2019年08月04日

2002年春にインドで書いた未公開日記(その17/第11・最終週)

 2002年にインドのデリー大学に客員教授として赴任していた時の、大学での様子や、インドでの日常生活をあるがままに記した日録の公開です。
 ここでは、インドの滞在最終週となる「第11週 03/17〜03/20」の出来事を扱います。すでにクラッシュしたままのホームページでも、「第8週」以降は未公開のままだった部分です。メモを元にして、適宜インドでのことを思い出しながら、再現しています。
 今回は、3月18日のメモを復元しました。
 なお、3月16日に実施した『百人一首』のカルタ取り大会については、別にあらためて詳しく掲載します。

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■2002.3.18■



 朝食の時、今晩は外でおいしいものを食べよう、ということになった。B2さんという、食事を専門に作ってくださる人がいる。しかし、日本の感覚で食事を判断するほどに、ここは今自分がインドにいる、ということを忘れさせてくれる環境である。明日はインドを離れる、という日本を意識し出したからでもある。
 10時過ぎに、N2君と3人で、まずはコンノートプレイスへ出発。彼の本を航空便で送る。梱包をいつもの店に頼んで、パリカバザールへビデオCD−ROMを買いに行く。私は、「クチュクチュホーターハエ」等を買う。I1先生も一枚買われた。
 ジャンパト通りを散策して、政府の物産館へ行く。
 また歩いてコンノートプレイスへ戻り、パッキングを受け取って郵便局へ。5個で一万八千円くらいかかったようである。
 その近くの「ホテル アルカ」でインド料理を食べる。ここは、N2君がはじめてインドに来たときの思い出のホテルである。また、ここにはバジパイ首相も来るとか。極上のインド料理であった。先生もN2君も、たらふく食べた、という体である。私は、半分も食べられなかったけれども、非常においしい料理であった。3人で700ルピーほど。
 オートリクシャーで、ニザムディーンへ行く。ここは、イスラムのお寺である。ここも、一人ではとても行けそうにないところであった。
 一旦お寺に帰る。日差しが強くなったせいもあり、また、満腹で動いたせいもあり、とにかく体が疲れていた。1時間ほど休憩して、先生と2人でグレーター・カイラーシュNブロックへ行くことにする。その前に、明日のタイ航空の予約確認(リコンファーム)を忘れていたことに気づき、G4さんに電話をお願いする。そして、I1先生もまだのようなので、後で確認することにした。
 5時過ぎに、N2君と一緒に私の名前をヒンディーで刻んだゴム印を受け取りに行く。みんな満腹のようなので、日本食でお腹を休めた方がいいのではということになる。Nの「みやこ」で巻きずしがいいのでは、ということになった。
 Nブロックへ出発。調子よくでかけたが、オートリクシャーの運転手さんにNを確認し、車中でノーズのNであることを話したにもかかわらず、Mでおろそうとする。Nだと言い張り、突然不機嫌になった運転ブリを無視し、Nに着けてもらう。20ルピーを渡すと、遠回りしたからとかなんとか言うが、とにかく20ルピーをわたして無視した。

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 すぐに骨董屋さんに行き、バブルシートをくれといったが、もうないとのこと。しばらく粘ったが、あきらめる。みやこへ行くと、6時半からだというので、この前のアメリカンタイプの喫茶店でドリンクを飲んで待つことにする。インドについて、先生に見ていただいたところの説明をした。
 7時前にみやこへ行く。巻きずしとごま和えと水を頼む。寿司は、ノンベジとベジの2種類にする。国文学研究資料館の話などを1時間ほどする。
 帰りのオートリクシャーは、ちょうど来たのを捕まえたので、楽に帰ることが出来た。
 先生を見送るまで、自分の荷物の整理をする。ゴム印の説明もした。荷物は、スーツケースが意外と重くなった。対策を考えよう。
 国際交流基金のS2さんがちょうど8時に来られた。少し話をして、先生を見送る。それからみんなでジュース屋さんへ行く。ジュース屋さんの前にいつもいる牛の謎が、今日やって解けた。これまで、なぜほしそうな顔でいつもいるのか不思議だったが、閉店間際にお店のひとが、果物の絞りかすを牛に与えていたのだ。それを楽しみにして、毎日牛さんはここと契約しているかのようにやってきては、食べ物をもらっていたのである。最後の夜になって、いい場面を見ることが出来た。
 荷造りに手間取る。なかなかスッキリと収まらない。N8先生からいただいたウイスキーをのみながら、記録のまとめをする。

 
 
 
posted by genjiito at 20:26| Comment(0) | ◎国際交流