2011年10月31日

うれしい「完治」と記された1枚の書面

 京大病院へ、昨夏の手術が完治していることを証明する書類をもらいに行きました。
 2週間前にお願いし、3週間はかかると言われていたものが、意外に早くもらえることになりました。

 自転車で賀茂川を下り荒神橋を渡ると、川端通りに稲盛財団記念館があります。
 その川沿いの正面には青竹がいつも清々しく立ち並んでいて、私の好きな通りとなっています。
 
 
 
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 その記念館の裏の京大病院では、たくさんの方が並んでおられました。
 カウンターで待つことしばし……
 私の番号が表示されても、担当者は別の仕事に手を着けられたので、それが終わるのをさらに待たされました。
 アミンの「わたし待つわ!」の世界です。アミンを連想することで世代がわかるところですが……

 ようやく順番が来たと思ったら、この用紙で会計をすませてください、とのことです。
 会計のカウンターに行くと、また長蛇の列で待たされました。
 支払いを済ませて、やっと待望の診断書を手にしました。

 書面を確認してください、と言われ、主治医のO先生が書いてくださった文言を確認し、本当にうれしくなりました。
 すでに今夏8月の1年目の診察で、O先生からは完治していることを告げられ、安堵していました。
 しかし、この書面を、入院していた病棟の前で直接自分の目で見たことで、治ったんだ、ということをいや増しに実感しました。
 人さまにとっては、ただの1枚の紙切れにしかすぎないことでしょう。しかし、私にとっては、宝物の1つになる紙なのです。

 うれしいので、記念に引き写しておきます。
 私自身が、この文言をこれから何度も見ては、その実感をかみしめるはずですから。


H22/8/31 残胃癌に対して腹腔鏡下残胃全摘出術を施行しました。
粘膜癌(T1(M))でリンパ節転移を認めず、Stage IA でした。
H23/10/20 現在再発を認めておらず完治しているものと考えます。


 「リンパ」の転移もなく、「Stage IA」の初期だったこと、「再発」の兆候もなく、そして「完治」と書いてあります。
 本当に気持ちのいいことです。

 京都御所に立ち寄ってから賀茂川を自転車で帰りました。
 少し上り勾配になっている川沿いの道も気にならず、軽快な気持ちで走りました。
 今日は、ことのほか鴨たちがたくさんいた賀茂川でした。

 夕刻に河原へ散策に出かけると、やがて天空には三日月が橋の欄干越しに見通せました。
 写真ではやや太って見えます。しかし、まさに映画「ペーパームーン」のしゃくれた顎のような月でした。
 心落ち着く風景でした。
 
 
 
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2011年10月30日

吉行淳之介濫読(7)「谷間」「祭礼の日」

■「谷間」
 
 長崎に原爆が落とされた八月九日のことから語られます。
 長崎にいた友からの手紙は、すでに亡くなった友からのものとなったのです。
 主人公は銀座の出版社に務めています。ビルの谷間に、ひっそりと静まりかえった所があります。そのように、人間も人に知られない、ひっそりとしたものがあると言いたげです。
 別の友が女と熱海で心中します。
 この作品の男と女のありようは、私にはまだ理解できません。
 この作品の原型とされるものに『花」があります。「吉行淳之介濫読(3)「餓鬼」「火山の麓で」「花」」」(2010年4月 4日)を参照願います。【2】

※第27回芥川賞 昭和27年/1952年 上半期の候補作
  前年の昭和26年/1951年、下半期の候補作として「原色の街」(『世代』昭和26年12月)があります。
 吉行淳之介は、「驟雨」で第31回芥川賞(昭和29年/1954年上半期)を受賞します。「驟雨」については、次回書きます。
 
初出誌 『三田文学』昭和27年6月号
 
 
 
■「祭礼の日」
 
 夢の世界と現実、異常と日常が、うまく溶け合って語られていきます。
 靖国神社の祭礼で写真を撮るくだりは、乾板写真なので今ではおもしろい描写です。この時が200円なので、今のプリクラ並みでしょうか。
 サーカスや見世物小屋のことを、もっと吉行流に語ってほしいところです。
 吉行は、この靖国から戦争のことへとはつなげていきません。時代のせいなのでしょうか。吉行の関心の違いなのでしょうか。作者の心象に浮かぶ自殺した視の夫人は、非常に魅力的な女性として描かれています。【3】

初出誌 『文学界』昭和28年
posted by genjiito at 23:52| Comment(0) | 吉行淳之介濫読

2011年10月29日

初めてのお茶事に行って

 今日は貴重な勉強をたくさんさせていただいた1日でした。
 思い出せないほどで、とても書ききれません。
 それでも、思い出せる範囲で。

 今日のお昼は、錦市場のおばんざい屋さんでいただきました。
 御池の京都市役所前で、第26回国民文化祭の賑わいの中に身を置きました。
 今日が、国民文化祭のオープニングパレードの日だったのです。

 ちょうど、徳島県の阿波踊りと、岩手県のさんさ踊りが市役所前に到着するところでした。
 沿道のみなさんは大変な盛り上がりで、熱気に溢れた声援を送っておられました。
 
 
 
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 午後からお茶事に行くので、寺町通りの古道具屋さんを覗き、一保堂でお茶をいただき、まっすぐ自宅へ帰りました。
 そして、着物に着替えてお出かけです。

 大島のアンサンブルに黒足袋に白い鼻緒の草履、そしてお気に入りの竹細工の手提げ、さらに手には風呂敷に包んだ袴を持って玄関を出ました。
 こんな格好で家の外に出るのは初めてのことです。何となく自分ではない自分を客観的に見る自分に、奇異の感を抱きながら、慣れない草履で駅に急ぎます。と言っても、駅まではものの5分も歩かないのですが。

 地下鉄で3つ目の国際会館駅へ。
 いつもと違う着物姿だったため、自分ではない自分を扱いかねたこともあり、電車に乗り遅れてしまいました。先生からは遅れないようにと言われていましたが、少しだけ遅れてしまいました。
 ご一緒の待ち合わせだった6人のみなさん、すみませんでした。大変失礼をいたしました。

 ちょうど京都国際会館では、「国民文化祭・京都2011」の開会式が行われる時間でした。
 式典には、皇太子さまや中川文部科学大臣、近藤文化庁長官が出席なさっていたそうです。

 タクシーで岩倉へ。
 今日のお茶事は「夕ざりの茶事」というものでした。
 先生方がお勉強を兼ねてのもの、とのことです。そこへ、本当に初心者の私は怖いもの知らずで、飛び入りの参加をさせていただいたのです。
 何事も勉強と、お言葉に甘えて、先生の横からのささやきを支えに、どうにか汗だくの1日を終えました。
 みなさんのお勉強の邪魔をしないようにと、私なりに気をつかったつもりです。
 男性が一人いるだけで引き締まります、と言われて冷や汗しきりの刻が流れます。ひたすら恐縮のお席でした。

 貴重な体験だったので、少しでも忘れないように、思い出せる限りを備忘録として記しておきます。

 聞いていた通り、お茶事はお茶室でのフルコースでした。
 午後3時から始まり、終わったのは8時すぎだったので、長い時間緊張していたことになります。私は緊張していましたが、非常に和やかな雰囲気で、とても楽しい空間に身を置き、充実した時間があっという間に過ぎ去ったのです。
 心地よい緊張の中にいたのです。
 そんな私の横で、気を配って下さった先生はもっとお疲れだったと思います。
 お心遣いに感謝しています。

 玄関に入ってからはメモも写真も撮れないので、今思い出せる限りを以下に列記しておきます。

・待合で身支度を整える。足袋を黒から白に履き替える。羽織を脱ぎ、袴を先生に着けてもらう。
・隣の部屋(寄りつきと言うのでしょうか)で白湯をいただく。
・用意されていた草履に履き替え、露地伝いに奥に進んで腰掛け待合でしばらく待機。
・露地から先ほどの部屋の隣に入り、お食事をいただく。
・懐石料理というよりも、お招きいただいた先生の手作りの贅沢な会席料理でした。
・和やかに、美味しくいただきました。
・今日は、久しぶりのご飯を口にしました。お酒も。
・黒大豆を丁寧に摺って作ってくださった吸い物は絶品。
・次第に暗くなり、部屋にはご亭主の先生お手製の蜜蝋の灯りが点される。
・炎は煤を出さず、桃色に透き通った蜜蝋が美しい幻想的な世界を演出し。
・漆の椀に蝋燭の灯りが映り、まさに谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の世界を体現。
・薄暗くなるにしたがい、ますます陰翳美の空間となる。
・たくさんの心尽くしの料理をいただく。
・最後に食器をお出汁で洗いながらいただくのは、インドでのマサラ料理の食べ方を思い出す。
・食後、また露地沿いに先ほどの腰掛け待合に行き、しばらく待機。
・さらに6時をすぎ、すっかり暗くなってから、手燭のほのかな明かりを頼りにお茶室に進む。
・手燭の灯りの下、蹲踞の水で身を清める。
・躙口からお茶室に入る。
・床の掛け物を拝見。「秋深稲雲熟 宗室(印)」。
・ますます部屋が暗くなる。しかし、次第に目が慣れ、蜜蝋燭の灯りでも識別できるようになる。
・現代社会が明るすぎることを実感。
・濃茶をいただく。
・薄茶をいただく。
・江戸時代のお茶碗など、蝋燭の揺らめきの中で贅沢な品々をじっくり拝見。
・今日の御抹茶は一保堂のものだとか。お昼に立ち寄った寺町のお茶屋さんのもの。
 もっとも、我々が手にするものではなくて、特注のようですが……

 これでも思い違いがあることでしょう。
 以上、ほんの少だけしか思い出せません。いかに内容の濃いお茶会だったかを、改めて実感しています。
 また、折々に思い出したら記します。

 自宅に帰ってから、少しお腹が空いたので軽い夜食をいただきました。
 そして、いつものように食後1時間の血糖値を測ったら、なんと103なのです。
 私はだいたい、食後1時間は180以下を目標にし、食後2時間を140以下をよしとしています。
 この1時間後に103というのは、夢のような数値です。今でも信じられません。
 お茶というのは、血糖値にどのような影響を与えているのでしょうか。
 これはおもしろいことを見つけました。
 そして、ますますお茶に興味を持つようになりました。
 
 とんでもない弟子に困惑しておられる先生と、我が儘勝手を言う夫の相手にてんやわんやの妻に、心より感謝しています。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | 美味礼賛

2011年10月28日

名和先生の講演「御堂関白記」その1

名和先生による「古典資料の創造と伝承」と題する本年度の連続講演の第2回目は、「御堂関白記(1)」でした。会場は、国文学研究資料館です。

ご講演が始まる前に、控室で豊臣秀吉と近衛家に関して、少し歓談する時間がありました。先生は、ますますお元気です。

以下、東京まで聞きに来られない方から、お話の内容を伝えてほしい、ということなので、私の勝手なメモですが、本日の講演内容を日記として残しておきます。正確でないところは聞書なので、ということでお許しください。

会場は前回に増しての大盛況です。立川の新庁舎でも、この部屋が一番大きいのです。ぎっしり満席なので、つめつめで座っていただくしかありません。

「御記抄」が重要な資料であることから、お話が始まりました。

道長の日記である「御堂関白記」は、本来36巻あったと思われます。
1年で前半と後半の2巻があったはずです。しかし、一巻しか残っていない年があります。
現存自筆本としては、14巻のみ伝わっています。

「平松本」といわれる本は、「御堂関白記」の古写本の系統を写していても、新しい写本なのです。しかし、自筆本や古写本にない記事を書き残しているので、これも貴重な資料となっています。

古写本は、大殿(師実)と某の2人で写したものです。
この「平松本」も合わせて、「御堂関白記」の全貌が明らかになってくるわけです。

道長は、およそ3800日以上は日記を書いています。人がそれぞれの立場で日記を書くことの意味を、あらためて考えさせられます。

さて、肝心の「御堂関白記」の巻子本です。
寛弘7年の記事で始まる巻の表紙の裏に、「これは披露すべきものではないので早く破却すべきものである」と日本漢文で書いてあります。会場のスクリーンに大写しにされました。
これは、子孫が書くはずはないので、道長自身が書いたものと思われます。この言葉の通りに破棄していたら、これは今に伝わらず、国宝にもならなかったのです。
記録や日記は、こうした性格があるものです。それが千年もの長きにわたって残ってきた意味は、いろいろなことを考えさせてくれます。
このスライドには、みなさん釘付けでした。

漢字が並ぶ道長の日記です。その中から、身体の部位や 暦の知識などが書かれた場所を画面に示して、おもしろ例を蘊蓄を傾けながら語ってくださいます。

「御堂関白記」に何が書かれているのか、分かり易い例で会場のみなさんを引き付けていかれました。特に、今の日記と比べながらの説明は、千年前の道長の日記を、今我々が見ていることを忘れてさせてくれます。

閏月のある月は巻物が太くて、寛弘7年の巻は13メートル26センチもあるそうです。今日の後半は、この寛弘7年の巻を例にされました。紙で29紙を継いでいます。それ以外は、1メートルほど短いようです。
この巻子の半年分すべてを、スライドで流していかれ、ポイントを概説してくださったのです。これだけで本物を見終わった気になり、道長の日記の実態がよくわかりました。
とにかく、一日で暦の知識が豊かになりました。

続いて、具注歴の裏に書かれた道長の記述に移りました。
今日解説されているのが、『源氏物語』が書かれたことが確認できる最初の年である寛弘5年から2年後の寛弘7年の道長の日記なのです。私も興味深々で拝聴しました。
生の資料を、しかもそれを管理なさっている名和先生から直々にむ聞いているのですから。
おまけに、実物が階下の展示室で実際に並んでいて、自分の目で見て確認できるのです。

なお、先生は「紫宸殿」のことを「ししいでん」と発音なさっていました。
これは、私が学生時代に教わった読み方と同じです。今では、ほとんど聞かれなくなりました。それを、名和先生ははっきりと「ししいでん」とおっしゃったのです。何となく、うれしくなりました。

肝心の裏書きの話は、そのほとんどが時間切れのために次回となりました。今日、一番聞きたかったことです。

この前は、30分以上も延びる大熱演でした。今日は、先生らしくないとでも言うべきか、ほぼ時間通りに終わりました。事務からの時間厳守のお願いが響いていたようです。

そのせいもあってか、ちょうどいいところで、この続きは次回に、となったのです。

終わってから、控え室で先生に、一番佳境に入ったところで「つづく」はないですよ、と申し上げると、「ドラマももう少しという所で終わるやないか」と大笑いをしておられました。

そして、「おまえは、またブログに書くんやろ」とおっしゃるので、今回立川に来られないたくさんの方が、どんな話だったかを知りたがっておられますから、と答えると、「しゃべった内容はわしに権利があるぞ」と、また大声で赤い扇子を泳がせながら笑っておられました。

その後、前回同様に東京駅まで出て、新幹線で京都に向かいました。

この記事は、久しぶりに新幹線の中から、iPhone を使って送信しています。
誤字脱字がありましたら、狭い座席で窮屈な思いをして入力をしたものということで、ご寛恕のほどを、お願いします。
posted by genjiito at 20:23| Comment(0) | 古典文学

2011年10月27日

職場の健康診断でバリウムを飲む

 職場で健康診断がありました。
 ここ数年は、人間ドックの検診で済ませていたので、職場で仲間と一緒に受けるのは久しぶりです。

 まず、現代病とでも言うべき眼や肩やストレスなどの健康管理に関する検査(VDT健診)です。「VDT」とは、「Visual Display Terminals」の略語です。

 特にパソコンのモニタを見る仕事が多いので、いろいろと細かなチェックがあります。
 コンピュータを使い始めて何年か、という質問に「32年」と記入して、あらためて長い年月を思い起こしました。心身共に疲れの出る年齢に加えて、積年のストレスも大きく影響していることでしょう。

 その他に、血液検査や心電図、聴覚などなど、1時間ほどかかりました。

 血液検査では、ヘモグロビンA1cも検査項目にありました。
 再来週、九段坂病院で内科診察の前に血液検査をします。しかし、今回の血液検査の結果はその診察の後にわかるので、一つの記録として1ヶ月後を楽しみに待つことにします。
 先月の値が「7.1」、今月が「6.0」でした。今夏から取り組んでいる糖質制限食の効果がどのような結果をみせているのか、来月までの中間値はその経過を知る上でもおもしろいと思います。

