2010年03月31日

心身雑記(52)瞼が開かない朝、突然の花見

 今朝がたのことです。目覚めたのに何も見えないのです。目を開けようとしても、瞼が開きません。一生懸命に眉を吊り上げ、口を開けて目頭を引っ張っても、光が入ってきません。
 一瞬、死んだのかな、と思ってしまったほどです。寿命が尽きるまでには、まだ5年あります。それまでにすべきことはたくさんあります。ここで閉幕、ということはありえないことです。話が違います。来月で一旦休止する『源氏物語別本集成 続』を、5年後に再開するための準備が、今一番の懸案です。新しく協力者を募り、新しいチームで再出発するまでは、どうしても生き続けなければならないと、自分に言い聞かせています。

 眼球は動いています。口も動きます。声が出ません。咳き込むと、背中が痛みます。
 指で瞼を押し開こうとしました。しかし、開きません。
 見えないまま、布団から抜け出して立ち上がり、襖を開け、手探りで台所の蛇口を捻りました。流れ出る水で目を拭い、少し隙間を作りました。節穴からのぞき見するように、台所が見えます。鏡で目を見ると、糊で瞼がベッタリと貼り付けられたようになっています。濡れティッシュで目頭を拭きながら、少しずつ目を押し開きました。白っぽい黄色のネバネバしたものが、目の前に投網のような状態で覆っているのが見えてきます。少しずつ瞼が切開手術を受けた時のように楕円形に開き、なんとか両目が開いたときには、ホッとしました。

 大急ぎで、ネットで「めやに」ということばを検索しました。また、同時に電子辞書でも調べました。共に、眼科で診察を受けることを勧めています。

 一昨昨日の日曜日から、ノドが苦しくて咳き込むようになりました。売薬で凌ごうとしたのですが直らないこともあったので、思い切って病院に行くことにしました。

 地下鉄の九段下で降りたところ、ものすごい人です。地上に上がると、皇居の回りには桜見物の人でごった返していました。
 田安門のところの桜は、こんなにきれいでした。
 
 
 
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 九段坂公園では、ボートでの花見をする人がいました。
 
 
 
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「千代田さくら祭り」という公式ガイドマップももらいました。
 
 
 
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 目が見えなくなった怖さから一転して、今度はお花見をすることになったのです。

 しかし、すぐに現実に戻り、九段坂病院を目指しました。ここは、昨年の人間ドックでお世話になった病院で、通勤途中にあるので便利だと思ったのです。

 眼科の診察は、ウイルス性急性結膜炎(はやり目)とのことでした。感染性のものなので、人に接触しないようにして、今日明日は休息しなさいと言われました。2種類の目薬をもらいました。
 内科では、過労によって体調のバランスが崩れたことからの、扁桃腺炎と風邪の症状なのだそうです。抗生物質の入ったボトルと錠剤をもらいました。

 今日は今年度最後の31日なので、いろいろとすべき仕事がありました。しかし、感染性とのことなので、数人にメールをしてから、おとなしく引き返すことにしました。平成21年度の最後と、平成22年度の最初は、宿舎でジッとすることになりました。

 帰り道、病院の隣にあるインド大使館の裏で、チャリティーバザーをしていました。さくらまつりと連携したイベントのようです。
 
 
 
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 レトルトパックのマサラ料理がたくさんあったので、滋養と強壮にと思い、たくさん買い込みました。
 
 
 
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 さきほど、ミックスベジタブルカレーとヨーグルトを食べました。
 ノドは楽になってきましたが、まだ瞼が重いので、何も仕事はせずに休みます。

 それにしても、つかの間の皇居での花見。あの緑と桃色を背景にした、人ひとヒトの喧噪が嘘のように静かな夜です。
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2010年03月30日

源氏絵を寝殿造から見た好著

 若手の元気溢れる研究書『源氏物語絵にみる近世上流住宅史論』(赤澤真理、中央公論美術出版、平成22年2月)が刊行されました。カラー図版が10点、白黒図版・写真が170点と、とにかく目で読ませてくれる本です。資料性が高く、手堅い実証を目指している点で、私好みの本です。

