2019年05月31日

清張全集複読(34)「剥製」「危険な斜面」「願望」

■「剥製」
 鳥を呼び寄せる名人といわれる男が取り上げられます。雑誌記者とカメラマンが取材に行きます。しかし、失望して帰ります。
 後半は、すでに勢いをなくした美術評論家のことへと移ります。文筆家や研究者を見る冷めた目の語り手は、まさに清張そのものです。ただし、作品としては2つの話がうまく連携できずじまいだったように思えます。【2】
 
初出誌:『中央公論 文芸特集号』(昭和34年1月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
年末の忙しいさなかで、後半を締切ぎりぎりに印刷所で書いた。前半をホテルで書いたのだが、ほかの仕事に追われて、ふらふらしながらあとをつづけたのをおぼえている。たしか、看護婦を呼んで注射を打ってもらったと思っている。その有様を見て嶋中鵬二氏がたいへんだな、と眩いた。(553頁下段)


※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のようにあります。
執筆量の限界を試してみようと積極的に仕事を引き受けた結果、この年後半から書痙になる。以後約9年間は福岡隆を専属速記者とし、口述筆記した原稿に加筆するという方法をとった。(中略)10月時点では前年からの継続分も含めて連載だけで11本という驚異的な執筆量を記録した。(281頁)

 
 
 
■「危険な斜面」
 秋葉文作は歌舞伎座のロビーで、その昔関係を持っていた野関利江と、10年ぶりの再会をしました。利江は、今は秋葉の会社の会長の愛人なのです。巧みな人物設定で、物語展開が楽しみになります。
 恋愛関係において、相手を器具と見るか恋人と思うかの違いから、破綻が生まれます。しかも、清張が得意な時刻表を活用したトリック。そして、最期の場面。うまい構成です。【4】
 
初出誌:『オール讀物』(昭和34年2月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
企業の機構の中にいる人間の出世欲が転落の斜面に足をかけているというのがテーマ。いまではこういう筋のものが多くて珍しくなくなったが、女の心理の変化まで読みとれなかった自信過剰男が書きたかった。(553頁下段)

 
 
 
■「願望」
 下積みから身を成した者が、一気に願望を満たす話が、江戸の本に書かれているそうです。その中から2つの話を引き、人間の心の内にある願望を語ります。物語というよりも、コラムに近い性格の掌編です。【1】
 
初出誌:『週刊朝日別冊 時代小説傑作特集』(昭和34年2月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
「願望」は、作品じたいのなかに「解説」が書きこまれている。「塵塚物語」と「慶長見聞集」からとった。はじめから小品むけである。(553頁下段)

 
 
 
posted by genjiito at 20:44| Comment(0) | □清張復読

2019年05月30日

科研の実績報告書ができました

 昨年度の科学研究費補助金による基盤研究(A)の取り組みは、「海外における平安文学及び多言語翻訳に関する研究」(課題番号︰17H00912)をテーマとするものでした。
 その成果・実績の報告書が学振(日本学術振興会)から公開されるまでに、しばらく時間がかかります。そこで、その研究実績の報告書の一部をここに引用します。
 交付された直接経費は〈7,900,000円〉、間接経費は〈2,370,000円〉、未使用額は〈68,793円〉でした。
 多くの方々に助けられて、多くの成果をあげることができました。
 あらためて、関係するみなさまにお礼を申し上げます。
 まだ後2年あります。
 これまでと変わらぬご支援を、引き続きよろしくお願いします。

【研究実績の概要】


 本年度も、海外の研究情報と翻訳本を収集する活動と共に、現地の大学及び国際交流基金とのコラボレーションとしての国際研究交流を実施した。出向いた国は、ペルー・アメリカ・ミャンマー・ルーマニアの4カ国であった。いずれも先生方や現地の研究者との有益な面談に加え、多彩な研究情報や資料と、情報として伝わっていなかった多くの翻訳本を入手することができた。特に今年度は、ルーマニア語訳『源氏物語』の情報と共に翻訳者との対談も実現したことは大きな成果となった。これらは、年度末に発行した報告書である『平安文学翻訳本集成〈2018〉』に収録している。
 また、翻訳書籍に関する展示も、昨年度に引き続き開催した。研究代表者が収集した各国語に翻訳された古典文学作品について、解題を付して展示を行ったものである。多くの学生、教職員の目に留まるようにした。
 各国語訳『源氏物語』の訳し戻しは、世界35言語に翻訳された『源氏物語』を、その言語を母語とする者(母語話者)と母語としない者(非母語話者)により、日本語への訳し戻しを行っている。今年度は、主にビルマ語訳『源氏物語』(ケィン キン インジィン著)の訳し戻し作業を行い、日本文化の変容を考察する基礎資料を作成した。このことは、研究会に翻訳者ご本人をお呼びし、ディスカッションをする中で翻訳について考えた。
 懸案のホームページ「海外へいあんぶんがく情報」(http://genjiito.org)は、年度末に無事に完成し公開することができた。これは、前回の科研で作成した「海外源氏情報」をさらに発展させた内容のホームページである。今後は、このホームページを情報公開の窓口として、これまでの研究成果を広く共有しながら本科研のテーマを追求し、深めていきたい。(752字)


--------------------------------------

【現在までの進捗状況】


(1)当初の計画以上に進展している。

 当初設定した、研究期間の4年間で調査研究によって解明する目標は、次の3点であった。
 1. 世界各国で翻訳されている平安文学の総合的調査を実施し、各国の受容史と研究史を整理
 2. 江戸時代の簡約版『十帖源氏』を多国語翻訳し、日本文化の変容と理解について共同研究
 3. ホームページや電子ジャーナル等のメディアを活用して、研究者が情報交換をする場所を提供
 この内、1は予想以上に情報が集まり、受容資料としての翻訳本も確実に収集点数を増やしている。また、
 3のホームページ[海外へいあんぶんがく情報](http://genjiito.org/)も年度末に稼働しだしたことにより、コラボレーションが具体的に実現しつつある。
 そうした中で、2の『十帖源氏』の多国語翻訳は、これまでの基盤整備を踏まえて実施するものであり、3年目の2019年度の課題となっている。この2年間で得られた情報と人脈を有効に活用して、多国語翻訳を進展させていきたい。また、このテーマの遂行にあたり、これまで構築した人脈を活かして幅広い多彩な翻訳を実現したい。(460字)


--------------------------------------

【今後の研究の推進方策】


 本研究課題の今後の推進方策は、3年目に具体的に展開する『十帖源氏』の多国語翻訳の実施が中心となるはずである。『源氏物語』の第12巻「須磨」と第13巻「明石」を、翻訳の対象として予定している。そして、その成果はホームページのみならず、電子版『海外平安文学研究ジャーナル』に掲載して公開することとなる。
 電子版『海外平安文学研究ジャーナル』は、これまでに第6号まで発行している。次は、これまで2年間の成果を盛った第7号(今秋発行予定)と、本年度末に発行する第8号である。そこには、これまでに収集した情報と翻訳本、そして『十帖源氏』の多国語翻訳の掲載である。また、『海外平安文学研究ジャーナル〈ミャンマー編〉』の編集も最終段階となっている。
 こうした方向性を定めた研究を遂行していくことで、「1.翻訳から見た日本文化の変容」「2.『十帖源氏』の翻訳と研究」「3.共同研究基盤の整備」が関連しながら成果として公表できるものとなるはずである。
 また、「国際日本文学研究交流集会」の開催も、今後取り組むものである。これは、これまで研究環境が十全ではなかったために、実施が遅れていたものである。開催に向けての準備は整ってきたので、国内と海外で開催する段取りを進めているところである。(533字)

 
 
 
posted by genjiito at 20:39| Comment(0) | ■科研研究

2019年05月29日

科研の現状報告と茨木神社と茨木童子のこと

 今回の科学研究費補助金による研究の3年目は、今年から研究基盤機関が変わったことにより、一旦リセットされた状況にあります。事務的な手続きも停滞気味なので、気を揉んでいるところです。
 この4月からの2ヶ月間は、その再起動に多大のエネルギーと時間と手間を要しています。それも、ようやく昨日あたりから、本当に少しずつではあるものの、何とか動き出したことを実感し出しました。勝手がわからないこともあり、とにかくノロノロ運転ですが……

 プロジェクト研究員として活躍していただいていたOさんも、熊取という遠いところから箕面キャンパスまで、まさに遠路遥々この科研の研究支援に来てくださっています。少しずつ新しい機関での書類の形や動かし方がわかり、作業が進み出しました。
 先週から来てもらっているアルバイターのY君には、翻訳本の整理を精力的にしてもらっています。いい人材が見つかりました。まだ学部3回生です。しかし、信頼して任せられるということは、得難い人材を獲得したことになります。この科研は、若手研究者を育成する、ということも目的と活動の中に明記しているので、幸先の良いスタートとなったと言えるでしょう。
 情報収集や作業データの整理に使うパソコンについて、私はこれまでの30年近くにわたり、終始Macintoshで対処してきました。今回も同じです。すでにOさんはMacintoshを使いこなしておられます。Y君は今日が初めてだというMacintoshのセッティングも、無事に終わりました。
 新しい箕面の研究室は、まだ本格的な科研の運用までは整っていません。運び込んだ資料などが実際に活用できるように整理できるのは、もうしばらく時間がかかりそうです。いい研究成果を出すためにも、この時期の資料整理が大事です。本の山を崩して、すぐに資料が探せるように並べることが最優先課題です。

190530_room1.jpg

 今年度からは、『万葉集』や『百人一首』など、『源氏物語』前後の和歌集も扱います。その準備を、Y君にお願いしています。

 この科研では、多くの方々とのコラボレーションによって、情報収集・整理・考察を展開していきます。そのためにも、この日本古典文学作品の翻訳の分野では、基礎的な研究基盤の整備は欠かせません。ほとんどなされていない分野なので、地ならしに時間がかかっています。もうしばらくはアイドリング運転状態であることを、お伝えしておきます。いま少しのお時間を……

 仕事帰りに、阪急茨木市駅に近い茨木神社に、科研の調査研究が順調に進展するようにと、神様にお願いしてきました。信仰心のない私です。しかし、これまで、いろいろな困難と直面してきたこともあり、神頼みも必要だと思ったのです。
 神社の近くの橋の欄干には、茨木童子の石像がありました。

190530_ibaraki0.jpg

 茨木童子とは、今を遡る平安時代に、大江山を本拠地にして京都を荒らし回ったとされる「鬼」のことです。一般的には、茨城童子と書いています。酒呑童子の家来だった茨木童子は、堀川にかかる一条戻橋に出て来ます。それを、渡辺綱が腕を切って難を逃れたという伝承は、よく知られています。渡辺綱が茨木童子の腕を切り落としたのは、実は羅生門でのことだった、という話もあります。いや、茨木童子は「男の鬼」ではなくて、「女の鬼」だったとも言われています。
 その茨木童子の石像を見ながら、茨木市駅に向かって歩くと、すぐに茨木神社の標柱と出くわします。

190530_ibaraki1.jpg

 本殿に向かうと、整然とした境内が見えます。

190530_ibaraki2.jpg

190530_ibaraki4.jpg

 帰りは、かつてあった茨木城の搦手門を潜って東に真っ直ぐ歩きました。庶民的な、昭和の雰囲気を感じる商店街を抜けると、阪急茨木市駅に至ります。

190530_ibaraki3.jpg

 気持ちの良い散策となりました。
 
 
 
posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | ・ブラリと

2019年05月28日

読書雑記(256)高梨耕一郎『京都半木の道 桜雲の殺意』を再読して

 『京都半木の道 桜雲の殺意』(高梨耕一郎、2006年4月15日、講談社文庫)を再読しました。

190528_hangi.jpg

 この本については、「読書雑記(4)高梨耕一郎『京都半木の道 桜雲の殺意』」(2007年10月02日)で取り上げました。あまりいい評価はしていません。そのことが、半木の道を散策するたびに思い出されるので、もう一度読んでみたのです。
 植物園の西側にある、北大路橋と北山大橋の中間地点にある飛び石のことは、128頁に出ています。気になっていた割には、さらりと触れているだけなので拍子抜けです。
 予想外に、物語の内容には肉付けがされていることが実感できました。前回は、推理を追うことに一生懸命になって読んだからでしょう。そうであっても、登場人物が多すぎて、しかも人間関係が希薄です。おもしろい物語なのに、人物が立ち上がってこないのです。作者の立ち位置が曖昧で、物語を引っ張る人が存在感を示さないからだと思います。キャラクターの整理が必要だと思いました。
 さらには、舞台である京都らしさが伝わってきません。もっと風物に関わるエピソードを盛り込むなどして、工夫すべきだと思いました。せっかくの上質なネタが、これではもったいないのです。お寿司屋さんで、いいネタを仕入れながら、シャリがパサパサだったりベタベタだったら、変なものを口にしたという印象しか残りません。
 前回はほとんど気にしていなかった目の見えない花純さんの存在が、今回はその後に問題意識を持つようになったこともあり、非常に気になりました。中学2年生の時に失明した花純さんは、18歳の時にひき逃げされて亡くなったのです。そのことは、226頁以降で語られます。最終局面での推理に関係するのでここでは触れません。この花純さんの扱われ方に、私は非常に違和感を覚えました。これは、機会があればあらためて批判的に書きたいと思っています。
 それはさておき、この作品は、書き換えるともっとおもしろいものに化けそうです。私なら、飛び石をもっと活用します。半木の道に接する植物園も巻き込みましょう。その隣にある府立大学も出番です。この作品が発表された当時は総合資料館があったし、今は京都府立京都学・歴彩館に姿を変えて資料の宝庫となっています。推理モノにふさわしい舞台も資料も人物も、ふんだんに揃っている場所なのです。
 さらには、北大路通りを西に進むと、日本最初の盲学校やライトハウスがあります。千本閻魔堂の紹介をしながら、紫式部のことには言及がありません。物語をおもしろくするネタは満載の素地が眠っている作品です。
 作者の再挑戦を期待しています。【2】

※本作は、文庫本での書き下ろしです。
 
 
 
posted by genjiito at 20:21| Comment(0) | ■読書雑記

2019年05月27日

アレッ!と思う時〈その7〉加齢と老化の兆し

(1)10枚綴りになっているバスの回数券を財布から取り出し、1枚を千切ろうとしていた時に、うっかり落としてしまいました。バス停でのことだったので、風に飛ばされたバス券を大慌てで前屈みになって鋪道へ拾いに行きました。小さな紙片を掴んでいる時の力加減が、加齢と共に微妙な調整が出来ず、弱くなっているようです。財布を持ちながらバス券を切るのは、いろいろなところに神経が行くので油断大敵です。
 
(2)冷蔵庫からパック入りの牛乳を戸袋から取り出そうとしていた時です。牛乳を左手に持ったまま、右手でドアを閉めようとした時に、うっかり牛乳を落としてしまいました。左右の手で同時に別のことをする時には、簡単なことであっても要注意です。
 
(3)イチゴを何個か右手に掴み、左手でヘタを取っていた時のこと。右手で掴んでいたイチゴを1つ落としました。イチゴを握る力の入れ具合が、別の動作で緩んだようです。イチゴを潰さないようにという気遣いも、その力加減に影響しているのでしょう。
 
(4)ワイシャツなどの胸ポケットに、一時的に外したメガネを入れていることがよくあります。ところが、屈んだ瞬間にポトリと、ポケットからメガネが前に落ちるのです。前屈みになる時、膝を曲げずに腰だけを折って前に屈んでいるのでしょう。身体が硬くなった証拠です。柔軟な足腰の曲げ伸ばしを意識すべきだと、自分に言い聞かせているのですが……
 
