2019年12月05日

読書雑記(274)伊井春樹『宝塚歌劇から東宝へ ―小林一三のアミューズメントセンター構想』

 『宝塚歌劇から東宝へ ―小林一三のアミューズメントセンター構想』(伊井春樹、ぺりかん社、2019年11月30日)を読みました。一読三嘆、あらためて本を読む楽しさを満喫しました。

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 小林一三と宝塚の歴史が、今回あらたに、丹念に掘り起こされた事実に基づいて語られていきます。本作は、以下の2作を踏まえて、さらに宝塚が生まれる背景を浮き彫りにしたものです。

「読書雑記(136)伊井春樹著『小林一三の知的冒険』」(2015年07月15日)

「読書雑記(202)伊井春樹著『小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか』」(2017年07月12日)

 著者は、阪急文化財団の理事として、逸翁美術館・池田文庫・小林一三記念館の館長という要職の中で、小林一三(逸翁)と宝塚に関する情報を収集し、身の回りにある膨大な資料をコツコツと解読することにより、次のような構想を形にすることになったのです。

宝塚少女歌劇の発足からの歩み、創設者小林一三の演劇への思い、それらが日本の演劇史や文化史にどのように位置づけられるのか、といったことにはあまり言及されないのが実情である。(「あとがき」226頁)

宝塚少女歌劇のその後の展開を、文化史の中に位置づけるにしても、どのような見取り図のもとに書くのがよいのか、たんなる歴史叙述ではあまり意味がない。そこで思いついたのが、その先にある演劇映画の東宝の存在だった。(「あとがき」227頁)


 事実と事実の間を溢れんばかりの想像力で自然な流れの話としてつなげていく、「伊井節」のおもしろさ満載です。豊富な情報が背景にあってこその為せるわざだと言えるでしょう。
 温泉の余興にすぎないと評されていた宝塚少女歌劇が、あれよあれよと言う間に世間に認められていく話は、非常におもしろくて気持ちのいい物語です。
 大正時代の松竹と宝塚のありようは、さまざまな資料を駆使して詳細に語られます。しかも、視線は演劇の国民への普及、国民劇創出を目指す小林一三にあるので、わかりやすくまとまっています。松竹と宝塚の方針の違いが明らかにされていきます。
 その中で、特に分かりやすいのは、女優の命名由来でしょう。

宝塚少女歌劇団の生徒の名は「百人一首」に由来したのに対し、松竹の芸名は「万葉集」を用い、梅組・桜組の組織(後に松・竹)にするなど、明らかに宝塚少女歌劇の後を追い、人気を奪うまでの勢いになる。(75頁)


 また、松竹が宝塚の地に、一大歌劇場の建設に着手していたことの事実を資料から掘り起こしている点は、非常に興味のあるところです。そして、著者の調査が徹底していたことの証ともなっています。
 その後、宝塚で菊五郎の歌舞伎が上演されます。新しい演劇の幕開けとなります。それを本書は活写しています。
 他方、社会的な変動を背景に、一三は東京に健全な娯楽地を探し求めていました。それが、仕事の関係から止むを得ず手にすることになったのが日比谷という地になるのです。おもしろいものです。これが、アミューズメントセンターの構想へと展開します。まずは、日比谷東京宝塚劇場です。壮大な計画が少しずつ実現していく様が、目の前に現前するように描かれています。
 現在私は、その日比谷の地にある日比谷図書文化館で『源氏物語』の講座を担当しているために、毎月1回はこの劇場の前を通っています。帰りには課外講座と称して、受講生の方々と有楽町周辺で自由に語らっています。その地の歴史がわかり、あらためて日比谷から有楽町の、上野とは異なる文化が根付いていることが理解できました。そして、まさにその地で私は好きなことをさせていただける幸を、本書を読み進めながら噛み締めていました。
 その後、東宝と松竹は俳優の引き抜き合戦を展開します。その中で、興味深い箕助をめぐるくだりは、『源氏物語』にも関わることなので、長くなるのを厭わずに引用します。

