2012年03月31日

小冊子『池田亀鑑』ができました

 鳥取県立図書館から「郷土出身文学者シリーズ(8)」として『池田亀鑑』(平成24年3月、55頁)が刊行されました。
 
 
 
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 内容は、以下の通りです。


はじめに
第一章
 一 池田亀鑑の資料収集 原 豊二
 二 池田亀鑑と教え子 小川陽子
 三 池田亀鑑の生涯─鳥取時代素描─ 伊藤鉄也
第二章
 一 亀鑑ゆかりの地案内
 二 池田亀鑑略年譜


 内容的には、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』と重複するところがあります。しかし、こちらは鳥取県民のみなさんを意識した、わかりやすい内容になっています。
 鳥取県立図書館郷土資料課の渡邉仁美さんが、1年がかりで1冊にまとめてくださったものです。

 手にとってご覧になりたい方は、図書館(電話:0857-26-8155)に問い合わせてみて下さい。奥付には、「この冊子は1,200部印刷し、1部当たり500円です。」とあるので、頒布しておられるかと思います。
posted by genjiito at 23:39| Comment(0) | 池田亀鑑

2012年03月30日

池田亀鑑の書簡から本文研究の背景を推測する

 日本近代文学館の館報(第246号、2012年3月15日)に、池田亀鑑の書簡が翻字とともに紹介されています。これは、「館蔵資料から=未発表資料紹介 佐佐木信綱宛書簡(三)」として掲載された記事の中で、新井洸の手紙に続いて列記されています。
 この資料については、浅岡邦雄先生(中京大学)のご教示により知りました。いつも、貴重な情報を教えていただき、感謝しています。

 さて、当館報に紹介されている池田亀鑑の書簡は、以下の8通です。


(1)昭和6年6月22日(封書、ペン書、便箋一枚)
(2)昭和10年12月17日(封書、墨書、便箋三枚)
(3)昭和13年10月7日(封書、墨書、便箋二枚)
(4)昭和15年8月12日(封書、墨書、便箋二枚、速達)
(5)昭和15年(推定)8月21日(封書、墨書、便箋四枚、速達)
(6)昭和16年3月29日(封書、墨書、便箋二枚)
(7)昭和19年5月28日(封書、墨書、方眼紙一枚)
(8)(不明)年4月25日(封書、墨書、巻紙、使い便、冒頭部の影印掲載)


 この中でも、(4)の手紙文に次のように書かれていることが、私の興味を惹きました。


(前略)昨日は御芳書たまはりまして忝く存じます 御下命の件早速調査を致しまして御報告申上げます あの箇所の異文も悉くご報告申上げます 何卒一両日の御猶予御願申上げます(後略)


 これによると、この返信を書いた前日の昭和15年8月11日に、佐佐木信綱から『源氏物語』の異文箇所についての問い合わせの手紙が来たようです。それについて、すぐに調べて回答すると言っているのです。

 次の(5)の書簡には、昭和何年かが記されていないようです。しかし、手紙全文が次のように書かれていることから、これは(4)を受けて池田亀鑑が『源氏物語』の本文を調べている内に、佐々木信綱からさらに書簡が届き、それに恐縮して調査結果の報告を記したものであることがわかります。
 最初に佐々木信綱から問い合わせがあってからこの返信まで、10日ほどが経過しています。


拝啓 只今は重ねて御手紙をたまはりまして忝く存じ上げます 御下命の件大変延引いたし申訳ございません 色々と調査いたしました処 青表紙本と河内本とは本文の異同はございませんが別本と申してをりますものが別紙の如く二様になつてをります
そこで青表紙本といたしまして東山御文庫御蔵の御物本 河内本といたしましてやはり東山御文庫御蔵の

伝慶運筆梅ケ枝巻(七亳源氏中)別本といたしまして甲類を近衛家本越中局筆 乙類を麦生鑑綱自筆本と定め写真に取りかゝりました処 東山御文庫本が引延しに失敗いたしましたので再三やりかへし やうやく物になりさうな処まで達しました 本日夕方には出来上るとのことでございますから出来上りましたら早速御とゞけに参上いたします 延引の」

段何卒御許し下さいませ
なほ東山御文庫本は正式な許可を得ましてフイルムにをさめましたもの近衛本も同様でございますから御自由に御使用下さいまして一向に差支なきものと存じます いづれ拝眉を得まして
  八月二十一日        亀鑑
 佐佐木先生 侍史」

青表紙本、河内本
 さかの御かと古万葉をえらひかゝせ給へる四巻
別本
甲類
 さかの御かと万えうしうをえらひかゝせ給へる四巻
乙類
 さかの御かと万えうしうをゑらひかゝせ給へりける四巻


 佐佐木信綱からもたらされた『源氏物語』に関する問い合わせは、現在一般的に読まれている『新編日本古典文学全集』(小学館)で見ると、第32巻「梅枝」で次のような校訂本文となっている箇所です。


嵯峨帝の、古万葉集を選び書かせたまへる四巻、(第3巻、42頁)


 おそらく佐佐木信綱は、嵯峨天皇が書写させた「(古)万葉集」が「4巻」となっていることについて、池田亀鑑に問い合わせたと思われます。
 この箇所について、池田亀鑑は諸本の本文の違いを調べて、それぞれの本文を引用しています。

 ここで気になるのは、「青表紙本といたしまして東山御文庫御蔵の御物本」と言っていることです。池田亀鑑が最善本とした高らかに宣言した「大島本」ではないのです。また、〈河内本〉としては同じく東山御文庫御蔵の「伝慶運筆本」(通称「七亳源氏」)を例示しています。

 この書簡は昭和15年8月のものです。
 この前後の『源氏物語』の本文関係の情報を整理しておきましょう。

 昭和7年11月に、「校異源氏物語」の稿本が完成したので、蒐集した資料の一部が東京大学で展観されました。その時点での底本は〈河内本(禁裡御本転写・室町時代)〉でした。
 そして昭和12年2月に、東京大学で開催された第2回目の〈源氏物語展覧会〉では、『校異源氏物語』の底本は「大島本」に変更されていたと思われます。
 さらに、昭和17年に刊行された『校異源氏物語』では、〈河内本〉から〈いわゆる青表紙本〉を代表するものと認定した「大島本」に、底本が一大変更となりました。

 こうした背景を考えると、昭和15年8月に佐佐木信綱への回答文の中で、池田亀鑑が「大島本」をまず取り上げていないのはどうしてでしょうか。この時点では、まだ「大島本」の整理が終わっていなかったと考えた方が自然ではないでしょうか。
 昭和17年には「大島本」を絶賛して『源氏物語』の最善本とするのですから、その前の昭和15年は、〈河内本〉としての東山御文庫蔵「御物本」から〈いわゆる青表紙本〉としての「大島本」へと大きく方針が転回したと見ることができます。

 とすると、昭和12年に東京大学で開催された第2回目の〈源氏物語展覧会〉で展示された『校異源氏物語』は、まだ「大島本」を底本とするものには切り替わっていなかった、と考えられます。その過渡期のものだった、と今は考えておきたいと思います。
 具体的なことは、今はまだわかりません。状況からしてそう考えられるのであって、このことはさらに調べます。

 上記書簡で、池田亀鑑は〈別本〉の本文が2種類あると言っています。
 〈青表紙本〉と〈河内本〉が「古万葉」とするところを、〈別本〉では「万えうしう」とし、その中でも「麦生本」には「て」があり、「給へりける」となっている、と言うのです。

 池田亀鑑が佐佐木信綱に示した本文を、今に伝わる写本で確認すると、次のようになっています。


陽明文庫本(『源氏物語別本集成』321617)
「さかのみかと万えうしうをえらひかゝせ給へる四巻/巻=くわん」

麦生本
「さかのみかとまんえうしゆうをゑらひてかゝせ給へりける四巻」


 「陽明文庫本」も「麦生本」も「みかと」となっていて、池田亀鑑が示した「御かど」ではありません。
 また、「麦生本」では「しゆう」となっていて、池田亀鑑の言う「しう」ではありません。

 どうやら、池田亀鑑が佐佐木信綱に提示した本文は、『校異源氏物語』として校合作業が進んでいた資料をもとにしたものだったようです。『校異源氏物語』の編集方針により、本文が他の本との表記に統一的に調整されたものなのです。
 つまり、この昭和15年の時点で、すでに『校異源氏物語』の作業は表記を統一するという方針で整理が進んでいた、ということが言えそうです。早い段階から、〈いわゆる青表紙本〉以外は、写本を正確に翻字したものとなっておらず、漢字かなや活用語の送り仮名などはおおまかにまるめてあったようなのです。

 ただし、その本文異同がある箇所の写真を、池田亀鑑は佐佐木信綱の元に届けようとしています。すると、この表記が正確でないことが明らかになります。池田亀鑑にとっては、こうした細かなことは作業チームの担当者に任せていたために、まだ気付いていなかったか、こうした些細なことには目をつぶっていた、ということなのでしょうか。
 よくわからないことが出来しました。このことも、さらに調べてみます。

 なお、「大島本」では、この箇所は次のようになっています。

さかの御かと古万葉集をえらひかゝせ給へる四巻/=ヨマキ


 つまり、池田亀鑑は佐佐木信綱に、〈青表紙本〉と〈河内本〉は「古万葉」という同じ本文を伝えていると報告しました。しかし、「大島本」は「古万葉集」となっているのです。
 このことからも、この昭和15年の時点では、池田亀鑑は「大島本」について全幅の信頼の元に『源氏物語』を代表する本文という認識を確たるものにしていなかった、と言っていいようです。

 また、昭和17年に刊行された『校異源氏物語』では、この「梅枝」巻の当該箇所は次のようになっています。

古万葉集─万えうしう陽麦阿桃
えらひかゝせ給へる─ゑらひかゝせ給へりける麦阿

 これは、上記の私の推測があながち外れていないことの証左となりそうです。

 さらに、『校異源氏物語』の「梅枝」巻の巻頭にあげられた諸本名は、〈青表紙本〉の最初に「御物本(東山御文庫御蔵)」、〈河内本〉の最初に「七亳源氏(東山御文庫御蔵)」、〈別本〉の最初に「陽明家本(近衛侯爵家蔵)」が置かれています。
 この配列の淵源には、昭和15年に池田亀鑑が佐佐木信綱宛の書簡で例示した『源氏物語』の本文を代表するもの、という意識が読み取れるようにも思われます。

 以上、いろいろな推測を交えて取り急ぎ記しました。
 さらに調べて、『校異源氏物語』が完成する背景の正確なところを、あらためて報告します。
posted by genjiito at 23:52| Comment(0) | 池田亀鑑

2012年03月29日

送別会は前途を励まし合う場

年度末の今日、たくさんの方との別れがありました。

事務の方の定年は60歳なので、還暦を迎えたウサギの会のメンバー3人が退職です。一人は38年、もう一人は36年勤続という、組織を支えておられた仲間です。
 
教員では、3人が定年、2人が大学に転職です。

みなさん、これからの新しい人生が始まるためもあって、話も楽しく弾みます。お別れという湿っぽさは感じられませんでした。

それ以外にも、研究論文の目録をデータベース化するにあたり、さまざまな形で助けてくださった非常勤職員の3人にも、これまでの支援に感謝の気持ちを込めて心からお礼の挨拶をしました。直接顔を見て言葉に出して言うことは照れくさいので、うまく気持ちが伝えられません。しかし、助けられたことが多いので、本当に感謝しています。

また、今日までの勤務となった研究員の一人には、コーニツキ版データベースの文字入力のアルバイトに始まったこれまでの10年間、いろいろな局面で助けてもらいました。
私とはお別れですが、当人には新しい門出です。ますますの活躍を祈る気持ちで、それでいてとりとめもない言葉を交わしました。

みなさんに、うまく気持ちを伝えられなかったので、ここにあらためて感謝の念を記すしだいです。
 
仕事を頼むばかりで、細かな配慮が行き届かなかったことが心残りです。 
私も、ひたすら前を見て走りながらの日常だったので、ご寛恕を願うしかありません。

縁があれば、また一緒に仕事をしましょう。そして、 「まったく、もうしょうがないなぁ」と思いながらでも、これまで通り変わらぬ支援の手を差し延べてもらえたら幸いです。
posted by genjiito at 22:55| Comment(0) | 身辺雑記

2012年03月28日

日本の古典籍を分類するために

 鈴木淳先生が取り組んでこられた科学研究費補助金(A)による「総合目録における隣接領域の受容拡充と検索機能の整備のための研究」(平成20〜23年度)が、この3月で終了します。その最終回となる研究会がありました。

 今日は、古瀬蔵先生の「和古書データ分類ツリー表示プログラム」と題する研究成果の発表がありました。
 『国書総目録』の分類項目と、本科研で取り組んだ「日本古典籍分類表」の成果が容易に相互対比できるプログラムが出来たのです。

