることだとしても、実際に話をしていてこの異文化世代の反応にぶつかると、少なからずショックは隠せません。これらがカタカナ語なので、言葉と世の移り変わりに関連するのかもしれません。
 私は使わない言葉で、もう通じなくなっていると思われるものは、「E電」とか「ナウい」をすぐに思いつきます。これらを、「死語」とか「廃語」というそうです。歳と共に、こうした言葉が増えていくようです。寂しくなるというよりも、自分が伝統と文化を持ち続けている貴重な世代だ、と、かえって誇りに思いたくなります。
 この問題に関する研究成果もあることでしょう。「新語・流行語」に関する位置づけとも違うようです。それよりも、自分の生活の中で直面し、目の前で話題になったことなのです。生きた経験値を伴う出来事であることに、意義深いものがあると思います。言葉の生き死にの、その根元が知りたくなります。
 こうした言葉を挟んで、今、若者と接しています。得難い視点をもらっているチャンスなので、この機会を大切にしたいと、あらためて思います。まさに、翻訳本の調査研究で異文化間コミュニケーションを考えながら、研究支援者とのやりとりの中でも異文化間を泳ぐ日々にいるのです。楽しくておもしろいテーマと格闘しています。
 
 
 
posted by genjiito at 20:03| Comment(0) | *身辺雑記