(5)革靴を脱ぐ時、靴紐が少しきついとなかなか足から抜き取れず、ふらつくことがあります。身体のバランスを、急速に取りにくくなったのかもしれません。靴紐を緩め、膝を曲げ、腰を落として靴を脱ぐように心掛けるようになりました。
 
 
 
posted by genjiito at 20:53| Comment(0) | *身辺雑記

2019年05月26日

古福庵 町田店で見つけた源氏香の図入り木皿

 東京と神奈川の県境にある、時代家具を扱う古福庵に行きました。

190526_furu1.jpg

 広い店内には、さまざまな調度や家具が並んでいます。いずれも、手入れが行き届いたものです。

190526_furu2.jpg

 その中で、朱塗りの丸い菓子皿に、源氏香の図「初音」を描いた木皿を見つけました。気に入ったので、6枚いただきました。
 大型の家具がズラリと並ぶ中で、こんな小さなものが目に留まるのですから、おもしろいものです。

190526_sara.jpg

 その近くには、蓋に「丸叶」、内箱の右横に「満る可なう」と書かれた小箱がありました。腹の部分は変体仮名です。これも、いただきました。

190526_marukanou.jpg

 これらの道具とも、縁あっての出会いだと思います。大事に使っていくつもりです。

 今日はトランプ大統領が来日中のため、都内を避けての帰洛です。暑い一日。富士山は少し霞んでいました。

190526_fuji.jpg 
 
 
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | ・ブラリと

2019年05月25日

紫風庵で三十六歌仙と源氏物語の変体仮名を読む

 大徳寺に近い船岡山の南にある「紫風庵」で、装いも新たに「源氏物語と三十六歌仙の写本を変体仮名で読む会」と題して第1回学習会を開催しました。主催は、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉です。

 この「紫風庵」と三十六歌仙については、「京洛逍遥(538)登録有形文化財「紫風庵」の三十六歌仙絵」(2019年04月13日)に詳しく書いています。『源氏物語』については、これまで通りハーバード本「須磨」巻を読み進めます。

 今日は最初ということもあり、「紫風庵」を運営なさっている宮本さまに、建物の説明をしていただきました。昭和8年に、当時の所有者がお嬢さまのために建てた家だとのことです。随所に丸みを帯びた造作がなされており、優しさが溢れる和洋折衷の建物です。

 その一階の応接間の三面の襖に、三十六歌仙の絵と和歌を書いた色紙が貼り廻らされています。

190526_fusumae.jpg

 先ずは、歌仙絵に囲まれたこの部屋の使い方について、私の方から提案しました。すべて、襖絵および書を守るためのものです。

(1)カバンなどの荷物はこの部屋には持ち込まず、南の廊下側に出す。
(2)襖の絵と書を見るときは、持参か備え付けのマスクを着ける。
(3)記録のための筆記具は、鉛筆(シャープペンは可)のみとする。
(4)歌仙絵の部屋での飲食は厳禁とし、隣の居間では可能とする。
(5)一木の座卓での筆記などは、表面が傷付かないような配慮をする。
(6)写真は、記録程度なら自由。ただし、Web 公開は広報目的以外は原則不可。
(7)撮影にはフラッシュを使わず、接写には十分な距離を保ちズームで。
(8)襖に貼られた歌仙絵および和歌色紙には、絶対に触らない。
(9)歌仙絵の部屋では、手に何も持たず、小走りにならないようゆっくりと歩く。
(10)懐中電灯による、色彩や輪郭線の確認のための照射は、許可を得てから。


 以上の確認をしてから、早速、襖に貼られた和歌を確認しました。今日は、左端の襖を見ます。

190525_ise-yakamoti-akahito.jpg

 歌仙絵に添えられた和歌は、「変体仮名翻字版」で表記すると次のようになります。散らし書きで和歌が書かれているので、気をつけて仮名文字を追いかけてください。

◎《左上》
   右 伊勢
  見わの山
     い可尓 待三む
       年婦とも
  阿羅し     多つね類人
    登         も
    おもへ者

■三輪の山 いかに待ち見む 年ふとも 尋ぬる人も あらじと思へば
                   (古今和歌集 巻15 恋歌5)


◎《左中》
   左 中納言家持
  春能野尓あさる
   きゝ須の妻恋
         尓
  人 をの可有
   耳    可を
  志れ    
    筒

■春の野に あさる雉の 妻恋ひに 己がありかを 人に知れつつ
                   (万葉集 巻8 1446)


◎《中下》
   右 山部赤人
  和歌能うら尓塩
   三ちくれ八か多お
   多つ鳴    な三
     わ多 あしへ
       流   を
         佐し
           帝

■和歌の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 芦辺をさして 鶴鳴き渡る
                    (万葉集 巻6 919)


 柿本人丸と凡河内躬恒は、その右側の襖と組になる形で貼られているので、次回に詳しくみることにします。

 歌仙絵については、私にはよくわかりません。ただし、持参した架蔵『探幽筆 三拾六哥仙』のコピー版を見てもらい、この絵が狩野派の絵と構図がよく似ていることを確認しました。このことは、上記の「京洛逍遥(538)登録有形文化財「紫風庵」の三十六歌仙絵」(2019年04月13日)で、具体例をあげて提示したとおりです。

 今日は最初ということもあり、庵内の案内や三十六歌仙の襖絵の確認で、2時間の内のほとんどの時間を費やしました。

 最後の20分は、歌仙絵の部屋から居間に移り、テーブルを囲んでハーバード本「須磨」巻の11丁裏の1行目から本文を字母に注目しながら確認しました。ここで、用意していたお茶とお菓子をいただきました。
 三十六歌仙の和歌に書かれた仮名文字は江戸時代以降のものであり、ハーバード本は鎌倉時代中期に書写されたものです。その文字が持つ雰囲気の違いは明らかです。こんなことを話している内に予定の時間となったので、11丁裏7行目の「心くるし支・こと能・」までで終わりとしました。

 次回は、6月29日(土)の午後2時から、この「紫風庵」で行ないます。
 今日は6人での勉強会でした。
 興味と関心をお持ちの方の参加をお待ちしています。
 この勉強会が午後4時に終わると、私は大急ぎで東京に行く新幹線に乗るために、早めに退出しました。
 玄関からは、8月に大文字の送り火が焚かれる如意ヶ岳の「大」の字が見えます。

190525_daimonji.jpg

 参会者のみなさま、毎度のことながら慌ただしいことで大変失礼しました。
 
 
 
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | ◎NPO活動

2019年05月24日

清張全集複読(33)「装飾評伝」「巻頭句の女」「紙の牙」

■「装飾評伝」
 異端の画家と言われた名和薛治をめぐる話です。その名和から芦野信弘へと展開します。そこには、清張がかねてより抱いていた疑問がありました。芦野が伝記作者になった、と言うところから話は急展開です。さらには、名和はなぜ晩年になって崩れた生活に陥ったのかについて、鋭い観察眼が縦横に光ります。芦野の娘の登場が、この話の転回点だと言えるでしょう。
 天才画家と不幸な友人の人間関係を、清張はあらん限りの想像と連想を綯い交ぜにして語ります。人間観察が実を結んだ秀逸な物語が誕生したのです。【5】
 
初出誌:『文藝春秋』(昭和33年6月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
 発表当時、モデルは岸田劉生ではないかと言われたが、劉生がモデルでないにしても、それらしい性格は取り入れてある。もっとも、劉生らしきもののみならずいろいろな人を入れ混ぜてあるから、モデルうんぬんにはいささか当惑する。(552頁上段)

※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のようにあります。
岸田劉生をモデルにした一種の評伝小説で、このテーマはのちに『岸田劉生晩景』(『藝術新潮」65.2〜4)に結実する。(106頁左)

 
 
 
■「巻頭句の女」
 癌を胃潰瘍だと言って知らされなかった女が、話の中心に置かれます。病院や医者や愛人などが出入りする話の中で、殺人事件があったことがあぶり出されます。ただし、いかにも作り話だという内容です。清張も、ネタに困って無理やりこじつけて書いた作品だと思いました。【1】
 
初出誌:『小説新潮』(昭和33年7月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
自作が俳句雑誌の巻頭を占めるかどうかは、投稿者仲間の重大な関心事となっている。『ホトトギス』の虚子選で巻頭をもらうと、地方名士になったという話があるくらいだ。(553頁上段)

 
 
 
■「紙の牙」
 温泉地で、自分の存在を知られたくない男の心理が巧みに描かれて始まります。
 それを見かけた市政新聞の記者に脅されます。市役所に勤める男は、職をなくすことを怖れ、言いなりになるのでした。安泰を願う人間の弱みが語られます。
 終始、憎たらしいまでの悪党がリアルにる描かれています。作者は、こうした人々を見てきたからこそ書けるのでしょう。【4】
 
初出誌:『日本』(昭和33年10月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
「紙の牙」は、じつはモデルがあって、地方のある自治体政界での出来事なのだが、このような事情は今でも中央、地方を問わず行なわれているに違いない。能吏がつまずくのはほとんどがスキャンダルである。(553頁上段)


 
 
 
posted by genjiito at 23:07| Comment(0) | □清張復読

2019年05月23日

反正天皇陵古墳とさかい利晶の杜

 今年7月には、世界文化遺産の仲間入りが濃厚になった百舌鳥・古市古墳群の内、堺市にある反正天皇百舌鳥耳原北陵古墳(田出井山古墳)に立ち寄りました。百舌鳥古墳群の北端にあります。仁徳天皇陵古墳がそうであるように、近寄っても森が目の前に広がっているだけで、あの鍵穴のような形は確認できません。

190523_hanzei1.jpg

190523_hanzei2.jpg

 ピラミッドや石塔などは形が我々に見えるので、実感を伴う遺産として確認できます。その点では、日本の古墳の中でも前方後円墳は、その形がイメージし難いので、これがあの、という感触を得て終わります。IT技術を駆使して、実感を持って世界遺産が体感できるような仕掛けや工夫が待ち望まれます。もちろん、それが天皇陵にふさわしいかどうかは、また別の問題があるとして……

 その後、さかい利晶の杜にいきました。ここは、学生たちを連れて授業の一環として何度も来たところです。

190523_risyou.jpg

 入口にあったチラシで、与謝野晶子の『新新訳 源氏物語』が完成して今年が80年目であることを知りました。与謝野晶子が現代語訳をした『源氏物語』と『蜻蛉日記』の自筆原稿を、国文学研究資料館から精細画像で公開する仕事に関わったこともあり、気になっていました。
 今週末の25日(土)から6月2日(日)まで、いろいろとイベントが予定されています。次のホームページで確認してください。私は、この期間はすでに予定がぎっしりと埋まっているので、残念ながら参加できません。
「晶子フォーラム2019開催のお知らせ」
 ただし、25日に関しては、定員に達したために受け付けは終了したそうです。
 私は、この日の内容に興味をもっていました。与謝野晶子と谷崎潤一郎の現代語訳の違いについての話がなされるからです。

190523_genji.jpg

 また、これに関連して、「晶子シリーズ講座 6か月でわかる「源氏物語」の世界 たつみ都志が語る! 与謝野晶子訳「源氏物語」講座」という企画もあるようです。初回は、6月3日(月)で、毎月上旬の月曜日に開講となっています。テキストは晶子の源氏訳です。ホームページにこの案内がないので、もっと詳しい情報を探しているところです。
 
 
 

posted by genjiito at 23:00| Comment(0) | ・ブラリと

2019年05月22日

「源氏物語と三十六歌仙の写本を変体仮名で読む会」からのお知らせ

 本日22日(水)の京都新聞「まちかど」欄で、次の紹介記事を掲載していただきました。

190522_sifuan.jpg

 これは、これまで「be京都」で開催してきた「ハーバード大学美術館蔵『源氏物語』「須磨」巻を読む会」を継承したものです。
 新たな会場は、平安京の北の基点となった船岡山のすぐ南にある、登録有形文化財に指定されている「紫風庵」に移ります。その「紫風庵」で、引き続きハーバード本「須磨」巻を読むと共に、「紫風庵」所蔵で江戸時代に描かれた三十六歌仙の絵と和歌を読みます。これまで通り、平仮名は変体仮名を再確認しながら、書かれた文字を忠実に読んでいきます。
 江戸時代に描かれた三十六歌仙については、その絵が貼られた襖がある部屋で、しかも間近に見ながら、一文字ずつを解読していきます。「紫風庵」に所蔵されている「三十六歌仙」の詳しいことは、「京洛逍遥(538)登録有形文化財「紫風庵」の三十六歌仙絵」(2019年04月13日)をご覧ください。
 今回は、左端にある次の襖絵を読みます。

190522_hidari1.jpg

 1年かけて、この三十六歌仙に取り組む予定です。ぜひこの機会に、生きた古典と接する得難い体験の場としてください。初心者を意識して、丁寧に変体仮名を読むコツなどを説明します。
 参加を希望される方は、このブログのコメント欄をご利用ください。折り返し、説明の返信を差し上げます。
 なお、この学習会は、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉が主催する企画であることは、これまでと同じです。小規模ながら、地道に気長に活動を続けています。
 『源氏物語』ともども、「三十六歌仙」という古典文学作品を生で鑑賞し、そこに書かれた文字を忠実に翻字していくことに興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。
 会場である「紫風庵」への道順などは、上記ブログに詳しく掲載していますので、参考になさってください。
 
 
 
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | ◎NPO活動

2019年05月21日

吉行淳之介濫読(20)『コール ガール』

 この『コール ガール』(吉行淳之介、角川文庫、昭和50年5月)は、前回は昭和54年正月に読み終えています。しかし、内容はまったく覚えていませんでした。そのせいもあってか、楽しく読めました。

190412_callgirl.jpg

 書き出しは、作者(語り手)が「コール ガール」という作品を週刊誌に連載することとなり、都内に部屋を借りて執筆を始めるところからです。対談の名手と言われる吉行らしい、乗りのいい語り口です。
 アメリカのコール ガールを引き合いに出し、精神分析医のハロルド・グリーンウォルド氏の『コール ガール』(中田耕治訳、荒地出版社)を引用しながら、日本のコール ガールとも違う娼婦と比較しながら論じたりします。実に楽しそうに語っていきます。
 この作品が連載物であることは、「この作品の第1回で、書いておいたように、〜」(101頁)とあることからわかります。掲載雑誌の読者を多分に意識した、読者に語りかける口調で物語は展開します。
 文中に、一年前に刊行した『浮気のすすめ』(昭和35年3月〜11月、『週刊サンケイ』連載、35回、同12月に新潮社から刊行)からの引用文が、次のことばの後に12行分ほどあります。
 彼女の演出及び演技力の一端を、『浮気のすすめ』から引用してみよう。(78頁)

