2015年09月29日

井上靖卒読(202)『わだつみ』

 長い物語でした。『井上靖全集』の2段組みの本で604頁あります。しかし、それが未完であることもあってか、読み終わって一息つくと、意外に短く思えます。日米の歴史、地理、風俗、文化を背景に、登場人物たちが生き生きと細やかに描かれています。この続きが、ぜひとも読みたくなりました。

 私は、大きな誤解をしていました。この小説は、第二次大戦中の学徒たちの話だろうと思い込んでいたのです。『きけ わだつみのこえ 日本戰歿學生の手記』( 日本戰歿學生手記編集委員會編、東大協同組合出版部、1949年)が先入観としてあっからです。ところが、読んでみるとまったく違っていました。明治から大正にかけての、アメリカ移民に関する話だったのです。

 ドイツ人エドワード・シュネールは、明治2年(1869)に会津の農民20名を率いて北米大陸に集団で移民しました。サクラメントに開拓移民団として「ワカマツ・コロニー」を建設しています。しかし、これはわずか1年で解散という、失敗に終わったのです。

 作者はこの地を訪れ、取材や情報収集した経緯を小説の冒頭に置いています。

 主人公は七尾桑一郎。「桑」は生まれたサンフランシスコ(桑港)から取ったものです。
 明治22年生まれの桑一郎は、1歳半で伊豆の伯父の家で幼少時代を過ごします。

 生みの親に対する疎遠な感情は、作者の生まれ持ったものをそのまま書いているようです。いわば、自分の生まれ育ちを下敷きにしているのです。

 所々で、父親というものを意識する作者の視線が気になりました。何となく疎遠な存在なのは、実の父が意識下にあったからでしょうか。

 京都旅行の話が具体的に語られます。そこは、井上靖の作品に何度も出てくる場所です。
 妙心寺と南禅寺では、花大路祥子との出会いがあります。
 祥子の自宅は、下鴨神社の近くの住宅地のようです。また、桑一郎の共同事業者となるはずの針生友来の京都の実家も、下鴨神社の近くにありました。
 「賀茂神社」が後にも出て来ます。これが上なのか下なのか、そこでは判然としません。井上は、上も下も区別をしていないのです。私がその地元に住んでいるために、そんなことが気になるのでしょうか。

 年末の京都も、丹念に描かれています。八坂神社のおけら詣りなど、自分の体験と重ね合わせて楽しめました。
 左岸の賀茂川越しに見える、低い家並みの美しさを強調しているところも、どのあたりだろう、明治時代に我が家はどんな村の中にあったのだろうか、と気になります。

 自分の活動生活圏が舞台として出てくると、その地域の様子が我がことのように立ち現れます。登場人物も、自分が具体的に想像する空間を動き回り、考え事をするので、ますます作品世界が親身に感じられるようになるのです。不思議なものです。

 後に井上は『星と祭』で観音様を取り上げます。その観音様が本作で詳しく取り上げられています。
 また、奈良では、東大寺と唐招提寺のことが詳しく語られます。作者が新聞記者時代に歩き回った地域です。
 伊豆の話は、若い頃の実話かと思われます。

 日本の伝統文化を抱え込む地域として、京都、奈良、金沢、伊豆等々が舞台となります。これは井上が育った場所であり、生活した所でもあります。井上の思い入れがあるところなので、物語の背景として話の展開によく馴染んでいます。

 前半の背景に、明治40年(1907年)桑一郎19歳の4月に起こったサンフランシスコ大震災があります。桑一郎は、この翌年に渡米します。

 与謝野晶子と大塚楠緒子の反戦歌も紹介されます。明治の戦争に触れるくだりです。
 さまざまな社会情勢が語られる中で、物語は流れるように進んでいきます。

 ゆったりと始まった本作は、夢と愛を追い求める、壮大な青年の物語となっていくのです。
 その中で、桑一郎が人妻になった祥子への想いを断ち切れないことは、最後まで引きずります。
 この物語の中心に席を占める女性の一人です。

 サンフランシスコへ出帆するまでが第一部です。

 サンフランシスコで生後すぐに別れた両親と会います。ただし、その筆致は醒めています。親子の情を削ぎ落とした、人間としての対面という描写に留まります。これは、移民という立場と、幼くして捨てられた身が醸し出す雰囲気でもあります。
 このことは、桑一郎の結婚を期に、円満な関係に移行することで、読者としては救われます。

 アメリカへの「出稼人」と「移民」という表現を巡っての論争は、おもしろい要素がふんだんにあります。中でも、「日本の植民地」ということばは、井上靖らしいと思いました。別天地のことを、井上はよくこう表現するからです。

 本作の最大の功績は、日本を海外からの視点で見ることを描いたことです。
 アメリカから見た日本、という立場で語られるこの小説は、明治期の日本を再評価する上で貴重な提言をふんだんに内包しています。

 大工の六さんとやえの結婚は、写真結婚というものでした。移民と渡航という問題から、直接本人同士が会えないからです。この写真婚については、その後も日米間の問題として取り沙汰されます。

 やえがサンフランシスコに到着してからのてんやわんやの話は、吉本新喜劇を見るようです。結局は、めでたしめでたしです。井上靖の作品の特色の一つでもあります。

 移民たちが日本的な感性を忘れていく過程も、丹念にすくい上げています。
 お正月のお雑煮や、着物の着こなしなどです。
 このことは、桑一郎の結婚を通して、さらに浮き彫りとなります。

 サンフランシスコにいる桑一郎は、日本の中でも自分が育った伊豆の話を聞くと、つい涙ぐみそうになるのでした。作者井上靖は、こうして故郷への郷愁を本作の中に折々に描き込んでいます。

