2019年10月08日

新出定家本「若紫」の翻字は「変体仮名翻字版」による正確な資料作成を

 本日夕刻に、藤原定家が書写したと思われる『源氏物語』の第5巻「若紫」が見つかった、というニュースが流れました。
 これまで「若紫」は、大島本という〈いわゆる青表紙本〉で読んでいました。
 その大島本の冒頭部分をあげます(『大島本源氏物語 DVD‐ROM版』古代学協会編、角川書店、2007年11月)。

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 それが、今回公開された定家本「若紫」の冒頭は、次のように書き出されています(京都新聞電子版)。写真を見る限りでは、ここで赤丸をした「に」は、何か文字をなぞっているように見えます。これは、いつか原本を実見できた時に確認します。

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 参考までに、私が日比谷図書文化館の講座で使用している、鎌倉時代中期に書き写された橋本本「若紫」の冒頭は、次のようになっています(『国文学研究資料館蔵 橋本本『源氏物語』「若紫」』伊藤鉄也・淺川槙子編、新典社、2016年10月)

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 定家本には「ハ、三」の2種類の変体仮名が、大島本と橋本本には「ハ、三、尓」の3種類の変体仮名が、使われています。変体仮名というのは、明治33年に文部省によって文字統制がなされた際に、教育上の観点から外された、現行の字体と異なる平仮名のことです。たとえば、「安」と「阿」の内で「阿」は平仮名から除外され、変体仮名のグループに入れられたのです。
 平仮名には、その仮名の元となる漢字(字母)があります。その字母を考慮した、より原典に正確な、原典を再記述できる「変体仮名翻字版」で、この3例を翻字してみます。

■大島本「わらハや三
■定家本「わらハや三
■橋本本「わらハや三


 ここだけを見比べると、今回見つかった定家本は他の2本である大島本や橋本本とは字母が異なるものがあります。大島本と橋本本が「尓」とする箇所を、定家本では「に(仁)」となっているのです。つまり、書写にあたって用いた親本が違うようです。

 仮名文字の使われ方の違いを考えるために、「現行翻字方式」と「変体仮名翻字版」で見比べてみましょう。定家本で分かりやすい字句が近接する箇所から例をあげます(京都新聞電子版)。

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 上の写真の場合、「現行翻字方式」では次のように表記されます。すべて、現行の五十音図の中にある文字に置き換えています。

■定家本を現行の翻字方法で示す■
たまひて よろつに
らせたまへとしるし
りたまひけれはある


 ここを「変体仮名翻字版」で表記すると、次のようになります。

■定家本を「変体仮名翻字版」で示す■
まひて よろつ
らせまへとるし
まひある


 写本に記されている仮名文字を、「現行翻字方式」で翻字したのでは、正確に翻字したことにはなりません。書かれている仮名文字が、統制された都合のいい表記に置き換えているからです。「現行翻字方式」は、私が言うところの〈嘘の翻字〉です。この不正確な翻字データを、次の世代に引き渡すわけにはいきません。変体仮名の「堂、尓、多、志、介、盤」に注意してください。明らかに、書写されている文字が違うのです。

 私は、約5年前から、古写本の翻字には変体仮名交じりの表記で文字起こしをする決心をしました。このことは、「『源氏物語』を「変体仮名混合版」にする方針で一大決心」(2015年01月15日)に、その意義を書いています。あの時には、「変体仮名混合版」という名称を使っていました。しかし、今はそれを「変体仮名翻字版」と称しています。

 定家本と橋本本を、前例にならって「変体仮名翻字版」で翻字すると、次のようになります。漢字で表記された文字は【 】で囲っています。

■大島本を「変体仮名翻字版」で示す■
【給】て よろ徒尓
【給】へとるしなく
【給】盤阿る【人】

■橋本本を「変体仮名翻字版」で示す■
まひ よろ
まへとし累志
【給】れはあ【人】


 字母を丹念に確認しながら仮名文字を読んでいくと、それぞれの写本が抱える背景や特徴が見えてきそうです。今回見つかった定家本と、これまで基準本文として一般に唯一流布していた大島本を、字母レベルで比較すると、それぞれの写本の違いが見えてくることでしょう。また、これまでに確認されていた定家本「花散里」「柏木」「行幸」「早蕨」の4帖との文字遣いから、それぞれの関係もわかることでしょう。そのためにも、今は「変体仮名翻字版」の翻字データを作成することが急務です。

 今回、定家本「若紫」が出現したことにより、書写されている本文がいろいろと検討されていくことでしょう。その際、当然のことながら、検討のために引用される翻字本文は、私が言うところの〈嘘の翻字〉で語句が検討されることになります。
 少数の方でもいいので、明治33年に統制された現行五十音に仮名文字を置き換えた文字列で本文を検討するのではなく、本当に書かれている文字に基づく本文の検討をする、勇気ある若手研究者が出てくることを期待します。そして、「変体仮名翻字版」のデータが必要であれば、私が手元で管理している50万字以上のデータから、適宜抄出して考察の参考に供することで、研究の進展にお手伝いできないか、と考えています。この翻字データは、日比谷図書文化館の受講生の方々のご理解とご協力により、日々着実に増えています。
 この翻字データの提供方法については、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉を仲立ちにして実施します。いま少し時間がかかるものの、近い内に情報提供のアナウンスができるだろうと思っています。
 
 
 
posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | ■変体仮名