 発表を伺いながら、今から15年前のことを思い出していました。
 『CD-ROM 角川古典大観 源氏物語』のデータを作成していた時のことです。『源氏物語』の自立語すべてに、キーワードとしての分類語彙を付けるという、気の遠くなるような作業をしました。その時に、本日発表されたような仕組みの作業プログラムを仲間が作り、キーワード付けに活用しました。手作りながら、非常に重宝するものでした。

 あれから時間も経ち、コンピュータの利用環境は格段によくなりました。しかし、古典文学作品を分類するということにおいて、その判断はあくまでも人間がやることです。機械的にすべてはできません。したがって、分類作業と結果の確認は、コンピュータを使うといっても基本的なステップはあまり変わっていません。

 今回は、手作業で分類されたデータを違う角度から確認点検するためのものでした。『CD-ROM 角川古典大観 源氏物語』の場合とは、その性格は異なります。しかし、苦労した当時を懐かしく思い出しながら、文学研究に役立つこうした作業用のツールがいまだに共有できていない研究環境の立ち遅れを、あらためて痛感しました。

 いろいろな分野の方々との共同研究を通して、文学研究のためのデータ処理と活用に資するツールを集積していきたいものです。そして、それらを有効に生かした、複眼的で多視点から文学を読む環境作りの模索を、今後とも続けていきたいと思います。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | 古典文学

2012年03月27日

コーニツキ先生の大きな夢

 ケンブリッジ大学のピーター・コーニツキ先生が来日されたので、データベースのことで打ち合わせをしました。

 現在、国文学研究資料館から「コーニツキー版 欧州所在日本古書総合目録」というデータベースを公開しています。これは、ヨーロッパ各国の図書館・美術館・博物館などが所蔵する「日本の和装本」の書誌・所在などの情報をデータベース化したものです。コーニツキー先生が調査・収集されたカードを、国文学研究資料館で整理・編集し、2001年11月からウエブ上に順次更新を重ねているところです。
 このデータベース作成に至る経緯については、「欧州所在日本古書総合目録について」をご覧ください。

 最初は、コーニツキ先生が手元の調査カードをコツコツとパソコン(Macintosh)に入力しておられました。同じマックユーザーという仲間意識から話が発展し、それをお手伝いすることでこのデータベース化が始まりました。先生とご一緒にケンブリッジで紙のカードを複写し、それを日本に持ち帰ってパソコンに入力する日々が続きました。

 当初はマッキントッシュをサーバーマシンにして、ファイルメーカーという市販のソフトウェアでウエブ上に公開していました。データも順調に増え、検索システムも徐々に立派なものになって、今の公開につながっています。

 例えば、このデータベースで『十帖源氏』という本がヨーロッパにあるかどうかを検索すると、イギリスの大英図書館に万治年間刊行の無刊記本がある、という情報がヒットします。
 
 
 
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 昨日までに、13,656件の書誌情報をアップしています。ケンブリッジ大学図書館にある原本の画像も、一部を公開しています。

 また、このデータベースは国文学研究資料館が公開している「日本古典籍総合目録」ともリンクしています。さまざまな角度からヨーロッパ各地にある日本の古典籍の情報が得られ、それが日本ではどこにある本と類似する本なのか、ということなどもわかります。

 今日の話の中で、まだ未調査のライブラリーがヨーロッパ中にあり、それらは図書カードに書かれているだけなので、その情報の収集と整理が大変だとのことでした。また、各種図書館や個人の蔵書家のもとには、カードなどにも記録されていない本もたくさんあるそうです。すでに調査を終えた所でも、その後に購入された日本の本も多いようです。
 こうした日本の古典籍について、方策を模索しながら今後とも調査する方法も相談しました。

 昨年末より、「北米日本古典籍所蔵機関ディレクトリ」という情報が国文学研究資料館のホームページから公開されています。これは、北米にある日本の古典籍に関する情報が一覧できるようになったものです。データの製作は、東アジア図書館協議会(CEAL)の日本資料委員会の元に組織された日本古典籍小委員会です。

 このアメリカの情報とヨーロッパの情報がうまく結びつけば、やがては世界中にある日本の和古書を確認できるサイトを構築することにつながります。それが夢の1つだと、コーニツキ先生は熱く語られました。

 さらなる詳細な日本の古典籍に関する情報を収集・整理し、多くの方々が利用できるデータベースに育てるお手伝いを、今後とも続けていきたいと思います。
posted by genjiito at 23:09| Comment(0) | ◆国際交流

2012年03月26日

それはないぞ、と思う時(1)

 日頃は何でもないことが、ある時これはどうも変だ、それはないだろう、と思われることがあります。
 そんなことをいくつか。

(1)新幹線の1両目に座っていた時のこと。
 新幹線に乗った早々、コーヒーが飲みたくなりました。目の前のテーブルの裏の車輌案内図に「自販機 6号車」と書かれていることに目が留まりました。さっそく6号車へ行くと、お茶と水の2種類だけでした。お茶があるなら、ついでにコーヒーと紅茶があっても、と思います。そんな時に限って、車内販売はまだ来そうにありません。
 揺れる車内の狭い通路を6輌分ほど歩いて、もと来た道を戻りながら、これが無駄足だったことをしみじみと感じました。
 
 
(2)郵便ポストを探して京都駅を彷徨いました。
 結局は駅の近くにはポストがないことがわかり、諦めて東京から投函することに決めました。宛先が京都市内だったこともあり、割り切れない思いです。
 京都駅の地下鉄とJRの改札口にいらっしゃった職員の方も、ポストの所在を聞いても要領を得ません。
 近鉄の乗り場までぐるっと回ったところ、その改札の方の説明で、今いる八条口の反対側の北口左手にある郵便局の本局か、南口の大通りを隔てたホテルの中にしかない、ということがわかりました。ポストのあるコンビニも、見当たりません。駅舎の敷地内には、郵便ポストはないのだそうです。以前はあったように思うのですが。
 本当にそうであれば、変な話です。設置しない、もしくは設置できない理由が何かあるのでしょうか。
 新幹線の改札を入ってから駅員さんに確認したところ、在来線の4、5番線ホームにあるのだそうです。乗り換え口でゲートを通過したい旨の説明をすれば行けるとのことです。しかし、それも面倒だし、時間をとるばかりです。
 京都駅の周辺を歩き回れば、郵便ポストはあることでしょう。意外なところにあるものですから。しかし、こんな時には、郵便ポストのためだけに時間を取る余裕を持ってはいません。ついでに投函する、という気軽な気持ちでいました。それも、京都駅ならと思ったのが甘かったようです。
 地下鉄を利用して京都駅に行き、EXカードで新幹線の予約をして乗車する場合は、特に注意が必要です。
 京都駅から郵便物を出そうとした時に、こんなこともあるのだ、ということを記しておきます。

(3)上記郵便ポストの続きです。
 東京駅の構内にも、駅員さんの話ではポストはないそうです。騙されているのかと思い、さらに聞いて回ると、やっと八重洲側の北口を出たコンビニの前にあることを聞き出しました。
 
 
 

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 確かにありました。しかし、何とも嘘っぽいポストです。悪い冗談でからかわれているとしか思えません。
 ただし、投函口の下に次のように書いてあります。


ご安心下さい。
本物のポストです!


 どうやら、これは本物のようです。
 投函しようとしたところ、店員さんが親切にも、このポストは午後3時までで、明日の朝9時まで集めに来ませんよ、とのことです。
 そして、ここ以外には、やはり東京駅の構内にはないそうです。日本郵便は、徹底して駅の構内にポストを置く気はないようです。
 大通りの向こうに郵便局があるとのことで、東京中央郵便局まで行きました。しかし、ATMはあっても、午後5時を過ぎているせいか、郵便局の窓口のシャッターが降りているので手紙が出せません。それも、何とこの郵便局の周りにはポストが見当たりません。ぐるりと一周してもないのです。日本は、ポストが駅や郵便局や街中に置けない制度になったのでしょうか。
 しばらく東京駅周辺を散策し、八重洲通り沿いにやっと見つけました。もっとも、その時間はすでに最終便の午後6時40分が過ぎた時間でした。表示によると、明朝9時に来るようです。この調子ではさらに別の駅の郵便局の本局へ行っても無駄なようなので、その八重洲通りのポストに投函しました。
 いやはや、日本の郵便物の扱いは、どうなってしまったのでしょうか。早々とエープリルフールの悪戯を受けている気分になりました。
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | 身辺雑記

2012年03月25日

京洛逍遥(221)上賀茂神社の手作り市

 久しぶりに上賀茂神社の手作り市に行きました。半年ぶりです。
 出店の急増ぶりには目を見はります。境内の東端にまで拡がっています。
 
 
 
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 クッキーやパンなど、食べ物屋さんが増えたように思います。糖質制限食に取り組んでいる私には、無縁の店が多すぎてすぐに見終わります。

 文房具類が極端に少なくなり、私にとっては覗き込む店が限られます。ブックカバーなどの皮小物の店には興味があります。しかし、並んでいる品物に工夫が足りないように思います。
 これを果たして手作りというのか、首をかしげるようになりました。小銭稼ぎの出店がいくら増えても、手作り市とは名ばかりとなります。

 店が多くなることはいいことです。規模も大きくなりました。しかし、同じような店ばかりでは興味は半減です。意外な発見もなくなりました。手作り市の中身が希薄になっていくことは惜しいことです。骨董市とは異なる手作りの味を、もっと出してほしいものです。
 今後のさらなる展開を期待したいと思います。

 二ノ鳥居前の神馬舎では、今日も白馬「神山号」が元気な姿を見せていました。
 
 
 
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 いつもの穏やかな顔を見ていると、こちらもホッとします。
posted by genjiito at 23:20| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2012年03月24日

楽しくて美味しかった娘たちの結婚式

 娘たちが念願としていた下鴨神社での結婚式が、本日滞りなくお開きとなりました。

 受付には、友達からのプレゼントである縫いぐるみが置かれています。
 
 
 

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 午前中は雨が降っていました。尾形光琳の紅梅白梅図のモチーフとなった紅梅を背景に、雨が止むのをひたすら祈りました。
 
 
 
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 その願いが通じたのか、結婚式が執り行われる重要文化財である葵生殿に入る時には、雲間から日差しが漏れる好天となりました。さきほどまでの雨が嘘のようです。雨天、曇天、晴天と好転したことにより、参列者のみんなが心晴れやかになりました。
 
 
 
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 披露宴でのスピーチは、新郎側の主賓の挨拶だけという、一見非常にシンプルな式でした。しかし、新郎新婦の手作りのものが至る所に配されていて、心温まる中身の濃さに参列されたみなさんは満足しておられたようです。
 
 新郎新婦入場の音楽は、2人が大好きな曲「get along together」です。
 下鴨神社専属の二十弦箏奏者の島崎春美さんと、世界的なギタリストの山本幸二さんが編曲して下さったデュオでした。贅沢な生演奏でスタートです。

 新婦は、葵祭の御所車がモチーフとなった西陣織の色打掛で、手に持つ手毬のブーケと髪飾りは帝王貝細工という花で、花言葉は「永遠」。この帝王貝細工は、秋田からお出での新婦の伯母が、今日のために心をこめて栽培してくださったものです。

 テーブルの上には、これまた秋田の新婦従兄からのプレゼントで、自家栽培して製造したトマトジャム。もう一つは、新婦が去年留学していたフランスの婚礼菓子ドラジェが置かれていました。しかも、その包みは、どちらも神社らしい和の飾りで、日本の伝統が大好きな新郎新婦の手作りです。

 今日の食事は、京料理では別格の下鴨茶寮の会席料理です。この料理をみなさんに堪能してもらうためもあって、式でのイベントは最小限にしたとのことでした。
 私は、今日の料理を完食しました。おいしかったので、赤飯もご飯もいただきました。これは、すぐ後で抹茶をのむことがわかっていたので、食べても血糖値はそんなにあがらない、というこれまでの傾向を確信していたからでもあります。

 そして、この日のメインイベントとでも言える、お茶のお点前となりました。
 今日は、立礼という形式でのお点前です。
 
 
 
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 本日のお抹茶は不肖私が選んだもので、京都寺町一保堂の「契りの昔」です。
 新婦は色打掛でのお点前は初めてということで、お茶の師匠である森田先生が横に控えてくださいました。
 
 
 
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 新婦がたてたお茶を、新郎が自分の両親に運びます。
 続いて、新婦両親には新郎がたてたお茶を新婦が運ぶ、という趣向です。
 
 
 

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 新郎新婦がお色直しのために退席している間は、祇園の舞妓さんが京情緒たっぷりの祝舞を舞ってくださいました。

 新婦のお色直しのウエディングドレスは、私の妻の手作りで、ジムトンプソンのタイシルクを使って作ったものです。4日がかりで完成させ、昨夜は、徹夜で細かい調整をしていました。本当に心を込めて作ったドレスで、みなさんがその出来映えのみごとさに見とれておられました。また、よく似合っていました。

 ブーケも新婦が手作りし、同じ花で新郎とおそろい、また新郎父と新婦父のブートニアも娘のお手製でした。
 
 
 

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 あらゆるものが手作りで構成されていて、日本の伝統的な文化がふんだんに盛り込まれた披露宴会場でした。