 また、その『浮気のすすめ』の内容に対して抗議があった話が7行分あり、その抗議は筋違いだとしてここに反論を書いています(131頁)。なかなかおもしろい構成です。
 空は鉛色で、湿気が多くて、皮膚はジメジメしている、という描写は、本作でも健在です。吉行の作品でよく出てくる、特徴的な表現です。ゼンソクの持病を抱えることから、この表現は至る所でなされます。
 隣室のコールガールの部屋に行き、隣の自分の部屋からおつまみを取り出してくる話の「23 乾酪盗人」(190頁)は秀逸です。
 後半で展開する「全日本タイトルマッチ、コールガール選手権試合」は、面白半分のネタながら、作者は楽しんで書いています。遊び心の本領発揮です。女性をモノ扱いにしていると、今なら批判される内容です。しかし、作者は本気です。もしお急ぎの方は、「30 決戦の日近し」(角川文庫、251頁)から「37 奇想天外」(325頁)までの節を読むだけでも、十分に本作を堪能できます。
 最後に、また精神分析医ハロルド・グリーンウォルド氏の『コール ガール』(中田耕治訳)を引用しながら、日本のコール ガールとも違う娼婦と比較しながら、真面目な私見を展開します。生真面目な吉行の本領発揮です。
 そして、最後の作者のまとめは、これまた吉行らしい生真面目なものです。
 興味の赴くままに、肩肘張らずに随想のような語り口に、すっかり引き込まれました。物語る作者が、時たま小説家吉行淳之介として登場します。いろいろな仕掛けがなされています。
 なお、この作品を生み出した前作『すれすれ』(昭和34年4月〜12月、『週刊現代』連載、38回、昭和34年10月に講談社から刊行)のことが、作中に出ています。
 もともと田井重吉は私の作品『すれすれ』の中の重要な登場人物である。その作品のなかの彼がこの世を去る場面を引用して、あらためて田井重吉の冥福を祈ることにしようとおもう。(396頁)

 こうした形で引かれる登場人物に関しては、吉行の作品を通して注目しています。そのことは、またいつか書きます。
 また、関西在住の田中堅太郎氏からの手紙によるものとして、関西の状況については次のように言います。
関西では、この方法によるものの最も盛んなのが、神戸です。この土地は、昔からの港町で取締まりがゆるく、現在は戦前以上です。あきらかに売春防止法に抵触するもの以外は、追求されません。結構なことです、ありがたいことです。したがって、コールガールの質も非常に高く、そして広く、大阪、京都はその足下にも及びません。
 大阪は……、ほとんどが赤線上りです。中継所もうどん屋とか三畳土間だとか、そのくせ値段は時問で二千円です。不潔さは天下一品也。
 京都は……、日本の観光都市として、健全娯楽をうたっていますから、売春防止法にちょっとでも触れるものは徹底的に取締まられます。したがって、コールガールは、絶対に表面に出ていません。旅館で呼んでくれるところも稀にありますが、いわゆるヤトナばかりで、素人は皆無。ポン引の手を経るものは、ドングリ橘一帯のジキパンで、プロもプロも大プロで、コールガールの部に入らず(184頁)

 本作品を読んだメモに、「41節は『赤と紫』のモデルか。同じパターンの話である。」とあります。またいつか、このことを検証してみたいと思っています。【4】

※?の表現
 「差出人の住所は書いてあらず、」(49頁)
 「田舎ナマリの岩乗な女中だけだがな」(237頁)

書誌情報:『週刊サンケイ』連載、昭和36年2月〜37年1月、45回、昭和37年3月に角川書店から刊行)

※参考情報:「『コール ガール』の頃」(吉村平吉・風俗評論家、『面白半分 とにかく、吉行淳之介。 愛蔵版』、昭和55年1月、面白半分編集部、面白半分社)に、次のような裏話が語られています。本作品を理解する上で大いに参考になる話なので、長文ながら以下に引用します。
 自分自身が、売春婦のいる世界の生活にずぶずぶに漬っていた時期だったから、娼婦を主人公にしたり娼婦が登場したりする小説類を読み漁っては、生意気にもわたしなりの批評をくだしていたのだった。
 かねがね、自分のぐうたらと不行跡を棚に上げて、新聞や雑誌の売春社会または売春婦に関する文章のいい加減さに腹を立て、軽蔑していたのだ。
 吉行さんの作中の娼婦は、いずれもそんなわたしの心をときめかすほどの実在感と親近感をたたえていた。むろん小説としての見事さに感銘させられもしたが、それ以上に、作中人物へのわたしの側からの熱っぽい感情移入があったわけである。
 わたしの気持が通じてか、銀座の勉強会のあと、吉行さん単独でのご指名があって、以後、ちょくちょくお逢いするようになった。
 お逢いすると、お互いに妙な具合の真顔で、Y談がかった女の話や売春業界の話を交わすのが常だった。ポン引き稼業はお喋りと相場がきまっていたし、吉行さんのほうはあの名うての聴き上手だったから、当然にいつも話が弾んだ。
 そのうち、吉行さんの小説やエッセイのなかに、わたしらしき人物とかわたし風のポン引きとかが登場するようになった。読んでいて、面映ゆい気がしないでもなかったが、満更でない気持のほうが強かった。よく映画俳優なんかが、○○監督の作晶なら、ぜひとも出演させていただきたい、といった発言をしているが、ちょうどそういった心境だった。
 吉行さんの年譜によると、昭和三十五年の週刊誌の連載エッセイ『浮気のすすめ』、初めての新聞小説だという『街の底で』、そして翌三十六年の週刊サンケイ連載小説『コールガール』−の頃が、わたしの影みたいなものが吉行さんの作品のなかに見え隠れしたピークだった。したがって、しょっちゅうお逢いしていたし、しょっちゅうご馳走になっていた。
 とくに『コールガール』の連載中は、毎週のように、取材の手伝いをさせていただく格好になった。この小読は、作者が当時まだわが国でほ実態が明らかでなかった"コールガール"と呼ぼれる売春婦の存在を求めて探訪して歩く……という、いかにも週刊誌の連載らしいドキュメントタッチのもので、吉行さんは実際に、情報にもとづいて東奔西走したのだ。
 その頃はもう、わたしはポン引き稼業の足を洗っていたのだが、それでも古巣の売春業界には大勢の仲間が残っていたから、もっぱらそれらの連中を活用した。
 元仲間のボン引きのルートをたどって、コールガールと称する女たちに近づいたり、モグリ売春業者のなかの気のきいたので、アチラ風の仕組みにしたものなどに接触したりしたのだ。
「−よく考えてみると、平さんに、直接女を世話してもらったことは、一度もないんだよな」
 吉行さんがわたしに向って、新発見のようにこういったことがあるが、まったくそのとおりだった。
 おそらく、吉行さんは、ポン引きを介して女を買うなどという趣味は、まったくなかったのだろう。わたしをはじめとするポン引きという職業(?)、さらにモグリの売春業界の仕組み、そこにいる女たち、そういったものに探究心をかき立てられたに過ぎなかったのだろう、と、わたしは思う。
 それにしても、『コールガール』の頃の吉行さんは、探究的な好奇心旺盛で、探訪的行動にも結構マメであった。
(中略)
 一般の読者は気づいていないかもしれないが、吉行さんの小説には、いわゆる悪役的な人物は描かれていない。むろん正義の味方なんぞはお呼びじゃないだろうが、根っからの悪党も登場していない。ポン引きも、売春業者も、詐欺漢も、まして娼婦、女性。
 野間文芸賞のパーティでは、主賓である吉行さんがどういうわけか会場の隅のほうに佇んでいて、真っ先にわたしの傍にきてくださった。浅草のはずれからきた元ポン引きのために。(160〜161頁)

 
 
 
posted by genjiito at 22:46| Comment(0) | □吉行濫読

2019年05月20日

京大病院での糖尿病の検査結果は良好で血糖値は順調に下降中

 久しぶりに京大病院の糖尿病・内分泌・栄養内科で検査と診察を受けて来ました。
 この病院に来ると、なぜか気持ちが落ち着きます。身体に何かと問題を抱え込んでいると、この病院にいる限りは何があっても明日の保証が得られる、と信じきっているからでしょう。

 今日のヘモグロビン A1cの値は「7.1」でした。劇的に良くなっています。

190520_graf.jpg

 最近は、体重が少しずつ増えていたので、喜んでいました。ただし、反面、血糖値が高くなっているだろうという不安がありました。それが、この結果を見ると、杞憂だったことがわかります。予想外の好結果です。
 主治医の先生からは、何か生活に大きな変化がありましたか? と聞かれました。食生活では今年に入ってから分食を徹底しだしたことと、先月から職場が替わったことを説明しました。

 最近は、1回に食べられる分量が極端に少なくなっていました。しかも、すぐにお腹が痛くなるのです。そこで、お腹が痛くなる直前に食べるのをやめる、という食生活でした。その結果、分食を徹底させて、1日6回食以上にしたのです。頻繁に間食もしています。そのために、一度の食事の量が少なくなっていたので、栄養面で一日のカロリーの不足を心配していました。また、何度も食事をするので、血糖値が上がりっぱなしでいいのだろうか、などなど。こうしたことを、心配していました。

 主治医の先生の話では、この分食の徹底が良かったのではないか、とのことです。一度の食事の分量が少なかったために、血糖値が急上昇することがなかったようです。しかも、私は少ない分量を時間をかけてゆっくりと食べます。夜は8時過ぎからの晩ご飯は、2時間近くかけています。ヘモグロビン A1cの数値が総体的に基準値よりも高いのは、私が消化管を持っていないために高く出ているのです。
 また、この4月から職場が変わり、その環境が大きく変わり、ストレスが格段に少なくなりました。このことも、血糖値に大きく影響しているようです。過酷な労働環境は心身に良くない、という典型的な例です。
 上のグラフが、その月々の身体の変化を如実に数値として示しています。今となってみると、この2年間の時の流れの中で、グラフの点が打たれている年月の各々に、思い当たることがたくさんあります。何があった日々なのか、鮮明に思い出せるのです。特に去年の春から冬までは、私にとっては忘れられない、信じられない出来事の連続でした。

 先生からは、順調にヘモグロビン A1cが下降しているので、そのままの生活でいいでしょう、という励ましの言葉をいただきました。気をつけるのは、筋力が衰えないように、運動を心がけることだそうです。これは、スポーツジムへ行く回数を増やすことと、歩くことを意識することで対処できそうです。
 目標だった体重50キロは、昨秋あたりから諦めていました。47キロから48キロをウロウロしていたからです。しかし、今春からは、48キロ以上の日が多くなり、最近は49キロ台になりました。先週は、50キロを超えた日がありました。
 体重を増やすことは悲願です。この調子でいけば、50キロ台の日々を迎えられるかもしれません。もう一度、体重の目標を50キロに再設定します。そして、分食をこのまま続け、楽しい日々を送ることを心掛けていきます。これで、次回の8月末の検査結果がどうなるのか、今から待ち遠しい気持ちです。その時に、体組成の検査も入れてくださいました。とにかく、血糖値の問題が、今直面している病気の中では、最優先課題です。
 
 
 
posted by genjiito at 21:14| Comment(0) | *健康雑記

2019年05月19日

京洛逍遥(555)洛陽三十三所(20)泉涌寺

 洛陽三十三所20番札所「泉涌寺」に着きました。

190518_sennyuuji1.jpg

 境内に入ると、建物群と雰囲気に格式の高さを感じます。

190518_sennyuuji2.jpg

 ここの境内には、清少納言の歌碑があります。このことは、「京洛逍遥(287)文学散歩で東福寺と泉涌寺へ」(2013年08月27日)に少し触れています。

190518_seisyounagon1.jpg

 歌碑の文字は、風化のためにまったく読めません。かすかに、『百人一首』に採られている「夜をこめて〜」という和歌が刻まれていることがわかる程度です。パンフレットなどには、この清少納言の歌碑のことには触れていないので、みなさん通り過ぎて行かれます。

190518_seisyounagon2.jpg

 私なりに字母に気をつけながら「変体仮名翻字版」の翻字方法で読んでみました。これは、ネットに掲載されている歌碑の写真を虱潰しに調べ、さまざまな写真を参考にしながら、何とか翻字したものです。
 古代学協会のホームページ(https://www.kodaigaku.org/kensho/kensho.html)によると、この歌碑は、昭和49年(1974年)11月16日に、平安博物館館長だった角田文衞先生の提案で建立された歌碑であることがわかります。揮毫は芸術院会員日比野五鳳氏。45年間でこんなに石面が風化し、文字が読めなくなることに驚いています。時間があれば、建立当初の拓本や写真などで、正確な字母を確認したいと思っています。ここには、取り急ぎ一案として提示しておきます。「斗」「所」「年・者(?)」「支」は、相当時間がかかりました。ご教示いただけると助かります。

  清少納言
  夜をこめて
斗りの所ら年
      者
者可る登母よ二
逢坂のせ支は
 ゆるさし


 楊貴妃観音堂にも立ち寄りました。楊貴妃観音菩薩は個人的なイメージと違うので、いつも気恥ずかしさと躊躇いがあります。

 その泉涌寺で書いていただいたご朱印は、次のものです。

190505_sennyuuji.jpg

 以下、ホームページ「洛陽三十三所観音巡礼」から泉涌寺の略説と地図を引きます。

御詠歌
 ももたびも あゆみをはこぶ せんにゅうじ
   などやほとけも まんぞくにます

泉涌寺境内にある楊貴妃観音堂は、天正三年(一五七五)織田信長建立の寄棟造りである。

楊貴妃は、唐の玄宗皇帝の妃でその美貌と美徳が玄宗の政務を怠らせる由縁となり、安禄山はその失政を楊貴妃に課して至徳一年(七五六)妃を討ったのである。

その楊貴妃を偲ばせる仏体は寄木造りで、宝冠は宝相華唐草の透かし彫りで御冠を偲ばせるものがある。手には極楽の花の宝相華を持し、生けるが如くに坐しておられる。世にこの観音菩薩像を楊貴妃観音と呼ばれるようになった。

我が国には、寛喜二年(一二三〇)當山開山月輪大師の弟子湛海宗師により請来された。以来、応仁の乱などの戦火に於いても難を逃れ、百年目毎に開扉されてきた秘仏であったが、昭和三〇年御厨子の扉を開き皆様に参拝して頂いている。

現在は美しいお姿の観音様にあやかろうと、女性の篤い信仰を集めている。平成九年に重要文化財に指定された。


190514_map.jpg

 今回の写真も、先週5月5日に撮影したものです。
 
 
 
posted by genjiito at 20:09| Comment(0) | ◎京洛逍遥

2019年05月18日

京洛逍遥(554)洛陽三十三所(18)善能寺

 洛陽三十三所19番札所「今熊野観音寺」(西国三十三所15番)の入口右側には、狭い小道があります。

190518_komiti1.jpg

190518_komiti2.jpg

 この道からさらに奥にある20番「泉涌寺」に向かって草木に覆われた山道を進むと、18番「善能寺」の前に出ます。

190518_zennoji1.jpg

190518_zennoji2.jpg

 新緑の中に爽やかなたたずまいの本堂(祥空殿)があります。

190518_zennoji3.jpg

 ただし、朱印をいただく納経所は、この善能寺の境内にはありません。少し先の泉涌寺の本坊でいただいてください、ということです。

190518_zennoji4.jpg

 巡礼の札所の一つに選ばれながらも、無住のお寺となっているようです。全国の巡礼寺院がそうであるように、グループ内に留まって維持管理していくことの難しさを感じます。今は、ご朱印を集めて回る女性に支持され、全国的に人気の朱印帖ブームも、すぐに失速することも考えられます。若い女性に飽きられたら、このブームは終わるのです。高齢者に支えられるだけでは、お寺はグループ内でのポジションの維持も大変でしょう。長い展望で見ると、何か別の巡拝を支える仕掛けが求められることになるでしょう。私は、神仏への畏敬の念と人々への感謝の気持ちを包み込む巡礼が、これからの霊場巡りの基盤になるのではないか、と思っています。その中でのスタンプラリーは、私は大好きです。長く続けるためには、目的意識が大事だと思うからです。