 胃の検査では、内視鏡ではなくて、10年ぶりにバリウムを飲みました。ずっと胃カメラだったので、本当に久しぶりです。レントゲン車に乗るのも、何年ぶりでしょうか。

 まず最初に、発泡剤を水で飲みました。すると途端に、腹痛に見舞われたのです。日頃は避けている炭酸に、我が内蔵が反応したようです。
 検査医の方2人が、バリウム検査を中止しますか、と心配してくださいました。しかし、胃カメラばかりではなくて、バリウムでの検査結果も知りたかったので、すぐに治まったこともあり、そのまま続行してもらいました。

 機器を操作される観察医の方に、胃がないことを伝えました。それでは、食道から腸を見ましょうとおっしゃり、マイクの指示で動く寝台の上を右へ左へと移動しました。

 口に含むバリウムは、非常に甘く感じました。後で聞くと、前日から絶食しているために、そのように感じるだけだとのことです。てっきり私は、口当たりがいいように、糖質で味付けがなされているのかと思いました。
 糖質制限の食事をしていると、こんな事にも疑いを持ちます。砂糖入りでないことがわかり、一安心です。

 技師の方に、私の食道と腸はどんな形に見えたんですか? と聞くと、食道からまっすぐ腸に延びていて、途中で少し小さな袋のようなものがあったのだそうです。

 とにかく、無事にバリウムによる胃の検査は終わりました。

 問診でも特に問題はなかったので、血液検査の結果を待ちながら、今後とも血糖値の管理に専念することにします。
posted by genjiito at 23:47| Comment(0) | 健康雑記

2011年10月26日

【復元】26年目にして痛恨の失態

 コンピュータのキーボードに飲み物をこぼした時の話です。
 この記事以来、一度もこの失態はありません。いつもコーヒーを飲みながらキーボードを叩いています。しかし、なぜかこぼさないのです。
 これだけは、加齢とは無縁です。
 私はカナ入力派なので、右手だけでも楽に文章が打てます。左手にコーヒーカップを持ちながら……
 さすがに、飲み物を口にするときは視線がモニタから外れます。しかし、いまだにこぼしたりしません。
 キーボードの左横にコーヒーカップを置くとき、テーブルの角や、そばにあった本や資料を引っかけそうになることがあります。それでも、いまだに無傷です。
 この記録がいつまで続くのか、その時がいつ来るのか、大いに楽しみです。
 
 
(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年3月25日公開分
 
 
副題「キーボードに飲み物をこぼしました」
 
 
 私が初めてコンピュータのキーボードに触ったのは、昭和55年(1980年)の暮れでした。今から26年前のことです。

 手元のパンフレットなどから、最初に触ったものを見つけ出しました。今の電卓のようなキートップですが、A〜Fまでの文字があります。16進数でプログラムを作成するためです。
 モニタなどはなくて、8個のセグセメントが並んでいます。まさに、電卓スタイルです。
 
 
 

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 この道具を使って私が初めて見たプリントアウトは、英数字だけで描いたモナリザの絵でした。
 この道具を見ると、私にコンピュータで日本語の文字列が扱えることを教えてくださった数学のS先生が思い出されます。高校の教員になって2年目でした。
 半角カタカナで『源氏物語』の「桐壷」巻のデータベースに着手するきっかけとなったものです。

 私が自分用のコンピュータを購入して25年にもなるので、化石とか草分けとか呼ばれています。もっとも、当時は個人用のコンピュータを「マイコン」とか「パーコン」とも称していました。

 その私が、痛恨の失態を演じました。
 先日、自宅のノートパソコンに、缶ビールをこぼしてしまいました。
 すぐにパソコンを逆さまにし、キーボードのすき間に入ったビールをふるい落としました。そして、ノート型だったので、キーボード部分を取り外して、きれいにふき取りました。

 長年キーボードを使って来て、本当に初めてのことでした。

 その2日後に職場で、今度はキーボードにコーヒーを、それも淹れたばかりの、マグカップになみなみと入ったコーヒーを……
 手元の本を持ち上げた拍子に、派手にこぼしてしまいました。ワイヤレスキーボードだったので、これまたすぐにひっくり返してコーヒーを滴らせました。
 分解して掃除をして事無きを得ましたが、机の上は、コーヒーで大洪水です。おまけに、それが床にまで落ちていくのです。引き出しの中にも入っていきます。情けない自分を責めながら、懸命にコーヒーを拭き取りました。
 そして水拭き。乾拭き。
 奈良から持参した、お気に入りの香り高いコーヒー豆は、これが最後のものでした。

 拭き終わった後、インドで買ったチャイを飲みながら、部屋に充満するコーヒーの香りに、苦い思いを重ね合わせることとなりました。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 23:21| Comment(0) | ◆情報化社会

2011年10月25日

昭和8年の高松宮妃殿下のお写真

 先日、昭和7年に東京大学の大講堂で開催された『源氏物語展』に関連して、展示ケースの前で女性に説明をする池田亀鑑の写真を2枚紹介しました。いずれも、ご子息の池田研二氏よりお預かりしたアルバムにあった写真です。

「昭和7年の東大源氏物語展の報道記事見つかる」(2011年10月21日)

 その女性について、安野さんからその後の報告をいただきました。

 次の新聞記事は、昭和8年4月6日の朝日新聞(夕刊)で、そこに掲載されている写真が高松宮妃殿下だとのことです。
 
 
 

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 新聞の小見出しは、「高松宮妃殿下 九州へ御西下」となっています。
 そして、左端のキャプションには、「御写真は品川駅御出発の妃殿下」とあります。

 ということで、過日のブログで紹介した昭和7年11月20日の源氏物語展覧会での写真と、この昭和8年4月6日の朝日新聞の写真に写る女性は同じ方であることが判明したのです。

 ご当人をご存知の方にとっては何でもないことなのでしょうが、知らない者にとっては、とにかくこうして一つ一つを調べながら確認していくしか方法がありません。

 安野さんと共に、いろいろとアドバイスをくださる中京大学の浅岡邦雄先生には、あらためて感謝しています。

 さて、ブログで紹介した写真で、池田亀鑑の右後ろでパンフレットのようなものを胸に抱えて展示ケースを見る女性は、安野さんの推測では妃殿下の侍女ではないか、ということでした。


 高松宮妃殿下の学友で、生涯にわたる親友だった岩崎藤子の回想録、『九十六年なんて、あっという間でございます』(雄山閣・2008/4)によると、高松宮妃殿下(当時は徳川喜久子)は学習院女子校時代、国文学、特に和歌が好きで尾上柴舟の授業を受けていたそうです(ただし、書道は諸事情があり教わらなかったそうですが)。
 この本には少しだけですが、侍女の名前も出て来るので、ひょっとすると写真右側の女性はそのうちの一人かも知れません。
 ただし、特定するためにの写真が見つかりそうにありません。


 このことについて、少しずつ情報が集まるようになりました。これをお読みの方で、何かご存知のことがありましたら、ご教示いただけると幸いです。

 何分にも、皇室の当時の実態をまったく知りません。
 手前勝手な当て推量はこれまでにしておきましょう。
posted by genjiito at 23:42| Comment(0) | 池田亀鑑

2011年10月24日

ポルトガル語訳『源氏物語』の書評と解題

 一昨日、ポルトガル語訳『源氏物語』の1冊本を入手したことを書きました。

「新しいポルトガル語訳『源氏物語』入手」(2011年10月22日)

 2008年に刊行されたもので、『源氏物語』の第12巻「須磨」までを翻訳している本です。
 その時は、多分に推測混じりで書きました。しかし、さらに新しくわかったことがあるので、ここに補足しておきます。

 まず、先週、「表紙のタイトルの2行目末尾に、赤字で「I」(?)と印刷されています。」と報告したことについて。
 ネット上に、以下の書影で本書の第2巻が「O ROMANCE DE GENJI TOMO 2」として掲載されていました。
 
 
 
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 確かに、手元の本の目次と中扉に「Tomo1」とあります。表紙にある、赤字で「I」は、第1巻を示すものということになります。
 それにしても、奥付にはこの「I」がないので、これが第1巻であることは頁を繰らないと確認できないのです。
 この本の解題の素案をあげます。これは、菅原郁子さんからの情報を整理したものです。


書名:O ROMANCE DE GENJI I
作者:MURASAKI Shikibu(紫式部)
訳者:Carlos Correia Monteiro de OLIVEIRA
出版:Lisboa(リスボン)[ポルトガル]:Relogio D'agua(水の時計)
刊年:2008.
頁数:1-367p.2-425p.23cm.
メモ:重訳。第2版。表紙のデザインは江戸時代の侍の絵で、雪月花をイメージしている。
内容:「桐壺」〜「須磨」のポルトガル語訳
出版社:Relogio D'aguaは1983年創設。主に文学を中心に刊行。

 
 
 先月9月4日にも、大部の2冊本のポルトガル語訳『源氏物語』が届いたことを報告しました。

「ポルトガル語訳『源氏物語』が届きました」(2011年9月 4日)



 その時に、裏表紙のポルトガル語の意味を教えて下さい、ということを記しました。


裏表紙に、こんな文章が印刷されていました。
『源氏物語』に関する宣伝文なのでしょうが、ポルトガル語がまったく理解できない私には、まったく理解できません。
どなたか、アドバイスをいただけたら幸いです。
 
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 これについて、スペイン・アウトノマ大学の高木香世子先生が紹介してくださったリスボン新大学の戸田粧先生から、この表紙裏のポルトガル語を以下のように日本語に訳してくださいました。
 

『小説「源氏物語」は世界の偉大な古典の一つである。』
  ウイリアム・バトラー・イェイツ、1923年ノーベル文学賞受賞

『文学界でこれより優れた作品が書かれたことはない。』
  マルグリット・ユルスナール

『「源氏物語」は日本文学の最高峰である。今日まで同格の作品はまだ出ていない。』
  川端康成、1968年ノーベル文学賞受賞

『紫を読んだ後、もはや愛や情熱を今まで通りに感じることはない。彼女の情欲の才に我々は学ぶ、まだ読み終えていなくとも。』
  ハロルド・ブルーム

『セルバンテスやバルザックといった西洋の偉大な古典に唯一匹敵する世界最古の小説である。』
  オクタビオ・パス、1990年ノーベル文学賞受賞



 先月の本書に関するブログの記事で、

 私は、ここに記されている西暦年号に興味があります。


 最初の文章の末尾にある1923年(大正12年)は、アーサー・ウェイリーの英訳『源氏物語』が刊行される2年前に当たります。

と書きました。

 今回、戸田先生からいただいた日本語訳で、これは1923年にノーベル文学賞を受賞したイェイツのことばであることがわかりました。とすると、イェイツはどんな本で『源氏物語』を読んだのでしょうか。

 推測ですが、イェイツが読んだ『源氏物語』は、完成したばかりのアーサー・ウェイリーの英訳ではなくて、1882年(明治15年)に末松謙澄が訳した英訳『源氏物語』だったのではないでしょうか。
 9月のブログでも触れたことですが、末松の英訳はその後、1883年(明治16)年にフランス語訳に、1911年(明治44年)にドイツ語に、1918年(大正7年)にオランダ語に訳されています。末松謙澄の英訳からの「重訳」です。
 英語以外にも『源氏物語』はこんなにいろいろな言語に訳されていたのですから、イェイツがそのいずれかで読んだとしたほうが、アーサー・ウェイリーのできたての英訳を読んだと考えるよりも自然でしょう。
 もちろん、実際にイェイツは物語自体は読まず、人づてに聞いたこととして『源氏物語』を賞賛したこともあり得ますが……

 このポルトガル語訳についても、上記の例にならって菅原郁子さんが作成した資料をもとにして、参考までに簡単な解題を記します。


書名:O ROMANCE DE GENJI
作者:MURASAKI Shikibu(紫式部)
訳者:Elisabete Calha REIA、Ligia MALHEIRO
出版:Vila Nova de Gaia(ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア)[ポルトガル]:Exodus(エクソダス)
刊年:2009.1-848p.2-864p.24cm.
表紙:デザインはOsamu Tatematsu(立松脩)による
メモ:重訳。第1巻の初版は2007年。これはその第2版。第2巻はこれが初版か?
  序文はInes CAMPOS、Andreia FONSECAによる。
内容:第1巻はLigia MALHEIROによる翻訳で、「桐壺」〜「藤裏葉」を収録。
   第2巻はElisabete Calha REIAによる翻訳で、「若菜上」〜「夢浮橋」を収録。
   和歌は4行書き。
posted by genjiito at 22:34| Comment(0) | ◆源氏物語

2011年10月23日

翻訳に関する新聞記事から思うこと

 朝日新聞(2011年10月11日)の文化欄に、「翻訳あってのノーベル文学賞」・「訳されて豊かになるのが世界文学」という小見出しのある記事が掲載されていました。
 日本の文学がノーベル賞の候補になるためには、まずは翻訳されていなければなりません。
 このことをテーマにして、文芸評論家の加藤典洋さんと翻訳家の鴻巣友希子さんが対談をしています。

 ノーベル賞を取るために一番大事なことは、「いいスウェーデン語の翻訳があること」だそうです。確かに、スウェーデン語や英語に翻訳されていなかったら、候補にもならないわけです。

 対談の中で、こんな発言があります。

鴻巣 (中略)デイヴィッド・ダムロッシュは『世界文学とは何か?』の中で、世界文学とは翻訳文学のことである、良い翻訳文学とは翻訳で失われるのではなくて豊かになるものという。それが世界文学だ。翻訳して通じなくなるものは、国民文学、ご当地文学だと(笑い)。
加藤 川端康成が訳者のサイデンステッカーに、ノーベル賞の賞金を半分受け取ってくれといったけど、そういうものですね。
 (中略)
加藤 谷崎潤一郎は初期の自分の文章を読み直してみて翻訳文調なのに驚いた。そこで「日本語って何なんだろう」と思って『文章読本』を書いた。
 (中略)
鴻巣 (中略)アメリカはろくに翻訳もしないから、文化的島国だと。孤立してるって。アメリカ人はノーベル賞をとれないと解釈されるくらいのことを言ってしまって大騒ぎになった。
 昨年のアメリカの出版翻訳の比率って3%くらい。日本でも8〜10%くらい。


 世界文学という視点で見ると、翻訳は世界中の人が文学を受容する上で、共通の土台を作るものです。翻訳されることで、言葉による文学の世界が、言葉の壁を乗り越えて理解されるようになるのです。
 そこに、異文化に関する知識や理解があれば、作者が表現したい文学的な世界とその解釈は、共感をもって伝わります。異文化間コミュニケーションが成立するのです。

 こうしたことは、この2人の対談では交わされていません。その意味でも、翻訳は世界文学にとっては重要な要素です。あらためて、翻訳の意義について考えるようになりました。

 そうなのです。原文で理解できなくてもいいのです。原文の理解で楽しむ人たちと、翻訳によって楽しむ人たちは、明らかに文学の接し方が異なります。しかし、共に文学の受容者です。

 このことは、古典文学にも言えます。古語の理解が大変な人は多いと思います。そのような人は、今の解釈や理解ができる、翻訳で楽しめばいいのです。

 『源氏物語』の場合で言えば、古文で読めば、それはそれで楽しいものです。しかし、そのように自由に古文が読めない人は、現代語訳で読めばいいのです。
 与謝野晶子に始まり、谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴、林望などなど、たくさんの現代語訳『源氏物語』があります。
 自分の好みで選んで、それを読めばいいのです。
 その意味では、日本語による現代語訳がたくさんあることは、日本語に慣れ親しんだ人にとっては、選択の幅が大きいので助かることでしょう。

 英語で言えば、タイラー訳かサイデンステッカー訳、さらに遡ればウェイリー訳という選択しかないのです。
 『源氏物語』は31種類の言語で翻訳されています。国別で言うと、次の24カ国で使われている言語です。これは驚異的なことです。


アメリカ・インド・エジプト・イタリア・イギリス・オランダ・クロアチア・スウェーデン・スペイン・スロベニア・セルビア・チェコ・中国・ドイツ・トルコ・ハンガリー・韓国・フィンランド・フランス・ポルトガル・モンゴル・リトアニア・ロシア・日本


 『源氏物語』は世界文学として、立派に国際的に認められているのです。
 国際交流ということを考えた時、これは重要な素材を手にしていることを、もっともっと意識してもいいことかもしれません。
 『源氏物語』という文学作品を持っている国民の一人であることに誇りを持ち、海外の方々と接していきたいという思いを強くしました。
posted by genjiito at 23:36| Comment(0) | ◆国際交流

2011年10月22日

新しいポルトガル語訳『源氏物語』入手

 ポルトガルの書店から、注文していたポルトガル語訳『源氏物語』の1冊が届きました。
 私はポルトガル語がまったくわからないので、この本についての詳細は後日とします。
 取り急ぎ、最新情報としてここに記しておきます。
 
 
 