 式が無事に終了してから、秋田からお越しのみなさんを我が家にお呼びしました。そして、私と義兄とで、披露宴で点てたお抹茶「契りの昔」を使って、お茶を飲んでいただきながら、わいわいがやがやと語り合いました。

 予定では、5人に私が点てることになっていました。しかし、なんと12名も集まったために、急遽お作法はいろいろと省略して、4つの茶碗をフル回転させてお点前をしました。
 
 
 
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 お菓子は、「えくぼ」という上用饅頭と「かも川」という大納言の砂糖菓子を用意しました。3日前に少し多めに予約していたので、大人数になっても事なきを得ました。

 その後は、みなさんが宿泊なさっている賀茂川畔の旅荘に会場を移し、結婚式を振り返りながら楽しい食事の一時を過ごしました。
 娘のスピーチが、お涙頂戴ではなくて、ことばを選びながら自分のことばで今の両家の両親に対する気持ちを素直に語っていたのに好感が持てた、と褒めていただきました。親として、これは嬉しいことです。淡々と語る中に、誠実さが伝わってきたそうです。思わず、巧まざる内容に感激で涙が出た、という状況だったようです。涙を誘わないスピーチを目指した娘にとって、1つの勲章のようなものです。よかった、よかった、との思いを強くしました。
posted by genjiito at 23:51| Comment(2) | 身辺雑記

2012年03月23日

花嫁の父の心境はいたって平静です

 やっと、先月から懸案となっていた、引っ越しの荷物の段ボールをすべて空けました。ただし空けただけで、本や書類は部屋に積み上げてあります。中身が見えるようになっただけでも、なんとなく整理が進んでいるような気がします。これから、気の遠くなるような仕分けに入ることになります。

 明日は、娘の結婚式が終わってから、親戚のみなさんを我が家に呼んでいます。そして、お祝いにお茶を一服さしあげようと計画しています。
 そのこともあり、とにかく今日中に部屋を片付けることに専念していました。

 もう引っ越しはしないはずなので、今の状態を拡げないようにして、根気強くとりかかります。とにかく、物を持たない庵の生活のためにも、図書館にある本は処分します。
 難しいのは、手書きのカード類です。使い道があるかもしれない、と思うと、捨てきれません。同じように、メモ類も思い切れません。この紙の資料が入ったファイルが、予想外に多く、また重たいのです。
 自分を客観的に見つめながら、いる、いらない、を次々に判断して対処したいと思います。

 夕方、妻の実家の秋田県から、明日の結婚式のためにみなさんが賀茂川畔に集まって来られました。遠路はるばるお越しいただいたので、娘夫婦ともども、数ヶ月前までいた我が家の近くにある旅荘へご挨拶に行きました。みなさん、明日の下鴨神社での式を楽しみにしておられます。
 式場も控え室も重要文化財の建物ということで、これはなかなか得がたい体験となります。

 昨日からあいにくの雨です。夕方から本格的に降っています。しかし、天気予報では、明日は明け方降り止み、お昼前にまた降り、午後は上がるそうです。なかなか悩ましい天気です。

 明日の式を控え、妻と私、そして娘夫婦で近所にある人気の洋食屋で食事をしました。
 その後、我が家で明日の準備をし、荷物を我が家から目と鼻の先の下鴨神社に運び入れました。
 娘たちの式は、ほとんどが手作りです。持ち込むものがたくさんあるのです。こんな時、実家が式場に近いというのは便利です。

 荷物の搬入を終えた2人が、しばらくして戻って来ました。
 そこで、明日のお茶のイベントを予行演習しました。新郎新婦が点てたお茶を、両家の両親がいただく、ということが組まれているのです。
 どのようなタイミングでお茶が我々の手に運ばれ、それをどういただくか、ということの確認です。お互いに真剣に練習を重ねました。
 これなら、明日はうまくいくことでしょう。何かあっても、それはご愛嬌です。

 私は、花嫁の父という立場です。複雑な心境になるかと思いきや、意外と平静です。
 娘はイギリスの大学へ行っていました。フランスの大学院にもいました。長い間日本にいなかったのです。そして、昨年9月に入籍し、すでに2人で新しい生活をスタートさせています。また、娘と一緒に月に一、二度、平群にお茶のお稽古に行っています。

 そんなこんなの生活をしているので、とくに娘が嫁に行くのだという感覚がありません。
 また、新婦とも気さくに何度も食事をしているので尚更です。
 こうした背景があるので、花嫁の父という感慨を持たないのでしょう。
 気楽に構えていられるので、余計に明日の結婚式が楽しみです。

 とにかく、今日は明日のために早めに休むことにします。
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2012年03月22日

今年に入ってから食べた木綿豆腐一覧(京都編その2)

 糖質制限食にしてから、ご飯やうどん、そば、パスタの代わりに木綿豆腐を食べるようになりました。

 昨年末に、お店で購入して食べた木綿豆腐12種類をリストにして整理しました。

「今月の豆腐リスト」(2011年12月30日)

 今年に入ってからも、それ以外にさまざまな種類の木綿豆腐を買い求めています。
 今も、服部の「南禅寺」が一番の好みです。

 町中には、たくさんのお豆腐屋さんがあります。これらも、いずれは食べ歩きたいのですが、まだ果たせていません。
 とりあえずは、スーパーマーケットや食料品店の店頭にある木綿豆腐を一通り口にしてからにします。

 以下は、今年に入ってからの木綿豆腐8種類のリストです。
 順不同で、手元の写真をあげておきます。
 このリストは、自分が買うときの手控えにもなり、何かと重宝する実用的な「木綿豆腐データベース」になっていくと思っています。
 
 
 

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2012年03月21日

さまざまな物を整理していて

 相変わらず、身辺整理を続けています。
 今日も、ビデオテープやカセットテープを数百本処分しました。もう、トータルの本数はわかりません。

 例えば、息子と一緒に見た「ウルトラマンタロウ」のビデオ。これは娘も好きだったので、一緒にテレビにかじりついていたはずです。
 またこのビデオを子供と一緒に見たいな、と思いながらも、そんな日はもう来ないだろうな、とも思います。これは、処分すべきものなのでしょう。しかし、捨てる手が、一瞬ですが躊躇しました。

 娘が4歳の時に、まんが「タッチ」の映画版を見に難波の映画館へ連れて行きました。前の方に座って、明治の「きのこの山」を食べながら観ました。
 その映画のビデオも、捨てる手が一瞬止まりました。

 物を整理するというのは、過去を捨て去ることに通じるように思えます。しかし、そんなことを考えていたら、整理などできません。ここは心を冷たくして、過去を回想しないようにして捨てざるを得ません。

 カードの山が出てきました。
 梅棹忠夫の『知的生産の技術』の影響を受けて、あらゆる情報をB6カードにメモしていた頃のことです。私家版のB6カードを設計して大量に作り、それに電動式ひらがなタイプライター(シルバー・リード)で印字していた頃のカードが出てきたのです。
 このカードには、「シェクスピアと平安後期文芸」というタイトルが書かれています。
 
 
 
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 これこそ、昨夏、「JISカナ・キーボードの存続が危うい」(2011年7月24日)で、次のように書いたカードそのものです。


 私は、コンピュータを導入する前は、シルバー精機の電動ひらがなタイプライタを使っていました。京大型カードを使っていたので、そのB6カードの大きさの特製私家版を作り、そのカードをタイプライタに差し込んでメモなどを印字していました。


 写真を見ればわかる通り、黒と赤のインクリボンを使い分けています。
 末尾の「(A−101、P20)」というのは、別の図書整理ノートの図書ナンバーを見ると、『有明けの別れ』(大槻修、創英社、1979・3・10)という本からの抜粋であることがわかります。

 現在、私はこうした抜き書き資料は、Macintosh と iPhone に入れてある「エバーノート」というアプリケーションで保存・管理しています。情報を電子化し、素早くファイリングしていつでも検索できるようにしています。

 30年以上前のカード式情報整理に比べて、今はスピードアップが計られています。しかし、その効率はかつてのカード式より向上したかと思い返してみると、明確に向上したとは言えない面が多々あるのです。特に、カードをめくりながらさまざまな思いの中を彷徨っていたあの楽しさを、今は忘れているように思います。いかに的確に必要な情報に早く行き着くかに精力を払う日々になったように思うのです。

 考える力が衰えたのは、年のせいだけではなくて、考える道具のせいもあるように思えるのです。

 大量のカードが出てきました。カードを繰っていると、連想ゲームをしているようでおもしろいのです。しばらく忘れていた感覚です。

 デジタルだけではないアナログの楽しさに、身の回りの整理をする中で行き当たりました。
 身辺整理を続けながら、老化の始まりかな、との思いが過ぎります。しかし、しばらくはこのテーマを考えてみる価値があるように思うようになりました。
posted by genjiito at 23:51| Comment(0) | 身辺雑記

2012年03月20日

京洛逍遥(220)葵橋で鳶を襲う鷺を目撃

 めずらしい光景を見かけました。
 下鴨神社の糺の森の南に鴨川公園があります。賀茂川に架かる出町橋と、高野川に架かる河合橋の間に形作られる三角地帯にある公園です。
 この三角地帯の南の突端付近で、1羽の鷺が出町通りにある枡形商店街の方をジッと見やっていました。いつものんびりと突っ立っているだけの鷺とは様子が違います。
 
 
 
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 そして、突然飛び立ったのです。
 何事かと思って連写のシャッターを切り続けると、上空から急降下してきた鳶との争いがすぐ目の前で展開したのです。
 
 
 
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 鷺が鳶から空中で獲物を奪い取ったかと思うと、その後は悠然と川原で独り占めしたものを食べているのです。
 
 
 
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 鷺が鳶を襲っているところは、写真がすべてぶれていて、どのようにして襲ったのかは確認できません。しかし、別のおじさんが河原で憩うアベックに聴いている話で状況がわかりました。

 仲むつまじい2人は、河原の左岸にあるベンチでパンを食べていた時でした。1羽の鳶がそれを上空から狙っていたようで、そのパンをあっと言う間に攫っていったのです。パンを咥えて鴨川公園の方に飛び去ろうとする鳶を、今度は目敏く見ていた鷺が急襲したのです。
 おそらく、鳶は驚いてか、パンを口から離したのでしょう。その落下するパンを件の鷺が器用に受け取り、そのまま何事もなかったかのように食べ出した、という短い急襲劇が展開したのです。

 鷺はいつも賀茂川でボーッと佇んでいるだけです。何を考えているのか、何をしているのか、沈思黙考タイプの鷺が多いように思っていました。しかし、今日の出来事を目撃し、認識を改めました。
 鷺のことをよく知らないからでしょうか、動物の生態の一面を見た思いです。

 出町橋からほんの少しだけ遡ったところに葵橋があります。下鴨神社の参道に向けて架かるその葵橋の手前では、鴨たちに囲まれて満足げに佇む鷺がいました。
 
 
 
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 その向こうの小さな中洲にも、1羽の鷺が休息しています。
 
 
 
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 いずれも、いつもいる賀茂川の鷺や鴨たちです。
 のどかな平安の時間が流れています。

 下鴨神社に向かって葵橋を渡ったところで、これまで気付かなかった石碑に目が止まりました。
 
 
 
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 書かれている文字はこうです。


賀茂御祖神社御参詣時
孝明天皇御衣更処御茶室址
明治天皇御幼少時御遊庭蹟


 裏面には、「京都市」とあるだけで、いつどのような目的で建てられたものなのか、帰ってから調べましたがよくわかりません。建っている場所がマンションの一角なので、このあたりに孝明天皇が下鴨神社を参詣された折に着替えをなさった茶室があったということのようです。
 また、明治天皇が子供時代に遊ばれた庭がこのあたりにあったようです。

 明治天皇ゆかりの地は、現在の京都御苑北東部に産屋「祐井(さちのい)」があります。

「京洛逍遥(49)明治天皇の産屋」(2008年12月 7日)参照

 この糺の森から京都御苑は、今出川通りを境にして近いので、調べると関係することがわかるかと思います。
 これについては、またあらためて書くことにします。
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2012年03月19日

京洛逍遥(219)下鴨神社の光琳の梅

 下鴨神社は、いつ来ても気持ちのいいところです。
 朱塗りの楼門を見上げて白砂に目を移すと、おのずから心が清められます。
 糺の森の神々しさの中で、自分をあらためて見つめ直す刻を持つことにもなります。
 神社が持つのびのびとした明るさは、自信と勇気も与えてくれる、不思議な空間です。
 
 
 
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 所用があって来たので、久しぶりに満開の梅を見て帰りました。
 いつ見てもみごとです。
 尾形光琳が描いた国宝「紅白梅図屏風」は、このあたりの梅だそうです。この輪橋(そりはし)と紅梅は、朱塗りの鳥居とともに鮮やかな色を見せてくれます。気持ちも、ぱっと明るくなります。
 
 
 