 大阪歌舞伎座で、五代目菊五郎追善公演に出演中の坂東三津五郎から、息子(養子)の蓑助が東宝の舞台に立ちたいと願い出ていると、五月十五日に松竹に情報が入ってきた。かねて蓑助は新しい歌舞伎劇の提唱をし、移籍の噂がありはしたが、父親からの正式な連絡を聞き、松竹本社は強い衝撃を受ける。ほかにも二三人の俳優が、松竹を脱退するとの話もあり、すぐさま流出を食い止める方策にかかる。東宝は松竹の俳優を引き抜こうとしていると、熾烈な対抗意識をあらわにもする。
 蓑助から東宝劇団入りの意向を聞いた三津五郎は、松竹から芸名を取り上げられるだけではなく、二度と舞台には立てなくなると強く反対する。それでも蓑助の決意は固く、松竹を離れてしまう。六代目坂東蓑助(旧八十助)は三十歳の新進気鋭、新宿第一劇場の青年歌舞伎に出演中で、将来の歌舞伎界のホープともされていた。
 かつて昭和八年十一月に新宿歌舞伎座で『源氏物語』の上演を企画し、研究者の藤村作博士、池田亀鑑諸氏の監修、番匠谷英一脚色、舞台意匠は松岡英丘、安田靫彦といった豪華メンバーを揃え、稽古も怠りなく準備を進めていた。脚本は申請して検閲中だったが、直前の四日前になって警視庁保安部からの上演禁止命令が下される。入場券は完売し、衣装から舞台装置もすべて整えていただけに、蓑助は奔走し、脚本の書き直し、当局との折衝を試みたものの、舞台化は許されなかった。虚構の作品であっても、宮中の恋愛事件の舞台化は、不敬罪に当るとの判断である。『源氏物語』が舞台や映画になるのは、第二次世界大戦後までなされなかっただけに、成功していれば斬新な蓑助の企画力と行動力として、文化史にもその名は刻まれていたであろう。
 松竹に属していては、自分の芸を磨くことができないため、新しい環境で芝居に精進したいというのが蓑助の言い分である。松竹は蓑助の遺留に努め、ほかにも数名の移動する気配に警戒を強める。一方の東宝側は、六月からの有楽座出演は蓑助の意思によって決定しており、とくに引き抜きをしたわけではないと反論する。「松竹を脱退し、蓑助が東宝入り」と新聞で大きく報じられ、真相は不明ながら、松竹と東宝の対立は表立って先鋭化していき、それがまたニュース面を飾ることになる。(180〜182頁)


 このことは、『もっと知りたい 池田亀鑑と『源氏物語』 第2集』(伊藤編、新典社、2013年)に掲載した「源氏物語劇上演の打ち合わせ?(昭和8年秋頃?)」の写真(380頁)に関連するものであり、警視庁の弾圧に関係します。本ブログでも、以下の記事で言及しています。

「『源氏物語』の演劇化弾圧に関する新聞報道」(2012年04月24日)

 しかし、今は引用だけに留め、後日さらに調査した報告を記したいと思います。
 なお、個人的な興味と関心によるものながら、「盲目の兄とその妹」を箕助が演じています(182〜183頁)。これはどのような内容なのか、これもまた後で調べてみます。

 有楽座の新築をめぐって、当時の演劇のありようと、その芸を見せる場としての劇場という小屋の存在が浮き彫りにされていきます。新しい国民劇を興そうとする小林の考えを、こうしたことの掘り起こしから克明に描き出しています。
 私が一番心待ちにしていた宝塚と『源氏物語』のことは、この次の著書になるようです。待ち遠しい思いで、その公開を楽しみにしています。

 「あとがき」には、次のようにあります。

 私が、「ゴジラ」の映画を見たのは十三歳の中学二年生の時である。地方都市なので、封切ではなく数か月遅れての上映だったのであろう。迫力のある強烈な印象だっただけに、帰宅する道すがら、夕暮時だったが、近くの山のあたりからゴジラが出現するのではないかと、不安な恐ろしさを覚えた。それが東宝映画と認識したのは、ずっと後になってのことである。中学・高校時代の昭和三十年代は映画の全盛時代、学校からの帰りにはよく寄ったものだ。(227頁)


 著者の手元には、膨大な情報と資料があるようです。しかし、それらの中でも、次のようなものは今は省略した、とのことです。

劇場や映画の話題に向かうと、資料は膨大になり、研究者だけではなく、監督、演出家、俳優の立場からの著作も多い。小林一三との関係からだけでも、川口松太郎、秋田実、菊田一夫、大河内伝次郎・古川緑波等数えるときりがなく、資料も残されるが、問題が拡散するためすべて省略に従う。(228頁)