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 すでに、ポルトガル語訳『源氏物語』については、以下の記事で紹介しました。

「ポルトガル語訳『源氏物語』が届きました」(2011年9月 4日)

 奥付からの推測では、今回届いたこの本は2008年に刊行されたもので、第2版のようです。初版がいつ刊行されたのか、今のところ不明です。

 目次を見ると、本書は『源氏物語』の第12巻「須磨」までを翻訳しています。ということは、この続きの「明石」以降はどうなのか。そのことも今はわかりません。

 表紙のタイトルの2行目末尾に、赤字で「I」(?)と印刷されています。
 この本を購入した書店のホームページを見る限りでは、本書の表紙の書影にこの赤字の「I」がありません。

http://www.wook.pt/ficha/o-romance-do-genji/a/id/201497

 この本には、「II」や「III」などがあるのでしょうか。
 今は、自分勝手な想像をしているところです。

 この本の表紙は、江戸時代の侍の絵です。雪月花をイメージしているのでしょう。その出典も、今はわかりません。しかし、この絵を選択したところに、出版社なり編者なり著者の日本文化への興味のありようが伺えて、大変おもしろいと思います。

 総じて海外で出版されている『源氏物語』の翻訳本の表紙は、江戸時代の風俗が多いようです。このことも、貴重な『源氏物語』の受容の実態を知る資料と言えるでしょう。

 何もわからない段階ではありますが、まずはこんな本が、という報告です。
 ポルトガル語訳『源氏物語』の書誌や解題作成にご協力いただける方がいらっしゃいましたら、連絡をいただけると幸いです。
posted by genjiito at 23:47| Comment(0) | ◆国際交流

2011年10月21日

昭和7年の東大源氏物語展の報道記事見つかる

 昭和7年と12年の2度にわたって、東京大学で源氏物語展覧会が開催されました。これは、池田亀鑑が苦労して実施にこぎつけたものです。
 特に昭和7年には、河内本を底本とした『校本源氏物語』の原稿が展示されています。これはその後の昭和17年に、底本を大島本に変更し『校異源氏物語』として刊行されました。
 つまり、これらは『源氏物語大成』ができるまでの経緯を知る上で重要な、『源氏物語』の研究史上の一大イベントなのです。

 この2度の展覧会の展示実態と内容について知りたくて、いろいろと調査を進めています。

 このことについては、本ブログの以下の記事に詳しく書いていますので、おついでの折にでもご覧ください。

(1)「昭和7年に東大で開催された源氏展冊子は検閲されていた」(2011年6月 3日)

(2)「昭和7年の源氏展冊子の奥付が書き換えられたこと」(2011年6月 8日)

(3)「幻の『校本源氏物語』には改訂版があった?」(2009年7月 4日)

 そんな折、研究仲間の安野一之氏(国際日本文化研究センター・共同研究員、上記記事ではY氏として紹介)から、先月朗報が飛び込んで来ました。
 そして今日、調査に行った千代田図書館で、安野氏から発掘した資料について説明を聞くことができました。

 その詳細な報告は、来春刊行予定の『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」 第2集』に掲載されますのでお楽しみに。

 以下、今回安野氏が発掘した資料をとりあえず紹介し、これに関する関係者からの情報提供を待つことにしたいと思います。

 今回わかったのは、昭和7年11月19日と20日に東京大学で開催された「源氏物語に関する展観」の新聞報道記事です。ここに転載するのは、昭和7年11月21日発行の「帝国大学新聞」の7面上部です。
 
 
 

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 参考のために、掲載写真だけを拡大しておきます。
 マイクロフイルムからの転写なので、これでもまだ不鮮明ですが、あくまでも今は参考までに。
 
 
 

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 本来は、事前に用意されていた『源氏物語に関する展観書目録』(東京帝国大学文学部国文学研究室編、昭和7年、岩波書店)が配布されたはずです。しかし、上記ブログで報告したように、検閲ということにより、この展覧会の2日間には間に合わなかったようです。そのことは、安野氏の論考に譲りましょう。お楽しみは後で、ということにします。

 実は、池田亀鑑のご子息である研二氏より、アルバムをお預かりしています。その中の写真で結婚式までのものは、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」 第1集』に掲載しました。

 その後のもので、次の2枚について、これが何なのか、いろいろと思案していました。
 上記ブログ(1)で、私は次のように書きました。


この昭和7年の『源氏物語』の資料展覧会は、不明なことが多いことで知られています。ただし、この時のものと思われる写真が、池田亀鑑のご子息である研二氏によって、2枚が見つかっています。これも、後日公開する予定です。しばらくお待ち下さい。


 その2枚の写真については、昭和7年か12年の源氏物語展覧会のものであることは間違いないとしても、そのいずれかを決しかねていました。しかし、今回安野氏が見つけてくださった新聞記事に掲載されている写真に酷似することから、この研二氏ご所蔵のアルバムにあった2枚の写真は昭和7年の源氏物語展のものであることが判明したのです。
 そのことが確認できたので、ここにあらためて紹介するしだいです。
 
 
 
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 新聞写真が不鮮明ですが、池田亀鑑の服装や展示ケースなどにより、昭和7年の写真であることが確認できます。つまり、昭和12年2月7日に東京大学の山上会議所で開催された「源氏物語展観」の写真ではないのです。そして、この昭和7年の展示会場が、以下の翻字からわかるように、東京大学の大講堂であることが確認できました。
 これで、昭和7年の源氏展のことが具体的にわかるようになりました。
 引き続き、これに関連した情報を収集したいと思います。

 一つ気になるのは、1枚目の写真で池田亀鑑の右後ろの女性が手にしておられる印刷物が何なのか、ということです。
 上記『源氏物語に関する展観書目録』ではないか、と思われます。ただし、この冊子の検閲の経過を考慮すると、当日は間に合わなかったようです。とにかく、実際はどうだったのでしょうか。

 なお、池田亀鑑の左横の女性については、まだ確認がとれていません。
 これについても、ご教示をお願いするところです。

 この記事にある展覧会の内容について、そして掲載されている写真について、何かご存知のことがございましたら、お教えいただけませんでしょうか。また、この時に配布されたと思われるパンフレットについても、どこかに残っていませんでしょうか。さらには、この「帝国大学新聞」の実物を、どなたかお持ちではないでしょうか。そして、この展覧会の時の写真も。

 安野氏が、上記新聞記事に書かれていることを文字に起こしてくださいました。
 ありがたく拝受し、以下に掲載します。
 なお、「帝国大学新聞」の昭和7年11月28日のこの展覧会に関連する記事に「解説付きの目録が刊行されなかった」ということが書かれています。ただし、この詳細は安野氏の論考に譲り、ここでは紹介を控えます。


昭和7年11月21日「帝国大学新聞」

禁中の秘本を始め
 河内本も出陳さる
   源氏物語展覧会賑ふ

本学文学部国文科主催紫式部学会後援の源氏物語展覧会は、十九廿の両日、本学大講堂で開催されたが、その出陳の大部分は国文学研究室の池田亀鑑氏が多年にわたり苦心収集した資料で、源氏に関するコレクションとしてはこの右に出るものがないといはれ従来はほとんど見ることを得なかつた河内本が三十余種も並べられ、加持井宮や有栖川王府の御蔵本、長慶院の御作「仙源抄」、更に東山御文庫の勅封を特に許されて解けるもの、高松宮の御蔵本等はいづれも他日拝観の機会を得ることは困難なものである。その他源氏に関する美文集、名歌集から香、生花、茶、かるた、すご六、投げ扇に至るまでの参考品が陳列された。十九日には東伏見宮大妃殿下、二十日には高松宮妃殿下を始め学会各方面の多数の名士が来場し一般入場者も非常に多く特に女性の多かつたことは注目された。光栄の池田亀鑑氏は語る。
 宮様の台覧あらせられたことは大変有難いことと感激して居ります。殿下は終始御熱心に御質問あらせられ、紫式部に対して同性としての御なつかしみを特にもたれてゐるやうに拜察いたしました。慶福院王榮の著作にも特に御興味を感ぜられた如くで御座いました。こういふ光栄の機会に際し更に一層努力致したいと考へてをります。

---《囲み記事》-----------------------------------------
高松宮妃殿下
東伏見大妃殿下

御成り

東伏見大妃殿下には十九日午後関屋宮内次官、同夫人を従えられ源氏物語展に御成り、小野塚議長、姉崎図書館長、宇野文学部長、藤村紫式部学会長御附添ひにて国文研究室の池田亀鑑氏の説明を御熱心に聞こし召され御機嫌うるはしく御帰還あらせらる。また廿日午後、高松宮妃殿下には源氏物語展覧会へ御成りあそばされ藤村教授、久松助教授の御案内にて池田亀鑑氏御説明申上たが、御熱心に御覧の後図書館に御成り、姉崎館長御案内申あげ御一巡の後御機嫌うるはしく御帰還あらせられた。
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紫式部学会長の藤村作教授は語る
 誠に光栄のことで御座います。殿下には兼々シェークスピア学会にも比すべきかかる会のないのを御遺憾のやうで御座いましたが、微力ながら我々が漸く紫式部学会を作りましたので大変御喜びの御様子で御座います。今後我々は一層この会を発展させて行きたいと思つてをります。
【写真――御巡覧の東伏見宮大妃殿下】

*仮名遣いは原文のまま、句読点は引用者が適宜補った。
posted by genjiito at 23:56| Comment(1) | 池田亀鑑

2011年10月20日

【復元】『源氏物語』の翻訳について考える

 最近、『源氏物語』の翻訳について考えることが多くなりました。
 『源氏物語』は英語に限らず、31種類もの言語に翻訳されていることは、本ブログでも何度か書いてきました。
 その翻訳とは一体何なのか、ということです。
 ことばを単純に異なる言語に移し替えるだけなら、それは翻訳ではありません。
 作品で語られる心情や文化も言い換えるのですから、そこには複雑な要素が含まれます。
 そんなことに、いろいろと思いを馳せることが多くなったのです。

 以下の記事も、クラッシュしたデータの中にあったので、ここに再現しておきます。
 
  
(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年2月5日公開分 
 
副題「サイデンステッカー氏の翻訳談義」
 
 
 日本文学が世界文学の一分野として認知されることを願って、昨秋『世界文学としての源氏物語 【サイデンステッカー氏に訊く】』(伊井春樹編、笠間書院、2005.10.22)が刊行されました。
 伊井春樹先生の対談の名手としての本領が発揮され、サイデンステッカー氏にさまざまなことを語らせるという、収穫の多い本となっています(巻末の書影と資料提供で、私もささやかながらお手伝いをしました)。
 
 
 

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 その中から、サイデンステッカー氏が翻訳に関して語ったところを、少し抜き出してみました。


◆「川端先生と谷崎先生以外のものをやりたくないと思って、『源氏物語』の方へまわったということです。それからもう一つ、翻訳は、楽なものは退屈ですよ。難しくなければ退屈です。ですから、何か難しいものをやりたいと思ったのです。手がけてみるとたしかにその通りでした。だか(ママ)『源氏物語』をやったのは一番面白い仕事でした。」(49頁)

◆「『源氏物語』の中で「若紫」巻は一番読みやすい巻です。ですから、そういうところはやりたくないです。難しいところをやりたいと思って(笑)、宇治十帖から始めました。」(52頁)

◆「私の翻訳した巻の名前ですが、存在しないものを作り出しました。ウェリーは「Aoi」ですが、私は「Heartvine」としました。そういうものはいなのです。タチアオイということではなくて、葵祭の葵、葉っぱは今のハートの形になっている。それから、「ハート」はいろいろ関連が出るでしょう。恋愛とか哀しみとか。私の発明ですが、「Heartvine」という植物は存在しないです。割と評判がいいらしいですけど。」(65頁)

◆「「涙で枕が流れた」。それはちょっと大袈裟ですね。私は文化が違うというつもりで削ったんです。バカにされない程度に、涙の洪水を小さくしたということでした。それはいいことじゃないのかもしれません。そのまま翻訳すべきだったかもしれません。でも、今でもどちらがいいかわからないです。とにかく文化が違うから、バカにされない程度に書き直すというつもりでしたね。」(74頁)

◆「助けになりましたのは、谷崎先生と玉上先生でしたね。一番最後のところは、ちょっと円地先生のものも使いました。」(96頁)

◆「翻訳者は「贋金作り」と思うのです。つまり、できるだけ原文そのままを作る。例えば、アメリカの一ドル札を偽造して、ワシントンをもっときれいなワシントンにしたら、いい金作りではないでしょう。翻訳者もそうです。ですから、私は、翻訳を「原文よりいい」と言われるのは、褒めることばではないと思います。翻訳者はそうすべきではないです。できれば忠実に、もとのものを作るべきです。」(99頁)

◆「ウェイリーの翻訳では紫式部の言おうとしたところは通じていないと思って、やり直してみたいと思ったのです。」(103頁)

◆「私たちがやるのが「翻訳」で、日本人のやるのは「新訳」だということに、私は賛成できないです。日本人のやるのも「翻訳」ですよ。」(103頁)

◆「末松謙澄の翻訳をあまり買わないというのは、彼のやった仕事がどれくらい難しいかわからないからじゃないかと思います。非常に難しいものですよ。「外国語から」ではなく、「外国語へ」翻訳するというのは非常に難しいです。」(113頁)

◆「「完全な翻訳」は、必要ですが、不可能です。ドイツ語と英語の間でしたら、理想的な翻訳に近いものがあり得ると思います。フランス語は少し遠のく、フランス語と英語は似ていないですから。でも、ドイツ語と英語は兄弟です。その間に完全な翻訳ができるかもしれません。しかし、平安の日本語と現代の英語との間では不可能ですね。」(155頁)

 
 
 

********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 22:22| Comment(0) | 古典文学

2011年10月19日

【復元】『カリスマ先生の古典文法』

 ここで取り上げている『七日間で基礎から学びなおす カリスマ先生の古典文法』は、2006年に刊行されてすぐに書いた書評です。
 著者は、当時著名な予備校講師で、本書のレビュー記事を見ても結構好意的な評価や感想を今でも読むことができます。多数の受験参考書を刊行されている方です。独特の語り口で受験生の心をつかんでおられるようです。ただし、私は批判的な視点で寸評を記しています。

 その後、この記事がサーバーのクラッシュによって読めなくなっているので、散在するファイルからかき集めて今回復元しました。

 この本は、今では絶版になっています。ただし、中古本としては入手可能です。
 このような本があったということで、復元して掲載しておきます。
 
 
(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年2月4日公開分
 
 
副題「老化に伴う脱力と軽薄の間」
 
 
 突然ですが、ひょんなことから『七日間で基礎から学びなおす カリスマ先生の古典文法』(山本康裕、PHP研究所、2006.1.9)を読んでしまいました。
 書店で見かけ、パラパラとめくって興味を持ちました。おもしろかったのです。オイオイと、突っ込みを入れながら、楽しく読みました。私は文法の話には興味があまりなくて、この本の著者の時代錯誤を大いに楽しませていただきました。
 このような先生が予備校で受験生を相手にし、ご自身はカリスマ先生と言われた昔が忘れられなくて、臆面もなく受験生の前で古典文法を講義し、こうして本にまでして自己顕示をしておられるのですから、それはそれで立派なものです。皮肉ではなくて、本当に軽薄派のおもしろい本でした。語り口が人を食った所を楽しむ本です。
 
 
 

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 「大学入試古文の、文法問題のミスを暴いて、「しっかりせんかい」と叱るのが、本書のスタイル」(六日目、178頁)だとあります。タイトルと中身の落差もいいですね。人間としてこういう老い方はしたくないと、いい教訓の書にもなりました。
 著者の先生には失礼ですが、固そうでバカらしい著書という意味からも、興味のある本です。

 個人的な感想の吐露では失礼なので、少し具体的に内容を引きながら、触れておきましょう。括弧内は私のコメントです。
 

・八〇日間で、全七章、四〇〇字詰の用紙で三五〇枚を、ヘロヘロになりながら仕上げました。(まえがき、P4)
(この内容で八〇日とは。1ヶ月の間違いではないでしょうか。)

・学術論文ではありませんし、論証の過程も含めて、いささか粗雑の感は否めませんが、言いたいことはほぼ尽きているかと思います。(あとがき、223P) 
(これで尽ききている、というところが、著者の限界のようです。読者に失礼です。)

・ネタも言いまわしも、いささか乱暴ですが、文法を毛嫌いなさらず、ご意見・ご感想・ご質問あらば、お寄せください。かならず、ご返事いたします。(あとがき、223P)
(「かならず、ご返事いたします。」に、本書中での無責任さのフォローを感じました。もっとも、ピンボケの返事はお断りしたいのですが。)

