2013年12月07日

甥の突然の訃報を受け秋田に来ました

 37歳でした。

 建築士として飛び回り、結婚し、2ヶ月前に新しく自分たちの家を建てたばかりでした。
 我が家の子どもたちの面倒を、よく見てくれました。

 東京から秋田新幹線こまちで秋田駅に行き、そこから乗り換えて羽後岩谷駅まで。
 7時間かかりました。

 羽後岩谷は、松本清張の『砂の器』の舞台となった羽後亀田の隣の駅です。
 私が島根県出雲の出身なので、この地は縁が深いところです。
 小説に出て来る国立国語研究所は、私の職場と地続きの隣にあります。
 私の父と妻の父は、共にヅーヅー弁で会話ができました。
 この秋田の地は、柳田国男の蝸牛考の世界なのです。
 息子が蒲田駅の近くに会社を設立しました。
 『砂の器』は私の周りに活きています。

 盛岡駅を出て田沢湖あたりで、雪が降っているのに気づきました。
 角館あたりでは横殴りの雪です。

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 東京駅からは2人の息子と共に、秋田駅では飛行機で来た娘と落ち合い、4人で鳥海山を目指して下りました。
 妻は、先に実家に飛んでいました。
 私が妻の実家に来るのは、4、5年ぶりです。
 村は、ほとんど変わっていません。

 私が37歳のときは何をしていたのか。
 思い出そうとしても、なかなか手繰り寄せられません。

 そう、大阪の高校で教員をしていました。
 2つ目の高校に勤務し出した時です。
 テニス部の顧問として、また授業にパソコンを導入することにも熱中していました。

 次男が生まれたのが、私が37歳のときです。
 公私にわたり、さまざまなことをしていました。

 甥も仕事柄、三陸の復興支援を手掛けていたようです。
 働き盛りの37歳だったのです。

 若さの中を走り回っていて、そして突然その時間を止められたのです。
 25トンのトラックが、センターラインをオーバーして来たとか。
 片側一車線では逃げようもなかったことでしょう。

 やりたいことがたくさんある最中に、思いがけない幕切れは悔しいでしょう。
 思い残すことが、山のようにあることでしょう。
 その無念の思いがわかるだけに、自分ではどうしようもなかった現実が事実としてあるだけに、遺影にかけることばが見つかりません。
 遺影は、結婚式の晴れ姿です。

 ただただ、冥福を祈るしかありません。
posted by genjiito at 22:53| Comment(0) | *回想追憶