2015年09月28日

読書雑記(144)片桐洋一『平安文学の本文は動く』

 『平安文学の本文は動く ─写本の書誌学序説─』(片桐洋一、和泉選書178、2015.6、和泉書院)を読みました。本書は、170頁ほどのコンパクトな本です。しかし、私は2度も読み直しをしました。古典が好きな方はもとより、異本と異文の発生について、そして写本と印刷本の違いに興味がある方に、広くお薦めできる本です。


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 とにかく、丁寧に、優しく、わかりやすさをモットーにして語られています。
 出版社の広報誌である『いずみ通信 no.41』(2015-7)に、著者は次の文章を寄せておられます。


拙著『平安文学の本文は動く─写本の書誌学序説─』(本誌47頁)に書いたように、少々の変化はあっても、我々日本人が、およそ千年余もの間、変らない言葉で読める古典を持ち続けていたというのは、まさに奇跡というほかない。この奇跡を子孫に伝えることが、我々の責務であるという気持で、古典を読み解き、古典を教えている自分の人生は、やはりすばらしかった、楽しかったと、あらためて思うのである。


 この、次世代に古典のすばらしさを伝え残したいという思いと、そこに書かれている本文は一様ではない、ということを熱っぽく語っておられるのです。

 本書が一般の読者を意識したものであることは、次の例からもわかります。


 古典文学研究者でも地道に伝本研究をしている人しか興味を感じないようなデータを並べてしまったが、一般の読者でも、俊成の若き日の書写にかかる御家切の本文が、俊成が四十八歳で書写した永暦二年本よりも、七十入歳のときに書写した建久二年本に一致する場合が多いことに気づいていただけると思う。つまり永暦本と建久本の本文の違いは、年とともにデータや解釈が変わって行ったというような違いではなく、その時々において崇徳院御本を採るか、基俊本を採るかという判断によって出来上がったものであることが知られるのである。(92頁)


 本書では、『古今和歌集』や『伊勢物語』を例にして、その写本のありようと、そこに書写されている本文を丹念に見つめます。本文の系統や本文異同はもとより、注記や奥書にも目を配りながら、書写伝流してきた古典文学の実態が炙り出されます。

 書誌学と享受史に対する著者の考察過程が、論文ではなくて物語として記されているのです。
 これを2度目に通読した時には、『源氏物語』の場合に置き換えながら楽しく読み進みました。

 古典籍を愛おしむように語っています。あたかも原典が現前するかのように説明がなされていきます。長年の研究という下地から生まれる、本文が書かれ、そして読まれてきた歴史の解き語りです。
 古典文学の本文が成立する過程を、このように解説されると、一般の方も日本の古典文学が生まれ育った実態が感得できます。

 紹介される例や用語は専門的です。
 また、研究史が筆者の中で消化された上で語られていくので、これまでの成果や到達点が門外漢には見えません。
 しかし、そこは、筆者の語り口に身を委ねていけばいいのです。

 本書の副題にある「写本の書誌学序説」の意図は、みごとに達成された一書だと言えます。

 この本を手にし書名を見ると、何やら堅苦しそうです。しかし、読み進めると古典に親近感を抱くようになる、魅力溢れる一書となっています。
 多くの方に紹介できる、読みやすい、わかりやすい入門書ができたのです。

 特に私は、「V 藤原定家の古典書写」の章は、説明が具体的で丁寧なので、非常にわかりやすいと思いました。

 本書を読み進む中で、私が印をつけた箇所を抜き出しておきます。


・「読者の思い入れによる書き込みが本文かしたのではなかったかと思うのである。(中略)
 そのような書き込みを排除しようとする読者もいたということを示している。」(32頁)
 
・「とにかくわたくしがここで言いたいことは、享受者すなわち読者が、制作者すなわち作者の立場に立って本文を補い、作品世界をさらに拡大深化させようとすることが平安時代にはそれほど珍しいことではなかったということであるが、これも媒体が写本であったということと深くかかわっていると思われるのである。」(47頁)
 