 その泉涌寺で書いていただいた善能寺のご朱印は、次のものです。

190505_zennouji.jpg

 以下、ホームページ「洛陽三十三所観音巡礼」から善能寺の略説と地図を引きます。

御詠歌
 かんおんに まいりてあくを ひるがゑす
   いまにこころも ぜんのうぢかな

善能寺は、もと八条油小路にあって二階観音堂と言いましたが、弘仁十四年(八二三)弘法大師が稲荷大明神を祀る寺として善能寺と号されました。

弘法大師の伝記に依りますと、弘仁十四年四月東寺の南門に稲を荷った老翁が訪れ「私は八条二階観音堂に住む柴守長者で、無者の者に福を与える者である。あなたの仏法を守護します。」と申されました。

大師は喜んで、赤飯を供養し法華経を講じてもてなしました。そして長者を「稲荷大明神」と尊称し、お住まいの二階観音堂を善能寺と名付け、御本尊を聖観音、又稲荷社を祀って懇ろに供養されました。当寺の稲荷社は、その尊い由緒で知られるように、日本で最初に祀られた稲荷大明神で数多の人々の信仰を集めていたことが窺い知ることが出来ます。

天文二〇年(一五五一)後奈良天皇の綸旨によって、泉涌寺の護持院として当山塔頭今熊野観音寺の西北に移されました。

明治維新を経て荒廃し、明治二〇年(一八八七)再興の時に現在地に移りました。

現在のお堂[祥空殿]は、昭和四十六年北海道横津岳で遭難した「ばんだい号」の遺族谷本氏が、すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願され、建立寄進されました。


190514_map.jpg

 今回の写真も、先週5月5日に撮影したものです。
 
 
 
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ◎京洛逍遥

2019年05月17日

びわ湖百八霊場(3)湖西4「西徳寺」と瀬田唐橋と瀬田温泉へ

 久しぶりに「びわ湖百八霊場」を巡ることにしました。この霊場巡りは、平成22年10月17日に思い立ち、正法寺(岩間寺)からスタートしました。「びわ湖百八霊場」の成り立ちの説明も含めて、「びわ湖百八霊場(1)湖西2-岩間寺」(2010年10月18日)に、その時のことを詳しく書いています。
 翌11月までの2ヶ月間に8ヶ寺を巡ってから、パッタリと行かなくなりました。思い返すと、平成22年から23年は怒涛の日々でした。胃ガンで消化管を全部摘出した後、5巡目の西国三十三所巡りを始め、賀茂川左岸から右岸に引っ越し、妻が早期退職をして上京し、病後の私の食生活などを管理してくれるなど、めまぐるしい生活の中にいました。「びわ湖百八霊場」は、とてつもなく慌ただしい日々の中に埋もれてしまったのです。

 これまでに「びわ湖百八霊場」については、次の2つの記事を最後に、まったく書いていませんでした。
「びわ湖百八霊場(2)湖東27-正明寺の秘仏千手観音」(2010年11月23日)
 本ブログを検索してみると、その7年後に書いた「京洛逍遥(466)洛陽三十三所(9)青龍寺」(2017年09月20日)の中で、次の文章を書いていました。

 私は、スタンプラリーが好きなのです。この2週間前から、西国三十三所巡礼を石山寺を皮切りに回っています。
「西国三十三所(1)5周目は石山寺から」(2010年07月19日)
 石山寺に向かったのは、ガンの告知を受けた3日目でした。そしてすぐに、洛陽三十三所の札所巡りもスタートしていたのです。とにかく、若いときから観音様が好きでした。特に、18歳の時に読んだ井上靖の小説『星と祭』から、実に多くの影響を受けました。
 「びわ湖百八霊場」も歩き始めたままで、ずっと止まっています。これも、そろそろ再開することにします。またまた、楽しい忙しさを纏った日々を送ることになりそうです。


 ここで、「びわ湖百八霊場」も「そろそろ再開」と思っていたようです。しかし、何かと多忙な日々に追われ、「びわ湖百八霊場」どころの話ではない、心身共に疲れ切る日々だったので、行かず書かずのままでした。「びわ湖百八霊場」の3カ所目から8カ所目までのメモと写真は残っているので、いつかまとめることにしようと思っていた折、また霊場巡りに出かける気分になり、出かけることにしたのです。

 JR石山駅から近江鉄道バスで、湖西4番の西徳寺に向かいました。ただし、今回の旅は思わぬ出来事の連続でした。こんなハプニングだらけのこともあるのです。
 まず、ガイドブックに書かれていたとおりに乗ったバスは、行きたかったバス停の1つ手前が終点だったのです。1つのバス停分なら歩けばいいと思っていたところ、バス停1つ分も戻る上に、交通量の多い道の端を歩くことになりました。最近は歩道に突っ込んで来る自動車が多いので、行き交う車に注意しながら集落に入りました。そして目指すお寺に着いたと思ったところ、そこは「西接寺」というお寺でした。iPhoneを取り出して位置を確認すると、その向こう隣の回り込んだ所にあるのが「紫雲山 西徳寺」だったのです。それにしても、きれいな山号です。本堂周辺は工事中でした。

190517_saitoku1.jpg

190517_saitoku2.jpg

 朱印をいただこうと思って玄関のチャイムを何度か押しても、どなたもお出になりません。
 そのドアフォンの下に、すでに書き上げた朱印がビニール袋に入っていて、お金をいれる小さな賽銭箱のようなものが設置されています。おそらく、不在にしておられる時の対処なのだろうと思い、その朱印をいただき、納経料を箱に入れました。特に説明がなかったので不安ながら、右上に防犯カメラがあり、私の行動は録画されているようなので理解していただけると思い、そのようにしました。

190517_saitoku3.jpg

190517_saitoku4.jpg

 いただいた朱印は、次のように書かれていました。参拝した日付がないので、自分で書くことにします。

190517_syuin.jpg

 境内に歌碑がありました。よく見ると、このお寺の御詠歌が万葉仮名で刻まれていました。次の翻字には、万葉仮名の下に現在の五十音の平仮名で表記してみました。この万葉仮名の漢字の選定にはどのような根拠がありそうなのか、ご専門の方からのご教示をお待ちしています。

190517_kahi.jpg

詠歌

 安奈多宇土 加祢乃比〻幾尒
(あなたうと かねのひゝきに)
        仁之也摩乃
       (にしやまの)
  美祢與利以都留 牟良佐伎乃久毛
 (みねよりいつる むらさきのくも)
           義  道

※「尒」の「小」は「㣺」(したごころ)

 ブラブラと瀬田の唐橋に向かうと、途中の住宅地の川で亀が泳いでいるのに出くわしました。琵琶湖からやって来たのか、飼い主から逃れて来たのか。オーィと声をかけても、泳ぐのに必死の様子でした。この亀は、平泳ぎをしていたように思います。

190517_kame.jpg

 瀬田川に出ると、瀬田の唐橋が一望のもとに見渡せました。釣り人や釣り船が見えます。

190517_seta1.jpg

 この唐橋は「せたからはし」と言うようです。「の」がないのです。

190517_karahasi1.jpg

190517_karahasi2.jpg

 この瀬田唐橋の色は唐茶色だそうです。いろいろな論争があるようなので、詳しくはネットでどうぞ。

190517_karahasi3.jpg

 唐橋の西の袂にギャラリーがありました。水彩画やハンドメイドの作品などを、お二人で展示しておられました。お話をしているうちに、大徳寺の近くの方だとわかりました。親しくお話をしながら拝見しました。大きなハマグリに草花の絵を描いたり、モンゴルへの旅を絵にしてあったりと、楽しい作品でした。中に防人の歌を書いたものがあり、その中の文字で「弖」が「弓」となっていました。それとなく弓の下に傍線がいることを伝えました。この字は、今の平仮名にない変体仮名なので、勘違いしやすい文字ですね。

 京阪の唐橋前駅からバスで石山寺のまだ南に下った南郷まで行きました。そして、南郷洗堰の先にある南郷温泉二葉屋で、日帰りの温泉に入ることにしました。ところが、フロントで入浴をお願いすると、今日は貸し切りとなっているので入れない、とのことです。ホームページにはそのことが書いてなかったと言っても、すみませんの言葉しか返ってきません。
 仕方がないので、その向かいにある南郷温泉つぼた屋に行きました。すると、準備に1時間ほどほしいとのことでした。南郷の温泉は諦めて、元来た道をバスに乗ってJR石山駅まで戻りました。このまま帰るのも心残りなので、一駅先の瀬田駅からイオンモール草津に行き、その中にある草津湯元「水春」で温泉気分を味わって来ました。

 ハプニングに見舞われながらも、最後はゆったりと天然温泉で気持ちをほぐすことができました。出かけると、いろいろなことがあるものです。それがまた楽しさでもあります。
 
 
 
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | ・ブラリと

2019年05月16日

京洛逍遥(553)業平歌パネルをあしらった空き缶入れがなくなりました

 烏丸御池の交差点から東に少し歩き、間之町通との角に、「在原業平邸跡」という石柱が建っています。

190516_narihira1.jpg

 久しぶりに立ち寄ったのは、この石柱を見るためではなくて、自動販売機のパネルに業平の和歌が折々に嵌め込まれているからです。ところが、今日はその自販機の横に業平歌がないのです。

 この前この自販機を撮影したのは、2年半ほど前の秋でした。

161128_narihira.jpg
「京洛逍遥(425)京大病院で検査と診察」(2016年11月28日)

 さらには、その1年半前の春にも写真に収めていました。

「京洛逍遥(348)京大病院の帰路に御所でお花見」(2015年03月30日)

 その前年の2014年初夏5月の写真もあります。

140516-narihira.jpg
「京洛逍遥(320)在原業平邸址碑と自動販売機のパネル」(2014年05月20日)

 この業平歌をパネルに使った空き缶入れは、いつから廃止・撤去されたのでしょうか。

 先月の連休前4月25日に、保険の手続きがあったので地下鉄烏丸御池駅の上にあるハローワーク西陣へ行きました。あの時は説明を聞くのに時間がかかったので、この石碑を見に行く余裕はありませんでした。今日は、その後の手続きに来たので、早々に終わってから、業平歌の何が掲示されているのかを確認するために立ち寄ったのです。たかが空き缶入れとはいえ、自販機の横にこうした意匠のパネルが張り出されているところに、千年以上の文化が根付いているのです。どこのどなたの判断によって撤去されたのかはわかりません。過去と今をつなぐ一つの文化が消え去ったことは、非常に残念なことです。

 ブラブラと歩いて河原町三条まで行きました。京洛は、お店の入れ替わりが激しい街です。歩くたびに、新しいお店が開店しています。古くからの老舗と、新陳代謝を繰り返す未来志向のお店が混在しているのです。その最たるものが、喫茶店とパン屋(ケーキ屋)さんでしょう。そして、私はその次に文房具屋さんがあると思っています。
 御池通から南に下がって三条通までの短い通りながら、寺町専門店会商店街はユニークなお店が並んでいます。通りに入るとすぐに本能寺があるので、間違えることはありません。

190516_teramachi-map.jpg

 その中のでも、『田丸印房 寺町店』は、創業100年という、京都では新しいとはいえ、なかなか楽しいハンコ屋さんです。

190516_gomuin1.jpg

 今日は、オリジナルスタンプ(京うふふスタンプ)を始めとして、和風の図柄を中心にして3000種類以上の品揃えの中から、こんな2つをいただきました。

190516_gomuin2.jpg

 そのすぐ下ったところにあるもう一店。それは、ちょうど1年前の2018年6月15日にオープンした文具店「TAG 寺町三条店」です。このお店は、京都に7店舗、東京に2店舗、などと全12店舗を展開しているので、ご存知の方も多いことでしょう。

190516_bungu.jpg

 今日は、万年筆のインクで気に入ったものがありました。私は悪筆にもかかわらず、万年筆は大事にしています。愛用のものは、パイロットのノック式キャップレスです。これまではスペアーインクを使っていました。しかし、今日はお店でさまざまな色のインクを見ていて、パイロットの「紫式部」という名前のものが気になりました。書いてみると、なかなかいい色なのです。ただし、現品は品切れとのことだったので、別の店から取り寄せていただくことになりました。この色については、また後日、受け取ってからにします。
 このお店のオリジナルインクシリーズの中で、「京の音」というものがあります。文具店 TAG と京都草木染研究所とのコラボレーションで生まれたボトルインクです。その中にあった「苔色」が気に入りました。どの万年筆にこの色のインクを入れるかを決めてから、またいただきに行こうと思っています。
 
 
 
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ◎京洛逍遥

2019年05月15日

京洛逍遥(552)洛陽三十三所(19)今熊野観音寺

 洛陽三十三所の第25番札所「法音院」からさらに奥にある20番「泉涌寺」に向かって参道を進みます。すると、左手に19番「今熊野観音寺」への分かれ道に出合います。

190515_imakumano1.jpg

 紅葉の中にお寺があります。

190515_imakumano2.jpg

 次の写真にある入口の右側の側道を行くと、18番「善能寺」への近道となります。これはまたこの次に書きます。この今熊野は、西国三十三所の札所でもあります。

190515_imakumano3.jpg

 本堂の下の弘法大師の立ち姿が人目を惹きます。その足元に3人の子供がいる、印象的な大きい石像です。

190515_koubou.jpg

 家族と一緒に、何度も西国三十三所巡りでここに来ています。この前は、今から8年半前です。
 「西国三十三所(14)今熊野観音寺」(2010年10月16日)
 子供たちが、この太子様の周りを回って遊んでいました。母も、このお寺が大好きでした。落ち着いた境内が、おのずと安心させたのでしょう。今、当時の写真と見比べると、お大師さまの前に立てられている説明板が、左右逆になっています。左側から本堂へ行く方が多いからでしょうか。

 書いていただいたご朱印は、次のものです。

190505_imakumano.jpg

 以下、ホームページ「洛陽三十三所観音巡礼」から今熊野観音寺の略説と地図を引きます。

御詠歌
 むかしより たつともしらぬ いまくまの
   ほとけのちかい あらたなりけり

観音寺は八二五年頃(平安時代)嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創されました。

御本尊は大師が熊野権現より授かった一寸八分の観音像を胎内仏として自ら彫刻された十一面観世音菩薩であります。

後白河上皇は、当山を深く信仰されて新那智山と号し、今熊野観音寺と称されました。

洛陽三十三所第十九番札所、厄除開運の寺として知られた特に頭痛・病気封じ・知恵授かりの霊験あらたかな本尊として広く信仰され、また西国第十五番霊場、ぼけ封じ観音第一番霊場ならびに京都七福神巡りの恵比寿神をおまつりする寺として全国から祈願の参拝者が絶えません。

当山は千二百年近きにわたって数々の歴史を秘め、新年厄除大祈願祭・京都七福神祭・彼岸会・盂蘭盆会・秋の四国霊場お砂踏法要などの伝統行事でにぎわいます。

境内は四季、山の緑が美しく、春の梅・桜、秋の紅葉は訪れる人の心をとらえて見事です。


190514_map.jpg

 今回の写真も、先週5月5日に撮影したものです。
 
 
 
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ◎京洛逍遥

2019年05月14日

京洛逍遥(551)洛陽三十三所(25)法音院

 洛陽三十三所の第21番札所である法性寺から泉涌寺に向かって参道を行くと、緑の木立に続く総門が出迎えてくれます。

190514_soumon.jpg

 あまりにも泉涌寺という名前が早く現れるので、これから行こうとする法音院の場所がどこなのか、不安になります。
 この総門を潜ってすぐ前にある泉涌寺一山案内図を見ると、25番「法音院」、19番「今熊野観音寺」、18番「善能寺」、20番「泉涌寺」がこの奥に続いて集まっていることがわかります。いずれも、泉涌寺の境内の中にあるのです。

