2020年01月15日

読書雑記(279)高橋良久・畠山大二郎『新しく古文を読む』

 『新しく古文を読む − 語と表象からのアプローチ』(高橋良久・畠山大二郎、右文書院、2019年12月)は、これまでになかった工夫が盛り込まれた本です。

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 高校の古文の授業で使われている教科書を対象にして、そこに採択されている作品を丹念に解釈していきます。その過程で、解釈に疑問や複数の理解がなされている箇所を取り上げ、丁寧に説明しています。解釈のための文法の活用は、わかりやすく語られます。文法を遠ざけたいという思いも、こうした説明をされると「なるほど」と納得させられます。
 読者に高校の先生を意識した説明のあと、以下のような提案もなされます。これが、「新しく」を標榜する所以です。


・『伊勢物語』「東下り」に関して。
 「「みな人」と「船こぞりて」の表現に注目することで、この第九段は、こうした読み取りもできるのではないでしょうか。(17頁)」

・『徒然草』「仁和寺にある法師」に関して。
 「全集本の頭注には「『年ごろ』というにはやや合わない」とあるのですが、本文の異同を見てもこの「年ごろ」の語句を欠く諸本はないので、ともかくもここに「年ごろ」があることは認めざるを得ないでしょう。すると、『源氏物語』の「年ごろ」は、おおよそ一年から三〇年の幅のある年月を表すといえます(29頁)。(中略)
 この「年ごろ」は一年かせいぜい二年ほどのこと。法師のためにも、この話、そう読んであげたいと思うのですが、いかがでしょうか。(32頁)」

・『伊勢物語』「筒井筒」に関して
 「ではこの話の結びの一文である、「B男、すまずなりにけり」はどうでしょうか。ここは、「男は(女のもとに)通わなくなってしまった」でも「男は(女のもとに)通わないままになってしまった」でも、話として成り立たちます。しかし、どちらに読むかで、この話の趣は異なります。「男は(女のもとに)通わないままになってしまった」としたら、男は、浮気者のまま、というよりも、なんだかだらしない男に思えてきませんか。これが、「通わなくなった」であったら、一旦は他の女に気持ちが移ったものの、結局は幼なじみの女−お互いにこの人しかいないと思い、「つひにほいのごとくあひけり」となった初恋の人−のもとに落ち着いたということになり、ハッピーエンドの物語になります。
 さて、どちらに読むか。これは、読む方の好みというか判断におまかせするしかありません。(42頁)」

・『徒然草』「神無月の比」に関して。
 「「一筆双叙法」というものを認めるかどうかには、賛否があるはずです。しかし、この「一筆双叙法」という用語を古文の読解学習に取り入れてみてはいかがでしょうか。「一筆双叙法」とはうまいネーミングだと思うのです。ですから、仮に、と断りながら、その箇所を「一筆双叙法」と名付けて整理することで、その箇所が学習者にとってわかりやすくなり、さらに記憶に残るのではないでしょうか。(129頁)」

・『土左日記』「男もすなる日記」
 「副教材の文法書においても学習参考書においても伝聞推定の助動詞「なり」の意味は、「推定」・「伝聞」・「聞音」の三つとする。そうすれば、多くの古語辞書の語義解説と合い、音響を表す動詞に付く例の説明もうまくつき、学習者の戸惑いや疑間もなくなるはずです。(142頁)」

・『伊勢物語』「しのぶずり」
 「「しのぶずり」「しのぶもぢずり」の「しのぶ」は、地名に由来するもので、植物名と関連させる必要はないように思われるのです(188頁)。(中略)
 そして、この「摺」を多様するのが、神事の場です。神様を祀るときに「摺」の施された装束を用いることが多いのです。現在でも、巫女が舞を舞う際などに、「千早」と呼ばれる装束をよく着ています。赤い紐の付いた白い上着が千早です。この千早に模様を付ける場合は、型紙を使った「摺」の技法を用います。また、即位の儀式の中での神事でも、「小忌衣」という装束に「摺」の技法を用いています。神事に「摺」を用いる伝統が、今も息づいているのです。
 ですから、『伊勢物語』「初冠」巻の男は、普段とは異なった加工の狩衣を着ていたことになるのです。(190頁)」

・『伊勢物語』「平安時代の洗濯事情と位色(四一段)」
 「この話を、洗濯に失敗した女性の話だと、簡単に読み過ごしてしまいそうですが、実はこの部分だけでたくさんの情報を読み取ることができるのです。まず、「十二月のつごもり」に「うへのきぬ」の洗濯をしていることに注目してみましょう。(198頁)」

・『枕草子』「几帳の綻び 一七七段」
 「男女の境界として機能する几帳を通して、「綻び」から除く(ママ「覗く」)玉鬘と、几帳ごと押しのける光源氏との両者で、几帳の扱いの違いが示されている例です。(225頁)」

・『源氏物語』「山吹を着た紫の上」
 「表裏ともに山吹色を重ねた、まさに単なる「山吹」の衣こそが、平安時代における「山吹」だったのではないでしょうか。今回は疑わしい色目解釈の一例をあげましたが、教科書も注釈書も襲色目というものの解釈を今一度改める必要がありそうです。(245頁)」