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 この下を流れる御手洗川は、みたらし団子の発祥とされています。
 土用の丑の日に行われる「足つけ神事」は、毎年のように来ています。今年も来る予定です。しかし、昨年8月から糖質制限食に取り組んでいるので、みたらし団子はしばらく食べられません。糖質0のみたらし団子のお目見えはなさそうです。

 神社仏閣の名物は、お団子や饅頭やお餅、そして煎餅が多いようです。それらすべてが炭水化物を主とするものなので、私は食べられないのが非常に残念です。
 これらも、糖質制限のものが開発される日を、心待ちにしています。

 我が家の庭にも、梅が咲いています。まだ手を入れていないので、来年を楽しみにしています。
 
 
 
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posted by genjiito at 23:39| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2012年03月18日

ゆらゆら揺れる釜の横でお稽古

 お茶のお稽古を続けています。今日も大和平群に行きました。

 全体の流れが少しずつわかってきたので、気分的には大分楽になりました。
 とは言っても、まだまだ細かいところがあやふやなことばかりなので、先生からの囁きが頼りです。今日も姿勢が丸まっていました。これはいつもながら要注意です。

 最初の方で、棗と茶碗を持って入り、水差しの正面に置く時のことでした。左手の指を茶碗の底の高台にかけて持っていたので、指が邪魔で茶碗を置くことができません。持って入ってから、自分が何をするのかがまだよくわからないままであることが、こんな時によくわかります。

 また、建水に乗せた柄杓が落ちそうになりました。今は5人にお茶を点てるという想定でのお稽古なので、最初に茶碗を2つ持って出ます。そのため、右手に持った茶碗のことが気になって油断していました。なんとかこらえましたが、なかなか器用にはいかないものです。

 棗や茶碗を置く位置や動かし方は、どうにかかわりました。ただし、まだまだぎこちないので、あとは慣れでしょうか。

 今日は、筒状の小振りの釜が天井から吊ってある形式です。自在鉤に吊された鍋を連想させます。もちろん、もっとスマートで見た目も変化があって良く、さまざまな趣向のパターンがあることがよくわかります。
 この釜が、お湯を汲んだり差したりするとゆらゆらと揺れるので、柄杓で揺れを止めたくなります。余計なことはしないで、お手前に集中しなさいと言われました。

 次から次へと、4服連続で点てました。点て終わると、先の茶碗が帰ってきています。それをきれいにするとまた点てます。同じ動作の繰り返しになると、次第に要領がわかってきます。

 今日わかったことは、何服も点てる時は、釜のお湯を汲んで茶碗を濯ぐ時、柄杓に半分くらいのお湯にしておかないと、お湯がすぐになくなるということです。
 いろいろなケースがあるので、柔軟な対応を身につけておくことが必要です。

 先生にお願いしていた、色紙と短冊を飾るお軸が届いていました。
 早速、家で飾ってみました。床の間ではなくて、普通の聚楽の壁に掛けています。何でもない部屋が、いい雰囲気になります。
 
 
 

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 この色紙については、「色紙の禅語「竹葉々起清風」」(2012年3月13日)に書いたとおりです。

 五月を境に風炉となります。炉手前も、今のうちに少しでも慣れておきたいと思います。そして、道具類も手に入る時に少しずつ。
 何かと物入りです。しかし、少しずつ楽しみが増えていきます。
 四季折々に飽きないように、巧く考えられています。
posted by genjiito at 23:44| Comment(0) | 身辺雑記

2012年03月17日

2ヶ月ぶりのヘモグロビン A1cの測定

 昨年の8月下旬から糖質制限食に取り組み、その効果を確認しながら妻の助けを受ける中で食生活の工夫をしています。

 ちょうど2ヶ月前に測ったヘモグロビンA1cの値が「5.6」でした。
 「6.1」以上が一般的に糖尿病と言われています。それで言えば、今の私はそこには至っていないということになります。

 昨年の4月から糖質制限食を心がける前の7月までの、カロリー制限をしていた頃は、次のような数値で推移していました。

【7.3】→【7.1】→【6.9】

 そして、昨年8月下旬に糖質制限食を始めてから今年の1月までは、次のように変化しています。

【7.1】→6.0→6.3→【5.9】→6.2→5.6

 【 】で括った数値が病院での測定値で、それ以外が民間のワンコイン検診「ケアプロ」(JR中野駅前)で測ったものです。

 私の素人の予想では、「6.2」くらいだろうと思っていました。
 2月と3月は何かと仕事が忙しくて、よくお腹がすいたのでたくさん食べました。
 それが、目標だった体重50キロをクリアできた理由でもあると思っています。

 さて、今回の結果は「6.0」と、ほぼ予想通りでした。というよりも、予想より下だったので一安心です。

 食事は、木綿豆腐にビーフシチューをかけ、マリネと鶏肉、そして野菜サラダと野菜スープに加えて八朔ミカン一個を食べました。腹八分目よりも多かったように思います。
 ヘモグロビン A1cは最近1、2ヶ月の血糖値の推移を知るバロメーターとされているので、前日や当日の食事が影響することはないそうです。しかし、だいたいこんな調子の食事を、このところしています。

 この食事で、食後1時間の血糖値は「272」でした。2時間後は「132」と、半分以下になっていました。
 日頃から、1時間後は「180」以下を、2時間後が「130」以下になっていることを目標としています。それから見れば、今回は少し食べ過ぎだったようです。それでも、2時間後にきっちりと下がっているので、大きく落差のあることは避けるようにしていますが、これでまあまあとしましょう。
 今回は最初が高すぎるので、はじめにもっと野菜を食べたら良かったかも知れません。

 今回のヘモグロビンA1cの値「6.0」を公表されている指数に照らして見ると、ボーダーラインとされる「6.1」に近いので、要注意ゾーンといえます。しかし、胃のない身体としてはこれで問題はないだろうと、勝手な自己診断をしています。

 昨年末から糖尿病外来に行っていません。前回、お医者さんの診察を受けた時、私の数値がその日に病院で検査した測定値「5.9」だったことについて、先生は何もおっしゃいませんでした。昨年の夏から糖質制限食にしていることについては、その前から正対して聴いてはくださいません。ほとんどの医療関係者が、今は無視を装いながらの様子見のようなので、先生も静観というところでしょうか。

 前々回までは、薬による治療を強く薦めてくださっていました。しかし、私が薬物による治療をなかなか受け入れないし、胃のない人間に対する糖尿病治療は症例が少ないこともあり、対処方法を模索する状態にあるという背景もあります。先生にも私への対処がよくわからないので、一応一般的な薬物による対処を薦めておこうとなさっているようでした。

 来月、4月1日から、糖尿病の指標が変更になります。従来の数値に「0.4」をプラスした国際標準の指標(NGSP)になるのです。当面は、これまでの日本独自の指標(JDS)も併用されますが、来春からは国際標準値に統一されるのです。
 
 
 
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(京都新聞・2012.3.6 より)
 
 
 

 日本の糖尿病学会も、少しは周りの社会的変化を見ようとし出したようです。
 アメリカが糖質制限に前向きに取り組んでいることも影響しているのでしょう。国際的な流れから孤立したくないからだとも思われます。もっとも、薬と注射で収入を得るシステムが出来上がっている業界は、病院が糖質制限食を認知して取り組むと、人とお金の流れで混乱することでしょう。

 また、糖尿病学会が出しているカロリー計算によく使われる食品成分表に、これまでのカロリーに加えて糖質の数値も併記されるようです。となると、病院でも糖質制限食について耳を貸すお医者さんが少しずつ増えることになります。いつまでも無視を続けるわけにはいかないからです。糖質制限食は副作用が心配だ、という論理も、もっと科学的に説明してほしいものです。

 私のように、糖質制限食が今のところ功を奏しているケースもあるのですから、お医者さんもいろいろな対症療法を取り入れて下さるといいですね。
posted by genjiito at 22:37| Comment(0) | 健康雑記

2012年03月16日

今西科研の第4回研究会

 今朝、大きな地震がありました。昨日に続くものです。
 徹夜で仕事をしていた時でした。少し眠くなり出した明け方の4時20分頃、突然部屋が大きく揺れ、しばらく続きました。貴重品を入れたカバンを抱え、いつでも玄関を飛び出せる態勢でいたところ、まもなく収まりました。
 すぐにテレビを点けたところ、震源は埼玉県のようでした。
 昨日は千葉県、今日は埼玉県と、震源が関東平野に入ってきています。気持ちの良いものではありません。

 さて、今日は、今西科研の本年度最後の研究会がありました。今回も、刺激的な発表でした。

 実践女子大学の横井孝先生の「「定家本」を表記から検証する ー実践女子大学本紫式部集をめぐってー」は、以下のような内容でした。いつものように、明快で問題点を示しながら話して下さるので、たくさんの考えるヒントがもらえました。

・大島本や明融本などに見られる、書写している行の途中から筆者が変わることの意味。
・定家本の定義について。
・実践本は定家仮名遣いの基準で書き写されている。
・定家自筆本の面影を色濃く残す。
・定家は「え」に「江」を使う。
・定家自身は、一字も違えず、という意識はなかったのではないか。
・字母レベルまでの索引が必要だ。
・伴久美さんが『源氏物語大成 索引』を補訂した資料がある。
・定家の仮名遣いの揺れを、時間順に見たい。

 続いて、京都女子大学の坂本信道先生は、「定家自筆本『古今和歌集』の文字遣いと書写による変遷」と題する発表でした。
 巻2までを調査された結果でしたが、4種類の写本がどのような文字を使って書写されているかを、具体的な数字を示して問題点を指摘されました。非常に明快で、これからいろいろな写本を調べる際の参考になる内容でした。

・定家自筆本は2つある。
・嘉禄本は漢字が多い。
・嘉禄本を中心にして、それ以外の写本で、漢字とひらがながどのように書き換えられているか。
・ひらがなは、かなり変えて写しているのではないか。
・写本同士の関係は、字母よりも、どの字を使っているかをみたらおもしろい。

 休憩時間に、昨年国文学研究資料館で購入した鎌倉時代の『源氏物語』の古写本16冊を、図書館の貴重本閲覧コーナーで拝見しました。これだけの数の鎌倉期古写本を一度に見るのは圧巻です。

 後半は、本年度の科研報告書に収録した資料に関して、「正徹本の画像データベースについて」と題して、私が紹介がてら報告しました。
 これは、国文学研究資料館所蔵の正徹本『源氏物語』を画像データベースにしたもので、どこにどんな文字で書かれているかが検索でき、写本の画像も表示できるものです。今月末に、このDVDを収録した報告書が完成します。

 その後、立川駅前で懇親会となりました。
 今日は、お客様が4人お出でになり、14人での賑やかな情報交換会となりました。
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | 古典文学

2012年03月15日

ささやかな私の地震対策

 昨日の千葉県沖の地震は、関東にいる者にとってはさまざまなことを考えさせられました。大多数の方が、やはりこれは大地震の前触れだと感じたはずです。
 近いうちに来るという覚悟はできています。マスコミも、その日をカウントダウンするかのように煽っています。その思いを強くさせるものであったことは確かです。

 そうであれば、問題はどのような準備をしてその日を迎えるか、ということになります。
 備えあれば憂いなし、などという呑気なことを言っている場合ではなくて、目の前のこととして、もう具体的な対処をすべき段階だと思います。

 そこで、今、自分が行っていることを整理しておきます。

 毎日、枕元には非常持ち出しのカバンを置いて寝ています。これは、高校を卒業して上京し、住み込みで仕事をしながら生活を始めた18歳から実践していることです。成人式の直前に、住み込んでいた店が出火しました。枕元のカバンをしっかり摑んで白煙の中を窓から飛び降りた時も、この用意が生活の立て直しに役立ちました。

 昨秋、防寒対策を兼ねた寝袋と非常用の食料を、職場である立川の研究室に備えました。立川断層の上に四角い箱の状態で建っているので、移転する前から災害時のことが話題になっていました。

 また、職場から東京の宿舎までは、都心を横断する形で電車に100分以上乗るので、とても歩いて帰ることはできません。災害時には、当然職場に泊まり込むことになります。

 そうしたことを考えると、着替えや軽快な靴も、職場にないと困ります。昨日の地震を受けて、早速細々とした身につけるものも運び入れました。これらは、これからぼちぼちセットして、一週間は泊まり込めるようにするつもりです。

 職場の建物は、免震構造になっています。しかし、部屋にある書籍や資料は、棚から落ちたり散らばったりすることでしょう。これには、手の打ちようがありません。

 さらに、通勤途中に地震に遭ったら、もう成り行きに任せるしかありません。とくに、通勤時間の半分は地下鉄の中なので、その時の我が身は運に任せることにします。

 宿舎の部屋は、伊井春樹先生が若い時に住んでおられた5階建ての2階にあります。もう40年という老朽化した建物です。
 隅田川の河口なので、東京湾から津波が来たらひとたまりもありません。

 同僚が、隣接する10階建ての上階にいるので、何かがあればそこに逃げることにしています。問題は、災害時にそこまで行き着けるか、ということだけです。
 これは、瞬発力と脚力が運命を分けそうです。