 総門のすぐそばに法音院がありました。よく整備されています。

190514_houonin1.jpg

 入って右手に本堂があります。

190514_houonin2.jpg

 ご住職に、この札所の番号が25番で、この奥の今熊野観音寺が19番、そしてこの前にあった21番の法性寺から距離的な近さと順番が飛んでいる理由を尋ねました。それについては、昔からいろいろとお寺が入れ替わったためではないか、とのことでした。三十三観音の札所の中でも、各お寺の事情があったのでしょう。平成17年(2005)に平成洛陽三十三所観音霊場会が結成され、再興されたのが今の洛陽三十三所です。とにかく、この札所巡りが末長く続いてほしいと願うだけです。

 書いていただいたご朱印は、次のものです。

190505_houonin.jpg

 以下、ホームページ「洛陽三十三所観音巡礼」から法音院の略説と地図を引きます。

御詠歌
 おがむれば すべてのものを かのきしへ
   すくいたまふや ふくうけんさく

鎌倉時代末期にあたる嘉暦元年(一三二六)無人如導宗師によって泉涌寺山内に創建されるが室町期応仁文明の大乱により当院も兵災焼亡の憂目に会う。その後、江戸時代の初期寛文四~五年(一六六四~一六六五)幕府及び本多正貫・同夫人の支援を得、覚雲西堂師の手により現在の地に再建される。寛文の再興以来、駿州田中城主本多家の京都における菩提寺となり本多氏の当主の位牌は幕末まで当院に安置されることになる。寺内には正貫が建立した三河出身で徳川家康などに仕えた父本多正重の石碑が、正貫・同夫人及びその家臣等の墓とともに本多山より移されている。

現在の本堂は英照皇太后御大葬の御須屋を賜ったもので本尊はあらゆる人を救う羂索[投げ縄]をもつ不空羂索観音。一面三眼八臂のお姿でこの世では病なく、財宝を得、水難火難を除き、人々に敬われ慈悲の心で暮らすことができるなどの利益を得られ、死に臨んでは苦しみなく浄土に導かれるなどの利益を得るという。書院は伏見桃山城の遺構の一部であり、泉涌寺七福神の寿老人を祀る寺としても信仰を受けている。


190514_map.jpg

 今回の写真は、先週5月5日のものです。
 
 
 
posted by genjiito at 23:32| Comment(0) | ◎京洛逍遥

2019年05月13日

京洛逍遥(550)洛陽三十三所(21)法性寺

 京阪電車「東福寺」駅から線路沿いに南へ歩いて5分ほどで、目的の法性寺(ほうしょうじ)に行けます。この地域には、泉涌寺を中心として、18番「善能寺」、19番「今熊野観音寺」、20番「泉涌寺」、25番「法音院」が集まっています。まずは、駅に一番近い「法性寺」からです。

190513_horsyouji1.jpg

 門が閉まったままだったので、インターホンで朱印をお願いしました。
 しばらくして年配の女性が出てこられました。そして、朱印の用紙を手渡しすると、お待ちくださいと仰って、そのまま中に入っていかれました。お寺の中には入れないようなので、外の門で待ちました。国宝観音菩薩像も見せてもらえませんでした。お願いすれば見られたかも知れません。しかし、そのような雰囲気ではなかったので、遠慮しました。

190513_horsyouji2.jpg

 大分外で待ってから、いただいた朱印は、次のものでした。

190505_housyouji.jpg

 藤原忠平(貞信公)の創建になるお寺で、この観音様は「二十七面千手観音」とあるので、珍しいものなのでしょう。いつか機会があれば、ゆっくりと拝観することにします。

 以下、ホームページ「洛陽三十三所観音巡礼」から法性寺の略説と地図を引きます。

御詠歌
 かれきしに みのりのふねの ほうせいぢ
   じょうぢのうみを やすくわたせる

浄土宗西山禅林寺派、山号は大悲山、本尊は二十七面千手観音。

延長二年(九二四)に藤原貞信公忠平が創建した藤原家の氏寺である。以後、平安時代を通じて戦火で焼失するも、藤原家一門の加護を受けて発展し、忠平八代の末孫藤原忠通のころには、金堂、五大堂、灌頂堂、三昧堂等、百棟を数える堂塔伽藍が建てられ、京洛二十一ヶ寺の一つに数えあげられるほどの寺観と荘厳を具備した名刹であった。

以来、公卿の政権は衰えて武士が政権を行うようになり、平安の都も戦乱の火中となって、応仁の乱には、本邦無隻の壮観であった法性寺の諸伽藍も、兵火に焼け、著名の仏像も灰燼となった。其の後、再建の機運に会えず、僅に災いを免れた仏像は、小堂に収容し、久しく安置されておりました。

今の法性寺の御本尊観世音菩薩は、忠通公が四十二才の時、難病にかかり、この観音様に、御祈祷なさいますと、数日にして回復されましたので、其の後、厄除観世音菩薩と称され、永く洛陽三十三所観音霊場の第二十一番の札所として世人をお導きくださいまして現在、国宝に指定されています。


190513_map.jpg

 今回の写真は、先週5月5日のものです。
 
 
 
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ◎京洛逍遥

2019年05月12日

第8回池田亀鑑賞の選考会は岡山で

 第8回池田亀鑑賞の選考委員会が、岡山駅前にあるノートルダム清心女子大学でありました。

190512_NotreDame1.gif

190512_NotreDame4.gif

190512_NotreDame3.gif

190512_NotreDame2.gif

 午後2時から5時半まで、長時間にわたって検討を重ねた末、無事に第8回の授賞作品が選び出されました。
 そして、受賞者への条件となっている授賞式に出席して受賞講演ができることが、ご本人への連絡で確認できたことにより、正式に決定しました。

 来週早々には、授賞作と授賞者のお名前が「池田亀鑑賞のホームページ」を通して発表になります。

 今回も、すばらしい作品が選ばれました。
 数日後の公表を、楽しみにお待ちください。
 
 
 
posted by genjiito at 22:10| Comment(0) | □池田亀鑑

2019年05月11日

日比谷で源氏の橋本本(11)を読んだ後は共立女子大学へ

 日比谷図書文化館で『源氏物語』を読む講座がありました。
 始まる前に、書道家の宮川保子さんと地下のレストランで会い、ハーバード本『源氏物語』の臨模本のことで確認と打ち合わせをしました。

190511_rinmo-1.jpg

190511_rinmo-2.jpg

 宮川さんは、明後日から共立女子大学で開催される「共立女子大学図書館所蔵貴重和書展示 本の見た目を楽しむ」で、ハーバード本の臨模・複製本を展示なさいます。その前に、見てもらいたいとのことなので、展示する前に完成した臨模本を拝見しました。昨夏、ご一緒に国立歴史民俗博物館と米国ハーバード大学へ足を運び、原本の実見と調査を行なったので、そのことを踏まえての出来具合の確認でもあります。実によく出来ています。
 以下、「須磨」「蜻蛉」「鈴虫」の順に、各巻頭部分と装飾料紙に本文が書写された紙面を掲載します。

190511_suma.jpg

190511_sums-e.jpg

190511_kage.jpg

190511_kage-e.jpg

190511_suzu.jpg

190511_suzu-e.jpg

 展示の準備のために、宮川さんは共立女子大学へ、私は橋本本『源氏物語』「若紫」を読む講座のために4階の小ホールへと急ぎました。

 今日の古文書塾「てらこや」での講座は、41丁裏1行目の「八なれぬ」からです。ただし、前回(3月16日)は早く進んだためにお話し忘れていたことの確認をしました。

 41丁表7行目に「【京】古くわ多里な累尓」(京こくわたりなるに)という語句があります。これは今テキストにしている橋本本だけが持つ独自異文です。ここは、中山本が「六条わたりなるに」(「変体仮名翻字版」が未完成なので通行の翻字で引用)とあり、それ以外の15種類の写本が「六条京極わたりにて」としています。つまり、次の三種類の本文が確認できる箇所なのです。

(1)「京極わたり」(橋本本)
(2)「六条わたり」(中山本)
(3)「六条京極わたり」(諸本15本)


 私は、かねてより〈傍記・傍注〉が書写の過程で本行に混入することで異文が発生する、という仮説を提唱しています。その視点から言うと、ここは「京極」か「六条」が本行の本文の右横に書かれており、それが書き写される過程で当該語句の前か後ろに傍記の語句が混入した可能性が高い、と考えるべき用例だと思います。混入した結果が、「六条京極わたり」となるのです。
 ということは、橋本本か中山本が平安から鎌倉時代に伝わっていた本文であり、鎌倉時代以降にそれ以外の諸本のような本文が伝わった、と考えるのが自然でしょう。今読まれている大島本などは、混成後の本文と考えたらどうでしょうか。
 この一例だけでは、単なる思いつきであって、論証したことにはなりません。しかし、私がこれまでにこうした用例をいくつも取り上げて論証して来たように、こうした例を一つずつ積み重ねていくことは、今後の研究基盤を構築する上で大事なことだと思っています。

 また、今日確認した本文の41丁裏には4例の仮名文字「天(て)」があり、「弖・氐」は一例も見当たりません。この前丁の41丁表にも、5例の仮名文字「天(て)」があり、「弖・氐」は一例も見当たりません。しかし、その前後の丁では混在しています。これらは、どのような背景があっての現象なのか、気がついたら教えてください、ということも受講生のみなさまに語りかけました。

 今日は、初めてこの講座に参加する全盲の高校1年生のOさんが来ていました。『変体仮名触読字典』と『触読例文集』を横に置き、テキストを立体コピーにしたものを前にして、必死に触読に挑んでいました。彼女にとっては、まったく初めての体験です。もちろん、彼女の横では触読で大先輩の尾崎さんが手助けをしています。いつものように、土屋さんも後ろからアシストしてくださいました。
 初めての変体仮名を、しかも生まれた時から目が見えなかったOさんにとって、とんでもない世界に置かれた気持ちだったことでしょう。しかし、終わってからの感想は、これからも引き続きこの写本を読むことを続けるという、力強い言葉でした。安堵すると共に、頼もしく思いました。

 とにかく、Oさんには、触読に挑戦するという強い意志が感じられます。過日、5月1日の京都ライトハウスでの「点字付百人一首」の会で初めての出会いがあってから、無事に今日が迎えられたのです。やりたいと思う時にやってみる、ということはいいことです。Oさんはまだ高校1年生です。今は暗中模索でも、きっと一条の光を手繰り寄せて、尾崎さんのように全盲でありながらも写本に書き記された変体仮名が読めるようになることでしょう。その過程を後押ししながら、一緒に触読の道を歩いて行く気持ちを固めました。

 ダメでもともとなのです。1文字ずつ指で触って自分のものにして、知らず知らずのうちに変体仮名が読めるようになっていた、となることを願って、彼女の孤軍奮闘のお手伝いをしていきます。
 講座にお集まりの皆さまも、温かいまなざしで見守ってくださっていました。
 もっと読みたいということで、今後は尾崎さんが機会を作っては一緒に触読の勉強を手助けしてくれることになったようです。尾崎さんは、今春修士課程を無事に終え、教員免許を取得しました。今は、司書の資格を取るための勉強をしています。この二人は、お互いに刺激し合いながら、触読の技術を高めていくことでしょう。頼もしい若者二人と、これから毎月、日比谷で会うことができます。私にとっても、楽しみが増えました。

 そんなこんなで、今日は半丁分、41丁裏の最終行末まで確認しました。
 次は、42丁表の1行目からです。

 講座が終わってからは、宮川さんが臨模された写本が共立女子大学で展示の準備に入ったということなので、講座に出席なさっている十数人の受講生の方々と一緒に駆けつけました。
 きれいに飾り付けてありました。
 来週の中古文学会は共立女子大学が会場校であり、大学ご所蔵の古典籍と一緒に、このハーバード本の臨模本が展示されます。どうぞ、じっくりと見てください。そして、この本がどのようにして書写されたかというプロセスを、展示資料を通して追体験してみてください。
 紙の調達から丁子染めの吹き絵など、何から何まですべてを宮川さんがご自分でなさったのです。その製作工程の詳細は、共立女子大学の展示会場で配布される「『源氏物語』の複製本の製作過程−ハーバード本「須磨」・「蜻蛉」・歴博本「鈴虫」−」に写真付きで解説されています。ぜひ手に取ってご覧ください。写本のための料紙が用意され、その料紙に物語の本文が書写され、綴じられていく様が写真とともにわかりやすく再現されています。解説のプリントを制作された共立女子大学の岡田ひろみさん、ご苦労さまでした。わかりやすいプリントで、ありがたい資料となっています。

 この準備が進む展示会場で、30数年前にコンピュータが縁で知り合った内田保廣先生と出会うことになりました。コンピュータを活用すると、文学・語学の研究が新しい展開を見せるはずだ、という大きな夢を抱えて、研究分野は異にしてもご一緒にさまざまな活動を展開した時の先輩です。内田先生は、国文学研究資料館で私を見かけたとおっしゃいます。しかし、私の方は気付かなかったので、30年ぶりの出会いであり、懐かしくお話をする機会を得ることとなりました。元気に自分のやりたいことができていることは、本当に幸運なことなのだと実感しました。

 その後は、共立女子大学の前にある学士会館で楽しい談話会です。講座の受講生の一人であるSさんが、次回からOさんの横でアシストをしてもいいと申し出てくださいました。ありがたいことです。

 私は、明日は岡山のノートルダム清心女子大学へ行く予定があるので、早めに失礼しました。話題が尽きない仲間とのおしゃべりは、いろいろなヒントがもらえていいものです。新幹線の中では、この文章を書きながら、ゆったりとシートに身体を沈めました。これから、心地よい疲れに身を委ねることにします。
 
 
 
posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | ■講座学習

2019年05月10日

2002年春にインドで書いた未公開日記(その14/第10週)

 2002年にインドのデリー大学に客員教授として赴任していた時の、大学での様子や、インドでの日常生活をあるがままに記した日録の公開です。
 ここでは「第10週 03/10〜03/16」の出来事を扱います。すでにクラッシュしたままのホームページでも、「第8週」以降は未公開のままだった部分です。メモを元にして、適宜インドでのことを思い出しながら、再現しています。
 今回は、3月11日のメモを復元しました。