・大学の関係者に、高校のカリキュラムを、もっと真剣に学んでもらいたいと思います。よく、「古文の実力が落ちた」と言います。受験生に、責任はありません。授業時数を激減させ、古典から生徒を遠ざけたのは、ほかならぬ文部省(文部科学省)です。貴重な文化遺産を、後の世に伝えようとする意欲は、国がみずから捨ててしまった結果ですよ。(二日目、57P)
(もう、早々と錯乱状態で支離滅裂です。著者にはコンプレックスというか、被害妄想的な独善性があるように思われます。老いのせいにすればいいのでしょうが。読まされる方は、たまったものではありません。)

・『源氏物語』は、学生時代にひととおり目を通しました。とても「読んだ」とは言えない。筋を追っただけですし、分かったような分からないような、模糊とした印象しかありません。今は授業のために、必要に迫られて調べる。そのために、向きあうのですから、「読んで楽しむ」にはほど遠い。(四日目、133頁)
(これで、受験生に「古文の本来の味わい方」(134頁)を語り、そして古典文学作品をしっかりと読めと唆すのですから、何とも無責任です。)

・学生時代には、ひととおり論文に目を通して、それなりに理解した気になっていましたが、俗世間を泳ぎまわっているうちに、みんな忘れてしまいました。(五日目、158頁)
(なんとも無責任なことばです。こういう話を聞かされた学生は、古典文学なり文学研究の無意味さを実感する以外の何ものでもない、無責任発言です。)

・名古屋大学の国語国文学研究室のプロ集団は、誰もこのミスに気づかなかったのか。入試問題の検討委員会で、チェックできなかったのか。学校文法・入試文法について、もっとよく勉強していただきたい。
(著者は、学問の何たるかをまったく理解しておられないようです。大学入試で点数を稼ぐ方法を教えるだけの方のようです。研究者に、学校文法・入試文法を勉強せよとは、本末転倒としか言いようがありません。)

・国語学・国文学を、キチンと学んでいない、言わば「素人」であることを、自ら告白している本だと言ってもいいでしょう。(5日目、170頁)
 学問的に正しいか否かはともかく、入試にどのように出題されているかがポイントで、予備校講師の最も神経を使うところです。(六日目、176頁)
(著者の言うプロと素人の定義が不明です。著者自身が、古典文法の素人なのではないでしょうか。)

・学校の勉強ばかりして、いい大学に入ったら、あとは楽チンの人生、と考えているとしたら、とんでもないことです。(六日目、194頁)
(まったく現代社会における学生たちを理解していない発言となっています。自分が現役だった遥か昔の物差しで今を見るのは、やはり無理があります。若者に失礼です。老い故の限界でしょうか。)


◆著者の言葉遣いも気になりました。

 例えば、「ご一読くださらぱ、幸いです。」(五日目、161頁)の「くださらば」は、日本語としてどうでしょうか。私は使ったことがないし、目にしたこともないものです。

 「本文を改定しました。」(五日目、150頁)は「改訂」の方がいいと思います。「本文校定という作業」という表現の場合は、「本文校訂」という用語を使う方がいいと思います。間違いとか言うのではなくて、適切な用字は何か、ということからの、私ならということです。

 切りがないので、この辺にしましょう。
 とにかく、いろいろな意味で、これはおもしろい本です。

 この本を手にした受験生が、日本の古典文学に興味を失うことを危惧します。年老いた著者(昭和13年生)の古典に対する思い入れの気持ちは分かります。今の若者を見て、昔語りをしたくなった気持ちも、分からなくはありません。しかし、結果的にこの本では、それが空回りして、読者には逆に作用する結果を惹起するものとなっていると思われます。

 書けばいい、語ればいい、というのではなくて、教育的配慮ということも大切ではないでしょうか。もっとも、予備校の先生はそうした問題には埒外にあると言われればそれまでですが。人生を分かったかのような錯覚に陥り、これから伸びていこうとする若者のやる気を削ぐことは、慎むべきだと思います。

 現代は、これからの若者を励ますための工夫を考える時代になっている、と私は思っています。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 23:25| Comment(2) | 古典文学

2011年10月18日

読書雑記(46)福田美鈴『わが心の井上靖』

 今夏、静岡県にある井上靖文学館へ行った折に入手した『わが心の井上靖 いつもでも『星と祭』』(福田美鈴、井上靖文学館、2004年6月)を読みました。
 
 
 

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 この時のことは、「クレマチスの丘にある井上靖文学館」(2011年8月21日)に記した通りです。

 本書には、筆者が日常生活を通して接した、我が師と慕う井上靖の側面が、非常に具体的に語られています。
 こうした記憶をもとにした文章には、個人的な行動範囲での感懐という制約があります。個人の視点での人物描写なので、全体像が見えないことがままあるからです。しかし、井上靖を理解する上で、本書には詩誌を通して知ることのできる参考情報に満ちていると言えます。

 「ネパール行のこと」(132頁)では、『星と祭』のモデルが明示されています。これもまた参考になります。

 私が興味を持ったのは、井上靖が住んでいた場所の移動を整理した、「旧『焔』(昭和四年一月−同十二年七月)から井上靖消息」という3頁ほどの資料です。井上靖の居住先が追えるので、大変参考になります。
 ここで判明したこととして、「上京して下宿するのが昭和六年の夏であったことで、東京ぐらしは一年にも満たない期間であった。」(66頁)という指摘があります。具体的には、「六年七月号 東京市外巣鴨町上駒込八三六 鈴木方へ転居」という記事のことです。

 私はまだ井上靖の年譜を正確に調べていないので、これまでの研究成果を知りません。いずれは、研究史を確認しながら自分なりに井上靖を追いかけていきたいと思っています。今は、「井上靖卒読」として全作品を読破することを目指しているところです。
 とにかく、この資料のことは記憶しておき、折々に参考にするつもりです。

 なお、本書の文章を読んでいて、敬語表現の粗雑さが気になりました。井上靖への親近感から、師への距離感が狂ったとも言えます。しかし、それが父を中心にして語られる時にも、その門弟の方々への言葉遣いにもみられるので、師と父の偉大さから敬意が乱れたと思われます。
 もし増補改訂をなさることがあるならば、ぜひ見直して補正なさるといいかと思います。
posted by genjiito at 23:20| Comment(0) | 読書雑記

2011年10月17日

牛歩の日々に慣れるために

 今日は、いろいろな書類を作成してもらうために、京大病院の中で4時間を過ごしました。
 先週は九段坂病院で3時間。

 iPhoneをフルに活用して、メールや書類を作るなど、やれることはたくさんしました。何本かの書類をメールに添付して送りました。締め切りに間に合ったもの、ギリギリのもの、少し遅れたものと、いろいろです。
 しかし、そうは言っても能率が悪いのは明らかです。待合所のベンチに座っているのですから、不自由この上ない環境です。

 ビジネスルームなりコーナーがあったら、と思うのはわがままでしょうか。
 図書コーナーと読書コーナーがあるので、ここは後一息です。

 可能な限り、いろいろな書類を早く仕上げて、本来の自分の勉強をしたいと思っています。しかし、なかなかそうはさせてもらえません。

 仕事の効率ということでは、今日はあまり明るくない話です。しかし、自分の今の状況を記録しておくという意味でも、以下に待合室での手持ちぶさたなままに記します。

 最近、私の生活がマルチタスクからシングルタスクへ移行したと感じることがよくあります。

 これまで、さまざまな電子機器を駆使して、同時進行でたくさんの仕事をこなして来ました。

 それが、加齢(?)と共にというべきか、同時にいくつもの仕事ができなくなりました。
これは、誰もが年と共に経験することだと聞いていました。しかし、自分がこの状況を自覚してその立場に立つと、やはり心穏やかならぬものがあります。
 つい「何で〜っ」 と口を突いて出る、自分に対する腹立ちが、我ながらおかしくなることがあります。そして、自分で自分を「まぁまぁ」と宥める始末です。

 その意味では、まだ余裕があるのです。
 これまでのように、同時にいくつもの用件を抱えないことを心掛ければ、平安な日々が送れるのです。

 他人にはスローライフの生活に切り替えました、と言いながら、その実は切り替えきれない日々です。

 病院に来ると、自分の身体を最優先にした生活の大切さを実感させられるので、我が身を愛おしむいい修行の場になります。病院には、こうした自分を見つめ直すリフレッシュ効果があることを、あらためて感じました。

 これは、意外に大きな収穫のように思えます。ものの見方や考え方を転換させるのですから。
 ここへは、そう頻繁に来るのも問題です。しかし、ラウンジや喫茶コーナーでコーヒーを一杯飲んで帰るのもいいかもしれません。他人を見てではなくて、自分を見つめ直すためにです。

 早速コーヒーを飲んでから、自転車で賀茂川沿いを帰ることにしましょう。

 それにしても、これまでは銀座のスポーツクラブで泳ぎ踊り、ジムでは筋トレをしていた私です。汗を流してリフレッシュに励んでいた者が、今度はあろうことか病院のラウンジでリフレッシュの意義を書くのですから、節操のないこと甚だしいものです。しかし、これもまた真なのです。

 のんびり上京の支度をしてから、新幹線に乗ることにします。
 とにかく、スローライフを標榜しているのですから。有言実行を果たすべく。
posted by genjiito at 23:38| Comment(0) | 健康雑記

2011年10月16日

袴を着けてお茶のお稽古

 おそらく三十数年前の結婚式以来のことです。
 今日のお茶のお稽古では、袴を着けてやりました。
 先生の旦那様の袴をお借りして、来週末に参加する京都でのお茶事のお稽古です。

 私は先生に付いて行き、見よう見まねで会席料理とお茶をいただけばいいのです。
 しかし、男は私一人ということで、初心者とはいえあまりみっともないこともできません。おまけに、着物で行くので目立ちそうです。本格的なお茶事と聞けば、なおさら緊張します。

 とにかく、度胸試しのつもりで行きます。無謀と言われようが、何事も体験しなければわからないのですから。声を掛けていただけただけでも有り難いことです。
 
 今朝の賀茂川は、昨夜来の大雨で増水していたため、飛び石は渡れません。
 北山を見やると、おもしろい雲がわいていました。
 
 
 
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 散歩を終えてから、地下鉄と近鉄電車を乗り継いで、大和平群へ行きました。

 お稽古場となっている先生のお宅は坂の上です。
 途中の平群北幼稚園では、運動会が終わるところでした。この幼稚園には、我が家の子供3人が切れることなく3年づつ9年間通いました。懐かしい思いで、聞こえてくるスピーカーの声に耳をかたむけました。
 帰る子供たちを見ると、制服のズボンやスカートが変わっていました。そして、小学校で行われていた運動会が幼稚園の園庭でおこなわれていました。園児の人数が減っていることがわかります。平群にも、子供が少なくなっているようです。

 さて、今日は、中置のお手前を稽古しました。
 10月なので、お茶室のしつらえがいつもと違うのです。
 お釜が少しだけお客人に近い所にあります。涼しくなって来たので、11月から炉に移る前に、少しでもお客さんが暖かく感じられるようにとの配慮があるようです。
 目の前に置かれている五行棚は、この月だけ風炉の中置に使われるもののようです。
 五行も「木・火・土・金・水」でいろいろな意味がありそうですが、今はお稽古に専念です。
 何かと細かな心配りと、それぞれに意味があります。

 今日は、栗のお菓子が美味しくて、久しぶりの和菓子を堪能しました。しかも、いつものように先生が丹精を込めて作ってくださったので、何にもまして格別でした。栗は平群のものだとも。
 回って来た縁高に入ったお菓子を、まず蓋を90度回し、箱の隙間に黒文字を入れてから蓋を取って左側に置きました。それから、黒文字をお菓子に突き刺して、懐紙に取ります。

 日頃は糖質制限をしています。しかし、お茶の時は別です。このお茶菓子の上品な甘さが楽しみでもあります。

 菓子器を扱うときなどに、私は手をパッと離す癖があるようです。そういえば、この前にも言われたような。
 大切なお道具を扱うのですから、手を離すときには落ち着いてゆっくりとすればいいのです。これは、お辞儀のときにも言えることです。頭を上げるときに、これまたピョンと振り上げるようにする癖があります。言われないと気づかないことです。
 さらには、背筋を伸ばして姿勢をよくすることもありました。頭を上から吊り上げられている気持ちで、そしてお腹を前に突き出すようにすればいいのでしょうか。
 これらは、とにかく気長に気をつけていくしかありません。

 最初の一服は濃茶でした。
 濃茶は手渡しで、ということをすっかり忘れていました。
 また、いただいただ後、薄茶のように手で飲み口を拭うのではなくて、濡らした小布巾を使うのです。このことも、すっかり忘れていました。

 お薄のお稽古となりました。自信を持って建水に柄杓を乗せて入って行くと、すかさず「こらこら」と先生から突っ込みが…… 建水は一番最後だと。
 ひと月以上も空くと、すっかり飛んでいます。
 水指を両手で包むようにして持って入りました。これも初めてです。

 お棗の拝見のとき、袱紗で胴の部分をくるくる回して拭いていると、また「こらこら」。
 これは、濃茶のときでした。私の前の二人が濃茶のお稽古をなさっており、その動作をじっと見ていたのでつい同じことをしました。
 なかなかややこしいものです。

 先生が、私が使えるような古帛紗(道具に添えたり拝見の時に使う少し小ぶりの帛紗裂)を見つけてくださいました。
 「紹巴人形手帛紗裂」というもので、淡いブルーでいい色合いの「紹巴織」のものでした。お茶席で聞かれることがあったら、「紹巴人形手」だと言えばいいそうです。

 添付されていた説明文を見ると、「紹巴」に「しようは」と振り仮名がありました。
 古典文学の世界では、里村紹巴という人の名前を読むときには「じょうは」と言っていることを思い出しました。そのことを先生にお尋ねすると、茶道では濁らずに発音することが多いそうです。
 改めて説明文を見ると、中ほどに「連歌師・里村紹巴(一五二四〜一六〇二)が所持していた裂に由来する説もある。」とあり、この人名に「さとむらじょうは」と振り仮名がついています。人名などと区別してあるので、納得しました。
 さらには、この古帛紗は京都の北村徳齋帛紗店(徳齋名物裂研究所)のもので、創業正徳二年(一七一二)とあります。我が家から自転車で行けるところにあり、先月娘に結婚記念にかわいいガラスのコップを買ったお店のお隣です。急にこの1枚の裂に親近感がわきました。末永く使えそうです。

 昨夏から始めた茶道ですが、しだいに本格的になっていきます。
 戸惑いながらも、物覚えに自信がなくなりつつあり、さらには加齢を自覚するこのごろです。しかし、この茶道はおもしろいので続けていけそうです。

 いろいろな楽しみが増えたので、今後とも生活の中にお茶の心得を取り入れていくつもりです。
お茶室のある家に住むことを、まずは夢の一つに加えましょう。
posted by genjiito at 23:27| Comment(0) | 美味礼賛

2011年10月15日

読書雑記(45)森見登美彦『太陽の塔』

 森見登美彦の『太陽の塔』(新潮文庫、2006年6月、2003年12月に新潮社より刊行)を読みました。森見作品を読むのは、これで2冊目です。
 
 
 
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 前回読んだ「読書雑記(44)森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』」の後、なんとなく気になる作家です。この『太陽の塔』は、2003年に第15回日本ファンタジーノベル大賞を受賞したという宣伝文句に惹かれて、この本を手にしました。

 本書を読んだ後、「日本ファンタジーノベル大賞」なるものを調べてみました。今年(2011年)で第23回目になります。しかし、その受賞作のリストに、私がこれまでに読んだことのある作家は一人もいません。もちろん、受賞作も知らないものばかりです。
 あるとすれば、第1回大賞受賞作の『後宮小説』(酒見賢一)でしょうか。どこかで見たようなタイトルだという記憶だけですが。

 この分野の作品は、これまで、私が興味を示すジャンルではなかった、ということです。

 さて、本作品について。

 一女性研究の報告書というスタイルを取ることがまず宣言される物語です。


 長きに亘り、私は「水尾さん研究」を行ってきた。
 作成されたレポートは十四にのぼり、すべてを合わせると四百字詰め原稿用紙に換算して二百四十枚の大論文である。(中略)研究内容は多岐に亘り、そのどれもが緻密な観察と奔放な思索、および華麗な文章で記されており、文学的価値も高い。
 いつねんまえの十二月の時点ではまだ不完全な点が多く、より正確を期すためにはさらなる歳月が必要であろうと思っていた矢先、私は彼女から一方的に「研究停止」の宣告を受けたのであった。
 しかし、それぐらいのことで私はへこたれなかった。一度手をつけた研究を途中で放棄することは両親が許さない。幸い、私の研究能力と調査能力と想像力をもってすれば、彼女の協力を排除したうえでも研究は成り立つ。断続的に行われる彼女とのメールのやりとり、および大学内外における実地調査によって、彼女の日々の行動を私は観察し、研究を続けた。むろん、この研究の副次的な目標が、「彼女はなぜ私のような人間を拒否したのか」という疑問の解明にあったことは言うまでもない。(10〜11頁)