 宿舎の部屋は、昨春までは単身赴任だったので、あまり物がありません。
 昨年の地震でも、テレビが倒れてフレームに傷が付いたことと、壁掛け時計が落ちたこと、そして書棚の本が飛び散って襖に穴があいたくらいでした。老朽化した建物ですが、骨組みは昔の工事ということもあり、しっかりしているようです。

 このまま解体を待っている状態の建物でした。しかし、大事が具体的に想定されている最近の現実を踏まえて、建物の耐震補強工事が計画されているようです。隣接する2つの10階建ての宿舎は、耐震工事が3年前に終わっています。私が入っている建物だけが、工事を見送られていたのです。
 朽ちたままでもう少し使おう、というのではなくて、問題が起きない内に対策を早急に施そうという方針転換は英断です。直面する危機に対する緊急避難的な対処であっても、これは大歓迎です。一日も早い工事を待っています。

 週末になると、いつも新幹線で京都に移動しています。
 明日は館長の研究会と懇親会があるので、翌土曜日の一番列車で帰洛します。
 この移動する東海道新幹線が、地震や津波の警戒地域となっているので、これまた気が休まりません。

 京都に帰っても、自宅に近い比叡山の北側には、花折断層があります。

 さすがに、日本海から京洛への津波や、賀茂川の氾濫は考えなくていいようです。しかしそうは言うものの、今の私の生活環境は危険と不安が綯い交ぜになった中に身を置いていることに変わりはありません。この日本のど真ん中を往き来しながら東西に住み続ける限り、これは避けられないことです。

 こうなると、なるようになるさ、というのが今の偽らざる気持ちです。
 最近は庵の生活を標榜しているので、身軽に生きることを実践していきます。その延長上で地震との交点があるのなら、それはそれで私が持っていた運としましょう。そこは、人知の及ばないところなのですから。

 この話題は、夢のないことになりがちです。しかし、そうであればなおさら、夢を自由にふくらませることが出来るよい機会だ、と考えていくつもりです。
posted by genjiito at 23:56| Comment(2) | 身辺雑記

2012年03月14日

『十帖源氏』の登場人物名を検討

 新宿アルタ横の喫茶店にあるレンタルスペースで、『十帖源氏』の現代語訳をつくる会を続けています。
 今日は、登場人物の名前をどうするかとか、訳の中でどう明記して補ったらいいか、ということで意見を出し合いました。

 今は、第3巻の「空蝉」 の現代語訳を確認しています。
 例えば、こんな例で立ち止まりました。

 原文にある「つらき人のため」を、昨年の最初の訳では「薄情な人(空蝉)のため」としていました。
 今、最初から現代語訳を新しい方針で見直しをしています。そして、登場人物名で再検討をすることになったのです。

 当初から、翻訳されることを意識した、海外の方々が翻訳しやすい現代語訳を目指して来ました。
 そして、新しい方針というのは、『十帖源氏』に書かれている本文を忠実に訳すのではなくて、『源氏物語』の話がよくわかるような現代語訳を外国語に翻訳する方々に提供しよう、ということです。意訳と言われているものに近いかと思います。
 翻訳者が現代語訳を見て迷うようでは、世界各国の人々に『源氏物語』のよさが伝わる翻訳はできない、と思われるからです。

 そのためにも、厳密で正確な現代語訳よりも、優しい現代語で、なおかつわかりやすい文章になるように工夫を繰り返しています。

 さて、上記の「つらき人のため」は、「薄情な空蝉のため」とすることになりました。
 カッコを付けて補った人物名を、そのまま訳文の中に入れようということです。そして、これまでにカッコで括って理解を助けるために補っていた語句も、カッコを外して現代語訳の中に溶け込ませよう、という確認もしました。

 これによって、訳文が原文から少し離れます。しかし、わかりやすくて翻訳しやすい訳文になっている方がいい、ということになったのです。

 また、原文に「老いたる女のこゑにて」とあるところを、最初は「年老いた女(民部の命婦)の声で」と訳していました。しかし、ここは登場人物を増やさない方が海外の読者が混乱しないということを配慮し、「年老いた女の声で」として、主要ではない人物はあえて特定しない、ということにしました。

 また、『源氏物語』はたくさんの登場人物がいます。しかし、多くなればなるほど読者への負担は増えるので、各巻に5、6人くらいの人物を特定し、その人物を現代語訳の巻頭に注として列記しておくことも決まりました。これで、人物呼称が統一でき、巻を隔てて呼称が違う人物の特定がしやすくなります。

 「空蝉」巻でいえば、登場人物は光源氏、空蝉、小君、軒端荻、紀伊守くらいに留めるのです。それ以外は、「彼は」「ある男は」「彼女は」「ある女は」というようにしてしまうのです。
 なかなか割り切れないことが多いと思われます。しかし、この方針を立てることで、さらに現代語訳がスッキリします。

 近日中に、これまでに公開してきた「桐壺」巻以下、第9巻の「葵」までの訳を、新たに立てた方針で見直したものをアップする予定です。

 日本人のためではない現代語訳というものに、意外と苦戦しています。しかし、『源氏物語』を世界中の方々に読んで親しんでもらうためにも、その翻訳は欠かせません。その前提となる現代語訳の提供においては、最初のうちに問題点を明確にし、早い段階で方針を固めたいと思います。

 いつものように2時間ほど検討会をし、新宿駅から地下鉄で帰ろうとしていた途中で、地震のために電車が急停車しました。震度3だったため、安全のために停車したのです。
 車内の電気が消えなかったからよかったものの、この地下からどうして逃げようかということに神経が集中しました。
 妻にメールを送ったところ、宿舎も震度3で、相当揺れたようです。

 東京は連日の地震です。震度は3止まりとはいえ、何となく不気味な日々です。
 ここしばらくは、この地震のことで話題は持ちきりだと思います。
 何もないことを祈るのみです。
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | ◆源氏物語

2012年03月13日

色紙の禅語「竹葉々起清風」

 先日、大徳寺の前田昌道老師がお書きになった禅語の色紙と短冊のことを記しました。

「大徳寺瑞峰院老師の書「放下着」」(2012年3月 8日)

 手元にはそれに加えて、大和西大寺の谷口光昭長老の揮毫になる色紙があるので、そのこともここに記しておきます。
 
 
 
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 「竹葉々起清風」(たけ ようよう せいふうを おこす )とあります。

 このことばは、虚堂禅師の『虚堂録』にある七言律詩「衍鞏珙三禪コ之國清」(衍・鞏・珙の三禅徳、国清にゆく)を縮約したものです。門弟が天台山の国清寺にある三隠(寒山、拾得、豊干)の遺蹟を尋ねに行く際、虚堂禅師のもとへしばしの挨拶に来たときのものです。
 私は、今から5年前の3月に、伊井春樹先生とご一緒に杭州へ行った折、山深い天台山に登りました。そして、その山中の国清寺にも足を踏み入れました。
 
 
 

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 その時には、この三隠について関心がなかったせいか、そのような遺跡があったのかさえ思い出せません。しかし、とにかく奥深い山の中を登ったことは記憶に新しいところです。空気は澄み渡っていました。ちょうど今頃の季節で、風が冷たかったのでマフラーをしていました。俗界を離れた天空の寺、という感じのところでした。
 我々は車を使いました。ここを歩いて登るとなると、気が遠くなるほどの時間がかかります。天台山へ登るためにしばしの暇乞いというのも、当時は車などなかったのですから当然です。元気でな、身体に気をつけて、と虚堂禅師は声をかけたはずです。

 元の詩は以下の通りです。


誰知三隱寂寥中(誰か知らん三隠寂寥の中)
因話尋盟別鷲峰(話に因って盟を尋いで鷲峰に別れんとす)
相送当門有脩竹(相送りて門に当たれば脩竹あり)
為君葉々起清風(君が為に葉々清風を起こす)


 色紙の添え書きによれば、これは、旅立つものや出発するものへの祝福を言うことばだ、とあります。もっとも、これはいささか強引で、プラス思考での解釈という感じがします。もう一歩手前の意味に留めておくべきでしょう。

 元の詩を読むと、私には惜別の情と旅の平安を願う思いの方が強く感じられます。もちろん、「竹葉々起清風」だけを切り出してみると、相手を送るにあたって竹の葉擦れの音がさやさやと心地よいのと、笹の葉が起こす清風の爽やかさに相手を思いやる気持ちが表れています。旅立ちにあたって、道中の息災を願う情感も込められています。「さ」という清らかな音が、その背景に聞こえて来ます。

 禅語として理解すると、相手を思いやる気持ちを汲み取るといいのでしょう。決して、永の別れではないのです。自立することによって生まれる、求道の旅によって生まれるしばしの別れなのです。「行ってこい」という気持ちも伝わってきます。

 「脩竹」は、細長い竹のことです。青竹でもあり、竹藪でもあるのでしょうか。
 私には、しなやかな青竹のように思われます。

 笹擦れの音と清風が肌をかすめる心地よい感触に、何かを求めて新しく生きようとする者の成長を願う気持ちが感じられます。
 人の生きざまのこれからを見ようとする心から、穏やかな気持ちの安らぎが生まれてくるようです。

 新春早々、私の転居と娘の結婚ということにおいて、ちょうど我が家の今の状況を表すものとして、まさにぴったりのことばです。
 この書は、お茶席では1年を通してよく掛けられるそうです。
 私も、折々に目に触れるようにして、この静寂の境地を楽しみたいと思っています。
posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | 古典文学

2012年03月12日

米子にある稲賀敬二先生のお墓へ

 日南町からの帰りに、広島からお越しの妹尾好信先生が、米子にある恩師稲賀敬二先生のお墓参りをなさるということです。そこで、池田研二先生と私も、ご一緒させていただくことになりました。

 稲賀先生は、池田亀鑑の晩年の『源氏物語大成』のお仕事を手伝われました。そのころの写真も何枚か残っています。『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」』で、また紹介します。
 池田研二先生も、稲賀先生の広島のお宅にいらっしゃったことがあるそうです。

 稲賀先生の広島大学での教え子が伊井春樹先生であり、妹尾先生です。伊井先生の教え子の一人が私であり、妹尾先生の教え子が小川陽子さんです。こうしたメンバーで、池田亀鑑賞の選考委員は構成されています。

 私にとっての稲賀先生は、1999年秋の国文学研究資料館におけるシンポジウムで、先生がおられる広島大学と国文学研究資料館をインターネットで繫ぎ、国文学研究資料館で進行するシンポジウムに広島大学から中継によってスクリーンに大写しにして参加していただいたことが忘れられません。この時のことは、『源氏物語の異本を読む―「鈴虫」の場合―』(臨川書店、平成13年)に、写真入りで詳しく報告しています。

 その準備のために事前に広島へ行って、稲賀先生と打合せをしました。妹尾先生の細やかなご配慮の元、インターネット中継は大成功でした。

 また、私が書いた拙い論文を送ると、いつもすぐにアドバイスを含めての返信が来ました。ありがたい先生でした。

 米子から水木しげるで有名になった境港へ向かって北上し、井上靖記念館や米子空港の先の上道神社の中の墓地に、稲賀先生のお墓はありました。
 
 
 
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 立派な稲賀家のお墓でした。手前右が、分家である稲賀先生のお宅のお墓です。
 何度も来ておられるという妹尾先生は、お酒が大好きだった稲賀先生のために、小さな御神酒をそっと供えておられました。
 
 
 
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 この墓地を歩いていると、我が家と同じ家紋である丸に九枚笹がたくさん墓石に彫ってありました。この地域に多い家紋なのでしょうか。我が家の実家が島根県出雲市であることと、何か関係があるのでしょうか。あまりにも多いので、気になりました。

 近くの夢みなとタワーの下で、新鮮なお刺身で食事をしました。
 このタワーの格子状のフレームは、何と先ほどまでいた日南町の杉の集成材だったのです。温もりのある設計です。
 
 
 
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 今回の鳥取の旅は、イベントも大成功で、さらには稲賀先生の墓参もできました。
 充実した時の中に身を置くこととなり、ゆったりとした気持ちで帰路につくこととなりました。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | 池田亀鑑

2012年03月11日

池田亀鑑の生い立ちに関する新事実

 池田亀鑑の生い立ちに関して、新しいことがわかりました。
 池田亀鑑は、明治29年12月9日、鳥取県日野郡福成村大字神戸上(かどのかみ)下代(しもだい、現日南町)の寄留先であった後藤宅で生まれました。
 このことは確かです。ただし、私はこの背景に、池田とらと後藤とらの2人のとらさんが、同じ屋根の下で10月10日を共にしていたことに、何か吹っ切れない疑念を抱いています。ただし、今はそのことは措いておきましょう。

 明治41年6月に、池田家は累代の居住地である日野郡久古村(旧岸本町、現伯耆町)に、父宏文の転勤もあって転居します。それまでは、この現日南町の神戸上下代の後藤宅に間借りをしていた、と私はこれまで報告していました。しかし、このことを修正する必要が生じたのです。