--------------------------------------

■2002.3.11■



 今朝も頭が重い。熱もなければ咳も出ない。ただ、頭がだるいのである。食後すぐに寝る。お昼前に起きて、G3さんの『チベット語・日本語・英会話』の本の校正をする。細かなミスが多い。日本語をローマ字で表記するのは限界がある。改訂版では、ぜひひらがなと簡単な漢字を使った文を添えるべきである。
 帰国の準備に入る。日本に送ってしまう本を選ぶ。といっても、持ってきた本のほとんどだが。船便だと、3ヶ月ほどかかるそうである。一包み5キログラムで300円程度だというので、気楽に送れる。20冊ほどを、送ることにした。これでスーツケースが相当軽くなる。
 オートリクシャーで、N8先生とN2君の3人でコンノートプレイスへ。まずは荷造り屋さんに荷物を頼み、ジャンパト通りへ食事に行く。目的の店は、少し迷ったがすぐに見つかった。入口は狭く、中は暗い。しかし、広い食堂になっている。
 私は、チキン・ビリヤニとラッシーを注文した。2人はマトン・ビリヤニであった。ビリヤニは、煮込んだ混ぜご飯の焼きめしだそうだ。ところが、食べてびっくり。インドに来て一番辛い料理である。ただし、大きなチキンはおいしかったので、ご飯にはほとんど手を付けず、チキンだけとラッシーを飲んだ。インドに詳しい2人とも、これは辛すぎるし、ご飯がベトベトしすぎだと言っていた。上人に紹介された店であったけれども、これはハズレであった。
 次に、ジャンパト通りにある政府系の地図の会社である「サーベイ・オブ・インディア」へ行く。狭い階段を上ると、だだっ広いところに男の人が3人、ふんぞり返っている。2人が地図のことを聞くと、面倒くさそうに対応する。3人とも横柄である。そして、不親切である。奥の地図置き場の部屋を覗くと、ここには5人の男が暇そうにしていて、中を見ていると外で待っていろと言う。これらが、インドではかの有名な、仕事をしない大勢の国家公務員の人たちであった。一つの仕事を、5人以上で分担してするのである。無駄の極地と思える。しかし、10億人もの人々が住む国では、仕事を分け与えるのも大変なのだろう。
 2人がベンガルやアイヨディアの地図を買うことになったら、受付の男が左後ろの男の所でお金を払えと言う。その男が、またゆっくりと領収書を書く。お釣りも、なかなか出ない。もらった地図を留める輪ゴムを要求すると、これはインドにしては珍しくスッと渡してくれた。しかし、これが地図を巻こうとするとすぐに切れてしまう。別のものはないかと言うと、おもむろに机の下から新聞紙を切ったものを出し、それで包み始めた。包装できるように新聞紙を適当に切ったものを用意してあるのなら、最初から包んでくれればいいのに。本当にやる気のないインドの公務員の姿を見た。ここは、日本で言えば、国土地理院にあたるところだそうだ。インドの公務員は、本当に大変な存在である。
 ジャンパト通りの土産物屋さんの中に、私が探しているタンカを置いている店が何軒かあった。その中に、まともなものを置いているところが見つかったので、少し丁寧に見た。六道の図はなかった。しかし、いいものは何枚かはあった。もっといいものを、と言うと、下から出してくる。それは、20,000ルピー以上もした。装丁をしていない絵だけでも、いいものは18,000ルピーもする。そして、それらも細部の描写はそんなに丁寧には仕上げていない。結局、ここでは買わずに帰る。
 梱包屋のおじさんにお金を払う。一つ50ルピーで二つ分。郵便局へ荷物を持って行く。あらかじめN2君が持っていっていた。なかなか順番が回ってきそうもない。窓口は4つあるのだが、係員は一人しか対応していない。カウンターには、十人以上が身を乗り出して横に広がっている。それでも、一人しか仕事をせず、他の人はみんなしゃべっているか出たり入ったりしていた。これではいつになるのかわからない。郵便局に近くて梱包をしてもらうところはここしかないので、ここに持ってきたのである。
 しかし、こんな調子では、お寺の近くのラージパットナガルの郵便局に、ここで梱包したものを持ち込んだ方がかえって早いだろう、ということになり、その郵便局を出ようとした。ところが、その時に郵便局の男の人が帰ろうとする我々を呼び止めて、どうしたのかと聞くのである。N2君がいつまで待っても埒があかないので別の郵便局に持っていくことにしたと説明すると、それではお前たちの荷物を受け付けてやろう、というのである。そして、暇そうにしていた4人の郵便切手を売る窓口にいた女性の一人に、これを処理するように言うと、その女性はニコニコしながら別のカウンターのところに持って行けといって、そこへ自分も移動した。ラッキーと思ったが、これでいいのか、とも思った。先程の列には、たくさんの人が順番を待っているのである。私たちは助かったとはいえ、不平等極まりないことである。公務員の気分によって仕事をするのは、かえって公務員不信に陥る。
 さらにおもしろいことに、昨日、N2君がカセットテープなどを送ろうとしたところ、パスポートがないとダメだと言って突き返した女性が、今、好意で私の本の発送を特別待遇でやってくれているのである。昨日はパスポートを持っていなかったN2君は、昨日はパスポートのいらない本だけを送り、今日はパスポートを持ってきてカセットを送ろうとしたところ、今日の係員はパスポートを見もしなかったという。郵便局員は、本当に気まぐれに仕事をしているとしか思えない。それも、同じ人間が、ある時は厳密に、あるときは本当に適当に処理をする。それも、今日は待っている人の順番を無視して、ニコニコしながらいいことをしているように仕事をするのである。
 我々が手続きを進めていたときに、正規の列に並んでいた一人の人が、自分のものも特別にやってくれ、と言っていたが、それは冷たく断られていた。インドに来る前に聞かされていたことではある。この国の公務員の仕事ぶりは、本当にわからない。
 パリカ・バザールでビデオCDを買う。先日行ったところではなくて、その上の階には、たくさんのDVDやビデオCDのお店が並んでいる。私は、ネルー大学のK先生が言っていた映画の名前を言ってみた。これは、N2君も正しくは何というのがわからない、と言っていたものである。ところが、驚いたことに私がメモ通りに「ハム アッケ ヘ コン」と言うと、すぐに「あるよ」と言うのである。初めて使った、ダメだろうと言われて使ったヒンディー語が、一発で通じたのである。感激の一瞬であった。その他、有名ないくつかの映画を買った。「ラブイン東京」は、3人が一枚ずつ買った。日本では手に入らないものをいろいろと物色するのは、楽しい買い物である。
 最後は、チベットのハンディクラフトのお店へ行く。今回のオートリクシャーの運転手は、昔はオートバイのレーサーかと思えるほどのコーナーワークで疾走する。年輩だが、なかなかのハンサムである。華麗なアウト・イン・アウトをこなす中で、スピードを緩めることなく道を走り抜ける。燃費のいい走りっぷりであった。
 先日は閉店後に行ったが、今日は間に合った。小綺麗なお店で、好感が持てる。品揃えもいい。タンカもいろいろとあった。見せてもらった中の一枚が気に入った。何よりも、値段が安かったのである。みんなで、チベット亡命政権を支援するためにも、と言って、いろいろと購入した。ブッダの金属製の像があった。しかし、3種類の手の意味するものがわからない。店の人に、G3さんのところへ電話をしてもらった。14日に帰ってくるとのこと。N2君は、私とG3さんの関係を説明していた。
 いろいろとみんなで買っている内に、亡命政権を助けるためにここで買い物をするということは、ダライ・ラマは日本に来なくてもいいようにすることになる、と言われて、はたと困った。しかし、とにかく今は協力しようと言うことで、たくさんのものを買った。
 帰り道は歩くことにした。ところが、長い道のりであることに暫くして気づいた。今日はこの帰り道で一気に疲れた。途中で寄り道をしながら、最後はいつものジュースを飲んで帰った。充実した一日であった。

 
 
 
posted by genjiito at 22:27| Comment(0) | ◎国際交流

2019年05月09日

2002年春にインドで書いた未公開日記(その13/第10週)

 2002年にインドのデリー大学に客員教授として赴任していた時の、大学での様子や、インドでの日常生活をあるがままに記した日録の公開です。サーバーがクラッシュしたために、読めないままとなっていた記事を、折々に再現しています。不十分なバックアップではあるものの、「デリーの土埃(A cloud of dust in DELHI)」で、その一部は読むことができます。これは、いずれすべてを復元するつもりです。

 さて、ここでは「第10週 03/10〜03/16」の出来事を扱います。すでにクラッシュしたままのホームページでも、「第8週」以降は未公開のままだった部分です。メモを元にして、適宜インドでのことを思い出しながら、再現しています。
 今回は、昨日に引き続き、3月10日のメモから復元しました。

--------------------------------------

■2002.3.10■



 お寺での朝食の時、京都から今年卒業する女子大生が来ていた。これからバナラシに行く予定だとのことで、それを上人さんたちが考え直しては、と言っていた。今、バナラシは非常に危険な状態にあり、何があってもおかしくない時なので、別のコースにしては、という趣旨である。
 明後日の12日にシバ神のお祭りがあり、街中にダシが出て大騒ぎをするそうである。無礼講の状態になるので、旅行者などは街に出られず、ホテルに閉じこもることになる。無礼講の意味がわからないということで、上人さんにどういえばいいのかと問われたので、わたしは「何でもあり」という意味です、と答えた。
 また、アイヨーディアのラーム寺院建設問題で、15日には建設賛成の人たちが集まり、実際に建設に着手するのでは、とも言われている。とにかく、最近のグジャラート州での暴動で700人以上が犠牲となっているので、この時期はどこで何があってもおかしくないというのである。そのような中を、女性が一人でこの時期に危険なところへ行くことを、事情をしっている立場からは、勧めないということである。
 この女性は、こうした情報は、まったく持っていなかった。確かに、日本にいては、インド全体のことは報道されても、さらに小さな地域のことなどは流されないので、知りようがないといえばその通りである。現地情報をいかにして入手するかは、旅するものにとっては大切である。到着して、バックパッカーたちに話を聞いても、実際に新聞やテレビなどで正確な情報を持っている人はほとんどいないのだから。問題の多い国への旅行は、なかなか難しいところがある。
 久しぶりにホームページのための文章に手を入れる。しばらく、慌ただしい日々と、体調維持のために、書くよりも体を休めることを優先してきたからでもある。
 お昼前に、N2君と女性2人でデリーの散策に出かける。今日は、シーク教の寺院と、バックパッカーたちの溜まり場であるメインバザールへ行くことにした。
 コンノートプレイスの南西にあるシーク教の寺院であるバングラ・サヒブまで、オートリクシャーで60ルピー。N2君がお尻を突き出しての4人乗りである。

 シークの寺院は大きかった。

190430_bangra1.jpg

 インフォメーションセンターで靴を預かってもらう。そして、頭を覆う布を貸してもらう。短剣を刺したおじさんが、紐を結んでくれた。インフォメーションセンターは、なかなか綺麗な応接室になっていた。

190430_bangra3.jpg

 寺院の入口には、足洗い場があり、まず足を水につける。ところが、この水が汚いのなんの。水虫がうつりそうな濁った水である。郷に入っては郷に従えで、その水に足を浸す。生ぬるい水であった。これで身体を清めたことになる?
 寺院の中には、敬虔なシークの人たちが、熱心にお祈りをしていた。3人が、据え置き型のアコーデオンのような楽器を鳴らして歌っている。

190430_bangra2.jpg

 その裏に回ると、パソコンがあった。ウインドウズらしき画面がモニタに映っている。黒いキーボードにマウス、そして外付けのハードディスクと、ものものしい装備である。音楽と歌をミキシングしているのだろうか。進行状況を管理しているのだろうか。よくわからない。

190430_bangra4.jpg

 外に出ると、大きな池があった。

190430_bangra5.jpg

 子どもたちに水浴びをさせる親が幾人もいる。しかし、その水は茶色に濁っている。大きな鯉が何匹も泳いでいるのが確認できた。しかし、水が濁っているのでよく見えない。一人のおばさんが我々に付いて来ており、いろいろとN2君に話しかけている。説明してくれているようである。池の周りを歩いているときも、なにやら話しかけてくる。N2君は適当に相手をしている。インドの人は、よくわからない。池の中では、泳いでいる子どももいた。

190430_bangra6.jpg

 日陰に、サーベルのような長い刀を抜いて見せている人がいる。シークの人たちのシンボルだそうである。おばさんは、いつしか先へ行ってしまった。インフォメーションセンターへ戻って頭を覆う布を返し、靴に履き替えていたときに、先程のおばさんが入ってきた。そういえば、最初にこのインフォメーションセンターに入ったときにいたおばさんだったのだ。親切に、我々に説明してくれていたのである。改めて、訝しい目で見たことを反省する。受付のおばさんも親切な人で、何かと話しかけてくる。調理場を見て食事をしないか、というのである。早速OKして、また靴を脱ぎ、頭に布を巻いて再度出発する。

 大広間とでもいうべき広いスペースに何列にも筵道があり、そこに一列に座って並ぶ。すると、タリーのステンレスのお盆が配られ、そこにダールが盛られる。そして、チャパティや食パンが置かれていく。まさに早業で、次々と食事が配られる。大根の漬け物ももらえる。

190430_bangra7.jpg

 一列に背中合わせで200人以上が座り、同時に4列くらいが食事をする。終わるとサッと片づけられ、また次の列ができる。効率よく列が出来ては次の列に移るという、システマチックな捌き方である。グジャラート州の震災の時などに、この手法でたくさんの難民を救ったという話が、実感としてわかる。実に実践的な給仕の方法となっている。また、隅には食べ残しをひとまとめにする人がおり、奥には、流れ作業でタリーのお盆を洗っていく。本当に見事な仕事の流れ作業となっている。

190430_bangra8.jpg

 背後の食事を作る場所も見た。大きな鉄板でチャバティを焼き、大きな鍋でダルを煮ている。大仕掛けの作業場と化しているのには驚いた。宗教的な場所での、大がかりな給食奉仕である。

190430_bangra9.jpg

190430_bangra10.jpg

 オートリクシャーでニューデリー駅のメインバザールへ行く。私は2度目なので、ゆっくりと見ることが出来た。

190430_bangra11.jpg

 日本語で話しかけてくるおじさんは、以前より圧倒的に多くなっていた。日本人の学生が増えたせいか、カモが大勢いるのだろう。多数のバックパッカーが、こうした人に騙されているのであろうか。ラーマ・クリシュナ・ミッションへ行ったら、今日はイベントのために入れないとのこと。図書館などがあり、学生にとっては重宝する場所だそうである。先日行った日本食屋さんでドリンクを飲む。N2君がK1大学の学生を呼んできた。先週来たばかりで、インドのフィールドワークをする大学院生である。まだテーマが見つかっていないらしくて、いろいろと悩んでいるところのようである。あまり押しの利くような感じの女性ではないので、焦らずにじっくりとテーマを探してほしいと願う。来たついでに、彼女が泊まっているバックパッカーご用達しというホテルを見せてもらった。200ルピーでまあまあの部屋である。ただし、窓がまったくないので、非常時には逃げられない。たくさんの部屋があった。比較的きれいだったが、リスクの多さが気になった。
 メインバザールを散策。風呂敷のような暖簾を探す。いいのがあったので、2枚買う。ニューデリー駅の前で、この前買ったものと同じ番号のナンバーダイヤルを見つけた。もっとないのかと言うと、10個近く出してきた。その内の、4個を買った。こんなに同じ番号ばかりの鍵が氾濫していては、防犯もあったものではない。
 ニューデリーの駅を散策。実際に二等のスリーパークラスの車両に乗ってみた。狭いが、思ったより綺麗だった。空港から到着するというバス停も見学。たくさんのバックパッカーを、この駅に降り立って騙されるのである。しっかりと見ておいた。
 引き返すと、なんとアンサルプラザとここくらいしかないというエスカレータに乗る。おっかなびっくりで乗る人が何人もいる。インドの人々は、まだ、このような道具に慣れていないのである。
 駅前でオートリクシャーを捕まえる。5人なので、2台に分乗する。私は、デリーに来たばかりの人と乗った。コンノートプレイスの外周を走っていて、インド門の方に左折する時に、突然左側にいたバスと衝突した。こちらのオートリクシャーは、大きな衝撃と共に右側に傾き、スーと大きくスライドした。一瞬、ひっくり返るのかと思ったが持ち直し、すぐに体勢を立て直した。オートリクシャーの運転手は大声でバスの方に叫び、車を左側に寄せて止まってからバスの運転手と激しい口論となる。車体の左後方が凹んでいる。どうしようもないので、しばらく座ったままで成り行きを見つめた。N2君たちのオートリクシャーはすでに左折して見えなくなっていた。
 結局は言い合いで終わり、まもなく発車した。三輪車の後方にぶつけられたので、ひっくり返ることは避けられたようである。危ないところであった。ひっくり返っていたら、恐らく命に関わる事故になっていたことだろう。左側から突っ込んだ形のバスの方が悪いのは明らかである。それにしても恐ろしい場面であった。以来、運転手は慎重に運転していたように思える。しばらくしてから、運転手が行き先を確認した。よくわからないままに走っていたようである。アンサルプラザへ行くことを伝えた。しかし、道をよく知らないらしい。私がその場所をよく知っていたので、どうにか誘導して到着する。マグドナルドの前での待ち合わせに成功し、高級ショッピングセンターを散策開始となる。今日は日曜日であることも手伝ってか、たくさんの人が出ていた。
 住宅展示場をまわる。300万円ほどの物件が売られていた。これなら、日本人にも手が出せる。共同で購入してみんなで使えば、有効な拠点となる。おもしろい冷やかしであった。
 今日は、天気がよかったせいもあり、非常に体力を消耗したようだ。体がだるい。日差しが強かったのだろう。帰ってから少し寝る。E1さんから、作文がメールで届いたかという確認の電話があった。
 洗濯をして、また寝る。疲れた時には、休むに限る。
 晩ご飯は焼きめしだった。なかなか美味しかった。

