2015年09月11日

読書雑記(143)【復元】『坂の上の雲』ところどころ(その2)

 昨日の続きです。
 現在取り組んでいるテーマと関連する情報で、過去にサーバーがクラッシュした際、僅かに残ったファイルの残骸の中から見つかったものを復元しておきます。
 後日の参考情報となるように、いつでもアクセスできる状態にしての復元です。
 昨日と今日の2回にわけてのアップです。
 ここで、英国・韓国・インド・ポーランドを取り上げているのは、私が行った国の中でも、いろいろと話題にしたいことが多い国だからです。
 文中に2枚の写真を引用しています。これは、その後、『日本文学研究ジャーナル 第1号』(伊井春樹編、国文学研究資料館、145頁、2007年3月)に掲載しました。末松謙澄を紹介する写真として、関係者である玉江彦太郎氏(著書『若き日の末松謙澄-在英通信』海鳥社、1992年1月)及び土居善胤氏より掲載にあたっての了解をいただいたものです。
 
(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年6月12日公開分
 
副題「末松謙澄と韓国とインドとポーランド」
 
 『坂の上の雲』を読みながら気になってチェックしたところを、自分のための備忘録として記しておきます。これだけの長編を再読することは、もうないだろうと思われるからです。

◆末松謙澄に関すること
 まず、第3次伊藤博文内閣(明治31(1898)年)の頃のことです。


小村は芝公園にある末松謙澄の私邸に伊藤博文をたずねた。伊藤はこの時期、首相官邸に入るまでのあいだ、この女婿の邸に仮寓していたのである。(2巻279頁)


 末松謙澄は若い頃に、英国へは一等書記官として赴任し、同時にケンブリッジ大学で勉強していました。そして、『源氏物語』の英訳をします。『源氏物語』が初めて外国語に翻訳されたことになります。もちろん、『源氏物語』にあまり興味のなかった司馬氏は、このことには深く立ち入りません。

 この間の経緯については、『破天荒〈明治留学生〉列伝 大英帝国に学んだ人々』(小山騰、選書メチエ、1999年)などが参考になります。時代背景と、日本人の動きが活写されています。
 小山氏は、ケンブリッジ大学へ行くたびに、いつもお世話になる方です。明治期の日本人の動きを、よく調べておられます。お話を伺うたびに、その無限の探求心に学ぶことの多い図書館司書の先達です。

 英国での末松謙澄の様子がわかる写真を紹介しましょう。これは、西日本シティ銀行のホームページ(http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/kitakyushu/009/01.html)より引きました。


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 この末松謙澄の写真のキャプションには、次のように記されています。
「英国公使館の庭で(明治11年4月〜12年6月の間)。上野景範公使(前列中央)。富田鉄之助(後の日銀総裁、前列右端)末松謙澄(後列右端)。」


 『坂の上の雲』に戻ります。
 次は、奉天会戦のときのことです。外交官としての末松謙澄が出て来ます。
 引用が長く、たま改行箇所が煩わしいのですが、一応書かれているままに引いておきます。


 日本は、外相小村寿太郎を指揮者としてうごいている正規の外交機関のほかに、元老の伊藤博文の手もとから派遣した陰の舞台演出家ももっていた。
 米国へは金子堅太郎がゆき、英国へは末松謙澄が行っていた。(中略)この金子堅太郎の派遣と活動は成功した。
 ただし、英国へ行った末松謙澄の場合は、成功といえるような結果はえられなかったといっていい。
 末松は、幕末における長州藩の革命史である「防長回天史」の著者として知られている。
 明治型のはばのひろい教養人で、文学博士と法学博士のふたつの学位をもっている。かれは「源氏物語」を英訳してはじめて日本の古典文学を海外に紹介したことでも知られ、さらには新聞記者時代に多くの名文章を書き、つづいて官界に転じ、伊藤博文に見こまれてその娘むこになり、つづいて衆議院に出、のち逓信大臣や内務大臣にも任じたといういわば一筋縄ではとらえがたい生涯をもっているが、外交をやる上での最大の欠点はその容姿が貧相すぎることであった。
 さらにはこの小男が説くところが誇大すぎるという印象を英国の指導層や大衆にあたえた。末松は、
「昇る旭日」
といったほうの日本宣伝をぶってまわった。不幸なことに英国人は日本が「昇る旭日」のごとく成長することを好まなかった。末松はその講演速記を本にして刊行した。無邪気で楽天的な明治男子の文章であり、元来、日本国家が末松が説くほど栄光にみちた過去をもち、またいかに将来への希望にみちた国であろうとも、英国人には関係のないことであった。英国人はかれの無邪気さを冷笑し、ほとんど黙殺した。
 英国担当の末松謙澄は、米国担当の金子堅太郎とはちがい、政府そのものにはたらきかける必要はなかった。(7巻202頁)
 
