2010年04月30日

【復元】回転中華寿司

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

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2004年10月05日「ミクシィ」掲載分より

 西国三十三カ所の第21番札所である穴太寺(京都府亀岡市曽我部町)から第20番札所の善峯寺(京都市西京区大原野小塩町)へ移動中に、中華料理が回転レーンに乗って出てくる店を見つけ、これを見逃す手はないとばかりに早速飛び込みました。

 回転寿司屋と中華料理屋の合体です。楕円形のレーンの中では、中華職人の服を着たお兄さんたちが中華鍋でいろいろな中華料理を作って流しています。やや少なめの一人前の中華が、ちょうど回転皿を4つほど重ねた大きさの保温器に乗って回ってきます。メニューを見て注文すると、チャイナドレスのお姉さんが、回っているものより少し大きな皿に盛って運んでくれます。メニューの品数が多いので、何を食べるか思案します。

 さっと作ってさっと出す。これは寿司の食べ方に近いので、料理を口に運ぶ過程は似ているといえましょう。しかし、中華は油を使うので、まずは回転しているお寿司を食べてから、やおら中華に切り替えるのがいいようです。

 それにしても、なぜ握り寿司と中華が一緒に回っているのか? 日中両国の食の歴史を振り返り、その文化融合の意義に思いを馳せると、はてなと思ってしまいました。
 しかし、楽しく好きなものを手軽に食べるという点では、これもなかなかいいものです。日本茶を飲むタイミングに戸惑うのも、これまた新たな悩ましさです。

 日中の文化交流を楽しむ一時となりました。
 
 
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【復元】中国の長春と博多の回転寿司

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

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2004年09月08日「ミクシィ」掲載分より

 先週まで行っていた中国の長春でも、ついに執念で回転寿司屋を見つけました。
 
 
 
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 写真のお兄さんが、すでに固形になっているご飯にネタを乗せて、回転レーンにながします。もっとも、その時はお客が少ないので回転は止まっていましたが。
 この店は、お寿司よりもラーメンを食べに来る客が多いそうです。酢飯の酢がたりなかったのと、山葵の気が抜けていたので、寿司としては失望でした。しかし、魚の種類は多かったので、これでよしとしましょう。一皿の値段がラーメン一杯以上もするので、非常に贅沢な食事となります。この店の本店も見てきました。長春には、この系列店が4店舗ほどあるようです。次に訪れたときには、すべてを踏破しましょう。

 さて、今回出張で来ている福岡は、昨日は朝から台風18号直撃のために暴風雨警報が出ていました。仕事もお休みとなり、台風の中、午後から天神の辺りを散策しました。お店は全て閉まっていました。壊れた傘と自転車が、至る所に散乱していました。町を走る車はタクシーだけでした。
 夜も天神へ出かけ、回転寿司屋を見つけました。初めての「あらかぶ汁」は、いい味でした。この店は普通の寿司屋が値段を下げて回転寿司をやっている、という感じがしました。全体的に値段が高く、馬刺が1575円でした。これでは、私が楽しみにして探し回っている回転寿司屋とは言えません。また、レーンのスピードが、やや早いように思えました。急かされているようで、落ち着きません。一人なので話し相手もなく、早々に食べ終えました。

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2010年04月29日

【復元】母子の絆の不可思議さ

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

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2004年09月04「ミクシィ」掲載分より


 八月末日に、中国東北地方(旧満州)から帰ってきました。
 海外での日本文学研究者との情報交換をするための出張です。

 戦後に満州で姿を消した『源氏物語』の従一位麗子本(鎌倉末写)の探索もしてきました。
 これは、北小路健氏が『古文書の面白さ』(新潮選書)で書かれている本です。すでに、渡部栄の名前で『従一位麗子本の研究』が刊行され、その本文の異質さが論じられています。しかし、その本を渡部氏以外は誰も見ていないのです。著書に写真が数枚掲載されているだけです。

 今回、長春において、七十六歳になられる呂元明先生(元東北師範大学教授)がこのことに興味を持ってくださり、ご一緒にそれらしき所を訪ねましたが、今回は手がかりがつかめませんでした。
 ところが、吉林大学の先生方にもこの本の流転の話をしたところ、たくさんの先生が本探しの協力を申し出てくださいました。これまで、まったくこの本のことを、知らなかったそうです。今後は現地の方が意識して動かれるので、おもしろくなります。
 本は、探している者の元に現れる、と言いますから。

 とにかく、収穫の多い旅でした。東北地方はあまり日本人の研究者が訪れないので、今後の情報交換に関して、好意的に接してもらえました。

 ちょうど一週間前のことです。
 呂元明先生とご一緒に、従一位麗子本を探して長春(戦時中の新京)を歩きました。そして、今から六十年前に渡満していた両親が、終戦時に彷徨っていた地域を探訪した時のことです。
 
 
 
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 私がその地域を訪れた、ちょうどそのすぐ後に、今年八十三歳になる母が突然意識不明の危篤となったことを知りました。
 遠く離れていながらも、何か通じるものがあるのでしょうか。私が母の思い出の地・懐かしい跡地や廃屋を訪ねたちょうどその時に、母の呼吸と心臓が十分間も、突然停止したのです。
 英国留学からの一時帰国中の娘と、そして息子たちがちょうど側におり、一生懸命に人工呼吸をしたそうです。しかし、一週間経った今も意識は戻らず、もう回復することはないそうです。
 出発直前に、満州の写真集を母と一緒に見たことが思い起こされます。それが私との最後の会話となりました。私には何も言わず、ただ身体に気を付けろとだけ言って、いつもニコニコしていただけの母親でした。

 帰国後すぐの昨日、入院先の近畿大学奈良病院に駆けつけました。植物状態の母の昏睡の顔には、父と共に過ごした満州での苦楽がかいま見えるように思えます。
 戦後、父はシベリアに抑留され極寒の地での強制労働を、母は生死を彷徨いながら帰国しました。戦後生まれの姉と私は、まかり間違えば、凍死か餓死か中国での残留孤児となるところでした。今回行った両親の想い出の地の一つであるハルビンの写真などもたくさん写してきました。しかし、もう母に見てもらえないのが残念です。

 今週末までは母の様子を見て、来週から私は福岡へ出張で行きます。親子の繋がりというものを、今回の件で初めて体験しています。虫の知らせ、というのでしょうか。遠く離れていても、何か人間には通い合うものがあるのではないでしょうか。今回私が、20代の頃に母がいた地を訪れたことにより、母は自分自身もその地にタイムスリップしてしまったようです。

 これまでは、このようなことは信じなかったのですが、今は有り得ることと思うようになりました。
 一昨日から毎日面会に行き、眠りこけている母を見ると、その思いを強くします。非科学的ですが、あっても不思議ではないと思うようになりました。血縁なのかな、などとも思います。

 再来週からスペインの学会で研究発表をすることになっており、帰国後翌日の9月末は、前田家尊経閣文庫へ定家本『源氏物語』の調査に行くことになっています。10月はインド、11月はトルコ、12月はイギリス、年明けはエジプト…… と、予定はギッシリと組まれています。

 母の件で、こうした予定が大幅な修正を余儀なくされそうです。それもまたいいだろう、と思っています。いつも身を案じてくれていた母ですから。少しノンビリしなさい、と言っているかもしれません。


■いただいたコメントへ■
S王さま
先ほど福岡に着きホテルに入りました。そして、コメントを拝見しました。ありがとうございます。
これから四日間、福岡で仕事です。
ホームページを、少しずつ読ませていただきます。
私の母は、もう意識は戻らないそうです。今日は、手が少し温かかったので、少し安心しました。母の手を握るのは、本当に久しぶりでした。息子としては、やはり照れますね。何とか気持ちが伝われば、と思って握りました。奇跡を信じて、見守ってやりたいと思います。
 
 
 
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2010年04月28日

【復元】女性専用車両大賛成の弁


(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

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2004年08月15「ミクシィ」掲載分より

 昨日14日、大阪・難波で「女性専用車両に反対する会」の集会があったようです。
 ただし、昨日の報告は、今日現在は作業中となっていました。

 女性専用車両は、痴漢被害をなくすのが目的だとのことです。全国の公共交通機関がさまざまな対応をしており、問題の多い実施実態のようです。
 この件については、たくさんの人がホームページなどで発言をしておられるようです。検索をしてみて、その多さに驚き、ヘッドラインを眺めるだけで読むのをやめました。発言しやすいテーマなのでしょう。それだけに、解決は無理だとの実感を得ました。

 私の生活範囲で言えば、近鉄奈良線が時間限定で女性専用車両を増結しています。ただし、それがどのように機能し、利用されているのかは知りません。私がその車両を利用することがないせいでもあります。

 さて、以下、人の意見はまったく読まず、ここに私見を書く勝手を、お許しください。
 私は、女性専用車両には諸手を挙げて大賛成です。その理由は、次の3点からです。

(1)見ず知らずの女性から痴漢に仕立て上げられるのではないか、という恐怖から逃れるため。
 突然、自分の人生の一部を、いわれもなく失いたくないのです。それも、相手の勘違いや悪意による思いこんだ自己申告で。まだ私は被害にあったことはありませんが、いろいろとその実態の話は聞いています。

(2)携帯電話の電磁波被害から、自分の身を守るため。
 白血病・脳腫瘍・アルツハイマーになる確率を低くしたいのです。鉄板に囲われた電車内で、無神経に電磁波を飛ばして人体実験に荷担しているのは、男性より女性の方が多いと思います。『電磁波白書』(大朏博善、アスキー、1997.5)の電磁波被害擁護論は、再検証が必要だと思っています。過去の記事ではありますが、「携帯電話の危険性〈2000.5.4〉」(当該ページの最後の方にあります)をご参照願います。

(3)女性の化粧品などが発する悪臭で、長時間不愉快な思いをしたくないため。
 密室で放たれるこの異臭は、一日を気分的に台無しにします。オナラの可愛さなら許せますが。和服の微かなお香の薫りは大好きです。自分の部屋では、よくお香を焚きます。でも、化粧品の下品な匂いは、臭いと感じてしまうのです。

 ということで、電車に乗るときには、女性を避けるようにしています。特に20台と40台の女性には、自然と体が反応して遠ざかります。君子危うきに近寄らず、ではないのですが、私にとって車内で危害を及ぼす恐れのある女性は隔離してほしい、というのが私見なのです。
 これは、女性差別ではなく、ケースによる区別の範疇の問題です。
 そして、上記3点が我慢できる状況に改善された暁にはじめて、女性専用車両は廃止すべきではないでしょうか。
 毎週末に新幹線を利用しますが、私は禁煙車両を利用します。新幹線にも、女性専用車両も望みます。

 上記「反対する会」のホームページにおける集会参加の案内で「女性専用車両に反対の方ならどなたでも結構です。」とありました。これはおかしいと思います。排他的な意識で行なう活動は続きませんよ。


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2010年04月27日

谷崎全集読過(8)「憎念」「華魁」

■「憎念」
 いささか性根の悪い筆者が読者に語る、というスタイルを取っています。
 へそ曲がりの男の屁理屈です。それが、しだいにサディスティックに進行していくのです。
 嫌悪感を催す内容で、作者のねじ曲がった性癖が生んだ作品、といえるでしょう。
 こうした手法の話から、後に『武州公秘話』につながっていく性格を持つものです。【1】

初出誌︰『甍』(大正3年3月、鳳鳴社)に書き下ろしとして収録
 
 
 