 昨日、池田亀鑑賞授賞式の後、池田亀鑑文学碑を守る会のみなさんとの懇親会の席上でのことです。池田亀鑑のご子息である池田研二先生から、新しい情報があるようなので一緒に聞いてほしいとのことでした。
 守る会の会長である加藤和輝さんと、会員の金田浩さんからその詳細を伺いました。

 池田家に関することを思い出されたのは、今回の池田亀鑑賞の授賞式の話を金田さんがなさったことに端を発しているのだそうです。池田亀鑑賞がこのような記憶を呼び覚ます力を持っていたとは、本当にありがたいことです。

 さて、金田さんと話された福田さんの話によると、お母さんから聞いているのは、亀鑑が下代の後藤宅にいたのは、2歳までだったというのです。

 これまで私は、明治41年(亀鑑満12歳)の6月に、亀鑑生誕の地である神戸上下代の後藤宅から、久古の貝田原にあった校舎の中で池田一家の生活が始まった、と考えていました。しかし、昨日の情報によると、明治31年の亀鑑2歳の時に後藤宅を出て小学校に近い砂田に転居し、その10年後の明治41年6月に、そこから久古に移ったことになるのです。

 これまで私が信じていたように、亀鑑は生まれてから12年間ずっと後藤宅で育ち、いわば乳母子でもあるかのような後藤孝重さんと共に育った、というのは正確ではないようです。
 これでは、池田亀鑑賞の授賞式が終わったからといって、このまま帰るわけにはいきません。

 このことを確かめるために、今朝早く、その情報をお持ちの福田宅に連れて行っていただき、福田澤枝さんと金田さんにお目にかかり、この件に関してお話を伺いました。池田研二先生もご一緒でした。

 福田さんのお話によると、お母さんから聞いた話だがとして、池田家は亀鑑が2歳の時に、かつて砂田にあった旅館か料理屋をしていた2軒の長屋が空き家になったのを機会に、後藤宅から引っ越しをしたそうだ、とのことです。
 亀鑑の随筆集『花を折る』に、砂田のことは書いてあるのではとも。(これから確認してみます。)

 そして、亀鑑と後藤孝重さんは1日違いで同じ屋根の下で生まれたこともあり、孝重さんは成人すると上石見に出たが、その後も2人は連絡を取り合っていたようです。
 石見東小学校の校庭横にある亀鑑の石碑の文言は、亀鑑が書いたものを、米子の公民館長をしていた足立サンジさんが仲介人となって孝重さんに渡されたものだそうです。それを石に刻んだのが、今の顕彰碑ということになるのです。

 昨年3月に私もお目にかかってお話しした、孝重さんの跡を継いだ道之さんは、亀鑑の手紙などを保管しておられましたが、近年処分され、昨年お亡くなりになったのだそうです。

 孝重さんの家のすぐ下の佐々木さんの家は、福田さんのお母さんと佐々木さんのお母さんが姉妹ということもありよく知っているが、あそこに亀鑑さんが小さかった頃のみんなの集合写真があったように思う、とのことを、お母さんから聞いた話として語ってくださいました。
 折を見て確認していただけるようにお願いをしてきました。

 さらに興味深いことがわかりました。
 この福田さんのお宅は、池田亀鑑のみならず、井上靖、松本清張とも関係のある家だったのです。
 福田さんの従兄弟が京都の学校で勉強をしていた時、お世話になった先生の奥さんと井上靖の奥さん(京都大学教授足立文太郎の娘ふみ)が親戚だったのです。いつぞやは、井上靖の奥さんがお忍びで従兄弟の墓参に来られたのだそうです。また、井上靖に関する野分の会の会長をなさっている伊田さんの家の磯次さんは、この福田家に養子に来ておられます。そして、その伊田さんが、井上靖の疎開の紹介をしている同級生だとも。

 さらには福田さんのお母さんの話によると、松本清張の父親峯太郎の母親とよは、この福田家から出ているのだそうです。早速調べてみると、峯太郎の父親は日南町の田中雄三郎です。ただし、初めて私がこの日南町に来たときに、町内を案内してくださった足羽先生の調査を踏まえたお話と、清張の父親を巡るお墓に記されている内容などから、この松本清張の出生についてはまだまだ謎が多いように思っています。清張は、終生自分の出生について漠然とした不安を抱きながら、あの強靱な執筆生活に没頭していたようです。

 そうしたことが、この福田家をめぐる話をたどっていくと、なにがしかのヒントが得られそうです。
 こうしたことは、私の専門外です。しかし、興味深いことなので、少しずつでもわかったことを、今後とも報告していきたいと思っています。

 帰りがけに、玄関の右の建物が、かつて池田亀鑑が移り住んだ砂田にあった長屋を移築したものだとのことでした。大分小さくしているが、とも。
 ちょうど折悪しく、大雪になったところでした。吹きすさぶ雪の中で撮影したものですが、とにかく掲載しておきます。
 
 
 

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 また、池田家が移り住んだ家があった砂田の地へも、雪が降りしきる中を金田さんが案内して下さいました。ここ数日は雪がやみ、少し温かくなったのに、また雪が降り積もりだしたのです。
 
 
 
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 この、かつて池田亀鑑が2歳から12歳までの10年間住み、ここから200メートルほど下ったところにある小学校に通ったという池田家の跡地は、雪に埋もれているので今は想像するしかありません。

 それでも、こうしていくつかのことが、より正確にわかりだしたのです。

 いろいろな情報を思い出しながら教えて下さる日南町のみなさまに、この場を借りてあらためてお礼申し上げます。
 教えていただいたことを元にして、ジクソーパズルの齣を1つずつ組み合わせるように形を整えていきたいと思っています。

 行く先々で、あなた10年前に来てくれていたら、いろいろな人の話が聞けたのに、とおっしゃってくださいます。
 そうなのです。しかし、10年前は勉強不足で問題意識に乏しかったので、お話をお聞きできても、私には消化不良だったと思われます。遅まきながら、いまから少しでもジグソーパズルの齣を並べ、もとの形の復元に微力を捧げたいと思います。
posted by genjiito at 23:49| Comment(0) | 池田亀鑑

2012年03月10日

盛会だった池田亀鑑賞の授賞式

 第1回池田亀鑑賞授賞式および記念講演会は、鳥取県日野郡日南町の総合文化センター・多目的ホールで開催されました。
 2年前の3月、「もっと知りたい 池田亀鑑と『源氏物語』」という講演会を仕掛け、その時の懇親会の席で池田亀鑑賞の設立を提案しました。そして、昨年3月の講演会でこのことをさらに具体化させ、池田亀鑑文学碑を守る会の了承を得、5月に『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』の刊行とともにその実現を公表しました。
 そして今日、みなさまの理解と協力の下、晴れて第1回の授賞式となったのです。

 選考委員長をお引き受けいだいた伊井春樹先生も、お忙しいところを無理を押して駆けつけて下さいました。
 明日の午後には大阪で講演会があるため、明朝早くにお発ちになます。そのような中でも足を運んで下さったことに感謝しています。
 久しぶりに、乞われるままに、ご一緒に記念撮影です。
 
 
 
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 池田亀鑑賞については、ここまで来るのに2年という時間がかかりました。しかし、意義深い賞の設立と実現に立ち会え、楽しく事を進めることができました。関係者のみなさまに感謝しています。

 さて、今日はあいにくの曇り空でした。しかし、式が始まる午後になると晴れ、会場も100人近い方々で埋め尽くされました。これまでに何度か訪れた地ということもあり、さまざまな方から労いの声をかけていただきました。ありがたいことです。

 授賞式は、以下の流れで進みました。

【第一部】第一回池田亀鑑賞授賞式

 ■主催者挨拶 加藤和輝・池田亀鑑文学碑を守る会会長
 ■杉田昌彦氏へ加藤和輝会長から賞状と賞金授与
 
 
 
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(賞状・文面)

 第一回池田亀鑑賞
    作品名 宣長の源氏学
    著者  杉田昌彦殿
右作品に第一回池田亀鑑賞を
贈呈し永くその栄誉を称えます
     平成二十四年三月十日
池田亀鑑文学碑を守る会
   会 長  加藤和輝
   選考委員 伊井春樹
        伊藤鉄也
        池田研二
        小川陽子 
        妹尾好信


 ■副賞を朝日新聞鳥取総局長・西出 光氏から贈呈
 
 
 
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 ■池田亀鑑賞選考理由を兼ねて選考委員長挨拶
      池田亀鑑賞選考委員長 伊井春樹氏
 
 
 
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 選定理由と挨拶の内容は以下の通りでした。
  ・国学者の源氏物語研究は池田亀鑑の研究と重なる
  ・宣長の文献学的な研究を資料を漁って調べたもの
  ・日本の文化・文学を豊かにしていくためにもこの賞は意義深い
  ・これを機会に豊かな町作りにも励んでいただきたい

 ■来賓挨拶 日南町長     増原 聡 様

 ■来賓紹介 日南町教育委員長 立脇兌昶 様
       日南町議会議長  村上正広 様

 続いて、第1回池田亀鑑賞受賞者である杉田昌彦氏の記念講演に移ります。
 演題は「本居宣長と『源氏物語』」です。
  ・何故に宣長は『源氏物語』に傾倒したのか
  ・宣長の「もののあはれを知る」説について
  ・宣長の本文研究は無念なものだった。それを池田亀鑑が晴らそうとした
 杉田氏の熱弁に、会場のみなさまは聴き入っておられました。

【第二部】もっと知りたい池田亀鑑と「源氏物語」講演会
 ■講師 阪急文化財団逸翁美術館館長・伊井春樹氏
   演題 「池田亀鑑による日本古典文学研究の世界」
 ドナルド・キーンさんが日本への永住権を獲得したことにはじまり、いつもの優しい語り口で聴衆を惹き付けておられました。いつ聴いても、うまい話の展開です。
 池田亀鑑の業績と評価を交えて、『校異源氏物語』から『新構源氏物語』へと進みました。
 ここでは、『源氏物語評釈』25巻と『源氏物語研究』10巻の計画が実現しなかったことにまで及びます。
 そして、『源氏物語大成』の意義について語られました。

 続いて、池田亀鑑のご子息である池田研二氏です。
 ■講師 元東海大学教授・池田研二氏
   演題「父の思い出あれこれ」
 
 
 
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 医工学(医療技術)という学問を専門にしたのは父の仕事を避けたためであることに始まり、学問ではなくて家族のことを話されました。
 池田亀鑑がラジオで語った『枕草子』の話を録音したものを会場に流されました。池田亀鑑の声を聴いたのは、この会場に集まった方々すべてが初めてだったはずです。これも、みなさん聴き入っておられました。
 また、池田亀鑑の娯楽はラジオでお笑い番組を聞くことで、漫才はエンタツ・アチャコが好きだった、とか、歌謡曲は春日八郎の「お富さん」、美空ひばりの「りんご追分」がお気に入りだったとか。人間池田亀鑑を彷彿とさせるお話でした。

 ■閉会挨拶 田邊眞幸・協賛/石見まちづくり協議会会長
  池田亀鑑の人となりをあらためて痛感した1日だったということを語られました。
  また、今後の町作りの一環として、池田亀鑑賞の意義が深い点にも及びました。

 会場に集まったみなさまは、池田亀鑑という一人の人間について、さまざまな角度からのお話を聞かれ、郷土に対する親愛の情と共に、もっと知りたいと思われたことでしょう。

 来年も第2回が盛大に開催できるように、さらなる活動の気持ちを高めようと、運営に当たったみんなで確認しあいました。
posted by genjiito at 22:51| Comment(0) | 池田亀鑑

2012年03月09日

池田亀鑑の生誕地日南町にまた来ました

 岡山県から北上して県境のトンネルを抜けると、すぐに鳥取県の最南端に位置する上石見駅があります。
 ここまで南に流れていた高梁川は、この分水嶺を境にして日野川となって北に流れます。

 上石見駅は、井上靖の『通夜の客』の舞台です。井上靖が好きな私にとって、ここは池田亀鑑と共に何度来ても飽きない所です。
 
 
 
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 岡山で乗り換えた特急やくもが、鳥取県に入って最初に止まる生山駅で、池田亀鑑のご子息である研二先生と落ち合いました。
 駅には、池田亀鑑文学碑を守る会の役員で日南町教育委員長の立脇兌昶氏が出迎えに来ておられました。そして、車で町内の案内もしてくださいました

 今年は、雪が少ないようです。昨年も、一昨年も、3月に来ました。共に雪の日南町でした。今回は、新鮮な目で雪の積もっていない町を見ることになりました。

 松本清張の記念碑のあるところは、工事中でした。訪れる人が多くなっているようです。
 
 
 
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 そこから大回りして行った井上靖記念館「野分の館」は、相変わらずひっそりとした佇まいです。
 野分の会のみなさんの心遣いで、いつもきれいに整理整頓されています。
 
 
 