 この本は、赤澤真理さんが博士論文をまとめて刊行したものです。題名が固くて、内容をイメージしにくいかと思われます。これは源氏絵を見ながら、住宅建築を通して未知の成果に連れて行ってくれます。寝殿造から書院造へ、そして数寄屋風書院造へと変容した源氏絵の住宅像が、やがてもとの寝殿造へと復古していく流れを体感させてくれます。難しく言えば、「十二世紀前半から十九世紀まで描き継がれた源氏物語絵の住空間の変遷に着目した研究」(6頁)ということになります。

 わかったようでわからなかった寝殿造が、この本を読むと不思議とわかった気になります。折しも、京都新聞で先週まで2回にわたって、寝殿造についての最新の研究成果をもとにした問題点が取り上げられていました。建築物は、発掘によって新しい知見や確認ができるので、おもしろいテーマです。それを、源氏絵から追いかけて見ようというのが、赤澤さんのユニークな視点です。

 序章で、これまでの研究史がを要領よくまとめられています。本書の視点と結論が明確なので、見通しの利くスタートが切れます。全体的に、要所要所でまとめながら考証が進むので、読者としては負担が軽くて助かります。最後に、本書の各章ごとのまとめがあるので、読んだ後の頭の整理になります。
 あるいは、この結論を記した5頁分(193頁〜197頁)から読み始めるのもいいかもしれません。
 私は、赤澤さんの博士論文を事前に読んでいたので、よくまとまった本だと感嘆しきりでした。しかし、はじめてこのテーマに接する方は、この結論から読むのが一番いいようにも思います。

 とにかく、『源氏物語』を読み、源氏絵を見る時の基礎的な知識と問題点を与えてくれる本となっています。

 野々口立圃の『十帖源氏』所収の六条院の図の問題点(155頁)については、さらに検討を要する問題が内在しているように思います。これについては、後注で「中近世における『源氏物語』の注釈書を通した寝殿造理解については今後検討を進めたい。」(177頁)とあり、更なる課題としておられるようです。これは、今後とも考察を深めて、いろいろと教えてほしいところです。特に私が今、『十帖源氏』(『おさな源氏』)の多言語翻訳に取り組んでいることもあり、こうした絵に関連したことがらは、海外の方ともコラボレーションしやすいので、赤澤さんに期待するところです。

 1つだけ本書に対して、私としては注文があります。それは、索引です。
 私は、研究書は索引が必須だと思います。もう一度読み返したり確認するときの、道案内となるのが索引だと思うからです。もう一度読む価値のない読み捨ての本には、資源の無駄なので索引は不要です。
 その点では、本書の付録には、「主な本書対象史料の図版索引と参考文献」という、10頁にもわたる痒いところに手の届く索引と、簡単ですが的確な「『源氏物語』帖別索引」があります。また、「本書対象の源氏物語絵帖別居所一覧表」も、場面ごとの源氏絵のありようが容易にわかり、何度も書棚から取り出してお世話になる資料となる本です。
 そうであるからこそ、「人名索引」と「書名索引が」あれば、もう完璧だったのではないでしょうか。さらに欲を言えば、「事項索引」も。
 よかったら、簡単なリーフレットにしてでも、希望者に配布してもらえたら、本書の利便性はさらに高まることでしょう。PDF にしてネットでダウンロード、という手もあります。ご検討を。

 本書の構成は、次のようになっています。
 読む価値のある本として、お薦めします。

序章
第一編 近世源氏物語絵に表出された上流住宅像
 第一章 寝殿造から書院造への変容
 第二章 数寄屋風書院造への変容と寝殿造への復古
 第三章 寝殿造の復古的理解の定着
第二編 古代寝殿造への復古表現を支えた考証課程
 第四章 住吉如慶・具慶の物語絵にみる古代寝殿造への復古
 第五章 絵師が編纂した住宅史料にみる復原考証の確立
 第六章 住宅史研究の萌芽
結論
posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | ◆源氏物語

2010年03月29日

心身雑記(51)口臭の原因判明

 近年、妻から口臭の指摘を受けることが多くなりました。
 以前から気を付けてはいました。しかし、自分にはなかなかわからないものです。かといって、誰からも口臭がすることを伝えてはもらえません。直接本人には言いにくいことなのです。私も、これまでにたくさんの方の口臭に気づきましたが、一度として教えて差し上げたことはありません。これは、本当に難儀な問題です。