 見方によっては、これは明らかにストーカーレポートです。そこは文学的に「水尾さん研究」という言葉の綾で糊塗してあります。

 人間を見つめる作者の眼はするどいのものがあります。その観察眼は、よく行き届いていて感心します。それが語り口を豊かにし、おもしろおかしく展開させていくのです。

 ところが、6割方を読み通したあたりからでしょうか。急速につまらない調子になりました。
 話がだらだらとし、男が喋るシーンがあまりにも陳腐なのでしばらく後まで読み飛ばしました。
 作者をマラソンランナーに喩えると、30キロ目前で急に失速したかのようです。ただただ、惰性で走っているのに付き合わされている、という感じになり、読んでいて疲れ出しました。

 そして、水尾さんも語られなくなりました。

 ただし、ちらっと『源氏物語』という単語が眼に入ったので、そこでは何だと思って読みました。少しだけでしたが。
 水尾さんは、『源氏物語』を愛読していたようです。


・本棚には山本周五郎、谷崎潤一郎、そして源氏物語が並んでいた。私は源氏を手に取り、ぱらぱらとめくってから本棚に戻した。宇治十帖に辿り着こうとし、「えいや」とかじりついたものの読書力及ばず、何度も挫折したことを思い出した。(163頁)

・私が永遠にたどり着けない源氏物語「宇治十帖」を愛読する。(227頁)

・それともいつまでたっても宇治十帖を読めなかったのが問題であったのか、(228頁)


 それはともかく、「水尾さん研究」は途中で頓挫しています。こじつけのように、最後の最後になって、水尾さんのことが語られます。最初の意気込みから、そのストーカーまがいのレポートを楽しみにしていただけに、すっかり拍子抜けです。

 話が歪み、水尾さんという女性が描ききれず、京大生という男の生態に留まっている報告となり、中途半端なままに話が終わります。
 これが日本ファンタジーノベル大賞を受賞した作品なのかと、大いに失望しました。

 私には、ファンタジーノベルなるものが、どうも理解しがたいものに思えてきました。
 読む作家とジャンルを間違えたのかな、との思いで、この本を閉じました。【1】
posted by genjiito at 23:53| Comment(2) | 読書雑記

2011年10月14日

名和先生の近衛家陽明文庫談を堪能

 楽しみにしていた陽明文庫の名和修先生の連続講演会が、国文学研究資料館で始まりました。
 12月までに5回の講演が組まれています。
 今回のタイトルは「平成23年度 連続講演 古典資料の創造と伝承」です。
 早くから事前の申し込みが殺到していたこともあり、会場は早々に満席となりました。

 名和先生のお話は、いつものように、柔らかな語り口で始まりました。
 今日はその第1回目で、「近衛家陽明文庫の名宝」です。

 枕のお話の後、受付で配布されたプリントに「1 近衛家及びその祖先歴代の創成になる資料」とある項目の「(1)歴代関白記 自筆本が伝存するもの」という内容に移ると、しだいに話に熱が籠もってきました。


 「御堂関白記」に始まり、21番目の「篤麿公記」(明治時代)までの近衛家に伝わる貴重な関白日記の意義と価値について、配布資料をもとにスライドを映写しながら、懇切丁寧な解説がありました。
 代々非常によく似た文字で書かれているので、区別が付きにくいものでした。

 続いて、陽明文庫のお蔵の中へスライドで案内してくださいました。
 みなさん初めて見るお蔵の中なので、目はじっとスクリーンに釘付けです。

 陽明文庫の所蔵品に関する説明の中でも、もらった手紙に合点を付し、行間に返事を書き込んで返信したものの話では、会場は聴き入る雰囲気に満ちたように思います。多くの方が、始めて聴く話だったからです。ただし、これは目下の者に対して許され、目上に対しては首が飛ぶ行いになるとか。
 今のメールの返信に、相手の文が引用されたままで届くことを思い出しました。

 時間を大幅にオーバーした今日の講演は、本邦初公開の『和漢朗詠集』で締めくくられました。
 スクリーンには、国宝でも重文でもない、しかし見事な巻子本が映し出されました。昨夜デジカメで撮影したものだとか。
 名和先生からの、聴講者へのサプライズとなっていました。

 さらには、ちょうど現在この会場の下で開催されている特別展で展示している国宝『和漢朗詠集』を、特別にもう少し皆さんに見ていただく、ということも実現しました。まさに、特別展と連続講演がリンクしたイベントとなりました。

 さまざまなお宝の話を伺うだけでもいい勉強なのに、その実物が講演会場の真下の展示室に並んでいるのです。お話を聞いてすぐに原典が自分の目で確認できるのですから、贅沢な空間に身を置いていることが、気持ちを豊かにしてくれます。

 今回のイベントに参加された方々は160名ほどだったでしょうか。まさに至福の時を体感なさっていました。もちろん私も。

 講演会が終わるとすぐに、私は新幹線で京都へ向かいました。
 列車は満席で、立っている方もたくさんおられました。

 今夜の京都は大雨です。先ほど、夜の賀茂川散歩に出かけてきました。
 川は大水で、遊歩道にまで水嵩が増していました。
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | 古典文学

2011年10月13日

読書雑記(44)森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』

森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』(角川書店、平成18年511月)を読みました。
この作家の作品は初めてです。本のカバーデザインに惹かれて手にしました。
 
 
 

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京大構内と下鴨神社が主な舞台となって展開します。
私は、ファンタジースタイルの作品を読むことが少ないので、奇想天外な物語の展開に戸惑いました。
しかし、しだいにその面白さに引き込まれていきました。
三階建ての電車がいいですね。

下鴨神社の古本市は、私が身近に体験している世界なので、イメージを膨らませながら楽しめました。
この古本市を妖怪の集会とは、言い得て妙といえます。

ちょっとしたネタの奇抜さと小気味よさが、気持ちよく読み進めさせてくれます。
ただし、盛り上がりには欠けるので、少し飽きる時が間歇的にあります。
これも、この作者の味でしょうか。

京大構内で、「阿呆」な人たちの演劇が展開します。
登場人物たちの『阿呆」さ加減に慣れることが、この作家の作風に寄り添うことにつながります。
この読書感覚がわかると、別の作品が読みたくなります。
何となくいい味が出ているので、また味わいたくなります。

温かく、ほんわかしていて、それでいて天空を見つめる視線が心地よいのです。

また、ここで語られる愛は、非常に純粋です。
大学一年生の乙女をとりまく男たちは、若さの中に青くさいながらも清々しいところがあります。
こうした点に、その若いがえゆのぎこちなさにうまくつながっています。

読後感がいいのは、作者の自由な表現力と夢を語ろうという意志がつたわってくるからでしょう。【3】
posted by genjiito at 22:15| Comment(0) | 読書雑記

2011年10月12日

信じがたいヘモグロビン値の急降下

 九段坂病院の糖尿病外来へ行ったのは、9月15日でした。糖尿病の物差しとされているヘモグロビン A1cの値は、「7.1」でした。この日のことは、「お医者さんが勧める薬物治療に足踏み中」(2011年9月15日)に書いた通りです。

 今年の4月以降9月までで見ると、私のヘモグロビン A1cの値は次のように推移しています。


 7.3 → 7.1 → 6.9 → 7.1



 この次の検査と診察は、それから2ヶ月後の11月中旬です。まだ1ヶ月もあります。

 このところ、糖質制限食に私も妻も慣れ、食事の度に計測する血糖値も、ほぼ予測できるようになりました。順調に低めにコントロールできているように思っています。

 こうなると、現在一般的に糖尿病での指標とされるようになってきた、ヘモグロビン A1cの値が気になります。

 カロリー制限食から糖質制限食に切り替えたのは、ちょうど2ヶ月前の8月21日でした。たまたま手にした雑誌の記事を見ながら、見よう見まねで取り組み出しました。
 その20日後に病院での診察前に計測したヘモグロビン A1cの数値が「7.1」だったのです。高いのです。
 もっとも、ヘモグロビン A1cは2ヶ月間の平均値を出してくれるものなので、私は落胆はしませんでした。

 来月11月に予約している時に測ってもらえばいいところですが、糖質制限食に取り組んでいるところなので、途中経過が知りたくなりました。

 そんな中、血液検査など、検査項目ごとに希望するものを個別に調べてもらえる街の検査所を見つけました。ヘモグロビン A1cだけの検査は千円なのです。
 知りたくもあり、知りたくもなし、という心境のままに、計測してもらいに行きました。
 ハラハラドキドキの結果は、本当に茫然自失、脱力ものでした。

 日々計測している血糖値の様子からして、糖質制限食の効果を反映して好結果であることは予想していました。私の予測は、病院で診察前に測った値が、7月は「6.9」で先月9月が「7.1」だったことから、今日は「6.8」に下がる、というものでした。

 糖尿病学会のガイドライン(2006〜2007)によれば、次のようになっています。


「5.8%未満=優」
「6.5%未満=良」


 私の予想値は、まだ糖尿病とされる数値の中にある、ということです。

 できることなら糖尿病の安全圏内である「6.5」であれば御の字、という淡い期待を持ちながら、いや一気に良い数字はかえっていけない等々の思いを抱きながら、目の前の計器のカウントダウンをじっと見つめていました。

 結果の表示を見て、我が眼を疑いました。

 【6.0

 これは、計測ミスで再計測になるのでは、という疑いの眼で、目をこらして見つめました。

 しかし、看護婦さんの様子を見ても、インチキではないようです。説明もしっかりしてもらえました。
 「6.5以上だったら病院で診察を受けてもらうところですが、これなら要注意というところでしょうか。生活習慣を見直し、運動を取り入れましょう。」と、天使のささやきのような心地よい響きの言葉が耳元をかすめて行きました。

 大急ぎで妻に電話をしました。
 すぐに妻の予想を聴くと、「6.8くらいかな?」というものでした。私の予想と期せずして同じです。
 今年の4月に仕事を辞めて上京して以来の日々は、「カロリー制限食」のために食材を厳選し、食事回数と味付けや調味料に気を配ってくれていました。それよりも何よりも、2ヶ月前からは私が思いつきで取り組みだした糖質制限食に振り回され、そのメニューに頭を悩ませ、素材を探し回ったり調理の工夫と分量にも心を砕いて来ました。
 そうした日常があったので、過度の期待は自ずとセーブして、「6.8」という予想値を言ったことでしょう。

 それにしても、今日の結果が「6.0」だったという事実は、我々2人にとっては驚喜すべきことです。
 他人様にとっては何と言うことはない数字です。何をそんなことで一喜一憂を、と思われるだけでしょう。
 しかし、あれこれと迷いながらの日々の結果としてのこの数字は、我々にとっては快哉を叫びたくなるほどの数字なのです。
 妻に対して褒賞に値する、記念すべき出来事なのです。
 妻も、機械が壊れていなかったかと、そのことにまず頭がいったようです。

 これからがさらに大変です。とにかく、信じられないほどの結果が突きつけられたことは、本当に事実なのですから。
 ひょっとして、こうなったらいいな、という思いはありました。
 それにしても、嘘のような誠、とはあるものなのです。

 先月、病院の先生が勧められた薬を飲む生活をなんとか断り、結論を先延ばしにして、ずるずると決断を引き延ばして来ました。しかし、この数値を見ると、あれは何の誘いだったのかという、訝る気持ちが沸いてきました。
 先月の診察では、朝だけでも薬を飲んでみませんか、という誘いがあったのですから。

 これまで医者と栄養士の方々の指導のもとに取り組んで来た「カロリー制限食」とは一体何だったのだろう、とは言わないことにします。
 短絡的に安易な結論を出すには、まだ早すぎます。

 多くの医者が日本糖尿病学会の指針の下に「カロリー制限食」で患者に向かい、さまざまな経口薬やインスリン注射で血糖値を管理する医療が、幅広く医療現場で取り組まれています。
 それを揺るがすことは、軽々にすべきではないと思います。それを支える、さまざまな症例や事例があるはずなのですから。
 この基本的な医療方針が変更になるということは、一部の医療従事者の失職や、病院に出入りする業者の入れ替えも想定しなければなりません。糖尿病はますます増加する現状の中で、医療現場の混乱は必至です。

 日本糖尿病学会が推奨しない糖質制限食という方法で、私の血糖値管理はうまくいきそうです。しかし、これとて、長い間の数多くの臨床例を踏まえてのものではありません。たかだか10年ほど前からの、有志による取り組みによる対処療法なのです。
 それが、目の前の今を改善する方法の一つとして、私に適合しているという結果が見えたところなのです。
 あくまでも、これからが大事です。

 それにしても、恐るべし「糖質制限食」。

 これで気を緩めることなく、このままの調子で糖質制限食の日々を続けて行きたいと思います。
 次は、糖尿病学会が「優」とするランクの「5.8」以下を目指して……

 といっても、この数値が現実問題としては目前になったのですから、張り合いのある目標値となってきました。
 急転直下、という言葉を思い出します。

 それにしても、この糖尿病との向き合い方は、あくまでも合併症を引き起こさないための取り組みのはずです。
 そのことを忘れることなく、食生活について考えながら、元気な日々を送ることにします。
 それにしても、スーパーなどで食品を手にして裏の成分表示を見ると、糖質(炭水化物)が含まれている量の多さには驚きます。とにかく、美味しく感じさせれば売れるのでいいとの製造業者の判断なのか、または、消費者がその甘露の味という誘惑を求めているのかはわかりません。
 糖質が気になり出すと、一体どれを買えばいいのか、砂糖漬けの日常社会生活を目の当たりにして途方に暮れます。

 同じことで悩んでおられる方のために、私がお医者さんに糖質制限食に取り組みだしたことを伝え、その反応がないままに本格的に向き合った先月9月15日以降、この1ヶ月間の血糖値の推移を示すグラフをあげます。
 あくまでも、1年前に胃をすべて切除した者のケースであることを前提に、ご笑覧いただければ幸いです。
 
 
 
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 赤い線は食後1時間の血糖値、緑の線は食後2時間の血糖値です。
 私は胃や十二指腸などの臓器がないために、朝、昼、夕、夜と1日5回ほど食事をします。そのため、このグラフにはそれらが混在しています。ただし、時間帯による有意な変化は認められないので、今は明示していません。

 日本糖尿病学会のガイドラインによると、食後2時間後の目安は、次のようになっています。


「80〜140mg/dl 未満=優」
「140〜180mg/dl 未満=良」
「180〜220mg/dl 未満=不十分〜不良」
「220mg/dl 以上=不可」


 私の場合は、2時間後の緑の線はほとんどが「優」で、時々「良」です。
 赤い線の、1時間後のばらつきが今後の課題であることが、このグラフから一目瞭然です。
 血糖値の揺れ幅が大きいほど、血管は傷ついていくのですから。
 食後1時間後の数値が高いときの状況と、そして何を食べたか、というメモもあります。しかし、それはまた後日データが整い次第に、ということにします。まだ1ヶ月間の記録なのですから。
posted by genjiito at 22:24| Comment(0) | 健康雑記

2011年10月11日

病院で悠久の時を刻む

 手の痺れが、いまだに続いています。
 このことを本ブログで報告したのは、8月1日でした。

 そもそもことの起こりは、6月下旬からでした。すでに4ヶ月になります。
 8月には、東京と京都の2つの病院でMRIを3度も撮ったのに、どちらもしばらく様子を見ましょう、という結論でした。
 あれから2ヶ月がたっても変わらないので、また見てもらうことにしました。

 整形外科へ行く前に、最近また気になり出した、鼻の下にできた疣を取ってもらうことにしました。
 この前とまったく同じ場所に、この前と同じ大きさの疣ができたのです。

 情けないことに、疣を取ってもらったのは外科だと思い込んでいたので直行したところ、うちの科ではないとのこと。
 先生の名前は?と聞かれても?です。
 すみません、女性だったように思いますと言うと、外科には女性の先生はいないのだそうです。それなら皮膚科でしょうということで、またあらためて診察の受付をし直しました。