■「華魁」
 16歳の丁稚由之介は、大人の心身を支配する「華魁」という不思議な女性を、どうしても理解できません。大人と互していくことに自信を持っていた由之介は、この「華魁」に挑みます。
 番頭の頼みで女郎屋へ使いに行くことになった由之介が、その後どうなるのか。ちょうどいい所で「未完」として終わります。
 これから先が読みたくなる話です。【4】
 
 
初出誌︰『アルス』(大正4年5月、鳳鳴社)。ただし、風俗壊乱のため発禁。
 
(参照︰「猫を償うに猫をもってせよ」小谷野敦
    http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20050601
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2010年04月26日

京洛逍遙(136)賀茂川暮色−葉桜と夕陽−

 植物園に沿って北大路橋から北山大橋にかけて続く半木の道は、今年も桜で賑わいました。今や、京都でも有数の桜の名所となりました。
 その半木の桜も葉桜となり、初夏を迎える穏やかな色に包まれています。
 
 
 
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 賀茂川縁の散策も、川沿いよりも外側の、一段高い細道の方がユッタリとする区間があります。お出でになったら、ぜひこの細道も歩いてみて下さい。
 
 
 
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 夕陽が山の端に落ちるところでした。今日一番の、最後の明かりを振り絞って、精一杯照らして見せてくれていました。飛び石の人が、一羽の鷺が首を伸ばした姿のように見えます。

 
 
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 夕陽に照り映える葉桜は、不思議な色合いを見せていました。春と秋とを混ぜ合わせたような、花と葉の色です。
 
 
 
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 夕陽が山の端に隠れると、また元の色の世界に戻ります。
 
 
 
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 そして、しだいにモノトーンの夕闇になっていきます。

 いろいろな姿や色を見せてくれる賀茂川は、いつ来ても見飽きることがありません。
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2010年04月25日

古都散策(31)平群の時代祭

 久しぶりに奈良に行きました。西大寺駅が様変わりです。エキナカ風になっていて、ショッピングモールがありました。奈良らしい柄のブックカバーがたくさんありました。奥には展望デッキがあり、電車の行き来が眼下に展開します。楽しい駅になりました。

 やがて降り立った、かつて我が家があった町の平群駅は、まったく変わっていません。
 
 
 
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 電車もまだ単線で、ホームですれ違うために、しばし反対方向からの電車を待つのは相変わらずです。 
 
 
 
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 平群駅の前に、自然食のお店が開店していました。
 
 
 
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「らららランチ」と「るるるランチ」と「れれれランチ」違いがよくわかりません。
 私は、「大豆丸ごと豆腐ランチ」にしました。
 お店の中に、こんなパンフレットがありました。
 
 
 
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 信貴山も、法隆寺と共に大いに宣伝していいと思います。その時には、『信貴山縁起絵巻』のことも忘れずに。
 千年以上も前の文化を大切に温めている町として、一人でも多くの方に平群という町を知ってほしいものです。

 時代祭を見るために、会場である道の駅の方に歩いていきました。
 駅を振り返ると、彼方に生駒山のテレビ塔が見えます。その左の山の中腹には、私が住んでいた若葉台があります。二十数年間住んだ町です。楽しい想い出がいっぱいの町です。
 
 
 
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 法隆寺の方を見やると、緑の山々が目に飛び込んで来ます。
 
 
 
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 道の駅では、さまざまな催しがなされていました。すでに平群の長屋王や島左近などの時代行列は終わっていました。

 ステージでは、舞楽をやっていました。
 
 
 
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 フリーマーケットの横で、こんなお菓子を売っていました。今日が初売りの新商品だそうです。
 
 
 
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 このイベントには、たくさんの人が参加していました。平群に、こんな熱気があることを知り、嬉しくなりました。
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2010年04月24日

京の冷泉家展

 早朝から、岡崎公園の中にある京都府立中央図書館へ行って、資料の調査と複写に精を出しました。

 午後は、東京から京都に会場を替えて開催されている「冷泉家 王朝の和歌守展」に行きました。
 
 
  
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 冷泉家敷地内にある御文庫の扉(模型)が、会場に入るとまず眼に飛び込んで来ます。シンプルなデザインで、なかなか洒落た趣向です。まず、上品な京都らしさでお出迎えです。

 この京都での冷泉家展は、雑然としていた東京とは違って、非常に京都的なシットリとした雰囲気の会場となっています。まったく異なる雰囲気の展示会場なので、東京展を観た方は、是非この和の空間を味わってもらいたいと思います。
 京都文化博物館のYさんと出会い、今回の展示の背景を伺いました。東京とは違う京都の業者が担当したこともあって、このように上品な会場になったのでは、とのことでした。
 とにかく、展示室の雰囲気を味わってください。会場は、着物姿の女性が多いこともあって、東京での会場とは大きく異なる展覧会となっています。展示されている古典籍などは、東京とほとんど同じです。それなのに、こんなに違うことが、とにかく不思議に思われました。

 書写に用いられた経線枠の展示は、みんな自分の体験が共有できる小道具だけに、今回も観覧者に注目されていました。国宝や重要文化財は遥か彼方のモノです。しかし、文字を書くための道具は、自分との接点があります。おびただしい国宝や重要文化財を観ての、最終コーナーにあるのがいいですね。

 午後からは、京都文化博物館の別館ホールで開催された記念イベントである「和歌をうたう(披講)」に参加しました。
 
 
 
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 最初に、冷泉貴実子さんの解説がありました。
 冷泉家が守り伝えている型の世界が語られました。美の世界を共有する姿勢についてのお話でした。冷泉家の和歌は、自我や個性ではないことを強調しておられました。自我や個性の主張は下品だという考え方が、その根底にあるようです。

 続いて、和歌の披講です。今回の題は「暮春」でした。
 冷泉家の門弟の方々の6首を、講師の読み上げに続いて、発声が初句を読み上げ、続く2句からは講頌が加わっての混声合唱となりました。とにかく、すばらしい声での歌の読み上げでした。
 最初の2首は乙調で、続く2首は甲調で、そして続く2首は乙の甲調と乙の乙調で読み上げられました。

 平安時代以来の和歌が歌われた場が、みごとに再現された空間に身を置くことができ、王朝の香りを堪能しました。
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2010年04月23日

読書雑記(18)天野節子『目線』

 忙がしい時に限って、無性に直面する仕事と関係のない本が読みたくなります。
 根っからの天の邪鬼です。

 銀座四丁目の、三越の向かいというより、アップルストアの西隣りの教文館という本屋さんで、この本を入手しました。この本屋さんの店員の方は、本の知識が豊富なのです。
 お店に行ったときに、突然の思いつきでしたが、女性のミステリーで、しかもあまり著名でない、できたら若手の作品はないですか、と聞いてみました。すると、一人の方が書棚に行き、いろいろと探してくださいました。棚の本を取り出しては、これはちがうな、と、しばらくその繰り返しでした。そして、5分以上してからでしょうか、『目線』(天野節子、幻冬舎、2009年6月30日発行)という本を手にして、作者は若くないですが、と言いながら見せてくださいました。
 著者の紹介を見ると、確かに62歳の大型新人としてデビューなさった方です。
 お店の方は、女性が書いたミステリーは、どうしたわけか少ないのです、とのことでした。
 女流ミステリー作家として、数人の名前は私もあげられます。しかし、いずれも私が興味を持って読んだものは、大したことのないものばかりでした。
 恋愛小説もそうですが、どうも私は女性の作家の作品は苦手です。本当に嘘くさいのです。実生活では嘘が得意な女性も、文字で綴る作品というスタイルでは、うまく嘘がつけないのでしょうか。
 私は、男と女は、人種が違うというのが持論です。その意味では、口先ではなくて文字での嘘のつき方も、人種の違いから来る上手い下手というレベルで考えていいのかもしれません。

 それはともかく、本書は殺人をめぐる推理を楽しめる、非常によくできた作品でした。一気に読みました。

 これは歯切れがよく、テンポも心地よいことばで語られます。
 細かく言えば、「平田小枝子は堂島家の三女、あかりの友人である。」(18頁)という表現は、まぎらわしい言い方です。正確に書けば、「平田小枝子は、堂島家の三女あかりの友人である。」となるはずです。読点の打ち方の問題です。
 また、「父兄」という語が2度出てきます(64頁、191頁)。これは、明らかに差別的な用語です。作者の年齢からすると、このような表現に親しんでいたための、ケアレスミスというものでしょうか。
 このように、多少作文上の難はありますが、とにかく快調に話は進みます。

 登場人物の一人が、黒アゲハチョウのブローチをしています。本作の最初に、プロローグで蝶のことが印象的に語られていたので、421頁の本を読み始めて30頁も進まない内に、この作品の謎に大きなヒントをもらいました。事件の核心となる人物がわかったのです。
 また、70頁も読まない内に、「○○はやるべきことがあったので、机のそばに行き、その用事を済ませた。」とあり、これで事件の犯人がわかりました。なぜ、作者はこんなに早く、犯人のアリバイ工作を示す、不用意な文を記したのでしょうか。これは、ない方がいいと思います。犯人を推測させるメッセージが、ミステリとしてはあまりにも早すぎます。その意味では、犯人捜しの興味は、この時点で失われました。もったいないことをしました。また、犯人は、いろいろな局面で動きすぎです。というよりも、作者はこの犯人を描きすぎです。

 舞台となる家の当主である堂島新之助の死後、雨をめぐる論議で少し話が停滞しそうになったすぐ後に、第2、第3の殺人事件が起きます。俄然、話が息を吹き返し、ますますおもしろくなります。作者のうまさを感じました。

 犯人を早々に読者に気付かせるようにしながらも、それをうまく誤魔化しながら物語は進んでいきます。 読んでいる私も、何度か犯人は違うのかな、と思いながらも、やはりあの人だ、と確信しながら読みました。

 犯人がわかってから、唐突に車椅子のことが出てきます。そういえば、そういうことになるな、と納得しながら、なぜここまで引っ張ってきてから車椅子を持ち出したのだろう、と訝しさを感じました。100センチの世界のことも。
 それまでには、このことは語られなかったと思います。私は、そのことがそれまでに語られていなかったように思います。再読すれば確認出来るのでしょうが、今は読み終わったすぐの感想です。もし私が読み過ごしていなかったのであれば、突然犯人のイメージを修正することになります。そうであれば、フェアな仕掛けではありません。また、『目線』という書名との整合性にも関わります。

 そのような不満が残るにしても、この作品は力の入った仕上がりです。楽しめます。お薦めします。
 ただし、帯に記された「驚愕のラストに隠された深い哀しみに、あたなは必ず涙する。」というのは、私の場合は違いました。「涙する」ほどには、この小説は人間を描けていなかったからです。
 そうであっても、この作者については今後とも気にかけたいと思っています。【4】
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2010年04月22日

心身雑記(55)瞼が重たい日々

 小雨の中を、九段にある病院へ行って来ました。
 このところ、とにかく瞼が一日中重たいのです。
 眼球に、おもりをぶら下げている感じなのです。
 横になると、不思議なほどにすぐに熟睡します。
 電車で座ると、連日降りる駅を乗り過ごします。
 これでは生活に支障があるので、出かけました。

 病院の隣にあるインド大使館では、桜がみごとに咲いていました。
 
 
 
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 大使館の前に建つ銅像の女性が「目神」に見えてきます。
 
 
 
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 鳥ケ淵から皇居のお堀を見ると、葉桜の中で一本だけ咲いていました。
 一面の桜よりも、この方がいいように思います。

