2010年04月17日

井上靖卒読(107)『夜の声』

 この小説は、飛ばし読みをしました。内容が流れるように語られるもので、じっくりと読むものではないように思えたからです。これは、井上靖にしては珍しい作品だと思います。

 今回は、30年前に読んだ時と同じ文庫本で読みました。その時のメモにも、よく似た印象が記されています。
 ただし、自然と環境を大事にすべきことを力説していることは、当時はあまり社会的にも問題意識が薄かったこともあり、今回改めてその着眼点が深かったことに感心しました。
 また、毎日新聞に連載されたものなので、作品に軽さと平明さを強く感じたのは、作者がその発表媒体に合わせたところもあるのでは、とも思われます。

 本作の特徴は、物語の展開に合わせて『万葉集』の歌を引用していることでしょう。主人公である千沼鏡史郎の、現代社会と文明に対する憤りを、『万葉集』の歌と絡めて展開するのです。
 『万葉集』の歌は、「天地の 神を祈りて 幸矢貫き 筑紫の島を さして行く吾は」にはじまり、合計20首もの歌が引かれています。平安時代ではなく、さらに遡った古代に興味をもつ井上らしい手法です。

 冒頭での、古書の扱いに関する次のくだりも、作者の当時の興味と問題意識が窺えて興味深く感じました。

 二、三年前のことだが、国文科を新設するという地方の某大学から、慶長本『万葉集』を譲って貰えないかという交渉を受けたことがある。鏡史郎の尊敬している東京のT大学の柳沢博士の紹介だったので、鏡史郎も懇請されれば、手放さなければならなくなるのではないかと思っていたが、結局これは断わってしまった。交渉に来た若い講師が、普通の古本でもめくるように、ばらばらと頁をめくり、いきなり、
「一体、いくらで譲ってくれますか」
 と切り出したので、鏡史郎は腹を立ててしまったのである。大体稀覯本の取り扱い方をしらない。押し戴かないまでも、指の脂をつけないぐらいの注意はして頁を開き、義理にも珍しいものを見せて貰う悦びと感動を顔や態度に現わすべきである。それが所蔵者に対する礼儀でもあれば、その書物に対する礼儀というものでもある。書物はどんな書物でも生命を持っている。殊に稀覯本となると、それが今日まで生き永らえて来た歴史というものは、ひと通りのものではない。(新潮文庫、12頁)



 この辺りの描写は、井上靖の書籍や資料を大切にする実体験とその姿勢が滲み出ているところです。

 さて、この作品は、ゆったりとした語り出しから、一転して主人公が交通事故に遭います。以後は、内なる自分との対話が始まります。その背景に、大伴家持をはじめとする万葉歌が配されます。古典との融合を図った物語です。
 鏡史郎は、神の声を聞き、文明に姿を変えた魔神と戦います。社会が急速に近代化する中で生まれるひずみに対して、彼は孤軍奮闘します。
 現実から遊離したかのように見える主人公は、家族が精神病の対処として入院させる直前に、孫娘を無理矢理連れ出して諸国遍歴の旅に出ます。
 このあたりから、話が現実離れしていきます。読み飛ばすようになったのは、ここからです。北陸路の万葉古歌の旅が展開するのです。主人公は、現代社会という魔物と戦いながら、歌枕を尋ねるような旅をします。折々に、生と死が語られ、環境汚染や自然破壊に憤ります。

 この作品は、評価が難しいように思います。自然の大切さや環境問題は、今では意識が高くなったので、このテーマの小説はごく普通にしか感じられません。しかし、これが昭和42年に書かれたものであることを考えると、問題提起としては意義があります。ただし、有吉佐和子の『複合汚染』のような、強い口調ではないのです。井上流の、本当に控えめな、節度のある、あくまでも1人の狂人のようにしか見えない老人を描く中で、環境や自然の問題を、『万葉集』を持ち出して警告しているのです。

 作品として見た場合、最後の豪雨のシーンで終わるのは、読者を放り出したようなものです。作者が勝手に突っ走った、という感じが残ります。主人公はともかく、孫娘とその家族は、読者に委ねられたまま、まったく切り捨てられて物語は閉じるのです。
 テーマが自然と環境にあるだけに、時代というものを背負っている作品と言えます。それだけに、読み継がれるための核が『万葉集』だけになったのは、小説の宿命とはいえ残念に思います。【2】



初出紙︰毎日新聞
連載期間︰1967年6月2日〜11月27日
連載回数︰153回

新潮文庫︰夜の声
井上靖小説全集30︰夜の声・欅の木
井上靖全集17︰長篇10


〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | □井上卒読