2015年10月17日

井上靖と千利休に関する講演会に参加して

 昨日は、立川市での仕事を終えた夜分に、八王子から真っ直ぐ南下して、神奈川県に隣接する町田市の親戚宅に泊まりました。

 今朝は、町田市から東進して東京を横断し、千葉県松戸市にある聖徳大学言語文化研究所主催の公開講演会に参加しました。
 テーマは「利休の死 ―芸術と政治の対立―」、講演者は、井上靖の長男である井上修一氏(井上靖記念文化財団理事長)でした。


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 内容は、「家庭人の井上靖」「作家としての井上靖」「戦国時代の茶人」「作品『利休の死』」「作品『本覚坊遺文』」について、時間をオーバーしながらも2時間にわたって優しく語ってくださいました。

 まず、井上靖の作品で利休に関するものには何があるか、ということを確認しておきます。


1.『利休の死』 昭和26年04月「オール読み物」4月特別号
2.『千利休』 昭和43年09月12,13日「毎日新聞」夕刊
3.『千利休を書きたい』 昭和47年01月10日「朝日新聞」読書面の「近況」
4.『利休と親鸞』 昭和49年「歴史と人物」(中央公論社)7月号
5.『私の中の日本人─親鸞と利休─』 昭和51年10月「波」10号
6.『去年・今年』 昭和52年元旦「朝日新聞」
7.『枯れかじけて寒き』 昭和52年07月「季刊芸術」1977年夏号
8,『本覚坊遺文』 昭和56年「群像」l,3,5,7,8月号
9,『西行と利休』 昭和56年07月04日「毎日新聞」夕刊
10,『本覚坊あれこれ』 昭和57年07月「波」7月号
11,『「本覚坊遺文」ノート』 昭和57年08号「群像」8月号
12,『利休の人間像』 昭和60年01月「淡交」新年号


 井上修一氏は、最初に「日本文学の専門家ではない。」「利休の専門家ではない。」「お茶の専門家ではない。」ということを断わってから語り出されました。
 ドイツ文学研究者である井上靖の息子から見た父井上靖について、丁寧に語ってくださってのです。

 以下、メモ風に列記します。


・『本覚坊遺文』は『群像』に隔月に発表するという、贅沢でわがままが言えた頃の作品。
 7月号ですでに結論が見えたので、翌8月号に書いて終えたようだ。

・『本覚坊遺文』を書くとき、小松茂美氏が持っていた手紙を見せてもらってから、利休を書く決心をしたようだ。「茶の湯肝要」とあるものは、今は井上靖記念室にある。

・私は父の利休関係の12編すべてを読んだが、最初の『利休の死』が一番おもしろいと思う。

・父の作品は、初期から中期が好きだ。後期は好きではない。
 谷沢永一は、初期の関西時代の短編以外は読むべきものはない、と私と一緒のことを言っている。

・映画化された作品について、
 父の作品には悪人が出てこない。善人ばかり。
 これが、松本清張の映画やドラマのように何度もリメイクされない理由。
 (2013年の市川海老蔵主演の映画「利休にたずねよ」には言及なし)

・父は、テーマとしての利休には、40代で小説を書き始めてから83歳で亡くなる数年前まで、関心を長く持っていた。

・家庭人としての井上靖
 ブランデーのお湯割りが好きだった。
 私は、母親似です。
 執筆時には、立て膝で、着物の腕を捲り上げていた。
 モンブランの万年筆を、愛用。
 河井寛次郎からもらった灰皿や湯飲みを愛用。
 同時進行でいくつもの原稿を書く。
 家に来て編集者が待っていた。
 最盛期は1日に40枚書く期間が10年近くあった。
 母が清書していた。
 お酒で紛らわしていたので、毎朝二日酔い。
 明治40年生まれだが、男尊女卑はなかった。
 頑張っている父を見て、申し訳ないという気持ちで私は勉強をした。
 阪神の吉田義男を知らない。
 山本富士子が、対談で家に来た。
 その対談の最中に、あの人の名前は何だ、と言って出てきた。
 有馬稲子も高峰秀子も、映画に出させてもらったが、名前も顔も覚えてもらえなかった、と言っていた。
 父は、自宅の住所も電話番号も知らない。
 交通機関を知らず、いつもタクシーだった。
 すべて、名刺を持ってタクシーなどに乗っていた。
 家の外のことはほとんど知らなかった。

・作家としての井上靖
 私は父の作品は一部しか読んでいない。
 『井上靖全集』を編集をした曽根博義先生は、父に会っていない。
 文学を通してだけでいい、という考えからだった。
 曽根先生は、井上靖は若い時から死を見続けて来た人だ、と言われる。
 私は30年以上も父と一緒に生活をしてきたが、私はそうは考えにくいと思う。
 宴会などで飲めや歌えやの後は、いつも死のことを考えて書いていた。
 父は、卒論を一晩で書いた。
 忙しくなると、物事に関心が向かなかった。
 仕事をするためには捨てなければいけない、といっていた。

・「利休の死」は、父が大阪時代からずっと温めていたはず。
 「利休の死」は、40代の脂ぎっていた頃の作品。

・関西を舞台にした作品は、20から30台にいたときの話。
 この時期の短編小説がおもしろい。

・父は、利休の死を、芸術家と政治家の対決ととらえていた。

 
 今日の井上修一氏の講演は、父井上靖の話に終始し、利休の死の話は最後に立ち戻って語られただけで、あまり明確ではありませんでした。
 この点は、「父を語る」のか、テーマとして設定された「利休の死を語る」のか、その比重を明確にしていただけたら、もっと聞きやすかったと思いました。
 
 なお、井上修一氏がパソコンで写真などをモニタに提示されていた時のことです。
 Windows システムのレジストレーション(?)に関するアラートが画面中央に頻繁に出て、聴衆側としては話に集中できないことがしばしばありました。これには、講演者の修一氏も困っておられ、途中でそのアラートのウインドウを一々消すのもやめてしまわれました。
 さらに、やがてパソコンがフリーズしたので、毎日新聞の辞令などをモニタへ映写することなどを諦めてしまわれました。

 この不手際は、主催者側の大失態だというべきでしょう。
 講演終了後、質問とは違う写真を取り留めもなく映されました。
 事前に用意しておられたものであり、映しながらお話をしようとされていたようです。
 こうした資料が、詳しい説明のないままに、じっくりと見られなかったことは、大変残念でした。

 最後に司会者がマイクを持たれると、会場には耳を覆うほどの大音響のハウリングが発生しました。
 また、関係者が最初から会場の前をちょろちょろされていて、目障りでした。

 講演会として人を招くおもてなしの心遣いには、大いに欠けるものがありました。
 予約も不要で、しかも無料だったので、気安く出かけられました。
 しかし、その運営にはさらなる検討をなさったほうがいいのでは、と思います。
 話に集中できないことが度重なり、気掛かりなことが多かったので、聴衆としての疲労感が相当残りました。
 折角のイベントなので、快適に参加できるようにしていただけると、講演の内容も楽しいものとして記憶に残ることでしょう。続きを読む
posted by genjiito at 21:38| Comment(0) | □井上卒読