 春から初夏へと、花や木々が眼を楽しませてくれます。
 眼科へ向かう途中だったこともあり、モノが鮮やかに見える喜びを感じました。

 もっとも、昨日の都内は夏日の32度だったのに、今日は一転して11度です。
 いったい、この天候の不順は、どうなっているのでしょうか。

 診察の結果、先月末からの結膜炎は完治しているので、今の違和感については、原因は別のものだそうです。
 眼が奥の方に引っ張られる感覚や、瞼が重くて眼を長時間開けているのがつらい、ということをお医者さんに訴えました。しかし、先生は、その症状に薬では対処できない、との素っ気ない返事でした。なんとも、困ったことです。

 本当に気休めにしか過ぎないが、と言って、一応目薬を処方してくださいました。気休め程度でもいいので、とにかく少しでも楽になるのならば、と思って目薬を差しています。

 今、たくさんの仕事が溜まっています。必死に書類を作成したり、いろいろな所に連絡をしたりと、一つずつ処理をしています。それでも、まだまだ残っています。一つずつなくなっているはずなのに、毎日、対処すべき仕事は増え続けているのです。モグラたたきの日々です。
 こんな日々なので、目を酷使しているのでしょうか。

 5月の連休は、とにかく目を休めことに徹したいと思います。
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2010年04月21日

【復元】縦書き & 横書き

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

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2004年08月14日「ミクシィ」掲載分より

 『横書き登場−日本語表記の近代−』(屋名池誠、岩波新書、2003.11)を読みました。日本語の歴史を考える上で、非常に得ることの多い本でした。この本に盛られていない縦書き問題の実例を、以下に紹介します。

 私は、パーソナル・コンピュータの出始めの頃の、それもまだ全角文字が存在しない時代に、まずはローマ字で、そして半角のカタカナで『源氏物語』の本文を入力してデータベース作成に着手していました。もう20数年前のことになります。
 パソコンを活用して日本語で自分の考えを表記することを続けていると、どうしても縦書きと横書きの問題に無関心ではいられません。拙著『新・文学資料整理術 パソコン奮戦記』(1986.11、桜楓社)でも、「タテの会」を紹介しています。
 
 
 
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 また、ルナ企画と共同で開発した検索表示ソフト〈プロムナード〉は、徹底的に縦表示にこだわったものでした。『データベース・平安朝 日記文学資料集 第一巻 和泉式部日記』(1988.11、同朋舎)と『データベース・平安朝 日記文学資料集 第二巻 蜻蛉日記』(1991.6、同朋舎)に実装しています。パソコンでの縦表示については、涙ぐましい裏話があります。ただし、それはいずれ、ということにしましょう。

 さて、今回読み終えた『横書き登場』の58頁で、縦書きのぶら下がり文字について書かれていました。句読点や促音・拗音などの表記のことです。

 これについては、拙編『句集 ひとつぶのむぎ』(1983.4、私家版)の組版が、こうした分野における歴史的な資料になると思います。この本は、私家版の限定出版だったので、関係者しか知らない本ですが…。
 
 
 
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 『句集 ひとつぶのむぎ』は、父の川柳を、癌で死ぬことがわかってから急遽3ヶ月間で句集としてまとめて刊行したものです。ただし、まだパソコンが普及していない時代におけるディスクトップ・パブリッシングだったこともあり、技術的にいろいろな問題に直面する中で、個人出版レベルで刊行に漕ぎ着けたものです。
 この本の巻末に記した拙稿「新時代の私家版−本書刊行について−」で、詳細にその出版事情などについて書いています。中でも、初期の横書き用の簡易ワープロソフトで縦書き印字をする際の無謀さは、今から見ると信じられないことでした。横書きの文字をBASIC言語によるソフトウェアによって強引に縦に並べ替えるだけなのです。したがって、詰まる音や句読点は、文字の右横下、それも行間の不自然な位置に印字されるのです(前掲写真参照)。パソコンのワープロ機能が、日本古来の縦書き文化に馴染んでいなかったための現象です。

 同じ8ビットのパソコンを使っても、それから4年後に刊行した拙編『わがままいっぱい』1987.2、私家版)では、句読点は本行の文字の間に位置しています。出回りはじめたパソコンワープロの機能を活用して刊行された20年前の、当時の私家版の出版物を見ていくと、IT技術の進歩が、表記をより自然なものにしていく流れが見えてきます。現在の出版文化の背景には、こんな時代もあったのです。

 繰り返し記号である踊り字について、『横書き登場』の65頁で、縦長の「く」に関して「\/」が紹介されています。しかし、私はこれまで「/\」を用いてきました。
 『源氏物語』の古写本約376冊を翻刻した拙編資料集『源氏物語別本集成 全15巻』(平成元〜14年、おうふう)のデータは、約3億3千万字を対象としてデータベース化したものです。当該刊行書では外字で誤魔化していますが、元データの踊り字は「/\」で入力しています。縦書きの「く」を長くした踊り字を縦書きで表記する時に、スラッシュ(/)とバックスラッシュ(\)の組み合わせを使うと、それが横書きで表示されると「/\」となるので重宝するのです。拙著『源氏物語の異本を読む』2001.7、臨川書店)の図15の横書きキャプションや、拙著『源氏物語本文の研究』2002.11、おうふう)の巻頭口絵写真の横書きキャプションなどをご参照いただければと思います。

 一太郎というワープロなどでは、「く」を縦長にする技法がとられています。しかし、これをみんなが使えるテキスト形式にすると、ナントひらがなの「く」に戻ってしまい、後でどれがその踊り字だったかを見極めるのに苦労します。デジタルデータを後で有効利用することを考えると、使用する文字は、プレーンなテキストにしたときの形状を考慮したものであることが大切です。

 文字の歴史は、大変おもしろいものがあります。特に、パソコンの普及にまつわるよもやま話は、いろいろとあります。みなさんそれぞれが、その人ならではの涙と笑いの物語があるのではないでしょうか。
 
 
 
///// 本記事に対する関連コメント /////

■2004年08月15「ミクシィ」掲載分より
 「ディスクトップ」について。
 私は今の今まで、無意識に「ディスクトップ」と表記してきました。しかし、S王さんがご指摘のように、発音や意味から考えても、これは変ですね。「デスクトップ」と表記するのがいいのでしょう。これまで、違和感なしに読み書きしてきたことばなので、そのよってきたる所を考えてみたいと思うようになりました。

 今思いつくところでは、「デスク」という発音があまりにも泥臭いので、英語コンプレックスの固まりである私は、「ディスク」という言い方で外来語らしくしていたのではないでしょうか。苦しい言い訳みたいですね。

 それにしても、『ASCII』や『The BASIC』を初めとする各種雑誌の創刊号から貪るように情報を漁りながら目を通し、「パーコン」から「パソコン」へという呼称の変遷を体験する時代に身を置きながら、この「ディ」という表記に関してはまったく気づいていなかったことが、今さらながら不思議です。
 「スタンドアローン」という言葉は、すでに私は20年前から使っていますが、「ディスクトップ」を使い始めたのはいつからでしょうか。また、社会的にも、「ディスクトップ」と「デスクトップ」は、どのように使われてきたのでしょうか。

 おもしろそうなので、自分なりに調べてみます。私の勘違いで終わるかもしれませんが、それはそれで興味深い思い込みの事例となることでしょう。

■2004年08月15「ミクシィ」掲載分より
 今は幻のワープロソフト「たまづさ」は、私も愛用していました。
 開発元のコーシングラフィックという会社は、いいソフトを作製していましたね。「グラン・ミュゼ」を職場のパソコン60台にインストールする件で、社長に直接会って相談を持ちかけたりしました。札幌発のサポートもよかったですね。

 私がマックユーザになる前に使用していたワープロソフトのメモが、お盆の合間に書類を整理していたら出てきました。8ビット時代はともかく、16ビットマシンになった1984年からは、以下のワープロソフトを利用してきました。

 JWORD2(¥82,000)→ jXW太郎(¥58,000)→ 一太郎(¥58,000)→ 松(¥128,000)

 「松」は価格以上に最高でした。すごい文化遺産です。
 この「松」は、コピープロテクト問題で一躍物議をかもした、管理工学研究所の作品。
 当時私は、毎月10種類以上の雑誌を購入して、溢れる情報の海を泳いでいたものです。

 そうそう、原稿用紙スタイルで印字した私家版を出版したのが、1985年でした。『まぼろし』と題する父の追悼文集で、装丁は折本仕立ての糊入れ画帳スタイルです。装丁に贅を尽くしたものです。この版下作成に使用したのが、「JWORD2」でした。MS-DOSで動くワープロだったので、その後もデータの使い回しに重宝しました。

 それにしても、原稿用紙というのも、非常にレベルの高い文化が生んだ文房具ですね。縦書き・横書きの両方に使えるのもすごいことです。句読点や半角文字を記入するのに、一マスを4分割して利用したり、ワクの外に文字をぶら下げるなど、心憎い文化遺産だと思います。

■2004年08月15「ミクシィ」掲載分より
 Yさんの「たまづさ」に対するメモを記している内に、「ディスクトップ」と「デスクトップ」の件が氷解しました。
 フォローをありがとうございます。
 でも、勘違いということで長年使用していた者としては、「誤字等の館」の説明は理屈としては理解できるのですが、何か違うと思うのです。日本文化の中における外来語のありようについて、誤用だけでは切って捨てられない、何かがあるのではないでしょうか。

 素直じゃなくてすみません。書かれているようには、そんなに簡単なことではないという気がしますが。
 説明してハイ終わり、ではない問題として、これはおもしろいことですね。"


********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ◆情報化社会

【復元】吉村達也『回転寿司殺人事件』

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

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2004年06月26日「ミクシィ」掲載分より

 最近、シャーロックホームズに夢中です。新潮文庫の十冊の内、ただいま第9冊目の『シャーロックホームズ最後の挨拶』を快調に読書中です。毎週新幹線に乗る楽しみの一つとなっています。

 今年の春先には、『松本清張傑作総集 1・2』(新潮社)の全2000ページを一気に読みました。そのすべてが、これまでに何度か読んだ作品ばかりでした。しかし、前回の日記にあるように、昨秋より保険会社を相手取って個人で裁判をしていた関係もあり、プロの裁判官や弁護士に立ち向かう上での論理展開の勉強を推理物で鍛えようという意図もあり、こうした本を真剣に読んでいたのです。

 さて、昨日は『回転寿司殺人事件』という本を読みました。作者は吉村達也。この人のものは、今回初めて読みました。たくさん作品を書いておられる方のようです。回転寿司大好き人間としては、読んでおくべきかと思って一読。しかし、とても人に勧められる本ではありませんでした。ひどいものでした。
 文章が軽い上に論理的ではないのです。それでいて、小説とは縁遠く、いわゆる刑事ものの衣装をまとっています。こんな本も出版されているのですね。知りませんでした。
 人の仕事を貶すのは好きではないので、この本で私が好意的にチェックしたところを紹介しましょう。「話す」と「語る」の違いに関する箇所です。

「たとえば将来の夢とか、愛の告白とか、そういったものって、相手に話しかけるばかりじゃなくて、独り言の部分もあって初めて本心がぜんぶ語れると思う。だって、独り言のほうが飾らなくてすむじゃない。恥ずかしいことも言えるじゃない」
 翠は、和久井の目を見ずにきいた。
「わかる? 向かい合っていたら、話すことはできても、語ることはできない。でも横に並んでいたら、話すことだけじゃなくて、語ることもできる」(講談社文庫、318頁)



 カウンターに二人で並んで話し、語る様子を思い浮かべてみると、その違いがよくわかる例だと感心しました。収穫はたったこれだけの本でした。しかし、物語について考えることの多い私には、いいヒントをもらいました。

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posted by genjiito at 23:50| Comment(0) | 読書雑記