 唯一、妻からは私の身の回りについて小まめなチェックが入っていたので、感謝しながら、口臭についてはいろいろなグッズを使っていました。
 今、カバンの中に入ってるものだけでも、こんなにあります。
 
 
 
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 写真は、左から以下の市販されている商品です。

 (1)ブレスケア(小豆大の粒、小林製薬)
 (2)スピード・ブレスケア(正露丸の大きさの粒、小林製薬)
 (3)ブレスケア・フイルム(切手大の舌に載せるもの、小林製薬)
 (4)オーラ2(スプレー、サンスター)
 (5)ガム・メディカルドロップ(のど飴大、サンスター)

 これらを、その時の状況に応じて、適宜使い分けています。

 いやはや、とんだ「匂宮」です。いや、「臭う飲み屋」でしょうか。

 来年は数えで還暦でもあり、加齢臭もあると考えて、体臭を消す努力もしています。
 妻と一緒にドラッグストアめぐりをして、柿渋エキスの入った石鹸がいいことがわかりました。そこで、京都と東京で別の種類の柿渋石鹸を使っています。どちらがいいのかわかりませんが。
 
 
 
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 その「柿」がいいということで、昨年の秋には柿をたくさんたべました。奈良に住んでいたときにはあまり食べなかった柿ですが、京都に転居してからは、斑鳩法隆寺の鐘を鳴らす勢いで、柿をよく食べました。
 私にとっては、法隆寺は世界遺産ではなくて、よく子どもを子守に連れて行ったところです。境内に子どもを放し飼いにしていると、修学旅行の女生徒たちがカワイイ可愛いと言って、スナック菓子やチョコレートなどのエサを我が子に与えてくれるのです。一石二鳥の法隆寺にての放し飼いでした。その時でも、柿を食べながら子守をした記憶はありません。
 それはさておき、柿は秋季限定なので、あくまでも季節的な対処に留まります。

 とにかく、柿渋エキス入りの石鹸は、加齢臭には効果があるようです。

 残る問題は口臭です。

 口臭の原因には、舌苔があります。そこで、ベロの表面を掃除する道具を使ったりもしました。タオルで舌を拭けばいい、とも言います。しかし、これはなかなか続きません。

 昨年は、歯の手術を2度しました。それ以後は少しはましになったようです。しかし、2度目の手術を終えた秋以降は、やはり臭うとのことでした。
 とにかく、残るは虫歯しか考えられません。
 そういえば、最近、左下の奥歯のあたりが腫れていることがありました。なんとなく虫歯かな、との思いがあり、今日、歯医者に行って来ました。昨年、急死された院長の歯医者です。若先生のお父さんが見て下さいました。案の定、虫歯が匂いの原因であることがわかりました。またまた、突貫工事です。

 今朝は早くに上京したので、新聞を読むヒマがありませんでした。東京の宿舎で、治療が始まった歯を気にしながら新聞を読んでいて、昨日の朝日新聞に「口臭を手軽にチェック」というミニ情報が掲載されていることに気づきました。
 京都でも東京でも、毎日(?)朝日新聞を読んでいます。妻に電話で問い合わせると、関西でも、確かに日曜日に同じ記事が掲載されているそうです。昨日、京都で見たはずなのに、この記事には気づきませんでした。京都と東京で、同じ新聞を読んでいるので、こうして落ち穂拾いができているのでしょう。

 その問題の口臭計測器は、4月1日にタニタから発売されるとのことです。吸い込み口に息を吹きかけると、口臭のもとになる揮発性硫化物などの濃度を検出するものだそうです。価格は4,200円とのことなので、これまでの苦労を思うと、これは買いでしょう。

 今日行った歯医者といい、この計測器の発売といい、ラッキーな出来事に感謝します。
 この問題は、私がそうだったように、たくさんの方が意識するかしないにかかわらず、微妙な問題なので、あえてこうして書いているしだいです。この記事を、好意的に読んでくださることを望みます。
posted by genjiito at 23:55| Comment(2) | 健康雑記