 
 
 
posted by genjiito at 20:00| Comment(0) | ◎国際交流

2019年05月08日

2002年春にインドで書いた未公開日記(その12/第9週)

 2002年にインドのデリー大学に客員教授として赴任していた時の、大学での様子や、インドでの日常生活をあるがままに記した日録の公開です。
 ここでは「第9週 03/03〜03/09」の出来事を扱っています。
 今回は、前回の3月8日に続く9日のメモから復元したものです。

--------------------------------------

■2002.3.9■



 やはり風邪気味。熱はない。I1先生からのメールの連絡では、日本からデリー到着時刻が変更になっていたので、N2君と相談。アグラ行きを一泊二日から日帰りで帰ることとする。朝食後、薬を飲んですぐに寝る。大事をとる。
 お昼前から、N2君の原稿を読む、自分にとって、説明がほしいところをチェックする。なかなかしっかりと文章が書けている。ただし、少し臨場感に頼りすぎか。
 お昼に、G4さんに頼んで、旅行業者にアグラ行きの予約をキャンセルする。これで、N2君と一緒に楽しい旅になりそうだ。聖地マツゥーラもたっぷり見よう。
 午後も、N2君の原稿を読む。最後まで読み切った。いい原稿だが、この内容では、やはり読者は限定されるか。もう少し説明を入れると、一般の読者も読めるのだが。
 4時過ぎに、ラージパットナガルのチベットのお店へ、タンカを買うために行くことにする。N2君を探して下に降りたところ、電話のある部屋にD大学のH1先生がいらっしゃった。道理で、N3が猫なで声で私の対応をしてくれたのだ。いろいろと監視されていると思っているN3は、この手の人は苦手のようである。ご機嫌取りをするはめになる理由がわかるだけに、こちらが気を使ってしまう。
 TさんとN2君と3人で、散歩がてら、チベットのクラフト用品屋さんを目指して行く。先日、G3さんに教えてもらったお店で、タンカを買うためである。
 まず、オモチャ屋さんで、オートリクシャーのオモチャを買う。このスタイルの乗り物は、今ではこのインドだけだということなので、記念に買った。これで二つ目。以前から探していたが、なかなか見つからなかったものである。

190430_rikisya.jpg

 チベットのクラフト用品屋さんへ行くために、途中で道を聞いたところ、説明が二つに分かれた。3人目で何とか確認がとれた。ところが、その道も、警察署の前で突然住所が変わるのである。引き返してお店の人に聞くと、そのまままっすぐ行けばいいとのこと。警察を過ぎると、川が立ちふさがっている。またそばにいた人に聞くと、この川の向こうだというので、ぐるっと川を回って、また直進する。警察のところの住所だけが別の名前になっているのは、いったいどういう事情なのか。何でもありのインドの警察のようなので、こうしたこともありなのだろう。そして、警察の前の突き当たりの川に橋がなく、フェンスしかない。仕方なしに少し北側の橋を渡ったが、どうも腑に落ちない道である。
 また、もとの通りの名前になった。しばらく歩くと、目的の店が見つかった。しかし、あいにく閉店後30分という時間だった。次にまた来ることにする。
 ラージパットナガルを散策。ソフトクリーム屋の前で、アンプを積んだオートバイでスピーカーのボリュームをいっぱいに上げて、ソフトクリームの呼び込みをしている。それも、オートバイを道の真ん中に停めている。たくさんの通行人の流れを止めていることにも頓着せずに、さかんに叫んでいる。ソフトクリーム一つは、たったの5ルピーである。日本円で十数円。これで採算がとれるのか、心配になる。
 歩き疲れたので、チキンを焼いたものを食べる。はじめてのものだった。なかなか美味しい。いつものジュース屋さんに立ち寄る。今日のは、いつものものよりもさっぱりしていた。久しぶりに、ワインとオールドモンクというラム酒を買う。
 晩ご飯は天麩羅うどん。
 回転ずしの話になった。私は、インドで始めたらいいと言った。すると、インドの人は、あのくるくる回るのを見ているうちに、いろんなものを引っ張ったり押したり取り外したりして、すぐに分解をはじめるからダメだ、ということになった。確かに、インドの人は好奇心が強い。回転寿司も、一周もしないうちに、回転する部分がガタガタになっているかもしれない、と思わせるだけのお国柄であることは認めざるをえない。
 食後、持参した近衛家旧蔵の豪華な『百人一首』のカルタ(複製)を、みんなに見てもらう。国宝はインドにあるのか、ということで議論。国宝というものは日本以外にあるのかどうかということになった。世界遺産のことなどを話した。結局、わからずじまい。
 夜、インターネットをしながら、N2君とN8先生とに、ダイラ・ラマについて教えてもらう。セブンイヤーズ・イン・チベットの映画があるとのこと。I1先生が、かつて見たとおっしゃっており、私もインドに来る前にビデオ屋さんで探したものである。DVDで見つからなかったので、見て来なかったのだ。インドと限定せずに、もう少し広くチベットのことを調べてくるのだった。インドが、こんなにチベットと深い関わりのある国だとは、思っていなかった。

 
 
 
posted by genjiito at 18:02| Comment(0) | ◎国際交流

2019年05月07日

2002年春にインドで書いた未公開日記(その11/第9週)

 2002年にインドのデリー大学に客員教授として赴任していた時の、大学での様子や、インドでの日常生活をあるがままに記した日録の公開です。サーバーがクラッシュしたために、読めないままとなっていた記事を、折々に再現しています。不十分なバックアップではあるものの、「デリーの土埃(A cloud of dust in DELHI)」で、その一部は読むことができます。これは、いずれすべてを復元するつもりです。

 さて、ここでは「第9週 03/03〜03/09」の出来事を扱っています。すでにクラッシュしたままのホームページでも、「第8週」以降は未公開のままだった部分です。メモを元にして、適宜インドでのことを思い出しながら、再現しています。
 今回は、3月4、5、6、7日のメモが見当たらないので、8日のメモから復元したものです。

--------------------------------------

■2002.3.8■



 食後、D大学のHさんにお願いして、オートリクシャーの運転手にネルー大学へ行く道を説明してもらう。運転手はわかった、という顔をして出発した。しかし、いざ大学の門に到着すると、途端にうろうろしだす。北門なのに、別のところを走る。最後には、ここで下りろというので、いやだと言った。とにかく、また引き返して北門に行くことになる。すると、何と言うことはない、最初に通った門の所に、T4先生が車で待っていてくださったのである。車で学科の校舎まで連れて行ってもらう。
 学科長室で、歓迎の花束をもらう。こうした対応がしっかりした学校のようである。数人の先生と名刺交換をする。みなさん、日本語がうまい。
 学生は、25名ほど集まっていた。2人の先生も。
 自己紹介と、国文学研究資料館の説明と、コンピュータを活用した文学研究と、インド人貿易商のモーデが持っていた伝阿仏尼筆本について話す。
 なかなかよく話についてきてくれていた。質問も出た。2時間はたっぷりとしゃべる。さらに、その後に1時間ほど、これからの文学研究に対する姿勢について話す。
 お昼は、学生食堂の外でパニールを食べる。2人の先生は、國學院大學で野村純一先生から民俗学を教わった人。もうひとりは、大阪大学でK2先生から説話を教わった人。私の知っている学校であり、知っている先生だったので、話がはずむ。帰り際に、先日のK・Sのコンサートで私たち2人が通訳をしていた、との話。先程学生たちに、あのコンサートは失礼だったと言ったばかりだったので、こちらが恐縮した。内容は、あらかじめ何も知らされていなかったようである。
 お一人がこれから国際交流基金に行くと言われたので、私も一緒にいく。I1先生の到着時間のことと、『百人一首』大会の賞品について、S2さんとの相談である。すこし休んでいたら、U先生とあった。びっくりした。偶然とは恐ろしいもので、こんな所で、という気がした。
 G4さんに、大学でいただいた花束を渡す。飾ってもらうためである。
 夕食前に、N2君が南インド料理を食べに行くという。最近、このお寺の食事がワンパターンなので、少し変化を求め出したこともある。私も一緒に行く。D大学のTさんも一緒に行く。グレーター・カイラーシュのMブロックにある、いつものカメラやさんの並びの店である。ワッフルの固いもので包んだ料理だった。今日は、私が大阪大学から学位を取得した記念にということで、ご馳走することにした。しかし、ここの料金は、大変安かった。お薦めの店である。

 
 
 
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | ◎国際交流

2019年05月06日

京洛逍遥(549)洛陽三十三所(16)仲源寺

 四条通を八坂神社の方へ向かって進み、四条大橋を渡ると新しくなった南座があります。その少し先の右手に、通りと面した洛陽三十三所第十六番札所の仲源寺が突然視界に入ります。桃山時代の唐門には、「雨奇晴好」と書かれた扁額が掲げてあります。「降るもよし、晴るるもよし」という意味だそうです。

190505_tyuugenji1.jpg

 正面の本堂に、丈六の座像の大仏、本尊の延命地蔵大菩薩が見えます。その上には、「目疾(めやみ)地蔵尊」と記された扁額と大提灯があります。

190506_meyami.jpg

 いただいた朱印は、次のものでした。

190506_syuin.jpg

 「目疾地蔵」で知られるお寺なので、目が見えない方々のためのものがないかをお尋ねすると、金色の「めやみ地蔵尊御守」を手渡してくださいました。このお守りと一緒に、「仲源寺目疾地蔵尊略縁起」を記した印刷物もいただきました。

190506_omamori.jpg

 「略縁起」の末尾に、目が見えなくなったことに関する語りが記されています。宗円妙昌が、雨止地蔵を信仰していたにもかかわらず盲目となったことを恨んでいました。ところが、夢に現れた地蔵菩薩の言うままに仲源寺の阿伽水を薬として眼を洗ったところ、たちまちに盲眼次第に快癒した、というものです。そのことから、この地蔵を目疾地蔵尊と言うようになった、という言い伝えが記してあります。大正6年に旧記を元にして記したその箇所を、画像で以下に示しておきます。

190506_meyami-engi.jpg

 以下、ホームページ「洛陽三十三所観音巡礼」から仲源寺の略説と地図を引きます。

御詠歌
 さしのべん せんじゅのみてを もろびとに
   ぎをんのまちに おわすみほとけ

『仲源寺略縁起』によれば、平安の昔、仏師の定朝が「末代衆生済度」の為、自ら護持していた聖徳太子作の地蔵菩薩を胎内に込め、三十八ケ月を経て丈六の地蔵菩薩を造りあげました。その丈六の地蔵菩薩を本尊として祀ったのが、仲源寺の開基となります。この地蔵菩薩は「雨止み地蔵」「泣き地蔵」「眼疾地蔵」と呼ばれ、広く信仰されています。

本堂前には「洛陽三十三所観音霊場」第十六番の千手観音座像をお祀りしています。像高は二四八センチメートル、平安後期の春日仏師の作といわれ、国の重要文化財であります。観音菩薩は多くの変化身を持ちますが、千手観音の腕はすべての変化身の持物を握っています。この為、他のすべての変化身の霊力、霊験を具えている観音の総体であるという説もあり、千手観音の信仰は平安後期から盛んでありました。

例えば、白川法皇が祇園女御のもとに通った時の話があります。法皇は女御と喧嘩をしましたが、千手観音の法要の一つである「千手愛敬法」を奉修したところ、両者は元の鞘に納まったといいます。夫婦や恋人で仲違いになった時、この千手観音にお願いすれぱ、男女の仲を取り持ってもらえるといわれています。


190506_map.jpg

 昨年も端午の節句の日に、洛陽三十三所に足を向けていました。今年も、期せずしてそうなりました。この偶然を、これも何かの奇縁だとおもしろく思っています。

 これまでに取り上げた洛陽三十三所は、以下の諸寺です。これ以外にすでに行ったところがいくつもあります。掲載が間に合っていません。整理でき次第に報告します。

「京洛逍遥(461)洛陽三十三所(1)六角堂頂法寺」(2017年09月04日)

「京洛逍遥(462)洛陽三十三所(2)新京極 誓願寺」(2017年09月05日)

「京洛逍遥(464)洛陽三十三所(3)護浄院 清荒神」(2017年09月11日)

「京洛逍遥(465)洛陽三十三所(4)革堂行願寺」(2017年09月19日)

「京洛逍遥(478)洛陽三十三所(5)新長谷寺(真如堂)」(2017年11月29日)

「京洛逍遙(114)洛陽三十三所(6)金戒光明寺」(2009年12月06日)
--------------------------------------
「京洛逍遙(122)洛陽三十三所(8)大蓮寺」(2010年02月26日)

「京洛逍遥(466)洛陽三十三所(9)青龍寺」(2017年09月20日)
--------------------------------------
「京洛逍遥(460)洛陽三十三所(28)壬生寺」(2017年09月03日)

「京洛逍遥(490)洛陽三十三所(29)福勝寺」(2018年05月08日)

「京洛逍遥(488)洛陽三十三所(30)椿寺 地蔵院」(2018年05月05日)

「京洛逍遙(125)洛陽三十三所(31)東向観音寺」(2010年03月01日)
--------------------------------------
「京洛逍遥(489)洛陽三十三所(33)清和院」(2018年05月07日)

 
 
 
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | ◎京洛逍遥

2019年05月05日

京洛逍遥(548)北白川のラジウム温泉「不動温泉」へ

 一昨日行った「京都北白川天然ラジウム温泉 えいせん京」の右隣にある、不動院の「不動温泉」へ行ってきました。2つの温泉を楽しむためです。
 気温は28度と、ここが山峡の地であることを忘れてしまうほどに、とにかく暑い一日でした。近場の温泉地だからこそ、こうして再訪できるのです。