 この「あとがき」を読みながら、さて私と東宝の接点は、と思いをめぐらすと、ゴジラはもちろんのこと、それよりも大学1年生だった頃に足を運んだ日劇ミュージックホールのことが思い出されました。たまたま、処分しようとしていた段ボールの中に、パンフレット『日劇ミュージックホール 1〜2月講演 開場20周年記念公演』(昭和46年12月発行)があったことに気付きました。処分しなくてよかったと思い、取り出してみると、次のコラムが目に留まりました。些細なことながら、捨てるともう出会えないものなので、参考までに引いておきます。

「二十年なんてまだ子供だ」丸尾長顕(演出家)



「日本で面白いショウを見ようと思えば、日劇ミュージック・ホールへ行け」
 と、カバルチードに書かれてからも十年は経った。こんなちっぽけな劇場で、こんな小規模のスタッフで、ともかくショウの世界に覇をとなえてきたことは、まことに幸運だ。
 草創時代の苦しかったことなど、当然だと思うし、楽しい思い出だ。
 「丸尾君、派手に赤字を出してくれるナァ」
 と、寺本副社長に皮肉を云われても、返す言葉がなかった時
 「一年間は黙って見てやるものだ」
 と、小林一三先生の助け舟で、涙が出たことを思い出す。やっぱり小林先生は偉かった。それで一所懸命になった。スタッフも力を協わせてくれた。8カ月で、第一の黄金期を迎え赤字を解消したのだから、先生の恩義に酬い得たと、これは嬉し涙が出たものだ。
 伊吹まり、ヒロセ元美、メリー松原の3スターが揃って加盟してくれたことが、興隆のキッカケをつくった。私はこの三人に恩義を感じている。それはやがて奈良あけみ、春川ますみ、ジプシー・ローズ、小浜奈々子等々多くのスターが加わってくれる動機となったのだから−。
 トニー谷、泉和助、エリツク君などの登場も大きな力だった。それと共に日本喜劇人協会をつくった盟友、榎本健一、古川緑波、金語楼の諸君が出演してくれたり、蔭になり日なたになって助力してくれたことも箔をつけてくれる結果になった。
 もう一つ忘れてはならないことは、作家諸先生の援助だった。谷崎潤一郎、村松梢風両先生をはじめ、三島由紀夫先生も脚本を書いて下さった。三島先生から
 「なんだ、これぽっちのお礼か」
 と、叱られたことも今となれば忘れ難い一コマである。舟橋聖一、吉行淳之介、遠藤周作、近藤啓太郎、戸川幸夫、梶山季之その他諸先生、画壇からは東郷青児、伊東深水、南政善諸先生等々、漫画界から小島功、杉浦幸雄、久里洋二、加藤芳郎の諸先生が、いろいろと後援して下さったことも、隆昌の大きな背景となった。
 このように20周年を盛大に迎えられるのも、決してわれらスタッフだけの力ではなく、多くの有力な方々のご援助があり、ご指導があったからだ。そして、何よりもこの20年間愛し続けて下さった観客の皆様の愛情の力によるものだと、感謝の他はありません。
 だが、私は20年だなんて大騒ぎをするにあたらない、これから何世紀も生き続けるショウにならねばダメだと思う。20才なんて鼻ッ垂れ小僧だ。それがためには才能をもった後継者が続々現われてくれないと困る、幸い岡聡、平田稲雄、大村重高の3人が立派に成長してくれた。この3人は、草創期の苦労をよく知つているし、苦労している。その次の第二の新人群もそろそろ頭角を現わして来たようで安心だが、時代は激動している、ショウも激変する。時代をよく洞察して新しい時代の先駆をせねばならぬ、20周年で新人にフンドシを締め直して欲しいと願っている。
 宋詩に「只伯春深」とある、ただわが代の春に酔ってだけはいられないのだ、と思う。


 この、小林一三と宝塚の話は、まだまだ展開していきそうです。
 さらなる刊行を、楽しみにして待つことにしましょう。
 
 
 
posted by genjiito at 19:38| Comment(0) | ■読書雑記