2010年03月28日

京洛逍遙(131)平等院で舞楽「延喜楽」

 宇治の平等院鳳凰堂の内陣に、国宝となっている壁画「仏後壁」があります。その絵に近赤外線を照射して調査したところ、舞楽の絵に下絵の線が見つかったそうです(京都新聞、2010年3月24日、以下、この記事を参考にしてまとめます)。

 平等院から提供されたという写真を転載します。
 まず、舞人が描かれている仏後壁の原画の一部です。
 
 
 
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 次に、近赤外線画像です。
 
 
 
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 この白黒写真の左側に、舞台の上で手を広げて舞う人が2人います。舞人の手の下側に、下絵の線が確認できます。絵の右上には笛を吹く人が、右下には太鼓を打つ人が描かれています。
 この左側の舞人の下絵は、コマ送りのようにいくつかの振りの姿が描かれていたのです。
 信貴山縁起絵巻の「尼公の巻」で、命蓮上人を訪ねる姉が、東大寺の大仏様の前で祈ったり仮眠したりする様子が、パラパラ漫画の部分のように描かれていることを思い出しました。いわゆる、異時同図法といわれるものです。平安時代から、このような描写はなされていたのです。

 平等院の絵では、左右の腕を斜めに大きく広げて舞う姿と、原画の衣装が緑色であることから、ここでの演目が平安時代に作られた「延喜楽」であることが確認されたそうです。
 平安時代の舞楽で、その動きが絵で確認できたのは、これが初めてだとのこと。「延喜楽」は平安時代の舞楽家であった藤原忠房が作曲した舞とされ、慶祝の意味を持つものです。

 この「延喜楽」という舞楽を「いちひめ雅楽会」が演奏し、舞って奉納されるとのことなので、取るものもとりあえず、かけつけました。
 「極楽浄土の調べ」と題して、鳳翔館で行われた1時間ほどの野外での実演に、肌寒さを怺えて参加してきました。

 雅楽の演奏は、公家衣装の直衣でなされました。
 最初に、よく知られている「越天楽」が演奏されました。
 続いて、「迦陵頻」でした。ここでは、4人の女性が極楽浄土にいるとされる鳥の扮装で舞います。
 人面鳥身とのことで、想像上の鳥を彷彿とさせる舞でした。
 
 
 
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 座った場所が悪くて、立って撮影することができなかったので、こんなアングルで失礼します。

 「迦陵頻」については、かつて本ブログ「米国と文化について考える」で書きましたのでご参照を。

 最後に、本日のメインとなる「延喜楽」でした。
 
 
 

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 中央正面に一人の僧の声明が、その後ろで4人の男性の舞人が舞います。
 鳳凰堂の壁画に描かれていたもの、ということで、いつもなら眠たくなるはずの舞楽が、今日は最後までジッと目を凝らして見続けました。
 声明は、アーとかウーとかエーと、とにかく気の遠くなるようにのんびりした調子で続いていました。本当にご苦労さまでした。

 その後は、夕刻から「ゆうしょうのつどい」というものが催されました。
 鳳凰堂の西面扉には、日没の太陽を想い浮かべながら瞑想する仏教の教えの「日想観」というものが書かれているそうです。今日は、それを体現するものでした。
 
 
 
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 鳳凰堂の阿弥陀如来に対面し、沈む夕陽に向かって読経するのです。寒い中、これは大変な業です。
 今日は生憎の曇り空で、夕陽に染まる鳳凰堂は拝めませんでした。
 生きていれば、いささか大げさですが、またいつか巡り会えることでしょう。
posted by genjiito at 00:15| Comment(0) | ◆京洛逍遥

何か変だった回転寿司

 平等院での舞楽を観に行きました。

 その前に、まずはお腹を満たしてからと思い、いつものように宇治駅に着くやいなや、駅前のというよりも宇治橋の袂の回転寿司「函館市場」へ入りました。
 
 
 