190505_fudo1.jpg

190505_fudo2.jpg

 建物もお風呂も山間の湯治場という雰囲気です。

190505_fudo3.jpg

190505_fudo4.jpg

 湯船は左隣の「えいせん京」の半分ほどの広さで、3人が足を伸ばせるのがせいぜいです。お風呂からは「えいせん京」のように外が見えないので、山蔭の温泉に浸かるという山籠もりの雰囲気があります。その点、「えいせん京」は明るくきれいでこざっぱりとしていました。
 「不動温泉」の方は、まず雑魚寝のできる広間へ案内してくださいました。お茶を出してくださったり温泉の説明もありで、かまってほしくない方はこの対応は苦手かもしれません。
 「不動温泉」の休憩スペースは、座卓と座布団が置かれた広間で、何人かの方が毛布にくるまって仮眠中でした。
 それに較べて「えいせん京」は、テーブルとイスの談話室風です。これは、好みが分かれるところです。

 湧き出る温泉は同じであっても、こうして特色が異なる2軒の温泉施設が並んでいるのは、利用者としてはありがたいことです。最初に「不動温泉」に入り、次の機会に「えいせん京」に行く、というのがいいかと思います。2軒の温泉宿に立て続けに行った私は、次からは「えいせん京」に行くことになりそうです。そして、気分転換に「不動温泉」でしょうか。
 帰りには、不動堂にお参りをしました。

190505_fudo5.jpg

 一昨日と同じ時間のバスでお山を下り、京阪三条まで帰りました。
 
 
 
posted by genjiito at 23:06| Comment(0) | ◎京洛逍遥

2019年05月04日

京洛逍遥(547)何もしない日の賀茂川散歩(5月)

 毎月2日を何もしない日にしています。今月はゴールデンウィークの真っ只中なので、今日にしました。

maguro.gif

 昨秋の颱風で、賀茂川畔の半木の道に沿う桜並木が大きな被害にあい、今もその傷跡が残っています。
 倒れた木の植え替えと共に、その手当てとして棚の造り替えが始まりました。

190504_teate.jpg

 飛び石を着物姿で渡るカップルを見るのは初めてです。記念撮影のワンシーンなのでしょう。

190504_tobiishi.jpg

 飛び石を渡り切った石段の上で、記念撮影はまだ続いています。

190504_nakaragi.jpg
 
 
 
posted by genjiito at 19:15| Comment(0) | ◎京洛逍遥

2019年05月03日

京洛逍遥(546)北白川のラジウム温泉「えいせん京」

 三条から京阪バスに乗り、比叡山に向かって山道をクネクネと登りました。道が狭いので、対向車を待ちながら進みます。

190503_bus1.jpg

 やがて、比叡山頂へ行く京都バスに追いつきました。

190503_bus2.jpg

 20分ほどで着いた地蔵谷で降りると、すぐ横に「京都北白川天然ラジウム温泉えいせん京」があります。

190503_eisen1.jpg

190503_eisen2.jpg

 年度末からの疲れ切った身体を労わるために、今日も日帰りで温泉に入って来ました。

190503_eisen3.jpg

 ここの「ホームページ」には、次の説明があります。

ミネラルたっぷりの温泉


全国でもトップクラスのラジウム含有量(139.35ナノキューリー)を誇る天然温泉
 当温泉裏山中腹、花崗岩の割れ目より、数百年の昔より湧出している天然ラジウム鉱泉は、人体の内と外より軽い刺激を与えて万病をいやすといわれる種々のミネラル質を含む天然鉱泉です。

 湯気の中に溶け込んだラドンを吸い込むことによって体が内側から温められ(吸入療法)、入浴するとさらにお湯の中のミネラルが体を外側から温めるので二重の効果があります。ラドンは空気中に含まれており浴室内にこもる湯気で、体に吸収されやすくなっています。

ホルミシス効果がある本物の温泉


微量な放射線をゆっくりと浴びることは、「体内の免疫力を高めるうえで有用」と考えられています。これが、微量放射線によるホルミシス効果です。また、遠赤外線の温熱効果をもつラドンガスにより、新陳代謝が活発化されます。


 いかにも効きそうな説明です。
 隣にも温泉があり、紛らわしいためか「隣接する宗教法人不動温泉とお間違いなきようご注意ください。日本温泉協会正会員は当、北白川天然ラジウム温泉のみです。」と但し書きがあります。その「不動温泉」は、いろいろな所で紹介されています。今日は「えいせん京」にして、「不動温泉」は次の機会にしましょう。

190503_fudou.jpg

190503_fusouin2.jpg

 「えいせん京」は、小さな湯船が一つだけです。誰もいません。のんびりと温まりました。
 着いてから50分後に、三条京阪行きのバスがあります。ちょうど良い時間で温泉を楽しめました。

 比叡山へ登る自動車が、ひっきりなしに行き交います。ここに留まる車は、バス以外にはありません。いいところを見つけました。

190503_eisen4.jpg

 帰りは、東山二条で降りて、みやこめっせで開催中の古本市に立ち寄りました。他にも、さまざまなイベントがあります。

190503_ivent.jpg

 入口前では、ライブをやっていました。どなたかお名前はわかりません。元気いっぱいの歌だったので、お顔だけでも宣伝になればと思い、勝手に紹介します。

190503_song.jpg

 食事はカフェレストラン「浮舟」で。
 ガラス越しに見えるのは、『源氏物語』の石像です。みやこめっせのホームページには、次の説明があります。

源氏物語石像
(みやこめっせ正面広場西側に設置)

 京都府石材業協同組合結成30周年記念事業の一環として、石青会様より、京都市に寄贈された石像が、みやこめっせに設置されています。この石像は『源氏物語』第十二帖「須磨」の和歌をモチーフとしています。

源氏の君の和歌
「身はかくて さすらへぬとも 君があたり 去らぬ鏡の 影は離れじ」
(訳:たとえこの身は、地の果てまでさすらいの旅をつづけても、あなたの鏡の面にはわたしのおもかげがとどまって、あなたと離れはするものか)
紫の上の和歌
「別れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても なぐさめてまし」
(訳:たとえあなたと別れても、恋しいあなたのおもかげがせめて鏡に残るなら、日がな一日この鏡を飽きずに眺め暮らしましょう)
 この石像には、世界平和への願いとともに、「あなたは一人ではなく、いつもあなたのことを考え見てくれている人が傍にいますよ」というメッセージが込められています。人の温もりや相手を思いやる気持ちなどを、この石像から感じ取っていただければ幸いです。また、見る角度や天候によって変化する表情もぜひお楽しみください。


 このモニュメントを見ながら「胡麻だれうどん」をいただきました。

190503_udon.jpg

 みやこめっせの中では、日本最大級の古書市ということで、50万冊もの古本が集まっています。
 温泉浴が効いたのか吹き出る汗を拭きながら、探し求めていた本を何冊かいただいて帰りました。
 
 
 
posted by genjiito at 22:17| Comment(0) | ◎京洛逍遥

2019年05月02日

京洛逍遥(545)銭湯の「金閣寺湯」は天然温泉でした

 市バスで「金閣寺道前」で降りて南へすぐの所にある「金閣寺湯」に行ってきました。この「金閣寺道前」というバス停は、観光客がいつも長蛇の列をなしていることで有名です。今日も、50人以上の方々がバス停に並んでおられました。バス会社の方が停留所で乗車の案内や乗客の整理をなさっていました。

 そんな人混みと喧騒のバス停から100mほど下ると、「金閣寺湯」がありました。ただし、とにかく目立たないので、少し行き過ぎてから気付きました。要注意です。

190503_kinkakujiyu.jpg

 ここは銭湯に区分けされているので、温泉巡りのリストの中には入れていませんでした。しかし、2009年12月に、「銭湯 金閣寺湯」から「天然温泉 金閣寺湯」となり、銭湯から温泉に衣替えしたことがわかりました。とにかく行ってみるしかないので、タオル・石鹸・シャンプーを片手に出かけました。
 「金閣寺湯」では、天然温泉「天翔の湯」(京都市右京区西京極大門町)から天然温泉を搬送しているとのことです。「天翔の湯」は、2006年5月に地下1,000mで掘り当てた源泉を、掛け流しで浴びられる天然温泉です。京都の銭湯では初めてのものだったようです。ここにも、いつか行ってみなければならなくなりました。

 入口には、「金閣寺湯」と大書した立派な額が掲げてあります。

190503_gaku.jpg

 「金閣寺湯」は純食塩泉を運び込んでの温泉はいえ、銭湯料金(京都府公衆浴場入浴料金)の「430円」で入れます。これはお得な温泉です。汗が噴き出すほどに身体が温まりました。
 ジェット風呂や電気風呂など、いろいろとあります。ただし、天然温泉は小さな露天風呂だけとなっているので、ほかのお風呂と時間配分に注意が必要です。
 汗を拭き拭き西大路通りを立命館大学がある西側に渡り、「金閣寺湯」を振り返ると、その存在がやっと確認できるほど小さく見えます。

190503_onsen.jpg

 ここから南に下ると、すぐに洋菓子の「BAIKAL」がありました。このお店の本店は、我が家の近くにあります。京都に来る前の奈良でもよく行ったお店です。馴染みのお店に出あうと、嬉しいものです。

190503_baikal.jpg

 この少し南には、わら天神社があります。ここは、孫たちが生まれる時、二人ともに娘たちが安産祈願に行ったところです。元気に生まれ、元気に育っているので、御利益に与っている神様です。

190502_wara.jpg

 さらに南に下ると、回転寿司の「はま寿司」がありました。バスで通りかかるときに見かけるので、いつか行こうと思っていたお店です。やっと念願が叶いました。

190502_hamazusi.jpg

 ご飯が酢飯らしくないので、私としてはもの足りません。しかし、豊富なメニューが気に入りました。好きな「のどぐろ」は、何皿かいただきました。このお店は、ボックス席は長時間待たされます。しかし、カウンター席はすぐに座れました。
 金閣寺を南に下った地域は、観光というよりも気分転換の散策にいいところであることに、認識を新たにしました。二十数年前に、立命館大学に非常勤講師でお世話になっていました。文学部で情報処理の科目を担当していました。当時はなかったお店が、今は若者たちや旅行者を惹き付けています。賑わいと活気を感じました。
 
 
 
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | ◎京洛逍遥

2019年05月01日

「京都でかるたを楽しむ会」で『百人一首』

 「大阪点字付きかるたを楽しむ会」の主催で『百人一首』を楽しむ会がありました。会場は、千本北大路交差点の角にある京都ライトハウスです。

190501_lighthouse.jpg

190501_kanban.jpg

 朝10時からと早い開始時間にもかかわらず、26人が集まりました。自己紹介から、和気藹々と楽しくスタートです。
 今日は、点字もかるたも出来ない人でも『百人一首』を楽しめるように、と宇都宮からお越しの南沢さんが考案された試みの実践からです。
 来年のオリンピックイヤーに向けて、東京大会の練習という目標も示されました。

 南沢さんの新しい遊び方は次のものです。
 まず、畳一畳の短い辺の内側に座り、かるた札を置くスペースの確保です。

190501_tatami.jpg

 もっとも、その時に、京都の畳は東京よりも少し大きいことがわかりました。日ごろは意識しないものなので、意外なことに気付かされたのです。しかし、カルタは16枚半分(87cm)の空間に並べるので、そんなに問題はなさそうです。今日は初心者向けのイベントでもあるので、少し内側を自陣にすることを勧めておられました。

 練習するのは四人一首の競技なので、身体の正面には四枚を四角形に置きます。
 左奥が「1」 左手前が「2」 右奥が「3」 右手前が「4」として、札を置く位置を決めます。そして、「1、2、3、4」の号令に合わせて、その位置に手を置く練習をしました。次々と読みあげられる札を、リズミカルに取る感覚を養うものです。四枚を並べて取る四人一首のためには、これはなかなかよく考えられた練習方法になります。
 さらには、南沢さんが作られた練習用のCD-ROMを、参加者全員に配ってくださいました。これを自宅で聴いて練習を、ということです。

 引き続き、実践体験となります。
 次のように、参加者の興味と関心と実力を考えて、四グループに分かれました。

(1)四人一首
190501_naraberu.jpg

(2)個人戦
190501_kojin.jpg

(3)百枚取り
190501_100mai.jpg

(4)坊主めくり
190501_bouzu.jpg

 それぞれ、真剣な表情で取り合いです。
 一通り慣れてからは、京都小倉かるた会の三上さんが、午後の札の解説をわかりやすく、そして楽しく語ってくださいました。

 みんなで3階の一室で昼食をとってから、また1階の和室に集まり、午後の部です。

 まず、京都小倉かるた会の植山さんが読手として指導してくださり、かるたを読む練習をみんなでしました。それが終わると、いよいよ、30枚の札を使った団体戦です。1チーム3人で、一人の前には10枚を置いて始まります。

190501_jissen1.jpg

190501_jissen2.jpg

190501_jissen3.jpg

 読まれた歌の下の句が書いてある札を持ち上げることで、取ったことにするというルールです。
 それをやっていくうちに、どれをお手付きとするか? について相談です。札を上から押さえた時点ではお手付きとしない、となりました。こうしたルールを明確に決めて、みんなで共通理解を深めながら競技を進めることが、当面の大きな課題です。

 とにかく、みんなで大いに盛り上がった一日でした。
 みなさま、お疲れさまでした。

 その後、大阪からお越しの方で、変体仮名を触読してみたいという高校一年生との出会いがありました。東京の護国寺にある筑波大学附属視覚特別支援学校に通っているとのことなので、日比谷図書文化館で月に一回古写本を読んでいることや、尾崎さんがその講座に参加している話をすると、参加したいとのことです。ちょうど、今月11日(土)に古文書塾「てらこや」の講座があるので、それに参加をしてみたいとのこと。さっそく、資料等を渡して、今後の打ち合わせをしました。
 これからが楽しみな若者と一緒に、また新たなチャレンジをしてみます。折々に、その後のことをここに報告します。

 ■今日使った札は、以下の30首です。■
 9 はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
15 きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ
33 ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづごころなく はなのちるらむ
35 ひとはいさ こころもしらず ふるさとは はなぞむかしの かににほひける
61 いにしへの ならのみやこの やへざくら けふここのへに にほひぬるかな
73 たかさごの をのへのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなむ
 2 はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほすてふ あまのかぐやま
36 なつのよは まだよひながら あけぬるを くものいづこに つきやどるらむ
48 かぜをいたみ いはうつなみの おのれのみ くだけてものを おもふころかな
81 ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる
98 かぜそよぐ ならのをがはの ゆふぐれは みそぎぞなつの しるしなりける
70 さびしさに やどをたちいでて ながむれば いづこもおなじ あきのゆふぐれ
18 すみのえの きしによるなみ よるさへや ゆめのかよひぢ ひとめよくらむ
77 せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ
22 ふくからに あきのくさきの しをるれば むべやまかぜを あらしといふらむ
87 むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆふぐれ
57 めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし よはのつきかな
50 きみがため をしからざりし いのちさへ ながくもがなと おもひけるかな
67 はるのよの ゆめばかりなる たまくらに かひなくたたむ なこそをしけれ
96 はなさそふ あらしのにはの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり
 1 あきのたの かりほのいほの とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ
62 よをこめて とりのそらねは はかるとも よにあふさかの せきはゆるさじ
83 よのなかよ みちこそなけれ おもひいる やまのおくにも しかぞなくなる
93 よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのをぶねの つなでかなしも
97 こぬひとを まつほのうらの ゆふなぎに やくやもしほの みもこがれつつ
31 あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに よしののさとに ふれるしらゆき
99 ひともをし ひともうらめし あぢきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは
64 あさぼらけ うぢのかはぎり たえだえに あらはれわたる せぜのあじろぎ
76 わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ
11 わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね

 
 
 
posted by genjiito at 23:44| Comment(0) | ■視覚障害