2010年04月20日

【復元】回転寿司のこと

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

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2004年03月07日「ミクシィ」掲載分より

 今日、妻と母とで回転寿司を食べに行きました。奈良県生駒市の菜畑という駅の近くにある、よく行く店です。午後三時を過ぎていたので、客はだれもいません。アルバイトの学生さんも暇そう。天井から流れる音楽は下手な若い娘の歌でした。寿司を食べながら聞く曲ではありません。消化不良になります。店員さんの退屈しのぎのための選曲なのでしょう。

 関西の回転寿司は、機械が握った四角いお米の固まりに寿司ネタを載せたものがほとんどです。元禄寿司などは今でも職人さんが握っていますが、だんだんと数は減ってきました。
 機械握りの見分けは、握った米飯の角が直角に角張っているので、すぐにわかります。しかし、百円から百二十円というところに拘るのが好きで、いつも通っています。
 私の昼食のほとんどは、テイクアウトの寿司ですから、毎日寿司を食べています。三食が寿司の日もあります。

 先月の中旬にロンドンへ出張したときにも、ピカデリーサーカスのクルクルという寿司屋に行きました。満員でした。生ものは、マグロとサケとサバとタコぐらいだったでしょうか。ロンドンへ行くと、いつも寄る店です。六年前に息子をここへ連れてきたときには、カルピコという飲み物を喜んでいました。今もカルピコはあります。この店がある通りは、日本食の食堂や食材屋さんが多いので好きです。日本酒なども手に入ります。お米の種類も豊富で、インスタントラーメンも揃っています。私は食しませんが納豆もあります。

 夕方には、同じピカデリーサーカスにあるジャパンセンターで、日本では食べられなくなった牛丼を食べました。オーストラリアからの輸入牛肉を使っているとか。牛丼を食べたい方は、ロンドンへ行きましょう。

 海外に行ってまで和食を食べることに抵抗のある方が多いようです。その土地のものを食べることに意義を見いだす方です。しかし、私は海外で和食を食べ歩くことを、無上の喜びとしています。日本の食文化について思いを馳せる一時ですから。

********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | 美味礼賛

【復元】日本の裁判の実態に落胆

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

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2004年06月25日「ミクシィ」掲載分より

 ちょうど一年前に、英国留学中の娘のノートパソコンが盗難にあい、その補償問題で保険会社を提訴しました。どうしても納得できなかったので、心ならずも裁判に持ち込みました。裁判は弁護士を依頼せずに、一冊の本を頼りに独力でやりました。

 その顛末を、以下のホームページに公開しています(長文注意)。

http://www.eonet.ne.jp/~genjiito/HTML_tetsuya/R1.3.0_hoken_top.html

 結果は、第一審の東京地方裁判所では完全敗訴でした。
 しかし、控訴審の東京高等裁判所では和解勧告を勝ち取り、先月何とか収まりました。

 上記ホームページの裁判記録は、とにかく長文です。お暇なときにでも読んでみてください。
 保険会社の建前と契約の実態との落差は、今後とも大きな問題だと思います。また、日本の裁判も、司法制度の改革が必要であることを痛感しました。新聞やテレビで、法科大学院の設立とか裁判員制度の導入のニュースを目にすることが多くなりました。しかし、現実には、裁判官や弁護士は忙しすぎて、真面目に丁寧な裁判ができないようです。
 私の場合がそうでした。特に東京地裁の場合は、本当にいいかげんでお粗末な裁判でした。
 あの裁判長も弁護士も、全力投球で取り組むときにはプロなのでしょう。真面目に、いつもそうはいかないのでしょう。それも、相手が私のような素人ときては、なおさらのこと。今回、私が東京地裁で体験した裁判官や弁護士たちは、何というべきか、出来損ないのセミプロ以下としか言いようがありません。いい体験をしました。大岡越前守や遠山の金さんは、今の日本にはいないようです。
 みんな忙しくて、裁判官も弁護士も、真面目に訴訟などに取り組んではいられないのです。手を抜くことが、裁判官や弁護士にとっては、腕の見せ所のようです。社会には、いろいろな問題があるものです。

 裁判をしているヒマがあったら、もっと勉強しろ、としかられそうです。しかし、結構楽しかったのです。論理構築のいい勉強をさせられました。
 日本の裁判所に失望したので、これから司法試験にチャレンジして、老後は田舎の町の弁護士もいいかな、などと、50を越したいい年をして、新しい夢を持つようになりました。

********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 23:43| Comment(0) | 身辺雑記

2010年04月19日

転々として消失したブログの復元

 これまで諸般の事情により、いくつかのサーバーからブログを公開してきました。私のブログが転々とした理由は、ほとんどが私の責任ではなく、サーバー側にあります。しかし、より多くの方に語りかけたいこともあり、その時々の状況を判断してサーバーを選んできました。
 とにかく、運がなかったこともあり、これまでブログに書いたものの半数以上が、今では読めなくなっています。

 そうした経緯は、「なぜかブログの発進地が変わりました」にまとめてありますので、おついでの折にでもお読みいただけると幸いです。

 今は読めなくなったものを、折を見ては少しずつ復元しています。しかし、消失したものが膨大であることもあり、復元にはまだまだ日時を要します。根気強く、このサイトをベースにして、再構築していきたいと思っています。
 もっとも、今利用しているこの「eoブログ」にしても、利用者が掲載した情報をバックアップする仕掛けは、今のところは用意されていません。
 先般、メールで問い合わせたところ、以下の回答をいただいています。

 記事のバックアップにつきましてですが、eoblogにはデータのエクスポート機能がございませんので、データを保存することができません。
 誠に申し訳ございませんが、何卒、ご了承いただければと存じます。(2010年3月7日)



 ということは、ここのサーバーが壊れたときには、掲載した情報はまたまた消失するのです。掲載した記事の控えは、毎回ユーザーがとっておかなければなりません。何とも、この情報化社会で、無防備この上ない、変な仕組みになっています。
 そこで私は、掲載した記事の下書きは、最近は手元に保存するようにしています。画像とのリンクは手作業に拠らざるを得ないという、原始的なことを強いられています。

 これまでに掲載してきた記事で消失したものが、リンクをたどっても見られないことから、どのような内容のものかという問い合わせもいただいています。
 これからは、この読めなくなっている記事の再現も、鋭意おこなっていきたいと思います。

 そこで、まずは一般に公開しはじめた「たたみこも平群の里から」の挨拶文を、以下に復元します。
 そしてこれからは、公開した記事の順に、可能な限り復元することにしたいと思います。

2004年12月13日 身辺雑記
「年の瀬にブログが走り出す」
 −はじめに−

 今年も相変わらず、慌ただしい師走となりました。
 忙しいときに限って、何か別のことをしたくなります。わがままなことです。

 これまで、ミクシィというソーシャル・ネットワーキング・サイトにブログを公開していました。しかし、これは会員制のサイトであるため、読みたいという方がいらっしゃっても、会員でないと読んでもらうことができませんでした。
 何とかしたいと思っているうちに、〈NPO源氏物語の会〉でブログが公開できるようになったので、こちらとリンクすることにしました。

 気ままに、思いつくままにメモを記します。自分のために、そして、私という者がいたことを家族や知人に知らせる、一種の存在証明のつもりで、日々思いつくままを認めるつもりです。

posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | ◆情報化社会

2010年04月18日

モニタ用ケーブルが断線

 私は、ケーブルが大好きです。コンピュータ機器をつなぐ時に使う、電気信号を送る線です。20数年前、コンピュータに熱中しだした時から、物とモノをつないでコミュニケーションを図るための電線に興味を持ったのです。単なる物とモノが、線一つでつながり、お互いが情報をやりとりすることができるようになるのです。接続して、お互いが動いた時は快感です。

 ただし、このケーブルにはさまざまな規格があります。ケーブルの先に付いている端子にも、いろんな形状のものがあります。そのために、用途によって別々のケーブルが必要になるのです。
 折を見ては、大阪の日本橋をはじめとして、いろいろなショップでケーブルを買い集めました。持っていれば、物とモノがつながって生き返るのですから。

 奈良の平群から京都に引っ越しをする時、約500本ものケーブルを処分しました。そのことは、「愛機たちとの別れ」に書きました。


 それでも、今も、京都の実家に200本、東京の宿舎に100本、立川の職場に150本はあります。もう入手が難しくなっているケーブルは、どうしても捨てられないのです。

 そのケーブルに関して、最近トラブルに遭いました。モニタ用のケーブル(コネクタ)です。

 私は、身の回りにあるパソコンには、必ず2台のモニタをつなげて、広い画面で作業をしています。
 宿舎でのことです。愛用のマック・ミニには、20インチと19インチのモニタをつなげていました。ところが、突然サブとして使っていたモニタが映らなくなったのです。いろいろなことをしても、画像はサブには出ません。
 モニタを別のマックブックAir につなげると、画像を表示します。ということは、マック・ミニの映像出力端子かと思ったのですが、もう一つのモニタにつなぎ代えると映るので、これも大丈夫です。原因は、外部モニタ用のコネクタしか考えられません。

 早速、アップルストアへケーブルを持って行き、調べてもらいました。案の定、ケーブルが信号を通さなくなっていたのです。
 
 
 
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 そもそも、このケーブルは、一度セッティングしたら、触ることのないものです。動かすのは、本体を移動する時しかありません。しょっちゅう、抜き差しするものではないのです。それなのに、コネクタの中で線が切れているようなのです。理由がわかりません。

 購入して一年以内、ということで、無料で交換してもらえることになりました。しかし、在庫がないとのことで、今日やっと入手しました。

 担当者に理由を聞くと、考えられないことだが、という前置きがまずありました。そして、静電気か何かでカバーの中の接続か配線が切れたとしか考えられない、とのことでした。
 私は、欠陥商品や不良品をよく手にするので、こうしたことには慣れています。またか、という感じです。しかし、それにしても、意味不明の断線です。

 このケーブルがなかった数日間は、もう一つの接続方法で、モニタをつなげていました。
 これまでは、デジタル式のDVI−D端子で接続していました。下の写真の右側のもの。
 そのケーブルが不調になったので、ここ数日は、もう一つのアナログ式のRGB端子(下の写真の左側)で、モニタを接続していたのです。
 
 
 

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 取り替え品が入手できたので、早速モニタをDVI−D端子で接続しました。少しは文字がくっきりと見えるように感じられます。しかし、アナログからデジタルへの変更で、それほど劇的に変わっていないことに気づきました。人間の目は、こんなアバウトなものかもしれません。
 それでも、もとに戻ったので気をよくして、こうしてまた文章を作成するようになりました。
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | ◆情報化社会

2010年04月17日

井上靖卒読(107)『夜の声』

 この小説は、飛ばし読みをしました。内容が流れるように語られるもので、じっくりと読むものではないように思えたからです。これは、井上靖にしては珍しい作品だと思います。

 今回は、30年前に読んだ時と同じ文庫本で読みました。その時のメモにも、よく似た印象が記されています。
 ただし、自然と環境を大事にすべきことを力説していることは、当時はあまり社会的にも問題意識が薄かったこともあり、今回改めてその着眼点が深かったことに感心しました。
 また、毎日新聞に連載されたものなので、作品に軽さと平明さを強く感じたのは、作者がその発表媒体に合わせたところもあるのでは、とも思われます。

 本作の特徴は、物語の展開に合わせて『万葉集』の歌を引用していることでしょう。主人公である千沼鏡史郎の、現代社会と文明に対する憤りを、『万葉集』の歌と絡めて展開するのです。
 『万葉集』の歌は、「天地の 神を祈りて 幸矢貫き 筑紫の島を さして行く吾は」にはじまり、合計20首もの歌が引かれています。平安時代ではなく、さらに遡った古代に興味をもつ井上らしい手法です。