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 ところが、今日は何か変なのです。美味しくないのです。
 まず、味噌汁が、インスタントよりもコクのないものでした。「函館市場」の味噌汁は、大好きだったのでガッカリしました。そして、マグロもハマチも何もかも、柔らかいコンニャクのようで頂けません。偽装魚よろしく、深海魚か何かを色づけした加工品なのでしょうが、そこはプロなのですから、偽装の仕方はきちっとしなくてはいけません。それを暗黙の了解で、こちらは食しているのです。
 もっと、マグロらしいマグロを、ハマチらしいハマチを出してほしいものです。
 今日の「函館市場」は酷すぎました。こんなデタラメな魚を使ったニギリを回していたら、海外からの進出を許してしまいますよ。

 日本は、というよりも日本人が回転寿司を馬鹿にしている内に、海外市場への進出に失敗したのですから。日本国内でしか、日本らしい回転寿司はたべられません。うかうかすると、日本らしくないお寿司が上陸してきて、日本人にお寿司離れが始まることが懸念されます。
 日本らしい回転寿司の文化を守るためにも、まじめに取り組んでほしいものです。「函館市場」は、奈良の上牧、学園前、押熊などなど、それまでがよかっただけに、今日の宇治の店の出来の悪さが残念でした。

 橘島を渡って平等院へ行こうとしていたら、ちょうど朝霧橋の袂にいる匂宮と浮舟の像の後ろに、桜とヒカルゲンジという名前の椿が咲き誇っていました。
 
 
 
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 きままな散策はこれくらいにして、平等院での舞楽を観に行きます。
posted by genjiito at 00:08| Comment(0) | 美味礼賛

2010年03月27日

京洛逍遙(130)白川沿いの書道展

 バスで知恩院前で降りてすぐの白川沿いに、そのギャラリーはありました。
 学生時代に書道を教えていただいていた吉田佳石先生が、今日からこのギャラリーで作品展をなさるのです。
 この前は、東京の銀座でなさった時に伺いました。毎年、連絡をいただいているのに、もう6年近くもご無沙汰です。
 
 
 
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 階段を上がったギャラリー「門前」の会場は、意外にも畳の部屋でした。
 受付で記帳をするのは、場所が書道展なので緊張します。
 私は手で書く文字は下手です。あまりにも恥ずかしいので、早くからワープロに親しんできたのです。しかし、ここでは、そんなことは言っておられません。とにかく名前を書きました。
 後で先生がご覧になったら、相変わらず進歩がないこと、と思われることでしょう。

 今回は、続木湖山先生のお弟子さんたちの世代の方々が集まっての、写真や絵画やちぎり絵などもある、楽しい展覧会でした。
 吉田先生は、続木先生の高弟にあたられます。学生時代に、吉田先生に連れられて、続木先生のご自宅に伺ったことがあります。緊張したことだけを、よく覚えています。

 作品は、壁面にかけられていました。
 先生の作品は二点。漢詩の一節と、八木重吉の詩でした。

閑為水竹雲山主
静得風花雪月權



花はなぜうつくしいか
ひとすじの気持ちで咲いているからだ



 先生の字は、優しさと厳しさが折々に感じられて、身が引き締まったり和んだり、といろいろな刺激をうけます。

 一通り見た頃に、先生が横に来て声をかけて下さいました。
 本当に久しぶりにお目にかかりました。お聞きすると、なんと72歳になられたとのこと。
 東京で書道を教わり出したのは、今から40年くらい前のことです。山田流の箏曲も、少しだけですが教わりました。
 大阪に移ってからは、通信添削で見てもらいました。我が家にお出でになったこともありました。
 妻も、教わっていた時期があります。いろいろと、お世話になったのに、私はまったく努力もせず、進歩もしませんでした。恥ずかしい限りです。しかし、書を見るのは好きです。

 「蘭亭序」を渇筆で書いたところ、毎日展で入選し、上野の森の美術館に展示されたことがありました。先生のお宅で暑い日に、何時間もかかって書いたことを、今でも覚えています。
 このことは、かつてブログに書いたのですが、そのサーバーがクラッシュしたために、今では読めないものとなっています。またいつか、メモなどをもとにして復元したいと思います。

 先生の作品は、今年の夏にまた銀座で展示するとのことだったので、うまく日程が合えば見に行くつもりです。

 帰り際に、知恩院の文化財の保存をしておられる方を紹介してくださいました。
 何やら、また楽しい人との出会いの予感がします。

 帰りに、白川沿いを散策しました。
 桜がちらほらと咲き揃っている木々がありました。
 
 
 
