2015年05月29日

読書雑記(132)藤野高明著『未来につなぐいのち』と出会って

 明日から、札幌で開催される「日本盲教育史研究会 第3回ミニ研修会(in札幌)」に参加します。
 明後日のオプショナルツアーでは、今年が生誕100年となる日本点字図書館の創立者である本間一夫先生の生家を訪ねることになっています。

 出発の準備をしていたときのことです。たまたま書棚にあった本を手にして目次を見ていたら、「文化の泉 守った人 本間一夫先生との出会い」とあるのです。何と、こんな偶然があるのです。
 これはこれはと、大急ぎでこの節から読みました。本間先生が2003年8月にお亡くなりになったのを受けて、『視覚障害』(188号、2003年11月)に発表された文章でした。

 著者である藤野高明氏の略歴を紹介します。
 唇で点字を読み、不自由な両腕で点字が打てるようになってからは、夢と希望を実現するために広汎な活動を展開されます。


昭和21年 不発弾爆発により両眼失明、両手首切断
昭和46年 日本大学卒業 教員資格取得
昭和48年〜平成14年 大阪市立盲学校教諭
昭和59年〜平成15年 大阪府立大学非常勤講師
平成9年〜平成13年 全日本視覚障害者協議会 会長


 本間先生のことは、今回の札幌行きまでは、まったく知りませんでした。
 偶然とはいえ、この本『未来につなぐいのち』(藤野高明、クリエイツかもがわ、2007.06)に出て来る本間先生の生家に、明後日行くのです。これも縁なのでしょう。


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 本書の目次は以下の通りです。


第1章 私の原点−不発弾に奪われた手と光
第2章 『あの夏の朝から』その後
第3章 平和への願い
第4章 生きる力、学ぶ喜び
第5章 バリアフリーを求めて
第6章 全日本視覚障害者協議会とともに
第7章 生き方を学ぶ


 本間先生の紹介は明後日の記事にまとめることとして、本書で私がチェックした箇所を引きます。

 まず、舌で点字を読むことが記されており、文字を読むことの意義を考えてしまいました。


スクーリングで上京するたび、真夏の日本点字図書館を訪ねました。「これはまだ新しいから藤野さんが唇で読まれても大丈夫ですよ」と言って、できたばかりの日本史の参考書十数冊を合宿中のホテル宛に送っていただいたこともありました。(150頁)


 また、点字を触読する速さについて、参考になる情報もあります。


 点字の触読にはかなりの個人差があり、私のまわりの速い人では、森泰雄さんや緒方淳子さんなどは、一時間に九〇ページは普通に読めるようです。私は唇で読みますから、そういう「スプリンター」のような人を羨ましく思いますが、それでも時速二〇〜三〇ページで読んでも、点字本を熟読含味する喜びはまた格別のものがあります。(156頁)


 なお、私が高田馬場にある日本点字図書館に行ったのは、去年の夏でした。知りたいことがありすぎて、とにかくお話を伺うために足を向けました。今回の旅の後に、また行くことになるはずです。

「江戸漫歩(82)高田馬場の「日本点字図書館」へ」(2014年06月20日)

 さて、本書にはさまざまなことが語られています。自身の障害に留まらず、教育・社会・政治・仲間のことなどなど、実に多岐にわたる話題が展開します。
 その中から、私がチェックした箇所をあげます。


・「父や母も何度か盲学校への入学をお願いに行きました。しかし、両手がないことを言うと、点字が読めない、按摩、鍼灸ができないとの理由で、全く問題にもしてもらえませんでした。
 小学二年といえば七歳です。それから二十歳まで約一三年間、わたしは不就学の状態に捨ておかれました。日にちにすれば四千数百日です。その日々の明け暮れは、本人と家族にとって、いかに長く展望のみえない毎日であったか、今思い出しても残念でなりません。当時は「就学免除」という、こちらが決して望まない形で不就学が行政の都合で正当化されたのです。」(14頁)
 
・「わたしが点字の触読に挑戦するきっかけになったのは、入院先の病院の看護婦さんに読んでもらった北條民雄の『いのちの初夜』でした。北條民雄自身、ハンセン病を病み、幾つかの作品を成した人ですが、重症のハンセン病患者の中には、視力と同時に手指をなくし、そのために唇や舌先を使って点字を読む人がいることを知るに及びました。わたしは、そのような壮絶な事実をなかなか信じることができませんでした。しかし、やがてひょっとすると、このわたしも、それなら唇で点字が読めるようになるかも知れないと考えるようになりました。」(16頁)
 