 水道が日本で普及することを例にして、釣瓶井戸などの日本的な庶民の生活や文化が変質していくことを憂える視点も提示しています。
 また、日本の失われ行く文化について語った後、作者の日本に対する感懐が、異国の地からの言葉として綴られていくのです。
 そして、文化の結晶としての日本の物が海外に流出していることを憂えます。

 日本の骨董・古美術品を通して、日本の素晴らしさを語り伝えようとしてもいます。
 美術雑貨商である東地商会は、急速に発展するサンフランシスコにおいて、事業も順調に伸ばして行きます。明治44年、1911年のことです。

 1915年に開催されるサンフランシスコでの万国博覧会の話は、ギラギラ輝くような筆致で語られています。心踊る話は、井上靖が大好きなネタだからでしょう。
 その中で、日系移民のアメリカにおける無力さを、井上はしっかりと書き込んでいます。目は冴えています。

 第二部は、サンフランシスコでの万国博覧会の盛況と、東地商会の活気で幕を閉じます。

 第三部は、桑一郎の郷里伊豆での育ての親である伯母のことと、陶子との結婚の話が中心です。
 その話の間間に、伊豆への郷愁が漂っています。一枚の絵に描かれた場面を思い出すように、井上の人生の懐古とでもいうべき、我が故郷への情愛が滲み出ている語り口です。
 アメリカから見た伊豆は、きれいな薄衣でくるまれています。作者が長く温めていた風景画の中で、物語は展開します。

 アメリカから見ると、今や日本の政府は移民を見捨てたのではないか、とも思われて桑一朗は愕然とします。いわゆる棄民の立場によって自分が置かれていることを自覚し出すのです。

 祥子と行った東寺の講堂のことが、丹念に詳しく語られます。井上が好きな場所のようです。
 次に、南禅寺の料亭に行きます。
 これまでには、祥子と行った場所です。ここでは、陶子と行くのです。
 とにかく、こうした京都の名所は、井上の舞台設定として、その作品によく出てきます。

 その後、東京に戻ってから、小泉陶子と結婚のことで会話を交わします。この陶子が登場してからの場面は、人を温かく見る目が感じられて気に入っています。ごく自然に、人間が相手を知ろうとし、理解して結論を引き出す姿が描き出されているのです。

 伊豆の郷里で旅館専用の釣り橋が出て来ます。私が泊まったことのある旅館の釣り橋のようです。映画『わが母の記』の撮影場所にもなった橋です。さらに、墓地にも行きました。かつて私が墓地を訪れたことを、この小説のくだりからまざまざと思い出すことができました。またまた、現実の思い出が物語を楽しむことを下支えしてくれます。

 陶子との結婚に至る話は、この物語の第三部以降の中心になっていきます。
 陶子を好意的に、印象深く描いています。結婚後にアメリカで桑一郎を支えて、さらなる展開となることが期待できます。また、女性としての魅力がふんだんに醸し出される描き方となっています。素直で純粋な女性として。いつもの井上の作品につながる女性なのです。

 骨董品を海外で大切にされることは、ハーバード本『源氏物語』のことを思い出させました。


「しかし、骨董品というものは、それの価値の判る人の手に移って、大切にされなければ遺りません。日本なら日本の骨董品の価値が判る人が多勢居るかというと、必ずしもそうでもありません。日本の骨董品は年々少くなって行きます。自然に壊れたり、失くなったりして行きます。むしろ外国に渡って、そこで大切にされている方が、日本の骨董品にとってはいいことかも知れませんね」(481頁)


 第三部の終盤は、移民の実体と、日本人とは何か、ということに移っていきます。
 作者は、この小説の核心に突入したいようです。しかし、それがまた拡散します。

 結婚式の直前に亡くなった桑一郎の育ての母である伯母の姿には、作者井上の実際の育ての親ともいうべき祖母への感謝と慰霊の念が込められていると言えるでしょう。

 本作の第三部までのテーマは、郷愁だと思います。
 そこから、ついに書かれなかった第四部を想像してみましょう。

 それは、桑一郎と陶子の両方の両親を日本で暮らせるようにする構想ではなかったか、と思われます。そして、問題の花大路(椎名)祥子との顛末も。
 陶子との板挟みの中で、桑一郎の苦悩の日々が続きます。その結果、祥子から預かった子供のことで陶子との生活が危機を迎え、最後は何とか収まってアメリカで波乱に満ちた生涯を終える、と。

 以上、勝手な想像です。

 この続きである第四部が書かれなかったことにより、読者が自由に物語を紡ぐ楽しみが残されました。
 日米の外交問題や移民のこと、そして日本の文化を再発見する楽しみなど、多くの課題が置き去りにされたまま、作者の手を離れて今に至っているのです。

 『源氏物語』の第54巻「夢浮橋」ではないにしても、この作品はこの中断のままでも立派に自立した小説となっています。井上靖らしからぬ、非常に明快な物語であり、登場人物もくっきりと描かれている、完成度の高い作品です。【5】

〘付記〙
 第三部以降が中断したままとなったことに関して、『井上靖全集』の解題から、『世界』(岩波書店)の昭和50年12月号に掲載された、第三部の最後に添えられた文章を引いておきます。


これで第三部を終ります。アメリカにおける取材その他の関係で、第四部からの執筆を、来年の秋からにしたいと思います。御諒承頂きたいと思います。


 昭和52年12月に、これまでに発表したものを部と章立てを改めて、岩波書店から3冊本として刊行されました。

 
 
初出誌:世界
備考:第一部・1966年1月号より1968年1月号
   第二部・1969年1月号より1971年2月号
   第三部・1972年10月号より1975年12月まで連載
   以降中断−岩波書店より第三部まで刊行
 
井上靖全集18:長篇11
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | □井上卒読