 冒頭での、古書の扱いに関する次のくだりも、作者の当時の興味と問題意識が窺えて興味深く感じました。

 二、三年前のことだが、国文科を新設するという地方の某大学から、慶長本『万葉集』を譲って貰えないかという交渉を受けたことがある。鏡史郎の尊敬している東京のT大学の柳沢博士の紹介だったので、鏡史郎も懇請されれば、手放さなければならなくなるのではないかと思っていたが、結局これは断わってしまった。交渉に来た若い講師が、普通の古本でもめくるように、ばらばらと頁をめくり、いきなり、
「一体、いくらで譲ってくれますか」
 と切り出したので、鏡史郎は腹を立ててしまったのである。大体稀覯本の取り扱い方をしらない。押し戴かないまでも、指の脂をつけないぐらいの注意はして頁を開き、義理にも珍しいものを見せて貰う悦びと感動を顔や態度に現わすべきである。それが所蔵者に対する礼儀でもあれば、その書物に対する礼儀というものでもある。書物はどんな書物でも生命を持っている。殊に稀覯本となると、それが今日まで生き永らえて来た歴史というものは、ひと通りのものではない。(新潮文庫、12頁)



 この辺りの描写は、井上靖の書籍や資料を大切にする実体験とその姿勢が滲み出ているところです。

 さて、この作品は、ゆったりとした語り出しから、一転して主人公が交通事故に遭います。以後は、内なる自分との対話が始まります。その背景に、大伴家持をはじめとする万葉歌が配されます。古典との融合を図った物語です。
 鏡史郎は、神の声を聞き、文明に姿を変えた魔神と戦います。社会が急速に近代化する中で生まれるひずみに対して、彼は孤軍奮闘します。
 現実から遊離したかのように見える主人公は、家族が精神病の対処として入院させる直前に、孫娘を無理矢理連れ出して諸国遍歴の旅に出ます。
 このあたりから、話が現実離れしていきます。読み飛ばすようになったのは、ここからです。北陸路の万葉古歌の旅が展開するのです。主人公は、現代社会という魔物と戦いながら、歌枕を尋ねるような旅をします。折々に、生と死が語られ、環境汚染や自然破壊に憤ります。

 この作品は、評価が難しいように思います。自然の大切さや環境問題は、今では意識が高くなったので、このテーマの小説はごく普通にしか感じられません。しかし、これが昭和42年に書かれたものであることを考えると、問題提起としては意義があります。ただし、有吉佐和子の『複合汚染』のような、強い口調ではないのです。井上流の、本当に控えめな、節度のある、あくまでも1人の狂人のようにしか見えない老人を描く中で、環境や自然の問題を、『万葉集』を持ち出して警告しているのです。

 作品として見た場合、最後の豪雨のシーンで終わるのは、読者を放り出したようなものです。作者が勝手に突っ走った、という感じが残ります。主人公はともかく、孫娘とその家族は、読者に委ねられたまま、まったく切り捨てられて物語は閉じるのです。
 テーマが自然と環境にあるだけに、時代というものを背負っている作品と言えます。それだけに、読み継がれるための核が『万葉集』だけになったのは、小説の宿命とはいえ残念に思います。【2】



初出紙︰毎日新聞
連載期間︰1967年6月2日〜11月27日
連載回数︰153回

新潮文庫︰夜の声
井上靖小説全集30︰夜の声・欅の木
井上靖全集17︰長篇10


〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | 井上靖卒読

2010年04月16日

倉田実先生の楽しい論文

 毎年、年度末(3月)になると、たくさんの研究成果が論文として公表されます。それを追いかけるようにして読むのに、多大のエネルギーが要ります。年度の変わり目は、多忙な中にあって、もっとも疲れが溜まる時期です。

 今年、私が一番気に入ったのは、倉田実先生の「女が男に物を返す時 −平安和歌にみる離婚・離縁−」(『大妻女子大学紀要』文系四二号、平成22年3月)でした。

 研究論文というと、何やら堅苦しくて、身構えて読むものが多いようです。そんな中でも、これは読み進むにしたがって、肩の力を抜いて読めます。それでいて、内容が充実しています。語り口や論理展開に、無理がないからでしょう。なるほど、ごもっとも、と納得させられます。多分にお人柄がそうさせるのでしょうが。
 これまでも倉田先生からは、たくさんのご論を通して刺激をうけて来ました。その中でも、これは特に若い方にお薦めです。日本の古典文学を身近にしてくれます。和歌に暗い私でも、倉田先生の和歌の解釈に寄り添いながら、楽しく読み終えることができたのですから。

男の持ち物が女の家に移動することは、結婚や愛情関係の継続を意味し、逆に、女の家から男の家に戻される時、それは離婚や男女関係解消を意味したのである。男の持ち物は、愛情関係のありようによって、移動を繰り返すのであった。


として、男の「懸想文」「お守り」「装束」「笛」「足袋」「調度品」「鏡」「包」「枕」「扇」「手箱」「帯」「位記」「太刀」などが、女から男へ返却されている実態が、和歌を通して考察されているのです。

女側では、男の持ち物を返すという形で、男の気儘さに抵抗していたといえよう。ここに結婚をめぐるジェンダー構造が認められるであろう。


とあるように、この問題はさらに展開していきそうです。そして、これはさらに、「男の持ち物・忘れ物−王朝文学の「通い婚」における愛情の確認−」(倉田実編『平安朝の王権と貴族(仮題)』森話社、2010.5)で詳述されるようです。つぎの論考が楽しみです。

 私も、このように平易で、かつ的を射た考察をしたいものです。大いに啓発される論文でした。
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | 古典文学

2010年04月15日

【復元】心身雑記(54)血糖値とお酒

 かつて、「たたみこも平群の里から」と題するブログを書いていました。しかしサーバーがクラッシュし、3年間のすべてが消滅しました。
 折を見て手控えをもとに、復元して再掲載しています。これも、その一つです。

 以下の記事は、「血糖値を下げるビールを求めて」と題して、2005年9月16日に公開したものです。「手探りの糖尿病対策」という副題がついていました。

 昨日受けた栄養指導と関連する話でもあり、復元して掲載します。

********************** 以下、復元掲載 **********************

 1999年、単身赴任で上京したその年の12月、健康診断の結果として突然、糖尿病の精密検査を受けることになりました。結果としては、カロリーコントロールを心がけることになり、一日 1,500 キロカロリーを目安に生活することになりました。
 学生時代からずっと、食事はすべて女房に任せきりでした。初めての一人暮らしとなり、外食依存の生活が、血糖値を上げる原因となったようです。
 2年前に、血糖値を測定する器具を購入しました。ほぼ毎朝、寝起きに測っています。数値は、130あたりをうろついています。糖尿病の境界値だそうです。

 インドから帰ってくると、確実に血糖値が下がっています。医者に言っても、信用してもらえません。
 私は、インドで生活をしてから、近代西洋医学というものに全幅の信頼をおくことをやめました。科学的に説明できないものはダメだ、という考え方には、疑問をもっています。説明できないものに対して、どう向き合うか、ということです。今は、自分が納得できる範囲での生活をすることにしています。その意味では、マサラ料理は、血糖値をコントロールするのにいいと思います。トルコへ行った時も、体調はよくなりました。チャイは、特にいいようです。

 血糖値を測りはじめて最初に気付いたのは、赤ワインを飲んで寝ると、数値が下がることでした。ポリフェノールの効用なのでしょうか。ビールは、発泡酒の方がいいようです。日本酒は、まったくダメです。焼酎はいいようです。ウイスキーは飲まないので、わかりません。
 お酒ばかりで実験をせずに、水を飲んで寝ればいい、という人がいます。それでは、楽しくないと思います。遊びながら体調を管理するのがおもしろいのです。

 なお、私は今から35年前の18歳の時に、十二指腸潰瘍穿孔性腹膜炎により、胃の3分の2と、それにつながる器官の一部を切除しています。したがって、ここでの人体実験は、私のためだけのものであることを申し上げておきます。また、飲むお酒の量も、ビールなら500ミリリットルが限界です。

 ビールに関して。
 これまでは、アサヒの「ゴールド」が一番よかったのですが、サントリービールの「kire」も、血糖値を下げてくれることを、今朝、発見しました。もっとも、この3日間の結果ですが。
 薬としてのお酒探しも、銘柄が多く、秋には新製品もたくさん出るので、なかなか忙しいことです。
 この一週間は、赤ワインを飲んでいないのに、血糖値が低めです。おかしい。伊藤説がぐらつき出しました。
 飲みたい時に、飲みたいものを飲め、ということでしょうか。

 とにかく、人類の幸せのために、探求は続けます。


********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | 健康雑記

2010年04月14日

心身雑記(53)栄養指導を受ける

 春先は、何かと忙しい日々が続きます。珍しく会議がない日だったので、九段坂病院へ糖尿病に関する栄養指導を受けに行って来ました。

 病院の前の皇居のお堀は、すでに葉桜になっていました。
 
 
 
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 桜の満開は見事で豪華でいいのですが、何かハラハラするものがあります。その意味では、この葉桜を愛でるのもいいものです。花盛りよりも、若い芽吹きが新鮮に思えます。新緑の中にチラホラ咲き残った桜の良さが、改めて目を惹くようになりました。

 さて、栄養指導は、2時間以上もかかりました。
 明日退院なさる方と2人で、たくさんのことを学びました。
 まずは、先生から30分間の、糖尿病に関するお話でした。

 2007年の統計によると、糖尿病と認定されている人は890万人だったそうです。そして、その予備軍が1300万人だそうです。私などは、一歩糖尿病に脚を踏み込んだ部類でしょうが、それにしてもその多さに驚きました。

 多い理由は、(1)日本人の民族としての体質、(2)食生活の欧米化、があげられるそうです。これは、個人の力ではどうしようもないことです。
 そのためにも、食事療法と運動療法が大切なのです。

 私の場合は、1日1600キロカロリー(20単位)を目安にするように、とのことでした。これまでも、1500キロカロリーをメドに食事を心掛けていたので、これまでの調子で大丈夫のようです。

 その後、栄養士の方から、具体的に食事療法を教えてもらいました。カロリー計算はそんなに細かくなくてもいい、ということを前提に、実際に栄養計算や、本当のご飯をお茶碗に盛って、最適な分量を身につけるなど、いい体験となりました。

 私は、毎朝計測する血糖値の値で、その日に食べる食事を変えています。東京で1人で外食中心の食事をしているときは、ほぼ目標とする110〜130mg/dl の範囲に留まっています。
 これは、毎日食べるお寿司を核として、それ以外の食事はたくさん食べずに残すことを心掛けているのがいい結果に結びついているのだろう、と思っています。
 ところが、京都の自宅に帰ると、この数値が乱れます。
 妻が考えてくれる食事はよく配慮してあっていいのですが、冷蔵庫などにたくさんの食物があるので、それをツイつまんでしまうのです。そのため、油断からか、130を越すことが多いのです。
 今度、機会を作って、妻と一緒に食事療法のレクチャーを受けに行けないか、と思っています。情報を共有していた方が、何かと好都合だと思えるからです。

 今日の先生の話では、お酒に関しては、あまり勧められないとのことでした。そこで私は、日頃の疑問をぶつけました。カロリー0の発泡酒や、糖質0の日本酒などのことです。私が測定している範囲での感想は、お酒は血糖値には大きく影響していないように思うが、と。先生は、私が飲む量が知れているということで、そんなにきついことは言われませんでした。できたら、毎日ではなくて、週に二三回に、とのことでした。心掛けてはみましょう。