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 賀茂川の桜はみごとです。
 しかし、こうした小川沿いの桜もいいものです。
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2010年03月26日

藤田宜永通読(8)「還暦探偵」

 還暦で定年退職した男2人が、同級生だった女から夫の浮気調査をもちかけられ、それを引き受けます。
 しかし、調査対象者である夫と、還暦探偵の男同士がしだいに打ち解けて盛り上がり、とうとう夫からの人探しの依頼を受けることになるのです。

 暇つぶしの素人探偵の話です。軽めのお話です。藤田の最近の作品は、気楽に流し読みする程度の作品が多くなりました。かつての、手に汗握るハードボイルドが恋しくなります。

 50年前の映画の話がたくさん出て来ます。作者と同世代の私には、懐しい話題です。読者サービスの一種のつもりなのでしょう。しかし、作品の中での効果の程は、いささか疑問です。小説のための小道具に見えます。

 いつもながら、物語の閉じ方が不自然です。短編の難しさなのでしょう。単行本に収録される時には、このあたりに手が入ることでしょう。

 今の藤田らしい、と言えばそうなのです。しかし、表現力のある作家なので、さらにいいものを求めてしまいます。一時の純愛小説めいた、フニャフニャした作品の時期は終わったようです。還暦を境に、軽妙な語り口に変化していこうとしているのでしょうか。しかし、私は躍動感のある藤田宜永らしい初期の物語を望んでいます。【1】


掲載誌『小説新潮』(2010年4月、新潮社)
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | 藤田宜永通読

2010年03月25日

銀座探訪(21)壹眞珈琲店のシフォンケーキ

 新年度に向けて、職場内で部屋の移動がありました。
 私が担当している業務関連で仕事をしてもらっているアルバイトの方々の作業室が、私の研究室の1つ上の階にありました。そこが来年度は客員教員の部屋になるとのことで、私がいる3階の、すぐ近くの部屋に変更になりました。それに伴い、今日はお引っ越しの1日となりました。

 ありがたいことに、2人の方がボランティアで手伝いに来てくれたので、大助かりでした。
 床の四角いカーペットを剥がして、床下の空間に電源のテーブルタップや、LANケーブルを四方に張り巡らす作業は、私が担当しました。床に四つん這いになっての作業です。
 配線作業は、私の得意とするところです。大阪の府立高校の2校でコンピュータの導入に関わった時には、私が情報処理室の配線を含めてのレイアウトをしました。電源とネットワークを張り巡らす図面の作成です。また、短期大学でのパソコンの導入にあたっても、LAN設備に始まるネットワークシステムの構築も担当しました。最初はマッキントッシュの、2回目はウインドウズの配置に関するものでした。とにかく、情報処理機器をネットで組み上げるのは、得意なのです。

 ほぼメドがついたので、年度末の慰労会を兼ねてどこかへ行こうということになり、それでは銀座へ、ということになりました。
 これは、私が提案したものです。井上靖の小説に、銀座から有楽町で食べたり飲んだりするシーンがよくあるので、実際にいろいろな店に行ってみたいと思っていたからです。

 とにかく、電車のガード下に行ってから入るお店を探そうということで、有楽町に降り立ちました。
 狭い路地を散策しながら、きりがないので手近なところで、ということで「八起」という店に入りました。スーツ姿のビジネスマンでごった返ししていました。活気のある店です。私はヘルシー料理を食べました。天井からは、JRの電車が行き交う音が聞こえていました。
 なかなか心地よい賑わいの店でした。

 その後、珈琲を飲みに行こうと誘い、一度行ってみたかった壹眞珈琲店へ行きました。
 銀座には数店あるうちの、並木通店へ行きました。ただし、今日は私の好きな一本北のソニー通りから入りました。
 
 
 
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 5人でいったのですが、みんなそれぞれに個性的な器と皿で出てきました。高級珈琲店だけあって、香り高い珈琲でした。私が注文したのは、壹眞ブレンドの珈琲です。私好みの、個性を強制しない味でした。味よりも、微妙な香りが特徴の珈琲でした。

