2013年12月12日

読書雑記(86)平子義雄『翻訳の原理―異文化をどう訳すか』

 最近、『源氏物語』の翻訳について、関連する情報を整理しています。

 先月、オランダ語訳『源氏物語』が刊行されました。
 オランダの書店に注文したところ、あいにく在庫がないとのことで、1〜8週間待ってほしいとのことです。
 電子ブック版はすぐに入手できます。しかし、私は書籍というモノに拘ります。
 1〜8という長さが、まさに異文化の感覚であり、理解しがたいものです。が、とにかく、待つしかないようです。

 そんな中で、平子義雄著『翻訳の原理―異文化をどう訳すか』(1999年3月、大修館書店)を読みました。翻訳論の入門書とのことです。しかし、この手の本は初めて読む私にとって、言語学や論理学や文化学の本を読んでいるつもりになりました。まさに、翻訳という営為を通して知る、異文化コミュニケーションの実地体験とでもいうべきことが楽しめます。おもしろい本です。

131212_honyaku




 以下の構成となっています。


第1章 翻訳者の地位
     −翻訳者はただの「仲介人」ではない
第2章 翻訳の原理
     −翻訳とは辞書をひく作業ではない
第3章 異文化コミュニケーションとしての翻訳(1)
     −異なる分節体系どうしのやりとり
第4章 異文化コミュニケーションとしての翻訳(2)
     −日本語「文」と英語「センテンス」とのやりとり
第5章 実践への応用
     −統辞構造の違いを知り、翻訳に生かす
第6章 テクストの種類
     −日常会話は専門語より訳しやすいか


 まずわかったことは、翻訳者は原典を解釈し、それを訳文として表現する人だ、ということです。この定義は明確です。

 私は、この本を、翻訳された『源氏物語』を日本語に訳し戻す、という現在直面している問題意識で読みました。今は、31種類もの言語で翻訳されている『源氏物語』を対象として、その翻訳によって日本文化がどのように変容して伝えられているか、という命題を考える資料を作成したいのです。そのためには、均質な条件で訳し戻した日本語訳でないと、研究対象とはなりません。まさに、翻訳というものに直面しています。

 著者は、次のように言います。


◆翻訳方便論と翻訳文学論
 いわゆる「流暢な訳」は、日本語として抵抗がないということである。これと反対の「逐語訳」は−訳者の日本語能力の拙さによる直訳を除外すれば−語義のもつ形式価値にこだわり、少しでも原典の言語特性を伝えようとする、原典に忠実・十分な訳で、わざと逐語訳にして日本語世界に異物をもちこむ翻訳である。この二つのどららが文学の翻訳としてよいのか。古今東西、論争されている問題である。(174頁)


 各国語に翻訳された『源氏物語』を日本語に訳し戻す上での大前提として、私は、意訳ではなくて直訳が今の用途としては必要とされると思っています。著者の言葉で言うなら、方便としての逐語訳です。

 また、「直訳」と「意訳」について、著者は次のようにも言っています。


「直訳か意訳か」とか「十分な訳か甘受できる訳か」という分け方より、原典に「忠実な訳」と、読み手にとって「読みやすい訳」という分け方がよいだろう。いわゆる直訳とは、起点言語の言語的特性をできるだけ伝えようとする翻訳のことだから、「忠実な翻訳」の一種ということになる。他方、意訳は、目標言語体系の中で違和感なく意味が通じるということだろうから、これは「目標言語における抵抗の少なさを考慮して読みやすくした翻訳」と定義できる。
 「忠実な訳」と「読みやすい訳」のどちらがよいかは一概には言えない。二つの言語の間で、より起点言語に近寄ろうとするのが前者、より目標言語に近寄ろうとするのが後者である。どちらをとるかは、原典のテクストタイプに対するテクスト美学的配慮と、読み手(受信者)の能力に対する受容美学的配慮の、いずれを優先させるかという問題なのである。(151〜152頁)


 今、『源氏物語』が訳された31言語を日本語に訳し戻すにあたっては、やはり直訳となる「忠実な訳」によるしかないのです。
 これは、ここ数年続けている『十帖源氏』の現代語訳の方針とも一致します。

 そして、次の例は、訳し戻すことによって、その表現から文化の移し替えや変容を考えるヒントを与えてくれるものとなっています。


 実用論(語用論)の視点からみれば、すべての発話が翻訳可能である。ヤーコブソンは「すべての認知経験は伝達可能である」と言っている。たとえば北東シベリアのチェクチュ人の言語には〈ねじ〉にあたる語がないが、〈釘〉にあたる語はあるので、彼らは〈ねじ〉を「回転する釘」という意味の語に訳し、それで用は足りるのだと[Jakobson 1975:60]。(54頁)


 つまり、遠回しの表現となっている箇所などを見ていくと、異文化を言葉で何とかして伝えようとする翻訳者の腕が伺えるのです。そして、その部分が、文化の変容を考える手掛かりを与えてくれることになるのです。
 当座の用にも、大いに参考となる本と出会えました。

 本書では、『蜻蛉日記』や『おくの細道』、そして『雪国』などの英訳例を提示して、具体的に翻訳の問題点を語っています。
 さまざまな例がおもしろくて、一見むつかしそうな本であっても、読み終えることができました。

 なお、次の話は、『源氏物語』における異本でよく見かける、語句の転倒を考える上でのヒントを与えてくれるものです。メモとして残しておきます。


 井上ひさしの『馬喰八十八伝』に、語順をひっくり返してしかものを言えない人物が出てくる。〈心細いことはお今さんであろうな。ことばの慰めにお今さんを言ってあげたいものじゃ。部屋のどちらはお今さんかな。〉読んでいて多少ひっかかる程度で、意味はすぐとれる。日本語では語順の乱れは読解にとってさほど破壊的には働かず、つまり逆にいえば統辞法がもつ規定力は絶対的なものではないわけである。(56頁)
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | ◎源氏物語