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 中に、映画『わが母の記』のポスターが貼ってありました。これは、井上靖の自伝小説を映画化したもので、今年のゴールデンウィークに封切りとなります。脚本・監督は原田眞人、配役は役所広司、樹木希林、宮崎あおいという、豪華なキャストです。第35回モントリオール世界映画祭審査員特別グランプリ受賞、第16回釜山国際映画祭クロージング作品という高い評価をすでに得ている映画です。
 
 
 
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 『通夜の客』に出て来る、上石見駅から小説の舞台である福栄村までの二こぶラクダの道に、新しく説明板が作られました。これは、昨年の3月に開催された講演会の後に建てられたものです。
 この坂道の先に上石見駅があり、当時は左の茂みの中を通って下っていったのです。
 
 
 
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 次は、今回の目的である池田亀鑑に関する所へ案内していただきました。
 私は何度も来ていますが、池田研二先生が相当前のことだとのことなので、あえて回ってもらいました。
 池田亀鑑が通い、父が校長をしていた小学校の入口の右側に、新しく案内の標識が建っていました。これも、昨春はなかったもので、昨年末に設置されたものでした。
 
 
 
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 そして、小学校があったところに登ると、伝え聞いていたように学校が取り壊され、ソーラーパネルを敷き詰める工事が始まっていました。
 
 
 
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 池田亀鑑の碑は、いつものように建っています。これまで、ずっと雪の中の碑を見ていたので、雪のない碑は新鮮です。その後ろに、二宮金次郎の石像があることに気付きました。これがいつ建てられたものなのか、亀鑑が通っていた頃にすでにあったものなのか、調べていただくことにしました。
 
 
 
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 この金次郎の周りの石が苔生している様は、時の流れを感じさせるものです。大いに気に入りました。ここも、是非とも庭園として残していただけるといいですね。池田亀鑑文学碑を守る会のみなさんも、そのようにお考えのようです。

 校庭の片隅に、亀のような彫り物が施された石が置いてありました。
 
 
 
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 これは、今年の年末に新しく池田亀鑑に関する碑と施設を作るときに活かされるものだそうです。石は、すでに池田亀鑑の随筆集『花を折る』の中から採った碑文を刻む作業が進んでいるのだとか。池田亀鑑の顕彰が、少しずつ進んでいることがわかりました。

 すぐ近くの、かつて小学校があった所には、池田亀鑑が住んでいた家への標識が、これまた新たに設置されていました。ただし、石柱が建っている家にお住まいの方の意向で、あまりはっきりとはさせないように配慮した、とのことです。
 
 
 

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 少しずつですが、池田亀鑑に関する案内も親切になっています。

 宿から見た日南町の山々は、神秘的な美しさを映し出しています。
 この右先が島根県の奥出雲です。さらにその北にある出雲市が、私の生まれ故郷になります。
 
 
 
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 明日は、第1回池田亀鑑賞の授賞式です。
 どのような式典になるのか、今から楽しみです。

 今、このブログは、宿泊先である「ふるさと日南邑ファームイン」の事務室からアップしています。
 昨年の部屋が改装され、ホテルのような個室になっていて驚きました。部屋にバストイレが付き、ツインベッドの部屋が整ったのです。これで、お客さんの受け入れは万全です。
 それよりも何よりも、昨年ここに泊まった夜は、ちょうど東日本大震災があった3月11日の夜でした。この事務室で東日本の惨状を宿直の方と一緒に見ながら、あの日のブログをアップしました。

「日南町の井上靖と池田亀鑑」(2011年3月11日 (金) 午後 10時45分)

 今日も、同じ宿直の方と昨年のことを話ながら、大震災の時に撮影された自衛隊のビデオを見ながら、こうしてこのブログをアップしています。
 あれからちょうど1年経ったことを、あらためて思い起こしています。
posted by genjiito at 22:59| Comment(0) | 池田亀鑑

2012年03月08日

大徳寺瑞峰院老師の書「放下着」

 京洛紫野にある大徳寺瑞峰院は臨済宗大徳寺派の塔頭の1つです。その住職である前田昌道老師(昭和14年〜)の揮毫による書を手に入れることができました。しかも、短冊と色紙の揃いです。
 
 
 

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 大徳寺の第153世の住持となった沢庵和尚の墨蹟に、横書きの「放下着」と認めた豪快な書が熊本の「永青文庫」にあります。
 一休禅師、村田珠光、千利休とつながる茶道の伝統を踏まえた茶掛けは、四季折々に茶室などで愛用されたそうです。

 今回偶然入手できたものは、この言葉を瑞峰院の前田昌道老師が書かれたものです。
 これは「ほうげじゃく」と読み、禅の悟りの境地を表すことばです。
 「着」は命令・強調の助辞で「放下せよ」ということです。

「捨ててしまえ」
「何もかも捨てた時に悟りが得られる」
「迷いも悟りも全て放下して無一物になれ」

 これは、物質的なものだけではなくて、執着心も含めたすべてを捨てよ、ということのようです。

 まだ、私には理解の及ばない考え方です。しかし、庵の生活を目指すこのごろ、身の回りのものを少しずつ始末しています。まずは本、そして録画録音していたメディア等々、物質的なものを処分するのにも相当な覚悟がいります。メモ類は、まったく捨てられません。

 「捨てる」とは、本当に身を切る思いがします。しかし、きれいさっぱり捨てると、爽快感はあります。逡巡と後悔の念が付いて離れないので、悟りとは縁遠い日々です。それでも、身軽に生きることを、少しですが実践している気にはなっています。

 まだまだ、身の回りには不要なものが散乱しています。これらがきれいになるのはいつのことなのか、杳として見えません。しかし、着実に捨てていこうという覚悟をしていた時に、この「放下着」という書に出会ったのです。これも何かの縁だと思っています。

 悟りなどとは無縁な日々です。しかし、この1つのことばをお茶室に掛けて、ゆったりとお茶をいただきたいと思っています。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | 健康雑記

2012年03月07日

第1回 池田亀鑑賞の授賞式のご案内

 第1回池田亀鑑賞の授賞式が、今週土曜日に鳥取県の日南町で開催されます。
 近在の方、および参加をお考えの方は、現地会場にお越し下さい。特に定員や予約は設定していませんので、ご自由にどうぞ。

 このことは、すでに「池田亀鑑賞ホームページ」で告知されていますが、再度引用して紹介します。


■日時:平成24年3月10日(土) 午後1時30分〜4時00分
 
■場所:日南町総合文化センター 多目的ホール
   〒689-5212 鳥取県日野郡日南町霞785
   TEL:0859-77-1111
   http://culture.town.nichinan.tottori.jp/
 
■内容1:第一部(午後1時30分〜2時30分)

 池田亀鑑賞授賞式および受賞者記念講演
  「本居宣長と『源氏物語』」
    杉田 昌彦 氏
     ■東京大学大学院卒
     ■明治大学准教授、博士(文学)
     ●『宣長の源氏学』(平成23年11月 新典社刊)
 
■内容2:第二部 (午後2時40分〜4:00)
 
 もっと知りたい池田亀鑑と「源氏物語」講演会
 
 (1)「池田亀鑑による日本古典文学研究の世界」
     伊井 春樹 氏
      ■池田亀鑑賞選考委員長
      ■阪急文化財団逸翁美術館館長
      ■大阪大学名誉教授
      ■前国文学研究資料館館長

 (2)「父の思い出あれこれ」
     池田 研二 氏
      ■池田亀鑑子息
      ■元東海大学教授
 
■参加費・資料代:300円


 なお、朝日新聞の鳥取版に、今回の池田亀鑑賞のことが記事になりました。これも、池田亀鑑賞ホームページから画像としてご覧いただけます。今回の授賞式では、朝日新聞鳥取総局長から副賞が授与されることになっています。
 また、いくつかの放送局が取材に来られるようです。山陰地方では、3月10日夜のニュースで取り上げられることでしょう。

 昨年『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」 第1集』を刊行したことを機に、池田亀鑑賞を設立されました。そして、無事に第1回の授賞式に至ったことを、関係者の一人として喜んでいます。
 今後とも、ますますこの池田亀鑑賞が広く知られ、コツコツと努力された成果や地道な研究を後押しする文学賞となるように、みんなで大切に育てていきたいものです。
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | 池田亀鑑

2012年03月06日

レガシーデバイスとなった録音録画テープの処分

 京都でも東京でも、庵の生活を実践するために身の回りを整理しています。
 このところ、ビデオテープとカセットテープの処分を続けています。
 録画したビデオテープは1500本くらいはあるでしょうか。そのうち7割はソニーのベータテープです。

 処分の方針として、まず映画のほとんどを捨てることにしました。大半が日本映画です。
 VHSの映画などはコピープロテクトがかかっているものが多くてコピーできなかったのですが、それをベータにはコピーできるものが多かったのです。
 画質は、VHSよりもベータの方が格段に上でした。そのため、老後の映画鑑賞に備えるという名目で、たくさんの映画をベータ方式のテープにコピーしていました。今でも、スクリーンが準備万端用意してあり、いつでも家の中で映画鑑賞ができます。もっとも、液晶テレビが大きくなり、我が家のスクリーンと大きさが違わないのが悩ましいところです。

 録画した映画に関しては、今ではそのほとんどがDVDになっているので、捨てても惜しくはありません。ただし、昔のテレビドラマなどは、まだDVDになっていないものもあります。そうしたものは、しばらく残しておくことにしました。

 今回の整理で一番の収穫は、ずっとネットなどで探していた井上靖の『通夜の客』を絵画化した『わが愛』を、なんと録画していたのです。そのことを忘れて、長い間さがしていたのです。とにかく、気になったものは何でもかんでも録画していたようです。

 家族を撮ったビデオも残します。長女が赤ちゃんの時のものは、すべてベータのテープに収録されています。長男の途中から、Hi8のテープになっています。次男はデジタルテープです。ビデオカメラが歴代のソニー製品だったためです。
 子どもたちそれぞれに、成長の記録もテープが異なるところがおもしろいところです。さすがに、シングル8用のフイルムはありません。

 子どもたちの為に、お子様向け子供番組を録画したテープもたくさん出てきました。ゴジラ、ガメラ、大魔神、ウルトラマン、仮面ライダーなどなど。これは、VHSがほとんどです。ベータほど高画質である必要性がなかったからでしょうか。この処分には、迷いがありません。

 次は、音楽を録音したテープです。
 私は、オーディオのノイズリダクションシステムに関しては、東芝の adres(アドレス)方式がいいと思ってそれで録音をしていました。主流だったドルビーBではない方です。
 その後、ドルビーC方式が出ると、この adres も姿を消しました。今となっては、雑音の処理は問題ではありません。残すか残さないかです。
 ブルックナーの曲は、ざまざまな版を持っているので、すべて残すことにしました。
 ラジオ等でタイマー録音した文芸関係のものも、聴くことがありそうなのでとりあえず残します。
 FMラジオを録音した膨大な音楽テープ群は、すべて処分です。
 そういえば、1980年前後は、複数台のデッキとタイマーを駆使して、FM放送を片っ端から録音していたことを思い出しました。「昼の歌謡曲」などまでも。
 私の部屋は、飛行機のコックピットと見紛うばかりに、機器や計器や切り替えスイッチが書棚の一角をビッシリと埋めていました。

 私がオーディオやパソコンのケーブルを買い漁っていたのは、こうした用途のためだったのです。
 奈良から京都に引っ越しするときに、これらのケーブルの大半を処分し、今回の転居でもビニール袋3袋分を捨てました。それでもまだ残っているので、奈良の家でのこの電線の重さだけでも相当なものだったことになります。
 とにかく、線さえつながれば、音も映像も文字も何とか移動させられます。メディアの違いもクリアできるので、こうしたケーブルは必需品だったのです。しかし、ネットが日常生活に入ってきたので、わざわざケーブルを使ってデータをやりとりする必要がなくなっているのです。

 今回、千本ほどのビデオやカセットやケーブルを処分できたのは、ネットの存在が大きいといえます。また、個人が常時手元に持っている必要がない社会になったことも、大きな要因です。

 今、思案しているのはレコード盤です。LP、EP、SP、ソノシートなどが、まだ手元に残っています。レコードプレイヤーは1台だけ残しているので、これで聴こうと思えば聴けます。しかし、果たしてレコード針を調達して聴くかどうかです。よほど珍しいものは別です。しかし、見たところ、手元にはそのようなものは少ないようです。1970年代のものが大半です。

 オープンリールの録音テープは、1台だけ残している東芝の「カレッジエース」で聴けるものが数本あるだけです。これは、今では貴重な機器なので、残しておきましょう。
 この「カレッジエース」は、高校時代だった1960年台後半にエレキのバンドを組んでいたので、その時に作詞作曲したものを録音してあるのです。秘密の匂いのするテープなのです。自分の過去を消すような気がして、どうしても処分しきれないままに来ています。

 こうしたレガシー・デバイスとでも言うべきものの始末は、思い入れがある内は捨てきれないのです。しかし、庵の生活を意識すると、これらは当然処分対象です。
 すでに大半を処分してきたので、これらは時間の問題としておきましょう