 今の私は、薬の服用やインスリン投与の段階には至っていないようです。しかし、とにかく要注意であることは確かです。
 よく言われる、ヘモグロビンA1cについては、少し高めというレベルだそうです。今の調子で、カロリーコントロールを続けるように、とのことでした。

 少し気をよくして、銀座に立ち寄って、スポーツクラブで汗を流して帰りました。
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2010年04月13日

藤田宜永通読(9)『空が割れる』

 藤田宜永の新刊『空が割れる』(2010年4月10日刊、集英社)を読みました。新聞に広告が出て、すぐに購入して読みました。2〜4年前に『小説すばる』に発表した作品で、「空」を意識した作品集です。ただし、「小さくて不思議な空」以外は、あまり「空」が有効に機能している作品ではないように思います。

■「逆上がりの空」
 わかりやすい話です。男の存在が自然です。
 ラストの逆上がりのシーンがいいのです。それまでの話を一気に精算する場面となっています。
 しかし、私なら、これで流産する展開にして終えます。そこに物足りなさを感じました。
 このままなら、逆上がりのシーンはない方がいいと思います。【2】

・初出誌︰『小説すばる』2006年6月号

■「小さくて不思議な空」
 青空に恐怖心を抱く女の話です。
 親しくなった誠が、沙保里に示したサプライズは、物語としては盛り上がらないままだったように思われます。もっとすごいサプライズが用意されていると思ったので。
 きれいな話に仕上がっています。しかし、結末で躓いた感じです。短編小説としては、致命的なように思える失策でしょう。【2】

・初出誌︰『小説すばる』2006年9月号

■「空が割れる」
 最後の詰めに不満が残りました。
 綾乃が義弘と縒りを戻すくだりに、それまでの流れとの違和感を覚えました。そして、綾乃の口調が一転して下品になります。それまでの、いい雰囲気だった大人の恋愛ドラマが、途端にガキの痴話げんかに堕落変貌します。
 最近、とみに藤田宜永の小説は、後半になると話が空中分解します。そんなに急いで終わらなくても、と思ってしまいます。
 これは、本書の表題作です。しかし、書名を背負って代表するほどの作品ではありませんでした。執筆時期は、本書の中では後ろから二番目です。しかし、それを真ん中に配置したのは、書名にしていることと関係あるのでしょう。それだけ、作者にとっては思い入れのある作品ということなのでしょうか。【2】

・初出誌︰『小説すばる』2007年11月号

■「画用紙の中の空」
 きれいな話としてまとまっています。読み進めていて、この話がいつものように壊れなければいいが、とハラハラしながら読み終えました。うまく着地した作品で、まずは一安心です。
 オレンジ色が効果的な小説です。空も、きれいな背景となっています。話もいいし。
 もっと千鶴子を描いてもよかったのでは。
 説明口調が少し気になりました。それでも、いい仕上がりの小説です。何よりも、軽いのがいいですね。
 この題名を書名にしたらよかったのに、と思いました。【5】

・初出誌︰『小説すばる』2007年5月号

■「鈴の響く空」
 サラッとした物語に仕上がりました。読み流していて、気持ちのいい話です。
 人間のドロドロした部分を避け、無機的に語り進められます。もっとドラマチックにしても、と思われるほど、穏やかな展開です。
 若い頃のハードな作風から純愛物へ移り、そして今は藤田宜永らしさを模索中、という時期の作品なのでしょう。【3】

・初出誌︰『小説すばる』2007年8月号

■「サンタの空」
 ゆれ動く明日香の心が、巧みに描かれています。ラストシーンが秀逸です。この意外性が、藤田宜永の持ち味だと思います。
 途中が退屈でした。もっと動きを持たせたらどうでしょう。軽さが全体に漂いすぎているので。【4】

・初出誌︰『小説すばる』2008年8月号
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2010年04月12日

京洛逍遥(135)植物園の春

 今年も、京都府立植物園は見事な春です。
 園内に入ると、まずは正面のチューリップ越しに拡がる桜の花が、北山を背景にピンクの雲のように横たわっています。
 圧巻です。
 
 
 
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 桜の木のそばに行くと、視界を花びらが覆い隠します。
 
 
 
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 私が大好きなボケも、桜を背景にして、豪華に咲き誇っています。
 
 
 

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 径で、水車小屋を見つけました。
 
 
 

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 植物園でのこの存在を、すっかり忘れていました。
 切り取られて置かれたかのように、小道具が日本的な雰囲気を演出しています。今、日本にいることを思い出させてくれる、大切なアイテムとなっています。
 花、花、花、という空間に、気分転換として木立と水車小屋があるのは、その切り換えの妙を楽しめます。

 チューリップの絨緞も見事です。明るい春を実感させてくれます。
 
 
 
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 四季折々を、花の彩りで楽しむのも一興です。
 季節を感じる場所として、時々脚を運ぶことにします。
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2010年04月11日

京洛逍遥(134)京都御所の一般公開 -2010-

 昨夜からの雨も上がり、薄曇りの中、京都御所の一般公開に行きました。
 昨年と一昨年の様子については、以下をご覧ください。共に、秋の一般公開でした。

2008年「源氏千年(75)京都御所の一般公開」


2009年「京洛逍遙(108)御所の秋季特別公開」


 春の御所は久しぶりです。
 京都御苑の桜は、みごとな満開でした。
 
 
 
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 今日は、蹴鞠が行われる時間に間に合いそうなので、それを楽しみにして自転車を漕いで行きました。
 蹴鞠は、本来なら建春門の前で行われます。蹴鞠の庭ではありません。
 
 
 
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 しかし、昨夜からの雨のため、今日は宜秋門のそばの新御車寄の前でありました。
 掛け声と共に、うまく蹴り続けておられました。衣装といい、鞠の形といい、サッカーのようにはいきません。そこが、またいいのですが。
 
 
 
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 今日の蹴鞠で使われたのは、平成11年に作られたものだそうです。
 
 
 
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 その後、御所の中を散策しました。
 
 
 
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 紫宸殿の前には、左近の桜が散り始めていました。
 
 
 
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 この紫宸殿は、学生時代には「ししいでん」と読むと教わったのですが、今では「ししんでん」と御所の冊子にもふりがなが振られています。有職読みも、寛容さが広まったようです。もっとも、有職も「ゆうそく」とも「ゆうしょく」とも読むのですから、あまり難しい顔をして拘らないのがいいようです。
 清涼殿に向かって左側の竹を「漢竹」といいます。この読み方を、私は「からたけ」だと思っていました。しかし、今日、ローマ字の読みを見ると、「Kawatake」とあります。「かわたけ」なのです。知りませんでした。
 帰ってから電子辞典を調べてみると、「漢竹」を「かわたけ」と読むものは一例もありませんでした。清涼殿には「呉竹」と「河竹」があるという記述は、いくつもあります。とすると、御所で「かわたけ」を「漢竹」としているのは、特殊な漢字の用い方なのでしょうか。今はよくわからないので、また調べてみます。

 今年は、「和舞」の人形がありました。
 
 
 
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 しばらく行くと、「五節舞」があります。これは、昨秋もありました。
 
 
 
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 さらに、「久米舞」もあります。
 
 
 
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 こうした人形を観ていると、少しずつ平安時代の宮中や儀式のさまが思い描かれてきます。いい勉強になります。御所の一般公開には、行けるときには足を運びたいと思います。
 
 
 その後、今宮神社の「やすらい祭」に行き、賀茂川でまだ咲き誇る桜を満喫しました。
 北山大橋から南は、少しずつ散りかけています。
 
 
 
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 しかし、北山の方を見ると、まだまだ満開の道が上賀茂神社の方に延びています。
 
 
 
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 桜を身近に親しめることは、日本の誇るべき文化の一つです。
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2010年04月10日

京洛逍遥(133)鴨川茶店-2010-

 今年の賀茂川も、みごとな桜が満開です。

 今日と明日は、恒例の「鴨川茶店」がにぎやかに催されます。

 一昨年は、こんな感じでした。

「京洛逍遥(35)鴨川茶店」


 そして、昨年はこんな様子でした。

「京洛逍遥(64)賀茂の桜と結婚式」

 今年の賀茂川は、中洲の砂地を取り除いたために、広くゆったりとした川の流れになったように思われます。
 
 
 
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 いつも渡る飛び石も、今日はラッシュ状態で、すれ違うのも一苦労です。
 
 
 
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 「鴨川茶店」は、ボランティア団体である「鴨川を美しくする会」が実施するイベントです。今年で36回を数えます。毎年、花見を通して河川美化の輪を広げるために、この府立植物園横の半木の道で繰り広げられます。
 私が行ったときには、ちょうどお琴と尺八の合奏をしていました。
 
 
 

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 その横には、こんなにみごとな垂れ桜が咲いています。
 
 
 

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 約800メートルの桜のトンネルは、気持ちを明るくしてくれます。

 いつもはお抹茶をいただくのですが、今日は煎茶を淹れてもらいました。二条流とのことでした。
 この子は、一生懸命にお茶を淹れ、そしてお茶碗を片付けたりしていました。
 
 
 
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 お茶券が500円だったので、高いなと思っていました。しかし、帰りに、茶菓子がのっていたお皿はお持ち帰りください、とのことでした。
 
 
 

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 いい記念品になりました。
 また、来年が楽しみです。
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2010年04月09日

京洛逍遥(132)平安神宮紅しだれコンサート -2010-

 今年も夕闇の中、平安神宮の苑内で開催された「平安神宮 紅しだれコンサート2010」(京都新聞社主催)に行きました。

 応天門から入ると、大極殿がライトに浮かび上がっていました。
 
 
 
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 去年のコンサートは、「京洛逍遥(63)平安神宮紅しだれコンサート」に書きましたのでご笑覧を。

 今年は、オカリナ奏者の宗次郎でした。
 昨年は、橋殿(泰平閣)で溝口肇さんのチェロを聞きました。今年は、舞台の正面の、桜の花と木の間を通して聞きました。
 
 
 
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 オカリナの音色が、池の水面を伝って岸辺に響いてきます。水の上を渡ってきた音だからでしょうか。非常に澄み切った音でした。バイオリンの伴奏もすてきでした。

 池をめぐる聴衆は、去年よりも多くて、4000人以上だそうです。
 心が洗われる世界に身を置くことができました。

 今年が22回目です。これからも、ずっと続けてほしいコンサートです。
posted by genjiito at 23:47| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2010年04月08日

私を支えてくれている人たち

 今日のお昼は、私の仕事を手伝ってくれている仲間と、隣の裁判所にある食堂でバイキングを食べました。
 この前は、野菜の押し寿司があったのに、今日は野菜の煮物でした。これはこれでヘルシーです。

 午後は、さまざまな書類や作業の段取りなどを確認した後、ちょうど3時半に会議に行きました。
 会議が予定より30分延びたので、終わってすぐの5時半に、みんながいる共同利用研究室に急ぎました。
 すると階段で、上から飛び降りるようにしてSさんが駆け下りて来ました。そして、Kさんが先ほど体調を崩し、今、病院に連れて行ったところだ、と伝えてくれました。息が上がっています。私を捜していたのだと。
 私が会議のために、その部屋を出た直後の出来ごとだったそうです。

 大急ぎで、病院に駆けつけました。元気な姿を見て、一安心しました。
 病室に入り、点滴を受けている本人と少し話をしました。
 担当医の先生もお出でになり、もうすぐ家に帰れるでしょう、とのことでした。