 そういえば、この前も同じように受付のやり直しをしたように思います。

 いろいろな科にかかっていると、混乱してしまいます。外形的な治療は外科と決め付けてはいけません。

 疣については、前回同様に液体窒素を二三度塗布してもらい、あっさりと処置が終わりました。数日できれいになることでしょうと。
 再度疣ができたのは、前回取りきれなかったからのようです。また気になったら来てください、と親切な言葉をいただいて解決です。
 この処置は、「いぼ冷凍凝固法(焼灼)」とカルテの先頭行にに書いてあったので、よくある治療のようです

 肝心の整形外科では、予約をしていなかったこともあり、ちょうど3時間待ちました。
 新幹線に乗っていたら今頃どこを走っているのだろう、と思いながら、座り心地の良くない長椅子でモゾモゾしながら待ち続けました。
 うっかりしていました。仕事の用意をして来なかったので、いつ呼ばれるかわからない状態で果てしない荒野に一人ポツンと置き去りにされた時間が、殺風景な待合室で刻々と過ぎて行きました。

 いつも病院へ来ると、悠久の時の流れの中で彷徨うことになります。もう、大分慣れました。
 これを、人生の無駄な時間とは思ってはいけないのです。病院は悟りの場でもある、とまでは言いません。しかし、待たされている時は仏陀の心境になるのが一番いいのです。我が家は禅宗の中でも曹洞宗なので、只管打坐の実践です。

 いつも、生きていることに感謝しながら、待つことにしています。私も少しは成長したことを、こんな時に実感します。

 診察の結果は、「バネ指」だとのことです。これは初めての病名(?)です。
 左手をいろいろと押され、人差し指が特にコリコリしていることからの診断です。
 対処療法的ですが、先ずは痛みを取るために、注射をされました。
 目の前で注射針を真っ直ぐに差し込まれるのを見ると、日々血糖値の測定で針には慣れているとはいえ、怖くなって自ずと目を瞑っていました。

 掌で人差し指の付け根に注射針を刺され、少しグリグリと腱を避けるように針先を回されると、背筋に電気が走ります。
 場合によっては、手術も考えましょうとのことでした。この注射で様子を見て、それでも変化がなければ腱を切り開くのだそうです。胃をすべて取った身には、それくらいはどうということはありません。
 手の痺れがなくなるのならば、もう何でもしてくださいと言うしかありません。

 1パーセントのキシロカインを5ミリグラムと生食を注射されました。
 飲み薬のメチコバール錠と、塗り薬のインテパン外用液も処方されました。

 原因は何ですか?と聞くと、60年も使って来たからでしょう、と、気が抜けるほどのシンプルな回答です。
 またしても、加齢によるもののようです。
 そして、首の神経が圧迫されていることや、糖尿病の末梢神経等々、いろいろと関係しているでしょうが、とも。
 いずれも年のせいだと言うのなら、それを一つずつ解決してやろうじゃないか、と開き直ることにしましょう。

 8月1日、8月22日に続いて、この指はこの病院で三度目の診察です。そして、初耳の「バネ指」という結論です。
 しばらくは、この症状に付き合うことにしましょう。
posted by genjiito at 23:52| Comment(0) | 健康雑記

2011年10月10日

読書雑記(43)『我ら糖尿人、元気なのには理由がある。』

 今年の8月下旬から糖質制限食に興味を持ち、即実践を始め現在進行中です。

 そんな中で『我ら糖尿人、元気なのには理由がある。―現代病を治す糖質制限食』(宮本 輝、江部 康二、東洋経済新報社、2009/8/7)を読みました。
 
 
 
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 糖尿病に興味のない人には一顧だにされない本でしょう。しかし、日々頭を悩ませていた私にとっては、興味深く我が事として読みました。
 以下、記録として記します。

 この本は、糖尿人を自認する2人が繰り広げる対談です。特に宮本輝氏は自分が直面することでもあり、江部先生への質問が具体的です。それに対する江部先生の回答が、これまた詳しく医者として研究者として答えているので、それがおもしろいのです。
 具体的な事実を取り上げ、しかもそれを研究的な視点で解説した、息の合った対談となっています。

 以下、拾い読みをメモとします。


宮本 (前略)三ヶ月くらい経った頃だったと思いますが、後藤医師が糖質制限食の効果を認めて、こんなことを言ったんです。
「これは医学界で話題にしてみないといけないな。ただ、医者や栄養士なんかは認めないだろうけれどね」
 僕は、「何でだ」と尋ねました。
「おれたちは生まれてからずっと糖質を摂って生きているんだぜ。それを一切なしにするなんて、何か不都合が起こるんじゃないかと考えてしまうのは無理ないよ」
「そんな事言っても、おれは何ともないじゃないか」と言っておきましたが。
江部 後藤先生のようにフレキシビリティーのある方でも、常識の壁というか、心理的な壁はなかなか越せないようですね。
宮本 そうなんですよ。仏教の言葉に、「賢位に居す(けんいにこす)」というのがあるんです。
 修行を積んだと本人も言い、世の中もそう思っている僧侶がいるとします。そんな僧侶がある程度の位にまで進むと、自分の頭のなかで考えている仏教観、思想の範囲に閉じこもろうとしてしまうんです。自分が積んだ修行、その高い位置、つまり賢位から出ようとしなくなる、そのことを「賢位に居す」と言うんです。
江部 高い位置の賢位は、権威ということでもありますね。医者の権威、看護婦の権威、栄養士の権威、糖尿病専門医の権威、それに居すということですね。
宮本 そうです。それはもう、あらゆる世界にあります。医者の世界だけでなく、世の中の専門職と言われている人は、自分の信じてきたやり方でその地位を築いたわけですから、どうしてものその権威を信じてしまうんです。こうした人たちの最大の問題点は、自分の知識とか知恵などの範囲の外にあるものに対して、どうしても心を閉ざしてしまう、心を開こうとしないんですね。
江部 それが常識の壁といいますか、先生のおっしゃる賢位ならぬ、「権威に居す」ということになってしまうわけですね。どうしても保守的になる。(32〜33頁)


 ここを読んでいて、ああ私の場合もそうだった、みなさんそうなんだ、と思い納得しました。
 私が体験したことは、「お医者さんが勧める薬物治療に足踏み中」(2011年9月15日)に書いた通りです。糖尿病の専門医である主治医の先生は、私が始めた糖質制限の食事について露骨に無視なさいました。

 その時の様子を、上記ブログから引いておきます。これを書くにあたっては、相当ものの言い方を抑制した表現にしてあります。先生にもプライドがあることを承知してますし、批難することが何も生み出さないことを知っていたからです。

 しかし、その診察のときの私の心情はというと、糖質制限の食事を始めたという私の説明とその1ヶ月間の数値を頭から無視しないで、質問にはそれなりに糖尿病の専門医として答えてほしかったので、とにかく不愉快な思いでした。

 その日のブログは、腹立ち紛れに書かないようにし、つとめて平静を装いながら記事にしたつもりです。患者の立場で医者のことをこれだけ配慮する必要があるのかは、正直言って迷いました。しかし、素人が専門医を批判しても、何も生まれないのです。それよりも、このままこのお医者さんの診察を受け続けていていいのか、それが私の一番の迷いでした。

 以下が、その日のブログに書いた、先生と私のやりとりの一部分です。


 医者の立場からは糖質制限をした食事による糖尿病への効果は、医学的にわからないことが多いものなので勧められない、とのことでした。
 また、脳の活動には糖質は絶対必要なので、糖質を制限するのではなくてご飯類も少しは食べる必要がある、ともおっしゃいました。
 糖質制限の食事では、栄養のバランスが崩れるし、脂肪も多くなりすぎるそうです。
 また、お風呂に入れば体力を相当消耗するので、血糖値が下がるのは当たり前です、とも。

 どうやら、医学の世界では異端的な考え方である糖質制限の食事に同調した私への不快感が、こうした無視の背景にあるように感じました。実際、帰ってからネットで見ると、この件では普通の糖尿病専門医は否定的な対応をなさるのが一般的なようです。

 先生からは、あくまでもあなたは糖尿病なのだから、今日から薬を飲むことを考えるべきだと思うがどうですか、と同意を求められます。これまでずっと、薬による治療を足踏みして延ばしていたことが、今日は現実のものとして具体的に今日からの問題として提示されました。しかも、朝だけでも薬をのんでみては、とのことです。

 しかし、それでも私は薬を使いたくない気持ちを伝えると、この次まで様子を見ましょう、ということで診察は終わりになりました。
 帰ろうとして立ったままで伺ったことは、血糖値が高い状態の時間が長いほど、トータルとしてのヘモグロビンa1cの数値が高くなる、ということでした。確かに、食後2時間も血糖値が高いと、いろいろと問題なのでしょう。そのために薬で、食後の血糖値が高くならないようにするようです。

 持参した私の血糖値推移を示す資料をあまり見てもらえなかったので、最近の1時間後の数値は高いが、それからすぐに下降しているように思いますが、ともう一度お尋ねすると、食後60分から80分の数値が130くらいになることを目安にしている、とのことでした。それから言うと、私の場合は高すぎる、ということなのです。
 ほぼ毎日自分の血糖値を計測していることは、かねてより伝えてあったので、こうした具体的な対処方法を今回伺えたことは1つの目安になります。もう少し早く聞いていたら、前回7月の診察以来の食事方法もまた別のものを模索したと思います。


 次に引くのは、私にとって一番痛い話題が対談の中で交わされているものです。
 このことは、何か救いの道がないのか、今でも模索中です。


宮本 今日なんかお昼に料理番組を見ていたら、旨そうなちらし寿司が出ていて、「ああ食いたいな」と思ってしまいました(笑い)。
江部 寿司は最悪です。米の飯に砂糖まで入っていますからダブルパンチです。ここが堪えどころですよ。気持ちはわからないでもないですが(笑い)。


 私もじっと我慢です。お寿司のない日々に、もう慣れつつありますが……

 次は、私がかかっているお医者さんもおっしゃっていた、脳の活動にはブドウ糖が絶対に必要だ、という、上に引いた文にもある話です。あの時にも、ケトン体については一言も先生の説明に出てきませんでした。


江部 脳がブドウ糖しか利用できないというのは、完全に間違いなんです。単純に生理学的に間違いです。ただ、今でこそこんな大きなことを言っていますが、二〇〇一年に糖質制限食について徹底的に研究を始めるまでは、私も全然知らなかったんですけれどね。
宮本 某大病院の若い外科医が、「脳はブドウ糖しか使えない」と、懇々と僕に説教を垂れましたけれど。
江部 おそらく医者の九割九分がそう誤解しているでしょう。ましてや、普通の患者さんでは、ほとんどの人が脳はブドウ糖しか使えないと思い込んでいます。
宮本 現在でもそうですか、医者の九割以上が知らないと?
江部 私の知っている範囲から推測すれば、まず、そうでしょうね。
 脳がブドウ糖しか使えないというのは完全に間違いで、私のブログや本でも説明したんですが、脳は脂肪酸の代謝産物であるケトン体をいくらでも利用できるわけです。
 それに、糖質制限食にしたからといっても、別に低血糖になるわけじゃないんですよ。食事由来の糖質がなくても、アミノ酸や脂肪酸の分解産物を材料にして、肝臓が常にブドウ糖をつくっているんです。ですから、糖質制限食をしていても低血糖状態になることはまったくなく、人体に必要な血糖値を保ちます。
 だから、糖質制限食をしていても脳は、その肝臓でつくっている血糖を利用できるし、ケトン体も利用しているんです。(92〜93頁)


 最後に、「あとがき 常識の壁が打ち破られるとき」から江部先生の文の一部を引用します。


 (前略)『米国医師会雑誌(JAMA)』二〇〇六年二月八日号の論文で、五万人の閉経女性を八年間追跡した結果、脂肪を総摂取カロリー比二〇%に制限しても心血管疾患、乳がん、大腸がんリスクはまったく減少しないことが確認された。さらに『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』二〇〇八年七月一七日号に、「三二二人の成人を二年間追跡して、カロリー制限ありの脂肪制限食と、カロリー制限なしの糖質制限食の効果を比較検討した結果、糖質制限食が体重を減少させ、HDL(善玉)コレステロールを増加させた」という報告がなされた。また、医学の教科書『イラストレイテッド ハーパー・生化学 原書二七版』(上代淑人監訳、丸善)には、脳が脂肪酸の代謝産物のケトン体をエネルギー源とすることが明記してある。
 事実は動かない。糖質制限食の有効性は高尾病院での一二〇〇を超える症例から明らかだし、糖質制限食を頭から否定する三つの常識もこれらの事実によりはっきりと示されている。ところが、常識の壁とは恐ろしいもので、これらの明確な証拠があっても、一〇〇人中九九人以上の医師.栄養士が「脂肪悪玉説」「カロリー至上主義」「脳のエネルギー源はブドウ糖だけ」という無根拠な神話をいまだに信じているのが現状である。
 ところで、日々、糖質制限食の画期的な治療効果を目の当たりにし、また関連している研究文献に接しているうち、私が以前から抱えていた「本来の日本型の食生活」を求めるという課題が、次第に「本来の人類の食生活」とは何だったのかという根源的な疑問へと発展していき、この問いに自分なりの結論を出すことができたように思う。
(中略)
 食生活における三段階の変化に照らせば現代は精製炭水化物の時代であり、ミニスパイクの時代だと言える。これが急速に増えた現代病の元凶となっている。だから、人体にとって本来の食事とは農耕以前のもの、すなわち糖質制限食である。これが私の出した結論だった。(229〜233頁)


 以上、本書は新興宗教のプロパガンダではありませんし、私も新興宗教に洗脳されているつもりはありません。とにかく、まだ自分の身体で実験をしている段階です。その観点から見ても、本書は事実に即した内容に思えます。
 しばらくは、江部先生がおっしゃる方向で実験を続けていくつもりです。

 今は、血糖値の管理はおおよそ良好のように思えます。食事はすべて妻が最良のものを考えてくれます。その点では、何も問題はありません。ただし、体重が相変わらず増えません。これが、今直面している、頭を悩ませる問題です。

 胃癌によって胃を全摘出して1年。昨年の8月31日でした。それ以降、外科的には何も問題はありません。
 その代わりと言っては何ですが、食べ物を消化する、もしくは消化した後、というレベルでの壁が立ちはだかっています。
 手術前から問題となっていた糖尿病が、やっかいなものとして屹立しているのです。
 まだまだ、私の日常では食事との闘いが続いています。
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2011年10月09日

江戸漫歩(48)築地の秋まつり

 ブラブラと散歩がてら、自転車で銀座へ行く途中、かちどき橋を渡ってすぐの築地場外市場が賑やかでした。先日紹介した「波除稲荷神社」のすぐそばです。立ち寄ると秋まつりをしていたのです。

 青空休憩所では、食育体験ができます。「かつお節削り」「包丁研ぎ」「玉子焼き」「魚を捌く」などがありました。

 今、私は糖質制限食なので、近江牛のステーキやコラーゲン野菜汁などなど、カロリー制限食の頃には食べられなかったものが食べられるのです。青空の下、おいしくいただきました。

 道を隔てた向かい側は、東日本復興支援としてのイベント会場になっていました。
 
 
 
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 このエリアには、宮城県、福島県、岩手県の特産品が売られていました。
 私は、宮城復興支援センター主催のブースで、南三陸の浜から直送された獲れたての秋鮭のホイル焼きをいただきました。
 
 
 
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 まさに、糖質制限食の見本のような食事となりました。

 外に出ると、築地市場は人ひとヒトでごった返しています。

 土日によく来るのですが、あまりお店が開いていないのでこれほどの人出は初めてです。いつもは閉まっている店も、今日はおまつりということもあり、元気に営業です。
 
 
 
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 いつもの食材を仕入れ、何軒かの店で試食をして回りました。

 東京の築地市場は、京都の錦市場とも、大阪の黒門市場とも違った活気があります。
 黒門は近郊近在の人が、錦は地元の人と海外からの観光客が、そして築地は地方の人と海外からの観光客で賑わっている、という印象を受けます。
 市場に活気があるのは、本当に楽しいことです。

 私はあまりたくさんは食べられません。しかし、少しでも美味しいものを食べたい、という思いはいつも持っています。

 健康第一の日々を最優先させた生活を目指しています。
 そのためにも、何事においてもスローダウンさせた日常を意識しています。
 いままでのように、仕事をテキパキとはしていないので、申し訳ない思いでいます。
 しかし、これも元気な今日があり、明日があってこそです。
 昨夏、命拾いをして以来、この開き直りが一番の収穫です。

 そのような中で、贅沢ではなくて、少しでも新鮮で美味しいものは欠かせません。
 これが今の私にとって、明日へのエネルギーです。
 ささやかでかわいい贅沢だと思っています。
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2011年10月08日

