2016年06月29日

谷崎全集読過(26)「ハツサン・カンの妖術」

 本作は、すでに発表した「玄奘三蔵」の副産物とでも言うべきものです。

 「谷崎全集読過(18)「魔術師」「玄奘三蔵」「詩人のわかれ」」(2013年04月18日)

 この小品「玄奘三蔵」等の3作は、大正5年12月から6年3月にかけて書かれたものです。本作の「ハツサン・カンの妖術」がそれを受けてのものであることは、本作中に「玄奘三蔵」を発表したことに言い及んでいることからもわかります。

 ハツサン・カンは、インドのカルカッタに住んでいた、有名な魔法使いです。
 出だしから英語の長文が引用されています。「玄奘三蔵」でもそうでした。初期の谷崎に見られる特徴でもあります。

 ここでは、「予がこの小説の中で、特に諸君に語りたいと思ふのは、〜」(谷崎潤一郎全集第六巻、73頁)と、読者に語りかけるスタイルをとっています。
 最後にも、「こゝまで書いて来れば、読者は恐らく、それから以後に起こった其の晩の出来事を、既に想像したであらう。」(110頁)と言います。

 作者自身が登場するところで、インドのことは次のように語られ、インドへの興味も、素直に述べています。


「あゝ、さうですか、あなたが谷崎さんですか。私はあなたの小説を讀んだ事があります。」
と、彼は云つた。聞けば宮森麻太郎氏のリプレゼンタテイヴ・テエルズ・オヴ・ジヤパンを繙いた時、巻頭に載つて居た英譯の「刺⾭」を非常に面白く讀んだので、それ以來「タニザキ」と云ふ名を覺えて居たのださうである。
「−−それで分りました。あなたは今度、何か印度の物語を書かうとして居るのでせう。此の間から印度の事を大變委しく調べて居るから、私は妙だと思つて居ました。失禮ですが、あなたは印度へいらしつた事があるのですか。」
予が「いゝえ」と答へると、彼は眼を圓くして、詰るやうな口調で云つた。「なぜ行かないのです? 此の頃は宗教家や書家が盛んに日本から出かけて行くのに、あなたはどうして行かないのです。印度を見ないで印度の物語を書く? 少し大膽過ぎますね。」
予は彼に攻撃されて、耳の附け根まで眞赤にしながら、慌てゝ苦しい辨解をした。
「私が印度の物語を書くのは、印度へ行かれない爲めなんです。かう云ふとあなたに笑はれるかも知れないが、實は印度に憧れて居ながら、いまだに漫遊の機會がないので、せめて空想の力を頼つて、印度と云ふ國を描いて見たくなつたのです。あなたの國では二十世紀の今日でも、依然として奇蹟が行はれたり、ヱダの~々が暴威を振つたりして居ると云ふぢやありませんか。さう云ふ怪しい熱帯國の、豊饒な色彩に包まれた自然の光景や人間の生活が、私には戀しくて/\堪らなくなつたのです。それで私は、あの有名な玄奘三藏を主人公にして、千年以前の時代を借りて、印度の不思議を幾分なりとも描いて見ようと思つたのです。」
「成る程、玄奘三藏はいゝ思ひ附きですね。いかにもあなたが云ふやうに、印度の不思議は二十世紀の今日でも、玄奘三藏が歩いた時代と餘り違つては居ないでせう。私の生れたパンジヤブの地方へ行けば、科學の力で道破することの出來ないやうな神秘な出來事が、未だに殆ど毎日のやうに起つて居ます。……。」(76〜77頁)


 また、次のようにインドを批判的にも語ります。


彼は口を極めて租國の人民の無氣力を罵倒し、迷信を呪咀し、社會制度を非難した。印度に立派な宗教や、文學や、藝術などが存在したのは、遠い昔の夢であつて、今ではたゝ懶惰なる邪教と蒙昧なる妖法との榮えて居る、「あなたの小読の材料にしかならない國土」だと云つたりした。(90頁)


 谷崎が語るインドは、非常に興味深いものがあるのです。これらの情報は、どのような経路で得たものなのでしょうか。調べてみるつもりです。

 なお、「此の頃神経衰弱に罹つて居る予の感覚」(79頁)とも言っています。当時の谷崎の状況がうかがわれます。

 本作は、上野の図書館で出会ったインド人との話が中心となっています。彼から受け取った名刺には、つぎのように記されていました。


府下荏原郡大森山王一二三番地、
印度人 マティラム・ミスラ(Matiram Misra )


 ミスラによるハッサン・カンの話を通して語られる宇宙論は、私には茫漠としていてよくわかりませんでした。

 この作品を書いていた時期は、谷崎が古代インドを通して須彌山思想などに並々ならぬ興味と関心を抱いていたようです。それを、ハッサン・カンという魔術師を引き合いに出して語っているのです。
 谷崎の思考には、科学的な要素が根強いことがわかります。論理的な思考回路を持っているのです。

 最後に作者は、ここでの魔法を実験したことを語ります。五感が消滅し、清浄な恍惚感だけの世界、涅槃界に入った感覚的世界を語るのです。そこは、奈良の東大寺戒壇院を想起させるものだったと言います。ついには、亡き母へと想いが至ります。
 谷崎の今後の作品の傾向を予想させる筆遣いを感じ取りました。【3】

初出誌︰『中央公論』大正6年11月
posted by genjiito at 22:02| Comment(0) | □谷崎読過