・「十二単という言葉」
 「「十二単」という言葉は、『平家物語』に記されて以降、公家女性の服装を表すことになってゆきます。江戸時代には「十二単」という通称が普及したようですが、『平家物語』の成立は鎌倉時代とされていますから、鎌倉時代以降の言葉で平安時代の服装を言い表そうとするのは正確ではないといえるでしょう。さらに、それまでの文学作品における女性装束の正装の書き方とは異なるので、これを正装と捉えることにも疑問があります。
 それでは、我々が「十二単」と呼んでいるあの服装は、何と呼ぶのが適切なのでしょうか。「十二単」という言葉がさしている服装のほとんどは、現在「唐衣裳」と呼ばれています。皇室関係では、より丁寧に「五衣裳唐衣」という言い方をし、正式な名称としています。「五衣」の上に「唐衣」と「裳」を着重ねた服装という意味で、女性装束の正装にあたります。(260頁)(中略)
戦乱のさなかとはいえ、安徳天皇の母、国母の装束としては略装であり、いずれにしても、疑問の残る難解な言葉であることは間違いないでしょう。宮廷の装束を知らない人が想像で書いた可能性も高いように思われます。「十二単」という言葉に関する様々な問題、そして、他ならぬ「十二単」という言葉が広まった理由など、今後の研究によって解明されることを期待します。古典に描かれる衣服は、これほど有名な言葉であってもわからないことばかりなのです。(273頁)」


 本書は、もう一度古文を読んでみようか、と思わせる説明がなされており、そうした構成になっています。このように、一般の方々が古文に親しみを感じるように仕向ける本は、これまでにあまりなかったように思います。さらには、中学や高校の国語科の先生の中には、古典文学作品のことや、その背景となる生活や文化のことがよくわからないという方も多いかと思います。私はかつて、高校で13年間「国語(現代文・古文・漢文・文章表現)」を教えていました。また、昨年3月までは非常勤講師として、高校で「文章表現」を教えていました。古文が苦手で、教師用の学習指導書が手放せない先生が意外と多かったことを、今思い出しています。そうした先生方がいま一度、教科書に採用されている古文の理解と解釈を再認識して見直すきっかけになるにちがいない啓蒙の書だ、と本書を読み終わった今、思っています。若者たちの国語力を向上させるためには、中学と高校の国語科の先生方の奮闘努力が欠かせません。今の日本で、その人材が確保されているのかという問いは、どこに向けて言えばいいのでしょうか。昨年末に中国で開催した国際シンポジウムの懇親会で、同席の東京外国語大学の岡田昭人先生と、翌日の講演内容となっていて、今回改定される学習指導要領に関するお話をしました。当日のブログには、以下のように書いています。

 東京外国語大学の岡田昭人先生は、「グローバル時代を生き抜く力」と題する講演でした。
 小・中・高の学習指導要領の改訂に伴う教育内容の検討がなされました。昨夜の晩餐会で、私は岡田先生に、高校国語科の先生方の国語を指導する力量に関して、実態調査の必要性を感じていることをお話しました。講演の中で、昨夜お話したことに触れてくださいました。「文学国語」と「論理国語」の問題を考える時に、指導にあたる教員の実態も知った上で、この指導要領が抱える問題を考えていくべきだと思っています。岡田先生は、このことに耳を傾けてくださったのです。(「学術フォーラムの2日目は伊藤科研のメンバーで」(2019年12月22日))


 そうした現実を踏まえた上で、その後押しをする力と役割が、本書には内包しています。
 優しい語り口で、押し付けがましくはなく、それでいて明確な解答を提示してくれます。暗闇の中に連れて行かれ、やがて前が見えて来て、そして出口にたどり着く、という語り口です。語られる言葉に若さが感じられて、好感の持てる読み物となっています。
 後半は、装束について具体的に詳しく語られているのが特色です。付録のDVDだけでも、一見の価値があります。このDVDは、著者の一人である畠山氏の積年の研究成果が社会還元されたものと言えるでしょう。
 この付録 DVDには、動く姿も収録しました。当時は、国語便覧の中の写真にあるような直立不動で過ごしていたわけではなく、生活の中で衣服を着用し、動き回っていました。そうした姿の一端を紹介できればと考えたためです。そして、昔の人々の心情を少しでも身近に感じてもらいたいと思います。
 付録の映像を見てもらいますと、現代の服装とは本当に違っていることを実感してもらえることでしょう。しかし、着ている中身本体は今も昔も、同じ人間です。(中略)
 昔の人々も当然、身支度を行っていたはずです。それでは、昔の人々は、どのような順序で、どのように衣服を身に纏ったのでしょうか、平安時代の男性貴族は「直衣」、平安時代の女性貴族は「袿」、江戸時代の武家女性は「振袖」と「打掛」を例にして、紹介したいと思います。(294頁)


 以前、畠山氏が実演する着装のモデルに私がなったことを思い出しています。
「NPO設立1周年記念公開講演会を終えて」(2014年03月23日)
 実感実証の大切さを教えられた、得難い体験でした。
 このDVDの映像から、平安時代や江戸時代の装束を身にまとった男女の衣擦れの音や、膝行の様子もよくわかります。中でも衣擦れの音は、聴覚が退化してしまった現代の我々には、あらためて音の意味を考えさせてくれます。
 本書は、かつて教科書で見かけた古文に意外な発見が多いことや、古典文学作品を読む技術や心得が盛り込まれた、日本の古典文化を再認識させる入門書となっています。
 「おわりに」で畠山氏は、まだ言い足りないことが多い中で、次のように結んでおられます。
 本書の続編を期待しています。

 このように読み続けられてきた文章をどのように「味わう」かと考えたとき、その答えは一つに限らないでしょう。たとえ古文の教科書に採択され、有名な場面であっても、まだ解釈の定まっていない箇所も多く、これまでとは違った見方をすることで別の解釈が生まれることもあります。その一例を小著では示したつもりです。さまざまな読み方があること自体、文化的に豊かなことだと思っています。
 なお、付録映像の発案は高橋先生によるもので、画期的な試みだと思います。動きのある形で、当時の風俗を理解する機会はそう多くはありません。現代社会と古文の世界が隔絶しているものではないということを、実感してほしいと思っています。(306頁)

 
 
 
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ■読書雑記