国立小劇場での雅楽「越殿楽」

 昨日、国文学研究資料館で開催された陽明文庫展の内覧会が終わるとすぐに、立川から永田町に速攻で移動しました。K先生から雅楽を一緒にと誘われていたからです。

 国立劇場は、学生だった40年ほど前に一度行ったことがあります。その後、何かでもう一度行ったような気がしますが、それがいつ何でだったのかは思い出せません。
 私にとって国立劇場は、なかなか行く機会のない場所でした。K先生はさすがに日本の古典芸能にも造詣が深くご著書もあるので、しばしばお出でになっているようです。

 今日は、日本雅楽会の第50回公演でした。K先生の教え子が舞人として出るので、ということでした。今、私のところに仕事で来てもらっている方のお友達でもあるそうです。

 第一部は管弦でした。

黄鐘調「音取」「西王楽破」「越殿楽」

 楽器の演奏だけなので、目の前に整列して座っておられる楽人の方々の動き以外には、その風景は何も変化がありません。眠気を催すのかな、と思っていたら、意外と聴き入ることができました。
 中でも、「越殿楽」は一般的には「越天楽」と書き、よく知っている曲です。しかし、じっと聴いていましたが何か違うのです。

 いただいたパンフレットの説明によると、次のようにあります。

今日演奏する「越殿楽」は黄鐘という調子(洋楽で言うところの主音の宮音がラの音)の曲ですが、越殿楽はこの黄鐘調のほかに盤渉調(宮音がシの音)と平調(宮音がミの音)の曲があります。
 雅楽では、移調するとメロディーが変わり、別の曲のようになってしまいます。学校の教科書などに載せられている「越天楽」は平調のメロディーなので、本日演奏するものはそれとはまた違った曲に感じられることと思います。


 先にこの説明文を読んでおくんでした。聴きながら、こんな曲だったのかな等々いろいろな事を思っていたのも、素人なりの聴き方でまた楽しかったのですが……

 第二部は舞楽でした。

「賀殿」「林歌」「納曾利」「長慶子」

 先生の教え子の方は、「賀殿」の舞人でした。オレンジ色の美事な衣装を身に纏い、キリッとしていて爽やかさを感じさせる容貌でした。平安時代の若者そのままの雰囲気を醸し出しておられました。光源氏が舞っている、と言っても褒めすぎではないと思います。
 相当練習されたのでしょう。4人とも、動きが揃っていて感心しました。

 私のことに引き付けると、エアロビクスなどで右足や左手を先に出して隣の人とぶつかったり、お茶などで手を伸ばす場所や順番を間違えて流れが違ったりすることがよくあります。
 そんな卑近なことを思うと、派手な動きのない実に抑制された動作が連続する舞楽の中で、脚を微妙に動かし首を左右に振ったり手を上げ下げするのに、4人がほとんど同じ角度で動いておられたのです。驚嘆するばかりでした。

 「納曾利」は、四天王寺や天理などの雅楽会などでも何度か見ました。関西の舞楽と微妙に違うように思いましたが、素人なので本当にそうなのかはわかりません。何となくそんな感じが……
 前半と後半の動きの違いがよくわかり、じっくりと見ることができました。

 帰りは、神楽坂でK先生とご一緒に食事をしました。私の糖質制限の食事に付き合って下さり、ハマグリの焼き物、マグロとアボガドのワサビ和え、お刺身の盛り合わせ、ブリカマなどを焼酎を飲みながらいただきました。糖質制限食にしてから、お酒のおつまみのレパートリーが拡がりました。ただし、食事となると何かと不便な思いをします。そのために、神楽坂の通りをいろいろと経巡ることにお付き合いしていただくことになり、恐縮しています。

 いつも楽しい話に花が咲く先生との一時ですが、今日は結婚した娘たちの話題が中心でした。父親としての話です。本当は研究の話をすべきなのでしょうが、K先生とはいつも気楽にお話ができます。気分一新元気になって、またの再会を約して帰路につきました。
 内覧会と舞楽という、慌ただしい中にも充実した一日でした。
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2011年10月07日

陽明文庫展の内覧会

 明日から、国文学研究資料館を会場にして、陽明文庫展が始まります。実際には、特別展示[近衞家陽明文庫 王朝和歌文化一千年の伝承]と言います。
 それに先立つ今日は、たくさんのお客様をお迎えして内覧会が開催されました。
 セレモニーとしてのテープカットの様子です。
 
 
 
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(右から、伊井春樹前館長、名和修陽明文庫長、近衛家御当主奥様、松野陽一前々館長、今西祐一郎現館長です。)

 今回、国宝7点や重文を始めとする貴重な資料が並ぶ展覧会が実現しました。
 展示替えが3回ありますので、国宝などすべてを見るためには3度は立川に足を運んでいただくことになります。

 陽明文庫にある数多の重要な古典籍をトラックに載せ、その助手席に名和先生ご自身が乗り込んで、立川まで運んでくださったのです。
 2008年の源氏物語展の時は、学芸員の資格を持っている私と、同じく資格を持つ同僚のA氏と共に、天理図書館から陽明文庫、京都文化博物館、京都府立総合資料館、鞍馬寺を経て立川までの長距離を、トラックに乗って展示資料を運び込みました。
 あの時の様子は、次のブログをご笑覧ください。

「瀑布に打たれ続ける日々」(2008年9月28日)

 今回、同じように名和先生は京都の陽明文庫から立川までの長旅を、トラックに乗ってお越しになったのです。ただただ頭が下がります。

 昨日は、展示のために国文学研究資料館に連日お出でになっている名和先生が、私の部屋にお越しになりました。展示の作業で疲れた、眠たいとおっしゃりながら、午後にはまた精力的に展示室で奮闘なさっていました。

 とにかく、すごいお宝が立川に並んでいます。
 図録も、立派なものができています。
 週末にでも、立川にお出かけください。
 
 
 
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 以下、国文学研究資料館のホームページで公開している記事を引きます。


特別展示「近衞家陽明文庫 王朝和歌文化一千年の伝承」 会期:平成23年10月8日(土)〜12月4日(日)※期間中、月曜日は休室(10月10日を除く)

前期:10月 8日(土)〜10月30日(日)

中期:11月 1日(火)〜11月20日(日)

後期:11月22日(火)〜12月 4日(日)

開催時間:午前10時〜午後4時30分※入場は午後4時まで

場所:国文学研究資料館 1階展示室

特別鑑賞料:300円  ※高校生以下無料  ※身体障害者手帳保持者は手帳提示により、介助者と共に無料です。


展示のみどころ
特別展示「近衞家陽明文庫 王朝和歌文化一千年の伝承」では、陽明文庫に収蔵されている近衞家伝来の品の中から、王朝和歌文化に関連する資料を多数出品します。特に本展は、特定研究「陽明文庫における歌合資料の総合的研究」(研究代表者:中村康夫教授)の成果として、平安時代に編纂された歌合の記録や、近衞家の歴代当主の文芸活動を示す和歌懐紙、近世の近衞家と皇室との関わりを示す宸翰(歴代天皇の筆跡)なども併せて展示します。 さらに、近衞家伝来の名宝として有名な古筆の名品も多く展示することで、近衞家という家を核として伝えられた王朝和歌文化の世界を実感していただきたいと思います。

陽明文庫について:
「陽明文庫」とは、1938 年(昭和13 年)に当時の内閣総理大臣近衞文麿(近衞家29 代当主)が、仁和寺の北西部に設立したものです。藤原道長自筆の日記である「御堂関白記」(国宝)、名筆の集大成である「大手鑑」(国宝)、美麗な唐紙に和漢朗詠集を書写した「倭漢抄」(国宝)等、五摂家の筆頭である近衞家が宮廷文化の中心として護り伝えてきた貴重な文書や宝物を収蔵しています。

問い合わせ先:TEL.050−5533−2910
       FAX.042−526−8604
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2011年10月06日

スティーブ・ジョブズの死と雑誌の特別付録

スティーブ・ジョブズが昨日亡くなりました。
病気で痩せ細った姿をテレビで見ることが何度かあったので、体調が悪いことをみなさん心配しておられたことでしょう。

私は20年近く、パソコンはMacintosh を使っています。これからのアップルの戦略が気になります。
Macintosh が Windowsのようなビジネスマシンに堕することはないと信じます。
アップルは、iPhone やiPadが絶好調なので、パソコンを切り捨て、モバイルとiCloudに走って行かないことを祈るばかりです。

私は、パソコンが出始めた30年以上も前から、情報を求めてコンピュータ関連の書籍や雑誌を購入し続けています。いつか、手持ちの雑誌で文科系のためのパソコンの歴史を綴ってみたいと思っています。
そんな折、スティーブ・ジョブズの死を知り、パソコン雑誌の記事のあまりにも偶然すぎる企画に驚いています。

今、手元に9月29日に発売された『MacPeople』の11月号があります。これは、Macintoshの情報というよりも、アップルの情報を毎月提供するパソコンの雑誌です。
もう10年以上、これと『MacFan』の二冊を毎月購読しています。

この『MacPeople』11月号に、『Steve Jobs Keynote History 1984-2001』という191頁の冊子が特別付録として付いています。
 
 
 
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 その巻頭には、スティーブ・ジョブズがCEOを辞任する挨拶文が掲載されています。


             2011年8月24日
          スティーブ・ジョブズからの手紙

         Apple 取締役会および Apple コミュニティの皆様

私はこれまで常々、私が Apple のCEOとして職務と期待に応えられなくなるような日が来たときは、
    私からまず皆様にお伝えすると申してきました。残念ながら、その日が来ました。

私は Apple のCEOを辞任いたします。もし取締役会が認めてくださるならば、取締役会会長、取締役
      そしてApple の従業員として今後も務めさせていただきたいと思います。

            私の後任には、継承計画を実行し、
     ティム・クックをApple のCEOに任命するよう、強く薦めたいと考えています。

      Appleの最も輝く、最も革新的な日々はこれからだと信じています。
       その成功を新しい役で見守り、また貢献したいと思っております。

       私は Apple で、生涯で最高の友人と言える人たちと出会いました。
     長年にわたり、皆様と一緒に仕事をさせていただいたことに感謝いたします。

                    スティーブ


スティーブ・ジョブズの死を知り、改めてこの巻頭文を読み直しました。これは、期せずしてお別れのことばとなっているものなのです。

また、この付録の巻末には、スティーブ・ジョブズの退任にあたり読者が Twitter に寄せたメッセージが、36件ほど列記されています。
これも偶然ですが、スティーブ・ジョブズへの惜別のことば集として読めます。
いくつか引いておきます。


「この人がいなければMac はなかった。ありがとうジョブズ」

「素晴らしかったけれど、日本ではずっとマイノリティーだったアップル。けれど、その激動の歴史をともに生きられたことは、思えば幸せだったのかもしれない。アップルが好きでよかった。たくさんの夢をありがとう、ジョブズさん。」

「いつかはこうなるとわかってはいたが、それはずっと先のことだろうと期待していた。ジョブズが去った後もその精神はアップルに生き続けるだろう。ありがとうジョブズ!」

「来る時が来てしまった。ジョブズ退任お疲れさまでした!」


この冊子『Steve Jobs Keynote History 1984-2001』は、ジョブズの一生を、アップルの歴史と基調講演の内容で振り返るスタイルで編集された本です。
この冊子が編集されていたときには、ジョブズの死など微塵も想定せずに作成作業が進んでいたはずです。
ジョブズの死に一番ショックを受けているのは、この冊子の編集者たちではないでしょうか。

ジョブズの姿を思い出しながら、もう一度この冊子に目を通そうと思います。
数日前は、病気と闘うジョブズを思い描いて読みました。
そして今度は、ジョブズへの哀悼の気持ちで読みたいと思います。

なお、もう一つのMacintosh のための雑誌『MacFan』の11月号には、「ありがとう、スティーブ」という38頁もの特集が組まれています。これも、読み直そうと思っています。

私にとっても、マッキントッシュとの出会いは研究者としての人生を変えてくれました。
あのまま、ビジネスマシンであるMS−DOSからWindows という流れに乗っていたら、今の自分はないのです。クリエイティブマシンとしてのマッキントッシュとの出会いがあり、本当によかったと思っています。
その裏にいた仕掛け人のジョブズにも、感謝しています。
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2011年10月05日

【復元】プレゼンテーションのためのiPod

 アップルのスマートフォンで「iPhone4S」という新製品が10月14日に日本でも発売されることになりました。
 「iPhone5」ではなかったので、私も含めて多くの人が残念がっていると思います。

 しかし、これは、「iPhone」がKDDIからも発売されるという最近のニュースとダブルので、非常に興味があります。

 ソフトバンクへの恨み辛みは、これまた私を含めてたくさんいの方が言いたくてウズウズしていらっしゃることでしょう。
 つながらない、すぐ切れる、アプリが起動しない(これはアップルの責任)、などなど、枚挙に暇がありません。

 機械運から見放されている私も、このブログでさまざまな不具合を報告しました。
 以下のリストは、アップルのモバイル製品に関するものです。まさに、私にとってはいつも手渡される欠陥商品の一つの話です。

 「iPod の文字入力の問題点」(2008年6月 6日)
 「iPhoneをリセット」(2008年11月27日)
 「iPhoneで読書」(2009年1月29日)
 「店頭で手渡された iPhone4が初期不良品」(2010年10月 1日)
 「やっと届いた iPhone4はB級品」( 2010年10月 6日)
 「無用の長物と化している iPad」(2011年5月13日)
 「JISカナ・キーボードの存続が危うい」(2011年7月24日)

 さて、携帯電話という視点から言うと、KDDI(au)が「iPhone」を発売すれば、多くの方がなさるように、私もすぐに切り替えると思います。そうしようと思っています。

 ソフトバンクが「iPhone」を独占していた悪しき時代はともかく、その強制力がなくなるのならば、それよりもまだましだったKDDI(au)にするのは、自然の流れでしょう。
 ソフトバンクではつながらないことが多いので、不愉快な思いで使い続けるのは、精神衛生上からもよくありません。
 東京の宿舎の部屋でも、立川の研究室からも、ソフトバンクの電話回線はやっとつながるというレベルです。「iPhone」は電話機能も付いたモバイルだと思っています。しかし、それでも電話のために使うこともあるのですから。

 それはさておき、近い将来に手にする「iPhone4S」には、一体どんな不具合があるのか、今から楽しみです。

 しかし、不思議なものです。これまでに、さんざんKDDI(au)への苦情を書いてきている身です。

 「au携帯を見切る時期到来か」(2008年2月20日)
 「auという電話会社の限界を痛感」(2008年8月 1日)
 「auの巧妙な携帯電話欠陥隠し」(2008年8月 4日)

 不満だらけの中で、「iPhone」を使いたい一心で、それまで使っていたKDDI(au)からソフトバンクに数年前に鞍替えしました。今年の夏に妻が実家へ行った時の話では、地方では「iPhone」を持っている人の多くが、電話用にauやNTTの携帯電話をもう一台別に持っていたそうです。スマートフォンと電話の2台を持つとは、何とも変な話です。
 アップルはこうした日本での実情を知っていたのでしょうか。アンドロイド端末が席巻する中、ソフトバンクはそのままにして、KDDI(au)からも「iPhone」を販売するのは、結果的には利用者の急増につながることでしょう。

 それにしても、ソフトバンクの技術力のなさと対処を怠ったことが原因とはいえ、私はまたまた、KDDI(au)に引っ越しをしようとしているのです。
 おもしろいものです。

 そんな折、クラッシュした記事の中から、アップルの商品の欠陥話が見つかりました。
 ソフトバンクに直結する話ではありませがアップルのネタなので、以下に復元して紹介します。


(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年1月22日公開分
 
 
【復元】プレゼンテーションのためのiPod

 副題「しかし、またしても商品の欠陥が露呈」
 
 
 10日ほど前のことです。今月末からエジプトのカイロに赴任なさる先生の大学へ行き、昨秋、私がカイロで撮影した写真や資料を見てもらいました。すべての資料がiPodにはいっているので、それを使ってテレビに映し出して、現地の様子を説明しました。同席された国際交流基金の方は、私がアップル好きであることをご存知なので、にこにこしながら一緒に見ておられました。
 はじめてのカイロということで大変不安を抱えていらっしゃった先生も、iPodが映し出す映像を見て、大分安堵されたようでした。カイロの学生の情報によって、最近のエジプト音楽を入手して、iPodに保存して持参しました。しかし、それには興味がないとのことだったので、音楽を聴いてもらうことはしませんでした。自分がこれから教える学生たちが、日ごろどんな音楽を聴いているのか、というのも参考になるかと思っていたのですが、今回は必要がありませんでした。
 携帯情報端末を使って、目で見てもらう、耳で聞いてもらう、ということを重視して説明する手法は、なかなか効果的です。これまでは、パソコンを持ち込んで説明していました。しかし最近は、このようにしてiPodを便利に活用しています。