・末松謙澄が、いかに「源氏物語」からローマ法にいたるまでのひろい教養のもちぬしであったとはいえ、かれが「昇る旭日」式のお国自慢をかかげて英国の社交界を駆けまわったことは、こういう英国人の気分のなかでは滑稽以外の何者でもなかった。(7巻205頁)


 末松謙澄の容貌のことに言及されているので、参考までに、ウエブ上の「行橋市ホームページ」(http://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/areamap/u1/suematsu/top.htm)にあった末松謙澄の写真を紹介します。


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 この記事にある写真などを転載する際の手続きがどうなっているのか、どなたか教えてください。出典明示だけでいいのでしょうか。

 なお、司馬遼太郎氏は、この末松謙澄という男にはあまり魅力を感じなかったようです。紹介程度に留まっているのが、私としては残念です。『坂の上の雲』では重要な人物ではないのかもしれませんが、日露戦争と英国との関係でもう少し触れてもよかったのでは、と思うのですが……。
 今は、テーマがズレるから、ということにしておきましょう。
 
◆日本と韓国について
 これは、司馬氏の『街道をゆく 2 韓のくに紀行』と共に取り上げたいことですが、今は『坂の上の雲』に書かれた範囲でのことばを引くに留めておきます。


・日本人の猿まねについては、最初にはげしく軽蔑したのはヨーロッパでなく、隣国の韓国であった。(後略)(1巻263頁)
 
・ここで数行のべねばはらないが、朝鮮は日本の植民地ではない。(後略)(3巻67頁)

 
◆インドのこと
 司馬氏のインドに対する視点は、再評価すべきもののように思われます。これも、今は引用だけにしておきます。


・筆者は太平洋戦争の開戦へいたる日本の政治的指導層の愚劣さをいささかでもゆるす気になれないのだが、それにしても東京裁判においてインド代表の判事パル氏がいったように、アメリカ人があそこまで日本を締めあげ、窮地においこんでしまえば、武器なき小国といえども起ちあがったであろうといった言葉は、歴史に対するふかい英智と洞察力がこめられているとおもっている。アメリカのこの時期のむごさは(後略)(3巻179頁)

・ヨーロッパの場合、(中略)人間を無能と有能に色濃くわけてその価値をきめるという考え方に馴れていた。そうでない極端な社会の例が、インドであろう。インドとその文明には人間をそのようにして分類するという考え方にが、まったくといっていいほど欠落していた。(4巻185頁)

 
◆ポーランドのこと
 私の身近なところでは、4人のポーランドからの留学生が仕事を手伝ってくれています。日本とポーランドの間には、かつてこのようなつながりがあったことを、恥ずかしながら初めて知ったので、ここに書き留めておきます。


・ポーランドの農民がどんどん徴兵されて豚のように貨車にほうりこまれ、そのままシベリア鉄道で送られつつあるという。
「開戦当初、クロパトキン将軍の指揮刀の下で銃をとらされている兵士の一五パーセントはロシア人じゃない、ポーランド人だ」(中略)「その後、徴兵はどんどん進んで、いまは三〇パーセントまでがポーランド人である」と、いった。
「憎むべきロシアのためにポーランド人が戦場で忠誠をつくさねばならぬというバカなことがあるであろうか。さらにはなんの怨恨もない日本兵をポーランド人が殺さねばならぬ理由も義務もない。あるいはまた、われわれが友愛の対象として感じている日本兵の銃剣によって可憐なポーランド人の若者が殺されている。このようなことがあってよいであろうか。(6巻169頁)


 なお、『坂の上の雲』の詳細なあらすじが、以下のウエブサイトに掲載されています。お急ぎの方は、これを読まれてもいいかもしれません。

http://www9.ocn.ne.jp/~smatsu/J/2miraikousou/report/01sakanoue/01.htm

 私も少し読みましたが、よく内容を拾っているようです。これは、松下産業の社長さんの読書日記とでもいうものです。ここでの「総括」は、いつかじっくりと読もうと思っています。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 22:52| Comment(0) | ◎源氏物語