2019年02月28日

谷崎全集読過(30)『少将滋幹の母』

 『大和物語』や『源氏物語』の注釈書を引きながら、谷崎好みの平安朝の男たちが描かれていきます。そして、50歳も年下の妻を持つ大納言藤原国経に、時の権力者である時平が目を付けるくだりから、物語がおもしろくなります。
80歳に近い国経は、若い美貌の妻に対して、満足させられなくて申し訳ない気持ちを持っていました。そこへ、時平が割って入るのです。まずは、物量を投入します。

折にふれて何とか彼とか口實を設けては、矢繼ぎ早やに使者が來るのであつた。大納言は時平に格別な考があるのだらうなどゝは疑つても見ず、たゞもう有難さと恭さで一杯であつた。誰しも老年になると、若い人からちよつとしたいたはりの言葉をかけられても、つい嬉しさが身にこたへてほろりとするものであるのに、まして生れつきおめでたい、氣の弱い國経なのである。殊に相手は甥と云つても、天下の一の人であり、昭宣公の跡を繼いで攝政にも關白にもなるべき人であるのが、さすがに骨肉の親しみを忘れず、何の取柄もない老いたる伯父に斯くまで眼をかけてくれるとは。
「やつぱり長生きはするものですね」
と、或る晩老人は、北の方のゆたかな頬に皺だらけな顔を擦りつけて云つた。
「わたしはあなたのやうな人を妻に持つて、自分の幸福はもう十分だと思つてゐましたのに、そのうへ近頃は左大臣のやうなお人から、斯やうに優しくして戴ける。……ほんたうに、人はいつどんな時にどんな好運にありつくか分らないものです」
老人は、北の方が默つてうなづいたのを自分の額で感じながら、一層つよく顔を擦り着け、兩手で項を抱きかゝへるやうにして彼女の髪を長い間愛撫した。(『谷崎潤一郎全集 第27巻』26頁)


 人間の心の中に巧みに分け入り、ずる賢さと人の良さを手玉に取った物語展開が、読む者の関心を引き込み、楽しませてくれます。
 時平が歓待されてしたたかに酔って帰ろうとする時になって、引き出物についての国経との駆け引きが見ものです。
 「物惜しみをしない証拠」として、何にも変えがたい宝物である妻を差し出せとのこと。感謝の酔狂の中で、国経は時平に最愛の妻を渡すことになるのです。恋しい妻を人に譲った自分の胸の内を、谷崎は丹念に語ります。言い訳以上に、論理的に整合性を付けようとするところに、谷崎の性格が現れています。
 このくだりには、平中に関わらせて後日談があります。それを、古今集、十訓抄、今昔物語(谷崎は集を付けない)、後撰集、世継物語、大和物語、宇治拾遺物語などの古典に記されている逸話を引いて、歴史的な伝承の重みも付け加えています。
 その平中の話も、逸話を盛り込んで楽しませてくれます。侍従の君を忘れたいばかりに、排泄物を盗みます。しかし、相手もさるもの。芳しい香りの造作物にすり替えられています。尿は丁子を煮出したもの、塊は黒方の薫物に、という話はよく知られているものです。
 時平と道真の怨霊話を間に挟んで、後半は母を慕う滋幹の物語となります。母を恋う男の子の話です。また、父の姿を凝視する息子が描かれます。月光の下、死骸が累々と積まれた中で、父が女人の前で蹲る場面は、妻を慕う国経の老残に凄みを感じます。
 滋幹は、父国経の語る不浄観について、日記に記し残していたというのです。作者は、それを基にして、父が息子に語る話を述べるのでした。難しい話になった時に、手紙や日記を使うのはよくある手法です。
 物語の最終節で滋幹は、出家した母の籠る雲母坂の一乗寺あたりに思わず知らず赴きます。山荘にいると聞いている母のことを想いながら、朽ち果てた庵や瀧の情景の中を彷徨います。このあたりの描写は、谷崎らしい情緒的で妖艶な語りとなっています。意識的に物語を盛り上げようとする作者の気持ちが籠った行文です。
 春を盛りに爛漫と咲く桜と幽遠な月光、そして瀧の落ちる音が静寂の中に響きます。そんな夢幻の夕桜の下に、尼となった母の妖精のような姿を認めます。谷崎の世界です。
 この作品は、歴史と文学のあわいを往き来しつつ、時々作者が顔を出して語っている物語となっています。堅苦しくない語り口なので、歴史物語に引きずり込まれる思いで読みました。【4】

 巻末の文章を引きます。

「もし、………ひよつとしたらあなた樣は、故中納言殿の母君ではいらつしやいませんか」
と、滋幹は吃りながら云つた。
「世にある時は仰つしやる通りの者でございましたが、………あなた樣は」
「わたくしは、………わたくしは、………故大納言の遣れ形身、滋幹でございます」
そして彼は、一度に堰が切れたやうに、
「お母さま!」
と、突然云つた。尼は大きな體の男がいきなり馳せ寄つてしがみ着いたのに、よろ/\としながら辛うじて路ばたの岩に腰をおろした。
「お母さま」
と、滋幹はもう一度云つた。彼は地上に脆いて、下から母を見上げ、彼女の膝に凭れかゝるやうな姿勢を取つた。白い帽子の奥にある母の顔は、花を透かして來る月あかりに暈されて、可愛く、小さく、圓光を背負負つてゐるやうに見えた。四十年前の春の日に、几帳のかげで抱かれた時の記憶が、今歴々と蘇生つて來、一瞬にして彼は自分が六七歳の幼童になつた氣がした。彼は夢中で母の手にある山吹の枝を拂ひ除けながら、もつと/\自分の顔を母の顔に近寄せた。そして、その墨染の袖に沁みてゐる香の匂に、遠い昔の移り香を再び想ひ起しながら、まるで甘えてゐるやうに、母の訣で涙をあまたたゝび押し拭つた。(114頁)

 
 
初出誌:『毎日新聞』昭和24年12月16日〜25年3月9日 連載(挿絵:小倉遊亀)
メモ:本作は、『細雪』が完成して1年半後であり、また本作完成後の6月から『新訳 源氏物語』の執筆開始。
 
 
 
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | □谷崎読過