 神保町が本店で、晴海通店と中央通店もあります。いつも行く銀座三丁目のスポーツクラブの帰りに、これらの店は気になっていました。1人で入るには気後れする雰囲気があったので、一度もいったことがなかったのです。

 確かに、アンティークな調度品やカップなどは、なかなか楽しいものでした。
 ただし、料金は高めです。珈琲一杯が1500円前後なのですから。

 一緒に行ったTさんが、紅茶とシフォンケーキを注文しました。それに、私はすぐに反応してしまいました。それというのも、ちょうど今日は、『小説新潮 4月号』に掲載されていた重松清氏の「てるテール娘」を電車の中で読んでいて、その中に出てくるお母さんが作る「シフォンケーキ」なるものがわからず、そのケーキがどんなものなのかが気になっていたからです。
 数年前に、銀婚旅行ということで妻と一緒に、イギリスのコッツウォールズへレンタカーで行きました。その時に食べた、紅茶に合わせて出てきたスコーンのようなものなのでは、と思っていたのです。

 そこで、すぐにカバンの中に入っていた読みさしの『小説新潮』を取り出して、こんなケーキなの?、とTさんに聞いてみました。その小説には、こう書かれています。

「シフォンケーキ、おいしかったでしょ」
 話題を変えると、二人もすぐに「うん、サイコーだった」「しっとりしてるのに、ふわふわしてるんだよね」と乗ってきてくれた。(21頁)



 確かに、ふわふわしたケーキだとのことです。
 運ばれてきたケーキを見て、ナットクしました。これは、マーブル・シフォン・ケーキだそうです。
 
 
 
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 この店は、ゆったりと寛げる穴蔵的なお店です。VIPルームもあったので、これはおもしろい店のようです。

 せっかくなので、この次は後2つのお店にも行ってみたいと思います。

 銀座は、とにかくお店の多いところなので、少しずつ開拓していきたいものです。
 井上靖も徘徊していたようなので。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | 銀座探訪

2010年03月24日

国語研での研究会の報告

 小雨の中でしたが、国語研で充実した研究会をもつことができました。
 すでに予告したとおり、3人の研究成果の発表会でした。

「国語研で開催される研究会のお誘い」

 トップバッターは、仮名写本の翻刻を通して、字母の認定の問題を取り上げたものでした。

1.源氏物語諸写本における文字認定と解釈
   −助動詞「つ」「り」をとおして−
           家入博徳(國學院大學)

 翻刻という地道な作業を通しての、実際に書かれた仮名と悪戦苦闘した人でないとわからない視点と用例から、問題点を指摘するものでした。ただし、「へ」と「つ」の字母の認定について、連綿かどうかという判断基準の提示には、質問の中で私としての疑義を申し述べました。
 「は」の字母も含めて、やはり写本の書き手を理解しないと、文字は翻刻できないと思います。書き癖というものが、文字の認定においては、どうしても問題となります。また、文脈の理解も、書き手はどの文字を写そうとしていたのかの認定に関わります。「は」と書こうとしていたけれども、本人の意識とは異なる次元で、結果的に「ら」としか読めない文字で書かれている、という例はざらにあります。見たままの翻刻であれば「ら」です。しかし、書写した人の意識も忖度して翻刻すると、見たままでは本当に正確な翻字とは言えない場合が、ままあることは事実です。
 翻刻の難しさは、こうしたところにあるので、やっかいな作業となるものです。

 お二人目は、古筆切の実物を提示しながら、豊富な画像を駆使しての刺激的な発表でした。

2.「香紙切」を用いた古筆研究の方法論
           高城弘一(大東文化大学)

 今は1つの形としては伝わらない歌集について、断片として確認できる古筆切から、もとの実態を想定・再現しようとするものです。狼のような形をした虫食いの跡から、一連の写本の断片であることを立証していかれる手法は、見ていて、聞いていて、納得できる点の多いお話でした。また、文字の認定に関する、実作からの確かな経験に基づく見解は、説得力のあるものでした。
 私は、「新」という字母の「し」という仮名の文化的な背景を、質問の形で伺いました。鎌倉から院政期という目安を教えていただき、日頃から鎌倉時代の『源氏物語』の写本に接することが多い体験から、やはりそうだったのか、と腑に落ちるところがありました。
 物を基にしてのお話は、その提示のされかたがうまければ、本当によくわかる、得られることの多い内容になることを、改めて実感しました。

