2010年03月15日

井上家の疎開先としての日南町(1)

 伯備線の上石見駅から井上靖記念館のある「野分の館」へ、そして井上靖の家族が半年間暮らした「曽根の家」を、久代さんに案内していただきました。
 いろいろと収穫があったので、以下に記しておきます。

 上石見駅は鳥取県の最南端で、岡山、広島、島根の県境に位置する分水嶺にあります。岡山から鳥取に入って最初の駅なのです。
 
 
 
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 今回は雪の上石見駅です。井上靖は、疎開の下見を含めても、こんな雪の駅に降り立ったことはないはずです。
 今回は、峠の道を確認することと、村の今を自分の目で見ることが目的です。
 ただし、今日は雪の中なので、当然のことながら井上靖の家族が疎開生活をした、昭和20年6月の初夏から冬までの半年とは違います。もちろん、井上靖も、雪の日南町は知らないはずです。
 そのことを意識しつつ、小説『通夜の客』の舞台を歩きました。と言っても、久代さんの車に乗せてもらってのことです。峠の一部だけは歩きましたが。

 なお、昨年の師走にも、この地を訪れました。その時は、足羽隆さんに案内してもらいました。そのことは、本ブログ「井上靖ゆかりの日南町(2の2)」で書きましたので、ご参照ください。
 
 
 
 井上靖は『通夜の客』の第二章で、新津礼作の愛人である水島きよに、亡き新津への手紙の冒頭において、次のように語らせています。

 新津よ。あなたのお通夜の晩、新橋の安ホテルで、お酒を飲みながら由岐さん宛の手紙を認めてから五日経つています。随分あわただしい五日でした。あの翌日夕方の急行で東京を発ち、その翌日の昼、岡山で伯備線に乗換え、あのいかにも高原の駅らしい上石見小さくて清潔なプラットホームに降り立った時はもう暮方でした。それから二里の山道を、いつかあなたが駱駝の瘤とお呼びになった小さい峠を二つ越えて歩いて、二十何時間目にこの山脈の尾根の小さいF村わたしたちの家に帰つて参りました。土間の片隅には、あなたの仕事着や野良帽子がかかつており、お座敷の机の上には中国塩業史の第七章の原稿が、茂吉歌集と一緒に載つておりました。そうした中へ私はひとりで帰つて来たのです。(角川文庫193頁)


 きよは、新津の通夜に顔を出し、新橋の一夜で出すあてもない、新津の妻由岐への手紙を書き、そして東京から岡山経由の伯備線で上石見駅に着きました。
 ただし、「小さくて清潔なプラットホーム」の「清潔」の意味が、私にはまだよくわかりません。
 「二里の山道」とあるのは、実際とは違うようです。どう見ても6キロもないようなので、正確には「一里半」です。しかし、そこは小説なので遠い道のりを歩いた、ということで、こう言ったのでしょう。
 「駱駝の瘤」とあるのはその通りです。2つの峠を越えます。
 井上靖の妻のふみさんも、そのことは次のように言っています。

上石見からは、わら草履を履いて、峠の細い道を二つ越えた。(『やがて芽をふく』172頁)


 上石見から福栄村に行くために越える2つの峠道は、現在もそのまま残っています。ただし、道の舗装と拡幅がなされているので、当時の道筋ですが、その道の姿は大変違います。

 2つ目の瘤にあたる峠は、かつての道よりも右側を、それも峠を削って低くしているそうです。そこで、当時の道を歩いてみました。もっとも、これも舗装されてからの道です。

 写真にハザードランプを付けた車が写っていますが、その右から小径に入るのが、当時の山道です。
 
 
 
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 そして、小説に描かれている頃の道は、こんな道だったそうです。
 
 
 
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 薄暗くなってからは、寂しくて怖い道だったようです。

 さて、今のこの小径を歩いてみました。
 
 
 
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 今の道に出るところは、こんなふうにつながっています。
 
 
 
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 旧道から合流した今の道を少し行くと、井上靖記念館「野分の館」があります。ここから今来た道を振り返ると、こんなふうに見えます。
 
 
 
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 写真右の3層の建物が「野分の館」です。

 『通夜の客』に「F村」とあるのは、今もある福栄(ふくさかえ)村のことです。
 ここから、前方の福栄村に目を転ずると、ちょうど赤い屋根と青い屋根の間に、井上靖の家族が疎開した「曽根の家」の言われるところがあります。
 
 
 
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 この家のことは、明日まとめて書きましょう。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | □井上卒読