 おしゃれでスマートなプレゼンテーションのための道具として、iPodはすばらしい小道具となっています。

 大好きなアップルの製品であるiPodですが、このところ、また変な動作をしています。
 携帯音楽プレーヤーの分野では、このiPodが50%以上のシェアを占めています。アップルとともに私が大の贔屓にしているソニーも、昨夏、iPodの対抗馬として新ウォークマンを製品化しましたが、そのシェアは昨日の報道による限りでは15%だとか。実際に新ウォークマンに触りましたが、iPodを持っている者にとっては、魅力に欠けるものでした。新たに買い足す意義はまったくない、という意味でです。

 昨年の8月17日に、iPodの不具合をこのブログに報告をしました。
 電源が入らない、切れない、毎回リセット(再起動)して起動する、というものです。現象が頻発するようになって半年後に、新製品と交換となりました。
 このiPodが、またまた安心して使えない状態になっています。
 現在の現象は、電源を入れると、必ず再起動から始まるのです。それも、昨年のようにリセットボタンを何回も押して再起動するのではなくて、普通に電源を入れると再起動から始まるのです。これは、一度起動してしまえば、その日の内は何回も電源のONとOFFができるのですが、1日以上電源を入れないと、確実に再起動から始まります。
 それなら、起動時間が長くなっただけではないか、と思われるかもしれません。しかし、これには致命的な恐ろしい問題があります。何と、音楽ファイルが完全に消えてしまい、初期状態になるのです。ただし、写真や画像や文書やテキスト資料や電車の乗り換え情報は消えません。不可解です。iTuneによるシンクロが不可欠です。ただし、このiPodはMac mimiで管理しているので、移動の多い私には重大な問題です。現に今、奈良の自宅のPower Bookには音楽が入っていないので、これに関しては消えたままの状態で明日上京通勤することになります。特に不便ではありませんが、何となく不満が残ります。iPodから音楽を吸い上げるフリーソフトもあるようですが、まだ使っていません。問題はiPod自身にあるので、多くの方に愛用される商品となるためにも、アップルがこのような商品を販売しないように訴える、ということに留めたいと思います。欠陥商品の対策を購入者がするのは、本末転倒ですから。

 私の場合は、海外の方々にさまざまな写真を見てもらったり、プレゼンテーションにiPodを活用することが多いので、音楽ファイルが消えることに大きな不都合はないのですが、それでも、私がしゃべったことの録音などもあるので、大きな問題ではあります。そうそう、昨秋、カイロでの公開座談会の折には、オープニングまでの待ち時間に、iPodを使ってバックグランドミュージックとして『源氏物語』関連の雅楽をリピートさせて会場に流しました。チョッとしたことだったのですが、来場者からは大変好評でした。

 常日ごろ、欠陥商品を手にすることの多い私です。
 本年度の、欠陥商品情報の第1号ということで、ここに記しておきます。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
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2011年10月04日

【復元】京都・宇治の回転寿司

 以下で復原した記事の冒頭で紹介した青海波模様のカップと菓子鉢は、今も大切に使っています。
 
 
 

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 そして、宇治橋のたもとのこの店は、いまでも元気に寿司を回しています。
 昨秋、西国三十三所札所巡りをしている途次の記録、「西国三十三所(13)三室戸寺」(2010年10月15日)の冒頭で紹介しています。
 店内はゆったりとしていて、のんびりとお寿司を好きなだけ食べられます。
 
 
(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2005年5月1日公開分
 
 
副題「宇治橋のたもとに函館市場あり」
 
 
 宇治・平等院の前に中ノ島があります。そこで陶器市があるというので、家族で行きました。

 車を止めようと駐車場を探している時に、なんと宇治橋のたもとに、私が大のお気に入りの回転寿司屋「函館市場」があったのです。ちょうどお昼時でもあったので、早速みんなで入りました。店の造りは系列店と同じです。メニューもほぼ同じでした。

 それにしても、宇治に来てこの店を見つけ、非常に得をした気持ちになりました。回転寿司屋も最近はお店自体の回転も早く、いつしか無くなっていることがよくあります。この店も、末長く続いてくれることを願っています。

 さて、京都・炭山にある陶芸村の窯元・山本さんから、今回の陶器市出店の招待状をいただいていました。山本さんのところの陶器は、我が家でもお気に入りの作品が多いので、何度か炭山に足を運んでいます。
 その山本さんが、この陶器市に出店するということなので、顔を出すことにし、宇治にやってきたのです。たいへんな賑わいの中、たくさんの作品を買いました。
 また、山本さんの作品ではありませんが、青海波模様のカップと菓子鉢が気に入り、それもいただきました。

 今回、久しぶりに宇治に来て、中ノ島の橘島に懸かる朝霧橋のたもとに、写真のような『源氏物語』のモニュメントを見つけました。
 
 
 

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 今ではよく知られているのでしょうが、私は初めて見ました。しばらく来なかったので、このことを知らなかった自分に対して、少しショックを感じました。宇治の雰囲気作りにはイメージで訴える意義があるので、これはこれでいいのでしょう。目からイメージを膨らませることも大切なので、こうしたものも有効に活用すべきでしょう。

 すぐ裏に源氏物語ミュージアムもあるので、ここからミュージアムまでの散策コースをうまく考えてほしいものです。

 となると、宇治橋のたもとの回転寿司屋は、イメージを壊しかねませんね。
 古代の熟鮨や、古代米のお寿司を回してもらいましょうか。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2011年10月03日

江戸漫歩(47)朝の隅田川と都鳥

 今回の帰洛は、一泊二日の旅となりました。
 一昨日の夕方、賀茂川散策の途次にうろこ雲を見てすぐに上京しました。
 京も江戸も、すっかり秋です。

 昨日の朝、宿舎の近くを流れる隅田川を散策しました。
 水鳥が、仲良く中央大橋に向かって飛び立ちました。
 
 
 

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 『伊勢物語』の第9段に次の歌があります。

名にし負はばいざこと問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと


 『伊勢物語』の本文には、この「都鳥」について、

白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。

とあります。
 私が見かけた水鳥の嘴と脚も赤かったようなので、これが都鳥なのでしょう。今のユリカメモと言うべきでしょうか。
 もっとも、都鳥は本来は身体の色は黒いそうです。厳密に言えば、違うことになります。

 また、『伊勢物語』によると、隅田川にいた都鳥について、京都では見かけない鳥だとあります。
 現在、賀茂川にはユリカメモがたくさんいます。我が家の近くの河原でも、秋から春先にかけてよく見かけます。これは、越冬のために北から飛来し、琵琶湖をねぐらにしながら毎日賀茂川にやって来るのです。
 ただし、賀茂川にユリカメモが来だしたのは意外や意外、1974年1月からだそうです(「「当世京都名所図会」31ユリカモメ」)。

 すると、1974年までは、都鳥(ユリカメモ)は「京には見えぬ鳥」だったということなので、『伊勢物語』の語りはそのまま受け取っていいようです。

 昨日の隅田川の水面は、いつもより高いようでした。東京湾から流入する海水のせいか、海の匂いがします。

 水辺ラインの船が、すぐ近くの乗り場に着岸し、8人ほどの乗客を乗せるとすぐに、お台場に向かって急ぐように走っていきました。
 前方左の中央大橋を潜ってレインボーブリッジの方面に向かうのです。
 現代の渡し守は、きちんとした制服制帽の東京都の職員のようです。
 
 
 
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 一昨日の賀茂川とはまったく風情の異なる隅田川の今朝の風景です。
 この2つの都を流れる川の役割は、みごとに違います。
 景観が異なることも含めて、その違いを考えながらの散策となりました。
posted by genjiito at 23:50| Comment(0) | 江戸漫歩

2011年10月02日

京洛逍遥(201)白川疎水通りと鱗雲

 賀茂川から下鴨神社へ、早朝散歩に行く途中のことでした。北大路橋を渡ってすぐの白川疎水通りで、咲き誇る彼岸花を見かけました。
 先月のお彼岸を彩ったその余香を感じさせる鮮やかな朱色が、日ごとに肌寒くなる秋への切り替わりを、こうして色で演出してくれています。
 
 
 

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 比叡山を背景にするこの白川疎水通りは、この写真の手前を引き返すと賀茂川右岸にぶつかります。そして、対岸の加茂街道から先は紫明通りが西に続き、紫式部のお墓がある堀川紫明に出ます。その道はさらには鞍馬口通りとなり、金閣寺に行き着きます。さらに行くと立命館大学があり、その先に仁和寺と陽明文庫があります。まっすぐな道ではありません。しかし、なかなかおもしろい東西の道なのです。

 この白川疎水通りの西端とでもいうべき賀茂川右岸寄りには、角田文衛先生のお宅がありました。このあたりの賀茂川沿いを、地元では社長通りと言っています。
 先生がお亡くなりになった後は、その邸宅が分譲されました。そのために、先生がお住まいだったお宅の面影は、今ではまったくありません。

 2007年4月に、翌年の源氏物語千年紀に関連して先生のお宅を訪問し、古代学協会ご所蔵の大島本を源氏展でお借りするお願いにあがりました。桜並木の加茂街道を通ったので、4月初旬だったと思います。先生は95歳でした。耳が少し遠いだけで、しっかりと話をしてくださいました。
 その時のことは、本ブログ「源氏千年(29)朝日「人脈記」3」(2008年4月24日)に詳しく書きました。

 本当に偶然なのですが、この翌月に先生のお宅まで歩いて10分もかからない所に、私は奈良から移り住むことになりました。これも縁だと思い、いつか角田先生のお宅にご挨拶に伺おうと思っていた矢先の、ちょうど翌年5月に先生はお亡くなりになったのです。
 先生とお話しできたことを、感慨深く思い出します。あまりにも緊張していたために、ご一緒に写真を撮らないままだったのが、今でも心残りです。

 先生がお亡くなりになった時のことは、「角田先生のお通夜」(2008年5月18日)に書いた通りです。

 我が家から賀茂川散歩に出た帰り道に、よく先生のお宅の前の白川疎水通りを通ります。お元気だった頃のことを、ここを通りかかるたびに思い出しています。
 その思い出の道で見かけた彼岸花が、しばし時間を忘れさせてくれました。
 
 夕方、もうすぐ上京という時間帯に、賀茂川上空をみごとな鱗雲が目を楽しませてくれました。
 まずは、北大路橋東詰から見上げたところです。
 
 
 
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 そして、植物園側から賀茂川越しに我が家の方を見上げました。
 
 
 
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 平安時代の人々は、このような空をどんな気持ちで見たのでしょうか。光源氏も、この空を見たことでしょう。物語作者は、京洛の雲のおもしろさをどう表現しているのか、これまであまり気にしたこともなかったので、気をつけて見ていきたいと思います。
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2011年10月01日

【復元】京都駅前の回転寿司

 
 以下の復元記事で、最初に出てくる「ソフマップ」は、もうなくなりました。今は、「ソフマップ」が入っていた近鉄百貨店が「ヨドバシカメラ」になっています。
 ただし、京都駅前の「ヨドバシカメラ」は信じられないほどサービスや接客態度の悪い店なので、不愉快な思いを何度もしました。今ではまったく行かなくなりました。駅前のいい場所を合法的に占拠したのですから、もっと関西の人に受け入れられ、京都の人に愛される店になってほしいものです。
 充分に関西になじむための検討はなされたのでしょう。しかし、その成果がまったく見られず、東京流をそのまま持ち込んでいては、人は遠ざかるばかりでしょう。経営方針の問題なのでしょうが……

 以前、「京洛逍遙(93)京都駅前の10年後を予想」(2009年7月14日)という記事を書きました。
 そこで勝手な希望を記しました。完成する前から、ヨドバシカメラはいずれなくなるという予想から、「京都に関する一大情報センター」「世界文化の坩堝としての施設」をここに造り直すべきだと……

 さて、京都駅前は今後どうなるのでしょうか。

 以下で紹介している回転寿司店は、その後「すし若丸」とまったく同じ門構えで同じ造りで、それでいて名前だけが「廻鮮えきびる市場」になっていました。中が変わっていなかったので一度も行きませんでした。
 それでも、あれから何年か経っているので、昨夜、東京から自宅に帰る途中、京都駅東側にまわって確認しに行ってみて驚きました。何と、今は和食屋さんになっていたのです。
 
 
 

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 この京都駅周辺には、回転寿司屋が何軒かあります。「海転寿司・魚河岸イオンモールKYOYTO店」や「寿しのむさし」です。「むさし」は私が好きな店です。ただし、この京都駅南口のお店は、中で握っているおじさんたちがダラダラしているので好きではありません。社員教育がなっていません。三条店や紫竹店がいいだけに、もったいないことです。

 なお、以下の記事は6年前のものです。当時、奈良県の平群町から東京に通勤していたころの話です。
 平成19年5月に、23年間過ごした大和から京洛の地に住まいを移しました。そして、昨夜は、立川の職場で会議や温故学会の理事長さんとの面談、そして事業の監査確認などを終えて、帰宅する足でそのまま新幹線に乗って帰洛したしだいです。

 復原記事はすべて大和に住んでいたときのものなので、場所と時間の流れにご注意下さい。
 

(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
【復元】京の回転寿司
 
 
2005年9月17日公開分
 
 
副題「何と京都駅の東側にあったのです」
 
 
 奈良から東京へ、単身赴任の通勤で乗り換えをしている京都駅で、回転寿司屋さんがあることを今日はじめて知りました。
 
 
 
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 京都駅ビルの東ゾーン、つまり駅舎の東京寄りの端にありました。
 日ごろは、東京からの新幹線を降りると、すぐに京都タワーの北側にある、近鉄百貨店内6Fにあるソフマップを散策します。マッキントッシュ関連の品物が多いので、必ず顔を出すようにしています。そして、近鉄特急で、西大寺経由で平群の自宅に帰ります。

 これまでの私の通勤コースは、京都駅ビルの西側だけを利用していたのです。東側は、京都タワー寄りのJTBに、何ヶ月かに一回、新幹線の回数券を買いに行くくらいでしたので、この回転寿司屋「すし若丸」の存在に、まったく気付きませんでした。というより、この京都駅ビルのデザインが大嫌いなので、このビルの中を見て回ることはなかったのです。

 この駅ビルは、京都の歴史と文化をまったく無視した、瓦礫の建物です。一日も早く建て替えてほしいものです。

 それはさておき、初めて入った京都駅内の回転寿司屋さんの報告です。
 まず、寿司を乗せた皿が、アクリル製の、ロンドン地下鉄のチューブのようなドームの中を回っているのに、正直言って戸惑いました。この形式は、奈良の田原本などで体験しました。
 清潔なのですが、お客を蔑ろにした設計なので、私は好きではありません。寿司の皿が取りにくいのです。また、ネタの鮮度が分り辛いのです。さらには、仕切り板の間隔が狭いので、早目にどれを食べるか決断しないと、目的の皿を取り損ねるのです。目と手が、美しくない動きとなります。

 横に置かれていたお茶のティーバックは、京都らしい小さな茶箱に入っていました。なかなかいい感じです。お茶がおいしく思います。もっとも、茶箱に張られた和紙が、手垢で汚れていたり、破れていました。きれいなものを置いてほしいものです。

 メニューを見てびっくり。何と、皿の種類が、126円から609円までの、8種類もあるのです。
 こんなにクラス分けすると、客は戸惑います。回転寿司は、値段のことを忘れ、目の前を流れるネタを見て、食べたいものを手に出来るのがいいのです。商品がこんなに分類されていては、客は比較対象することに、ドッと疲れます。

 均一料金が回転寿司の命なのですが、質の向上のためには、100円、150円、200円の、3階級くらいの値段の区別はあってもいいかと思います。これが、お客に対する、サービスする側の心配りではないでしょうか。

 この京都駅ビルの店は、京都の駅の一角にあるせいでしょうか、外国の方が目に付きました。
 さらには、外国から来た方々は、英語で店員に語りかけていました。店員の英語力が、海外からの方々に対する、日本の伝統文化の好感度を左右しそうに思えました。

 ネタの鮮度はいまいちでした。夜の9時ころだったからでしょうか。カウンターの中の若い板前さんは、満席なのに、2人で喋ってばかりいました。もっと、いろいろなネタを流してもらいたいものです。

 私は、鉄火とサバが食べたかったのですが、サバがメニューになかったことと、板前さんに注文しにくかったので、何も追加を頼まずに店を出ました。

 地の利があるのですから、今後とも、がんばってもらいましょう。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 23:51| Comment(0) | 美味礼賛