 そんなこんなの日々の中で、こうした過去とつながるものを捨てることは、非常に気持ちが疲れます。悩みを吹っ切るのは、潔さや爽快さと共に疲労も蓄積します。

 こんな、見ようによってはどうでもいいことに頭を悩ませるという、幸せな日々の中にいます。忙しい時に限って、こうしたことが気になってしかたがないのです。
posted by genjiito at 23:51| Comment(0) | 回想追憶

2012年03月05日

米国議会図書館蔵『源氏物語』の翻字本文が第41巻「幻」まで公開されました

 ちょうど1年前に、国立国語研究所の高田智和先生のプロジェクトの一環として、米国議会図書館アジア部日本課が所蔵する『源氏物語』(全54冊、 LC Control No.:2008427768)の翻字本文が公開されました。
「米国議会図書館蔵『源氏物語』翻刻本文の試験公開開始」(2011年3月24日)
 その時は、第1部にあたる初巻「桐壺」から第33巻「藤裏葉」まででした。

 本日、その続きとなる第2部の第34巻「若菜上」から第41巻「幻」までの8巻が追加され、改めて翻字が公開されました。

「米国議会図書館蔵『源氏物語』翻刻本文」(2012年3月5日)

 この本は、まだ研究の手が入っていない『源氏物語』の写本です。
 また、このようにして全文の翻字が公開されることは、『源氏物語』の本文研究を飛躍的に発展させることにつながります。

 まだ、この翻字は第3部の第42巻「匂兵部卿宮」から第54巻「夢浮橋」が残っています。
 これは、来年度の仕事となっています。

 この翻字データを通して、お気づきの点がございましたら、本ブログのコメント欄を通してお知らせいただければ幸いです。
 よりよい、正確なデータにしていくためにも、ご協力のほどをお願い致します。
posted by genjiito at 23:50| Comment(0) | ◆源氏物語

2012年03月04日

楽しみな結婚式後のお茶会

 小雨の中を、大和・平群へお茶のお稽古に向かいました。
 平群は、生駒山の中腹で小高い丘陵地にあります。コミュニティバスが通っています。
 
 
 
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 しかし、この地に5年前まで20数年間住んでいたときにも、バスはあまり使いませんでした。この急な坂道を登り切った所にあった我が家に着いた時の、適度な疲労感が心地よいのです。

 もっとも、多少お酒が入った時には、一気には坂を登れません。そのためという訳ではないのでしょうが、写真の左下にあるように青いベンチが途中の数カ所に置いてあるのです。ここで一休みして、息を整えながら帰ったものです。

 月に2回のお稽古を目指しています。しかし実際には1回がやっとです。
 これも続けることが大事なので、身構えずに、できる時にできることを、という気持ちで取り組んでいます。

 さて、今日も薄茶のお稽古です。それも、娘の結婚式で集まった方々に一服差し上げるため、5人のお客さまを想定しての練習です。
 前回やったはずなのに、最初からお茶碗を二つ持って出るのを忘れたり、返って来たお茶碗を取り込むタイミングを逸したりと、中々思うに任せられないものです。

 先生からは、柔軟に対応したらいいから、との優しいアドバイスをいただきます。しかし、その多彩だといわれるバリエーションの実態がまだよくわからないので、その柔軟さの程度も加減がわからないのです。これも、場数をこなすことでわかってくることなのでしょう。

 水差しを置く位置、柄杓の取り方、お湯を汲む量、袱紗捌きの時に腕を伸ばすこと、全体としてもっと胸を張って背筋を伸ばすこと、道具を下げる時の足の運び方、などなど。いつまでも初心者というわけでもないので、一つ一つ自然にできるように気を配っていきたいと思っています。

 昨日も、姉や妻にお茶を出して少し練習をしました。しかし、自分勝手な思い込みでやっていたこともあり、いろいろと違っていたことがわかりました。やはり、お稽古を通して身体で覚えるのが一番近道のようです。

 一つ、褒めてもらいました。お茶の点て方がうまくなったと。茶筅でかき混ぜた後、ゆっくりと泡を優しく撫でるようにすると、柔らかい泡に包まれたお茶になるようです。
 正座は以前から長時間座ることができました。しかし、お茶では途中で膝で左右に身体の向きを変えたりします。私は身体の筋肉がすっかり落ちてしまったので、畳を擦る骨が痛むのです。ところが、先生が言われる通りに膝と踵を少し開き気味にして座っていると、その痛みが少ないのです。いろいろと工夫があるものです。

 今日は、お稽古以外にお茶の道具などのこともたくさん教えていただきました。
 床の間に掛ける軸のこと、お花と香盒のことも。
 昨日は茶釜の金気を取るために番茶を沸かしました。その後始末については、ぬるま湯で2回ほど沸かしたらいいそうです。

 そうそう、娘の結婚式の中で、新郎新婦が両親に立礼のお作法でお茶を点てるという場面があります。その時に使う釜は、昨日金気を抜いて錆び取りをした茶釜ではなくて、風炉用の釜を使うということがわかりました。その釜も夏までは使わないので、押し入れに置いてあるだけです。早速、これも金気を抜いておく必要があります。
 これは、ぬるま湯にお酒を一杯ほど入れて、一日沸かすのだそうです。その後、もう一回お湯を沸かすといい、とのことです。

 道具の扱い方もこうして書いておかないと、次に何かあった時に、またおろおろすることになります。
 先達者はあらまほしきことかな、ということを実感しつつ、丁寧に教えていただけることに感謝しています。

 式が終わった翌日、参会してくださった親戚のみなさんに、我が家でお茶を一服差し上げる予定でいます。その日のための練習を、こうして今やっているのです。その席に、新郎新婦も来てくれることになりました。これは、楽しいお茶会になります。みんなで楽しめることが一番ですから。
 おそらく、お作法などなしの談話会になることでしょう。しかし、お茶をいただきながら話が弾むのも、これまた楽しいお茶会と言えるでしょう。
 そうは言っても、娘と私、そして妻の実家の義兄はお茶の心得があることになっているので、そこは気を引き締めて、簡素な中にも品のあるお茶をみなさんに差し上げたいと思っています。

 さて、この一風変わったお茶会はどうなりますことか。
 今から楽しみです。

 お稽古が終わってから、娘夫婦と西大寺の駅前で焼き肉を食べました。
 よく喋り、たくさん食べました。楽しくておもしろい家族が増えたことを喜んでいます。

 帰ってから、気になったので血糖値を測ってみました。200近い数値を想像していたら、なんと71なのです。これは低すぎます。先ほど、少しお腹に入れました。

 お茶のお稽古で甘いお菓子を2ついただき、焼き肉を食べてすぐの数値がこんなに低いとは。
 和菓子をいただいてから時間が経ってはいますが、やはりお茶の効用としか思えません。
 いつか機会を得て、お茶菓子とお茶をいただくタイミングを見計らった血糖値の変化を見たいと思っています。少なくとも、2時間後の数値は何も問題がないのです。1時間後の数値が、今はよくわからないので、それを知ろうということです。

 この調査も、楽しみです。
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | 身辺雑記

2012年03月03日

知らず知らずに思わず午睡

 姉が来たこともあり、のんびりと家で話をしました。こんな時間を持つのは、久しぶりです。

 その間、茶釜の金気を抜くために、炉壇で番茶を数時間沸かしました。
 
 
 
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 部屋に漂う香りが心地よくて、思わずうとうとと午睡となりました。こんな一日は初めてです。

 昨日、昨秋より取り掛かっていた仕事が、ようやく一段落つきました。ホッとしたこともあるのでしょう。
 1月と2月は、夜遅くまで資料の編集をする日が続きました。
 とてもこなしきれないほどの仕事を抱えてしまい、いくつかの仕事を断わらざるをえなくて、何人かの方には本当に申し訳ないことをしました。
 その意味でも、今日は明日からのための休息日です。

 下鴨神社あたりを散策し、家でお茶を点て、数時間の昼寝をするのもいいものです。

 今年は例年よりも春が来るのは遅いかと思っていました。しかし、今日はコートもいらない陽気でした。
 明日から、日一日ごとに春を感じることでしょう。ゆっくりと、あせらずに、自分の調子を見ながら、日々を送ることを心掛けることにします。
posted by genjiito at 22:14| Comment(0) | 健康雑記

2012年03月02日

同病相憐れむ仲同士での世間話

 診察待合で予約した順番を待っていた時です。隣に座っておられた老婦人が、しきりに話しかけて来られます。

 最初はお話の内容がよくわからず、適当に生返事をしていました。しかし、真剣に訴えておられることが伝わって来ます。

 私に、胃ガンで手術したのか、ということと、自分は胃を全部摘出したがいまだにお腹が痛い、ということを訴えておられるのです。
 私は本を読んでいたのですが、しだいに聞き役に回っていました。

 その方のお年は75歳で、私よりも数ヶ月早い、一昨年の4月に手術をなさったようです。
 私は完成して間もない新病棟でした。しかし、このお婆さんはその直前の春の手術なので、入院治療は旧病棟だったのです。病棟の引越しが6月にあり、私は8月末日にその病棟で手術を受けたのです。このお婆さんは、退院までずっと旧病棟だったそうです。

 お婆さんには、いろいろと不満があるようでした。
 入院した病棟が古くて、都市伝説のような言い伝えが病室にあったこと。
 手術が、お願いしていた先生ではなかったこと。
 そのせいか、今でも切った後のお腹が痛いこと。
 体重が30キロ台になり体力がなくなったこと、等々。

 人には、いろいろな不満があるものです。しかし、年配の方には可能な限り、後あと不満が溜まらないような配慮が必要だと思われます。このお婆さんも、何かスッキリしないままに、少しでも抱える問題を解消したくてここに来ておられるのです。

 今日も、主治医の先生が出張のため、ここで私と同じ先生に診てもらうために順番を待っておられるのだそうです。
 手術が成功し、病気が治っても、それでもいろいろと悩みは尽きません。人間ですから、痛みも苦しみもない日常を望みます。そこに、一欠片でも思わしくないことがあると、それは喉元に刺さった小骨のように気になるものです。ましてやご高齢となれば、思うに任せぬ日々に、イライラも昂じてくることでしょう。

 私自身に、特に問題がないからでもありますが、どうぞ心穏やかな日々をお過ごし下さい、と陰ながら願わざるをえませんでした。
posted by genjiito at 23:57| Comment(2) | 健康雑記

2012年03月01日

半年ごとの京大病院での検診

 今週は京大病院で検診です。半年ごとに、主治医のO先生に診てもらっています。
 最初に、最近の体調などの様子を伝えました。

 今年に入ってから体重が少しずつ増え、2月上旬に待望の50キロに達し、下旬から51キロになっていること、食事を1日4回以上摂り、しかも1回の食事量が増えていること、昨夏より糖質制限食にしていること、などなど。
 問診では、すべて順調だと、太鼓判を押してもらいました。
 体重が51キロになっていることも、結構なことだと。
 腸がいい塩梅に機能しているからだそうです。

 私は胃をすべて摘出しているので、血糖値が上がりやすくなっており、糖質制限食はいいことだとも。何でもバランスよく食べなさい、とのことでした。

 一人の人間として現役で仕事をし、社会生活をしているのですから、日々いろいろなことがあります。しかし、とにかく心身共に問題がないことが一番です。
 元気であれば、どのようなことにでも正面から体当たりできるのですから。そうすれば、自ずと道は開けるのですから。

 明日は、インドへ行く前からこじらせていた鼻と喉を診てもらいます。
 この際、定期点検として身体のいろいろなところのチェックをします。

 なお、手術をした胃に関しては、また半年後に内臓器官をCT検査してもらうことになりました。術後1年が過ぎ、大体安定してきたようです。しかし、まだまだ経過観察は必要だそうです。こまめにチェックするに越したことはありません。気を許してはいけないのです。
 先生は今の私の状態に安堵しながらも、医師としてはあくまでも慎重です。ありがたいことです。

 病院の地下の売店は、非常におもしろい所です。街中のスーパーマーケットなどにはない食料品や小物があるからです。帰りにふらりと立ち寄りました。今日は、糖質ゼロのチョコを見つけました。おもしろそうなので、一つ買って正面玄関先のソファーにゆったりと座り、禁断とされていたチョコをこっそりと食べてみました。
 日頃からあまり甘い物は口にしなくなったので、強烈な甘さを感じました。味は、あくまでもチョコです。
 私は甘い物を食べると、そのすぐ後に、糖質が高いと手の指先に多少の痺れを感じます。特に、左手小指が最初に糖質に敏感に反応します。
 チョコを食べても、特に何も変化がなかったので、これは食べてもいいのかもしれません。商品名を覚えたので、今度はきっちりと血糖値を測定しながらチャレンジしてみましょう。

 また、ハッシュドビーフも糖質の低いものを売っていました。これも購入し、帰ってから豆腐と共に温めていただきました。なかなかいい味でした。少し糖が多いのか、右手の小指に違和感を覚えました。しかし、大したことはありません。

 とにかく、病院の売店は楽しいお買い物のできる場所です。
 今度は、妻と共に食料の調達に来ようと思っています。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | 健康雑記