 自分の仕事を持ちながら、月に一二回、私の仕事を手伝いに来てくれていました。というより、ケンブリッジ大学のピーター・コーニツキ教授と共に公開している「欧州所在日本古書総合目録」というデータベースは、彼の存在なしには語れないものです。その実現には、彼のきめ細やかな目配りがなされているのです。

 私の所に来て、今年で9年になると、お昼を一緒に食べていたときに話していたばかりです。私が国文学研究資料館に着任してすぐから、彼に仕事を助けてもらっていることになります。

 今年から2人の新人が来るようになりました。今日も、仕事の説明をし、質問などに答えてくれていたようです。
 コーニツキ先生と林望さんが手書きで作成された調査カードを読み解き、それをデータベース化するのは、大変なことです。古写本を読むことよりも、難しいものが多々あります。いわば、職人技で成し遂げているのです。

 本業でも、大忙しのはずです。それに加えて私の所でのお手伝い。拝み倒して、無理のない範囲で続けてもらっているところがあります。今年は、一年で数回しか来られないかもしれない、と言っていました。くれぐれも、無理のない日々を送るようにしてほしいと思っています。
posted by genjiito at 23:52| Comment(0) | 身辺雑記

2010年04月07日

わが母の記(7)叱られると押し入れに

 私が小さかった頃、小学校の低学年の頃のことです。何かいけないことをすると、母は私を押し入れに閉じ込めました。

 当時は、父が大阪に出稼ぎに行っていたので、母と姉と私の3人で、出雲市の町営住宅に住んでいました。私が、小学校の4年生までのことです。

 田舎のことでもあり、一応ささやかな庭というか、畑がありました。
 母は、いつも割烹着を着ていました。
 
 
 
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 この庭から部屋を写した写真が、たった一枚だけ残っていました。
 
 
 
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 南向きの6畳間の奥に、3畳の間と台所がありました。台所では、かまどに薪を入れて煮炊きをしていました。昭和30年代のことです。
 水は、北側の玄関の前に、共同の手押しポンプがありました。冬は、熱湯で溶かしながら水を汲み上げたものです。

 この南向きの6畳間には、一間の押し入れがありました。
 母は、いつもニコニコしていましたが、私が何かよくないことをすると、突然豹変して鬼になりました。そして、決まって、6畳間の押し入れに、小さかった私を持ち上げ、そこに押し込まれました。その怖さに縮こまり、押し入れの中の布団の隙間でシクシク泣いていたことが、何度もあったことを思い出します。怖くて襖を自分で開ける勇気もなく、とにかく出してもらえるまで泣き続けていました。

 当時、私は身体が弱く、虚弱体質として、運動を禁止されていました。運動会で走れたのは、小学3年生の時からです。その時は、リレーのアンカーを走りました。初めて私が走るのを見て、みんながアンカーにしてくれたのです。結構早かったのです。今でも、運動神経はいい方だと思います。

 水泳も禁止されていたので、いつも八岐大蛇で有名な神戸川での水泳の時には、河原で見物でした。水泳は、出雲から大阪に引っ越しをして、大阪市立豊里菅原小学校に転校してから、初めて泳ぎました。というより、泳げないので、水浴びでしたが。

 母が厳しかったのは、この出雲の時代だけでした。それ以降は、いつも私のことを思ってくれていて、私が言うことは、何でもやらせてくれました。何でも許してくれました。これは、亡くなるまで一貫して、私を何事においても信じてくれたのです。父は、高校時代以降に、私がすることをすべて認めてくれました。その意味では、ありがたい両親です。
 何一つ、反対されませんでした。1人でヒッチハイクで富士山から帰ってくる旅の時も、おまえが行きたいなら行ってきなさい、と言って、両親は見送ってくれました。高校卒業後、1人で上京して新聞配達をしながら勉強すると決心した時も、好きなようにしたらいい、と応援してくれました。

 この、両親に信頼され続けたことは、私にとっては代え難い財産です。
 そんな両親に、今、感謝しています。もう、この気持ちを伝えようもないのが残念です。
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2010年04月06日

わが父の記(4)父の仕事(その2)

 私が小学校に入る直前なので、今から約50年前のことです。
 母と姉と私の3人を島根県の出雲に置いて、父は大阪へ出稼ぎに行きました。人夫として、舗装道路の工事や、千里丘陵を作っていたようです。
 小学生の頃、休みになると汽車で大阪へ遊びに行きました。伯備線のトンネルに入ると、ススが車内に入るので窓を閉めたものです。それでも、駅を降りると、鼻の穴は真っ黒けでした。

 父が寝泊まりしていた飯場は、雨漏りのするバラックでした。よく1人で、雑誌を片手に詰め碁をしていました。
 我々が大阪へ遊びに行ったとき、どこで寝ていたのか、まったく記憶がありません。父の部屋は、2人が寝たら一杯でした。両親が何か配慮をしてくれていたのでしょうが、どこで寝たのかは覚えていません。

 街頭テレビは、大阪の街中で見ました。力道山の空手チョップで釘付けになったものです。
 また、フラフープやダッコちゃんも、あの頃だったように思います。それを父がお土産として買ってくれ、出雲に持って帰りました。

 そのうち、父は山一証券に就職が決まりました。出雲大社の前にあった「ヘルンの宿 いなばや旅館」へ遊びに行ったときなどに、父が出世したと伯母さんたちが話題にしていたことを、子供ながら嬉しく聞いた記憶があります。

 父は、毎年一度は、出雲に帰ってきました。帰省する時、私への土産は、小学○年生と漫画王でした。

 私が小学5年生になった時、姉の中学進学に合わせて、出雲から大阪に転居しました。阪急沿線の淡路駅に近いところでした。一家4人が、8畳の屋根裏部屋での生活が始まりました。ギシギシと軋むはしご段で、2階の屋根裏に上り下りしていました。
 畳の上にベニヤ板を一枚置いて、その上でプロパンガスを使った煮炊きをしていました。今から思えば、怖いことです。水は、階段の下から一々運びました。これは、姉と私の仕事でした。
 この頃にも、まだ姉と私は、ミカン箱と食卓を机代わりにして宿題などをしていました。家庭訪問があったら、それらを隠すことで、大変なことになったはずです。友達なども、部屋に上げるわけにはいきません。そんなドタバタは、結局一度もありませんでした。

 そんな中で、父はよく我々を、いろいろな所へ案内してくれました。
 当時の写真を見ると、父はカッターシャツを着ています。山一証券という大手の会社に勤めるサラリーマンになった父は、幾分無理をして我々を大阪見物に連れて行ってくれたようです。連日、デパートや遊園地に連れて行ってもらいました。楽しかった想い出しかありません。
 
 
 
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 お金がなかったはずなのに、デパートなどの食堂でいろいろなものを食べました。父は、いつも何ものっていないうどんでした。少し贅沢をするか、と言った時には、決まってお揚げさんののったきつねうどんでした。私は、旗の立ったお子様ランチが大好きでした。
 今にして思えば、限られた生活費の中で、子供には不自由な想いをさせないという、両親の思いやりがしみじみと感じられます。

 満州から命がけで日本に引き揚げてきた両親にとって、あるいはこうした自分達の苦労は、大したものではなかったのかも知れません。戦後のどん底の生活の話は、折々に聞いたように思います。地獄をみたからこそ、穏やかな気持ちと、暖かな思いやりで、姉と私に接してくれていたのです。
 父からは、怒られることはほとんどなかったように思います。お互いに、あまり会話をしませんでした。しかし、信頼してくれていることは、伝わってくる対応でした。反面、母は何か悪いことをした時には、非常に怖いときが何度かありました。それは、またの機会に。

 毎年、年末年始になると、父は会社に宿直として寝泊まりしていました。宿直手当という副収入を考えてのことだったのです。そのために、年末年始は、いつも大阪の京橋にあった父の会社に行きました。年賀状やお節料理を持って行ったのです。お年玉は、いつも父の会社で渡されました。そして、会社のソファーで、母が作ったお節料理をみんなで食べました。日頃はお酒を飲まない父も、このお正月の家族とのお節の時には、日本酒を少し飲んでいたように思います。こんな時の、母のニコニコした顔が、今でも思い浮かびます。

 私には、株のことはサッパリわかりませんでした。しかし、会社の中を見渡すと、父が慕われてさまざまな仕事をしていることがわかりました。社内で倶楽部を作ったり、リクレーションや旅行の幹事をしていたりと、面倒見のいいところも、休憩室や廊下などの壁に貼られた写真や文書で知りました。会社では人気者だったようです。女性社員を中心として、伊藤会とでも言うべき親睦会も作っていたようです。
 この、人の世話を率先してする性格は、亡くなる直前まで見ることができました。人を思いやることの大切さを、父は身をもって教えてくれました。今の私に、それがどのように生きているのかはともかく、いい心構えを残してくれたのは確かです。人のことを思いやり、率先して人の世話をするのです。私には、とてもできません。しかし、そのような姿を、父は見せてくれていました。

 息子としては、あまりにも生き様が固くて苦手な面も多々ありました。反発する気持ちもよくありました。しかし、この、人との接し方には、とにかく脱帽です。心掛けてはいます。しかし、とてもできません。敬服します。
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2010年04月05日

谷崎全集読過(7)「羹」

 相変わらず、英単語が顔を覗かせます。
 話が東大生の学生生活を基本とするものなので、かえって英単語がちらほらする所に、青春生活の味が加わり、いい効果を見せています。ただし、中盤から「マーザー」とか「ハズバンド」(175頁)などと、英語をカタカナで表記したりしています。何か意図するところがあるのか、まだ私にはわからない点です。

 冒頭の、車窓からの風景描写が丁寧です。橘宗一の眼を通して、美代子がきれいに描かれています。「ほんとうに妾を忘れないでね」と言う美代子が印象的でした。ただし、この小説が未完とのこともあってか、後半は美代子の出番がありません。宗一が結婚を諦めだした頃から、その存在が薄れていきます。

 全編、青春小説に加えて、風俗的な観点からの資料ともなっています。明治末年の東京大学では、日本の古典文学は『古今和歌集』が教材だったことがわかったりします。学生生活の実態が、よく活写されています。すべてが自伝ではないにしても、こうした社会や学生生活の環境などは、ほぼ谷崎が身を置いた周辺を描いていると思われます。東大の向が岡寮のことは、京大の寮と較べたり出来て、非常に興味があります。

 自宅を出て寮に入る宗一と、それを見送る母お品の頭上に、月がでています(94頁)。感傷的な場面を、印象深くしています。月光の中で入寮。そして、月が美代子への想いを橋渡ししてくれるように、宗一は思います。

 作中で、今で言えば偉人・名著が、登場人物である学生たちの話題としてよくでてきます。よき学生時代が描かれているのです。
 そういえば、ロウソクの灯りで読書をしている場面に出くわし、意外に思いました。明治末から大正初めは、まだ電気は一般的ではなかったようです。『百人一首』のカルタ会での景品に、「昼は消えつつ物をこそ思へ」という謎の元に、電灯の球が出てきます。電球がハイカラなものだったのです。
 「電車が二三台置きに満員の赤札を下げて」(175頁)とあるところなどでは、当時の写真や絵が見たくなります。いまはなき明治のモノが、そこここに出てくるので、知らないとこの背景がわからず、作者と作品を共有できない不安を抱きます。これは、もう古典です。文字による文学が背負う宿命ですが。
 年末、新年の5日前に、「暇つぶしには年始状」(175頁)を書いています。そこには、「恭賀新年」と。この習慣は、いつ頃からのものなのでしょうか。
 社会や文化の違いにも気を配りながら読み進むと、この小説は非常におもしろい読み物だと思います。