・「わたしは、非常勤講師としての採用を受けることにしました。わたしは、どんな形でもいいから早く教壇に立ちたいと思いました。本採用というホームベースに達するためには、たとえ振り逃げでもデツドボールでも何でもいいから、一塁ベースに出たいと思いました。そして出た以上は最善を尽くして働きたいと考えました。授業を受ける生徒たちにとっては、教師が本採用であろうと、非常勤講師であろうと、そんなことはなんの関係もないと思ったからです。」(22頁)
 
・「省みると、一面不幸な五〇年でした。重い障害、しかも二つの障害を併せ持って生きることなど、言うまでもなく、無い方がいいに決まっています。全盲でさらに両手がないという障害は、僕の「個性」でしょうか。僕は絶対にそうは思いません。それは苦悩であり、ハンディキャップ以外の何物でもありません。「次に生まれてくる時は、障害者になりたい」と望む人がいるでしょうか。僕たちが本当に言いたいのは、どんな障害があっても誇りと生きがいを持って学び働き、普通の人間関係が自然に成立する、そんな社会を作りたいということです。」(28頁)
 
・「私は一九歳の時、数冊の本によって長島愛生園の人たちと出会いました。そして彼らのように唇で点字を触読することを決心し、文字の世界を獲得しました。「文字の獲得は自由の獲得であった」と本当にそう感じたことを、まるで昨日のことのような鮮やかさでおぼえています。」(44頁)
 
・「この私に片方の目をあげてもいいと私の母と同じことを言ってくれたあなたは、看護婦さんだったのでしょうか。本当にありがとう! いつの日かそんな夢のようなことが実現したら、私は岡山の夕映えの空と、そして野原に咲いた小さなスミレの花を一番に見たいと思います。」(46頁)
 
・「戦争は私たち障害者にとって二つのかかわり方をします。
 一、戦争は何よりも大量の障害者をつくります。
 二、戦争は障害者を阻害し、切り捨てて顧みません。」(48頁)
 
・「障害を受け入れて生きるのは、それほどたやすくはない。私はうつうつと、よく思った。たとえ片方の目でも手でもいいから、残っていたらどんなにいいだろうと。また、このような不幸をもたらしたものに対するふつふつたる怒りを抱きながら生きてきた。その意味でずっと日本の戦後史をひきずりつつ歩いてきたと思う。」(54頁)
 
・「(平和の四条件として)
 第四は、人間が作り出した優れた文化遺産を共有し、新たな文化創造に参加できることだ。」(56頁)
 
・「「落ちる」という体験はぼくたちの仲間の多くが味わっている。全盲者が一人歩きしていて一番こわいのがホームからの転落である。ぼくも三度、このいまわしい洗礼をうけた。(中略)
 ぼくたちがホームから落ちるとき、その瞬時に心をよぎるものはなんとも説明しがたい、みじめさである。仲間にも自分にもくりかえさせたくない、危険で忌まわしい体験である。」(102〜104頁)


 本書は、『点字民報』などに掲載された文章を集めて編集したものです。
 「あとがき」にも、次のように書かれています。


本書は『あの夏の朝から』を出し、早や三〇年近くたった今、その間に、各種出版物に発表してきた原稿のうちから、いくつかを選び、編集したものです。その際、読みやすくするため、加筆修正を行いました。(203頁)


 そのためもあって、同じ話が何度も出てきます。
 このことに関しては、さらにもう一手間でいいので、プロの編集の手が入っていたら、さらにいい本になったことでしょう。同じ話柄の繰り返しは、感動と印象が薄れます。

 これは、出版社側に編集という仕事の重要性に関する認識があれば、当然避けられたことです。
 今、出版の手法が容易になりました。編集から校正を経て印刷して刊行するプロセスが、一大変革を成し遂げました。コンピュータの導入によるものです。そのために、出版社は何をするのかが不明瞭になりました。編集についても、執筆者に安易に依存する傾向があり、刊行された書籍にプロとしての編集者の姿が見えなくなりました。

 どの分野でも、プロフェッショナルは必要です。
 すばらしい内容の本と出会えただけに、この点が気になりながら、本書を閉じることとなりました。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | ■読書雑記