・「『伊勢物語』における章段末尾の書き加えの場合になると、成立階段というべきか享受階段と言うべきか迷うのである。つまり書き加えられた部分をも、その時点において完成した作品の文章と見るか、書き加えられた部分は不純な本文で余分のものであると見るかによって、作品成立の過程と見るか、一つの享受の反映と見るか、判断が異なってくるからである。要するに、写本時代においては、写本における本文の異同を成立段階のものと見るか、享受段階のものと見るかは決定し難いということだが、それでも、前章で述べた冷泉家時雨亭文庫所蔵の唐草装飾本『素性集』の詞書や、元永本『古今集』の詞書に見られる本文異同の場合は、作品の成立の過程というよりもある読者の享受の反映という感じが強いことも確かである。」(48頁)
 
・「結論的に言えば、平安時代には作品が生きていた、生きていたから動いたのであり、動いていたから本文の異同が多かったと考えられるのである。作者が改訂版として新写本を書いても、既に広まっている旧写本を廃棄できない。新写本と旧写本、この両者の本文の違いが異本を作るのであるが、読者の方も、興に乗れば、第二、第三の作者と成り代わって筆を加えてゆくのである。そして、享受による異本が生まれるのである。
 しかし、古典籍が研究対象になって、研究者による本文研究が進んでくると、研究者はその作品の原初的な本文を復原しようとする。そして、それが唯一無二の「原本」であると思い込む。原本は唯一で、それが時代とともに書写されてゆくうちに、誤写や意改が生じ、いわゆる末流の本文になってゆく……というのが、かつての本文研究の基盤にあった認識である。しかし、それでは、前述したような、平安時代や鎌倉時代書写の本が残っている作品ほど本文異同が多いという現象を説明できないのではないか。
 作者自身が改訂本や増訂本を書くと、もはや原本は一つではない。あちらこちらで新しい享受本文ができてしまえば、どうなるのか。現在残っている写本は、まさに氷山の一角である。すぐれた作品であればあるほど、あちらこちらで享受本文が作られるために、異本が多くなるのである。異本異文は文学作品を楽しむ心から生まれた。写本時代の、生きた文学研究・本文研究を目指せば、異本異文の研究の持つ楽しみを追体験する姿勢を深めなければならぬと思うのであるが、如何であろうか。」(56〜57頁)
 
・「定家本などの通行本は、それらの問題歌を削除した、整えられた本文になり切っていたのではないかと思ったのである。」(141頁)
 
・「池田亀鑑博士の『古典の批判的処置に関する研究』に代表される従来の伝本研究、本文研究の方法では及び得ない本文の世界がそこにあると思わざるを得なかった。諸本を比較検討して不純な本文を削除して行くことによって、純粋な原本にたどり着くという池田博士の「本文研究」の方法だけでは永遠に『後撰集』の本文の実態を解明できないのではないかと思われるに到ったのである。」(141〜142頁)


 古典の原本は1つだけではない、という物の見方は、終始一貫しています。
 大いに学ぶべき、心に刻み込んでおくべきことばです。

 最後に、本書の目次をあげます。
 この見出しに目を通すだけで、さまざまな刺激が問題意識を呼び覚ましてくれます。


    T 享受本文の生成
 一、我々は藤原定家校訂本を読んでいる
 二、『更級日記』の場合
 三、文学作品はオーダーメードで一点だけ作られる
 四、草稿本と清書本
 五、既発表の巻を改稿して新しい巻を作る―『うつほ物語』の場合―
 六、後人による補筆
 七、読者の書き込みと書き込み排除
 八、享受本文の成立
 九、成立と享受の連続性
 十、成立段階の本文生成と享受段階の本文生成

    U 研究本文の生成―『古今和歌集』を例として―
 一、伝承から実証へ
 二、写本の中に情報を詰め込む―清輔本の方法―
 三、俊成の『古今和歌集』本文―清輔との違い―
 四、俊成本『古今和歌集』の諸相

    III 藤原定家の古典書写
 一、藤原定家の『古今和歌集』書写
 二、嘉禄二年本『古今和歌集』の擦り消し訂正
 三、初期の定家本『古今和歌集』を見る―建保五年本―
 四、たくさんあった定家手沢本私家集
 五、「村雲切」から『定家本貫之集』へ
 六、伝西行筆『一条摂政御集』をめぐって

まとめ 平安時代における本文の享受と成立
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ■読書雑記