 二三日前に、樋口一葉の「たけくらべ」を読んだ、とあります(155頁)。谷崎潤一郎が住んでいた地域や、後半で話題になる女郎屋などが、こうしたことと連携していきます。
 その他、外国の小説のことなどが出てきて、明治から大正の学生が見えてきます。また、kiss や shake hand そして virgin など、男女のことを直接日本語で言わないところに、青春文学らしさが垣間見えます。

 後半は、話題が友達の恋愛問題などへ移ります。未完とのことなので、この後どうなるのか気になります。しかし、これはこれで十分に宗一の青春を描いた作品だと言えます。それよりも何よりも、明治末年の東京が丁寧に描かれていることで、一つの文化的な価値を持つ作品になっていると思います。たくさんの人間の感情も、うまく描き分けられているので、読んで楽しめる小説となっています。【3】


初出誌︰「東京日日新聞」明治45年7月20日〜11月20日
 *明治45年7月30日に明治天皇崩御、大正と改元。
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2010年04月04日

吉行淳之介濫読(3)「餓鬼」「火山の麓で」「花」

■「餓鬼」
 一人の男の、自分自身の身の回りを観察した記録です。
 色彩に溢れることばで語ります。しかし、おもしろくありません。
 吉行自身が、文章の表現力を実験をしているような作品です。【1】

初出誌︰同人誌『葦』(第3号、昭和21年12月)
・昭和20年10月脱稿
・『星の降る夜の物語』(昭和29年秋、作品社)未収録
・第1創作集『驟雨』所収。
・『吉行淳之介初期作品集』(1967年、冬樹社)収録

■「火山の麓で」
 子供の気持ちを、本当に短い小説の形で表現している。
 若い父親を見る少年が、600字ほどの中で、うまく描かれています。【4】

初出誌︰『毎日グラフ』(昭和27年秋)
『吉行淳之介初期作品集』(1967年、冬樹社)収録

■「花」
 男と女の、嘘を交えての駆け引きがおもしろいと思います。つい、読んでしまいます。
 ただし、盛り上がりのないままに、萎んだ感じがします。女の反応がいいので、男の話が、もっと展開したらよかったのでは、と思います。【2】

初出誌︰『新思潮』(第5号、昭和23年)
 この一部分(原稿用紙で8枚分)は、後年の『谷間』に使用。
『吉行淳之介初期作品集』(1967年、冬樹社)収録
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2010年04月03日

わが父の記(3)父の仕事(その1)

 父は、亡くなる直前に『句集 ひとつぶのむぎ』を刊行しています。ガンで余命幾許もないことがわかってから、それまでに作っていた川柳を整理し、4ヶ月で刊行に漕ぎ着けたのです。
 文字入力は、姉と私がパソコンの PC-8801を2台使って行い、オフセット用の版下を作成しました。原稿は母が病院と自宅を行き来して運びました。献本をすべて発送し終えるやいなや、すべてをやり尽くしたかのように亡くなりました。

 その巻末の略歴によると、昭和7年に島根県の出雲商業高校を卒業後、淀川製鋼所に就職しています。その6年後、昭和13年に、現役兵として入隊し、ただちに満州に渡っています。
 ハイラル第119師団獣医部附士官として終戦。この間、ノモンハン事件と太平洋戦争に参加しています。今年の正月にモンゴルへ行った折に、ノモンハン事件の慰霊碑に足を運んだのは、この父のことがあったからです。

「亡父の代わりに日本人墓地跡へ」

父は、あそこで慰霊されていても不思議ではない時代を生きていたのです。

 昭和20年に、終戦と同時にシベリヤに抑留され、昭和23年に復員し、引き揚げてきています。昭和35年に山一証券に勤めるまでは、さまざまな仕事をしていました。本人は、自由業と書いています。

 この、引き揚げ後の仕事について、その内容はわかりませんが、どんなことをしていたかは、朧気ながら覚えています。

 当時、運搬車といわれた自転車で、父はポン菓子を作っては村々を渡り歩いていました。それに、小さかった私も、よくついて行きました。そして、私もボイラーの横でハンドルを回す手伝いをしていました。

 このことは、「わが父の記(2)川で流された時」に書きましたので、ご参照を。

 出先で作ったポン菓子の残りを持ち帰り、母が水飴を混ぜてお菓子にして、どこかに卸していました。それも、手伝ったことを覚えています。この時、食品の色づけに色素を使うことを知りました。
 屋根裏で、一家4人が天井のない8畳一間の生活をしていた頃のことです。

 その後、父は広島の牡蠣の養殖の仕事をし出しだしたようです。
 牡蠣の養殖には、竹を使います。その竹の節に、ベルトで回転する錐で穴を開け、それを広島へ持って行っていました。どのようにして運んでいたのか、まったく知りません。高速で回転する錐が危ないというので、仕事場の近くに行くことは止められました。掘っ立て小屋の外から、父の後ろ姿を見ていた記憶があります。以来、先端恐怖症になったように思います。
 節の穴を開けた竹を広島に運んだ帰りに、父はひろ子ちゃん事件に巻き込まれています。一緒に連れていた姉が、当時誘拐されたひろ子ちゃんに似ているということで、父は警察で犯人扱いされたことがあったのです。多分に人相の問題もあったかと思います。以来、父に似ていると言われるのがいやでした。今では、父に似ていると言われても、あまり気にならなくなりましたが。

 自分の親の仕事は、子供は意外と知らないように思います。どんなことをしていたのかは何となくわかっていても、その内容は、ほとんど知りません。
 もっとたくさんのことを聞いておくんだった、と思うときには、親はいないものです。
 今は、ごくろうさまでした、大変だったでしょう、と言うしかないのが、非常に残念です。心残りです。元気なときに、このことばを言えたらよかったのに、と思っています。
 息子にとって、父親は少し距離のある存在です。そのため、何となく他人行儀な付き合いに終始したように思います。しかし、本当にありがとう、と、今では素直に言えます。

 父が残した『句集 ひとつぶのむぎ』は、毎年のように読み返しています。この句集を通して、人間はいろいろなことを考えて生きているんだ、ということを教えてもらいます。涙で文字が滲むこともしばしばです。それは、書かれていることがわかるようになったからでしょう。それだけ、私も成長して、父に近づいたのだ、と思う時です。そして、生きていくことが、本当に楽しくなってきます。父ができなかったことを、今こうしてしているのだ、と思うと、何となく誇らしいときがあります。
 こんな自分を見て、父も喜んでくれていることでしょう。何はともあれ、父ができなかったことをしているのですから。
 後は、父の生きた年まで生きることです。それでやっと対等なのではないでしょうか。寿命を、あと5年延ばすための努力をしたいと思います。もちろん、寿命が努力で克服できればのことですが。
posted by genjiito at 23:47| Comment(0) | 回想追憶

銀座探訪(22)桜通りは咲き初め

 東京駅南口の八重洲から有楽町方面に歩いて行くと、銀座の入口にあたる銀座1丁目に至ります。首都高速沿いを東西に走る銀座桜通りには、約50本の八重桜の並木道があります。

 過去3年間の銀座の桜は、以下のブログの写真をご覧下さい。

2008年
「銀座探訪(11)柳ではなくて桜満開」


2009年
「銀座探訪(16)桜の咲き初め」

「銀座探訪(17)メタボな銀座桜通り」


 そして今年2010年は、こんな桜です。
 もっとも、この3箇所しか咲いていませんでした。
 銀座の桜は、これからです。



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2010年04月02日

江戸漫歩(19)妙栄稲荷大善神

 JR越中島駅と地下鉄門前仲町駅の中間地点に、妙栄稲荷大善神があります。
 清澄通りから狭い路地を少し入ったところです。
 
 
 
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 境内とは言えないほどの狭い空間に、由緒書きがありました。
 
 
 
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 妙栄稲荷大善神の由来、
当 妙栄稲荷大善神の御本尊は、寛永年間の頃、当地に下屋敷を構えていた、松平越中守の家敷内に安置されていたと言われ、越中守の護り本尊として家運の繁栄と火除けの神様として熱心に信心した稲荷と言われる、維新後、明治政府により大名の廃藩が行われた際大名の領地は国有地や一部は一般に解放された、越中島の地名は越中守所有の島の意である、
当時、越中守の留守居役だつたと言われる鎌田氏が此の一帯を下賜された時にお稲荷さんも戴き守護神として代々祀っていた、其の後幾多の変遷が有りましたが最後には町会で管理することになりました、震災(大正十二年)後この辺一帯は区画整理が行われた時、現在の地に安置される、以後社殿も町内の皆様により立派な社殿となり町内の安全と繁栄の守護神として深い信仰を集めて居ります。
  昭和六十一年四月吉日    古石場一丁目西町会



 寛永年間の松平越中守というと定綱(1592-1652)ということになります。
 お稲荷さんなので、商売繁盛をお祈りする神様として祀られているようです。

 越中島というと、今から40年近く昔のことになります。恩師の伊井春樹先生が、ここ越中島の国家公務員宿舎にお住まいでした。
 当時、大学院生だった私は、この越中島の住所に拙い書き物などを送ったものです。最初は、島根県の松江で見つけた『伊勢物語』の写本に関する情報でした。写真などをお送りしました。先生からは、励ましのお返事をいただき、以来、古写本という原典を研究対象とするようになりました。

 あのころは、「越中島」を「こしなかじま」と読むのだと思っていました。大阪の市営地下鉄御堂筋線に、西中島南方(にしなかじまみなみがた)という駅があるからです。

 その伊井先生がお住まいだったところに、それも同じ棟に、今、縁あって住んでいます。先生から見れば不肖の弟子ということになります。しかし、私の立場からは、ひたすら追い求める存在であり、少なくとも同じ宿舎に起居する生活であることに、少なからざる縁というものを感じ、感謝する日々です。
 まだ、先生からは私の成果は何も認められないでいます。少なくとも、『源氏物語』の本文の分別に関しては、今のところは2分別に苦言はいただいていないので、後はそれをどう名付けて世に問うか、というところだと思っています。
 ネーミングは、これからしばらくは、私にとっての課題です。思案の日々です。
 かつて提唱した〈別本群〉と〈河内本群〉はやめます。最近提唱し始めた〈甲類〉〈乙類〉も、問題がありそうです。
 有り体に言えば、〈傍記前混入群〉と〈傍記後混入群〉です。これを、どう名付けるか、ということです。
 まあ、そのうちに、何か思いつくことでしょう。結論に変更はないはずですから。

 それはさておき、地元を歩くと、地域ゆかりのいろいろと興味深いものが眼に付きます。
 たまには、日々未解決の問題を考えながらの、こんなブラブラ散歩もいいものです。
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | 江戸漫歩

2010年04月01日

江戸漫歩(18)深川の桜めぐり-2010-

 外出禁止と言われても、少しよくなってきたようなので、桜見物がてら散歩しました。
 隅田川沿いから宿舎を見ると、桜がこんなに咲いていたのです。この角度から見るのは初めてです。
 
 
 
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 振り返って、隅田川を見やると、これまたきれいな景色でした。
 
 
 
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 和船を繰り出しての花見で有名な大横川は、墨田区の業平橋あたりから分流する川で、隅田川に合流していきます。この川の両岸は、毎年桜に覆われます。
 
 
 
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 今年は、今週末辺りが花盛りでしょう。

 昨日の朝は、目が見えないことで不安な気持ちになりました。それが、こうして、桜を見られるようになって、ホッとしています。
 疲れを溜めないためにも、仕事を制限せざるを得ないことは仕方がありません。
 回遊魚なりに、ペースをダウンしながらの平成22年度のスタートです。
posted by genjiito at 20:05| Comment(0) | 江戸漫歩