 最後は、私の番でした。

3.新出・鎌倉時代『源氏物語(若菜上)』残巻に関する一考察
           伊藤鉄也(国文学研究資料館)

 私は、今月初旬に調査した鎌倉時代と思われる『源氏物語』の古写本に関する報告と考察をしました。
 高城先生から、鎌倉時代の末期という認定に異論がないとのことを伺い、少し安堵しました。
 この写本の特徴とその意義について、短い時間でしたが後掲のレジメを使ってお話をしました。

 まずは、『源氏物語』の本文は、この「若菜上」でも2つにしか分別できないことを報告しました。これは、以下で紹介するレジメをご覧になれば、みなさんに了解してもらえることだと思います。しかし、いまだに池田亀鑑の分類になる〈いわゆる青表紙本〉〈河内本〉〈別本〉という3分類に、『源氏物語』の研究者は固執しておられます。もちろん、その他に『源氏物語』の本文を分別する物差しが、私以外には提示されていませんので、いたしかたないことだとは思います。しかし、それにしても、という気持ちが払拭できません。
 私の二分別私案にしても、まだ途中経過です。これまでのところ、『源氏物語』の本文の内容から見ると、調査した巻は2つにしか分かれません。しかし、今でも池田亀鑑による、昭和13年までの写本調査による3分類だけにしがみつくのはどうでしょうか。それも、写本の形態的な特徴からの分類であり、本文の内容から分別したものではないのです。
 この『源氏物語』の本文研究は、それだけ池田亀鑑の名のもとに、70年以上も停滞しているのです。

 ただし、今日の私への質問にもあったように、そうだからと言って、私が提示する〈甲類〉〈乙類〉というのも、序列意識と、上代特殊仮名遣いの分類が想起され、あまりよくないのでは、という意見を頂戴しました。
 ネーミングの問題は、伊井春樹先生から常日頃言われていることです。みんなに理解してもらうためには、もっとネーミングを考えなさい、と。そのこともあって、当初提唱していた〈河内本群〉と〈別本群〉という二分別私案を、一昨年の2008年から、〈甲類〉と〈乙類〉と言い換えました。しかし、これもよくないようです。かと言って、〈A類〉〈B類〉とか、〈1類〉〈2類〉というのもインパクトがありません。もうしばらく考えます。何かいい名称があれば、教えて下さい。

 とにかく、『源氏物語』の本文は2つにしか分別できないことは、これまでの私の調査で明らかになっているはずですから。後は、いかに理解してもらい、認めてもらうかという段階だと思います。もちろん、この2つに分けきれないものがあります。しかし、『源氏物語』は54巻もあるのですから、そこは大局的な視点で分別するしかないのです。少なくとも、〈いわゆる青表紙本〉〈河内本〉〈別本〉という、昭和13年までの研究成果に縋り付いた本文分別方法とは、そろそろ決別すべきです。池田亀鑑の3分類は研究史の成果として、私が提唱する二分別をどう呼ぶか、という次元での話し合いをするレベルになってきていると思うのですが……。

 また、今日の発表の二つ目のポイントでもある、異文は傍記・傍注が本行の前後に混入して発生する、ということも、少なくとも今日の研究会に参加して下さったみなさまには伝わったのではないか、と思っています。
 今回の新出古写本からも、そのことを傍証するものが、レジメの最後にあげた「花の」という語句の存在によって、十分に確認できたと思います。
 この『源氏物語』の異本・異文について、いまだに書写者が勝手に本文を書き換えながら写本を写した、という妄想発言が後を絶ちません。とんでもないことです。そんな夢物語は、今ではもう通用しないはずなのです。しかし、今でも、昨年も何度か新聞をはじめとして、研究者のコメントの中で見かけました。
 『源氏物語』の本文は、そんなに簡単に書写しながら改変できるものではありません。少なくとも、助詞・助動詞レベルなら別ですが、異文と言えるものに関しては、とても聞き入れられるものではありません。私が「妄想」と言うのは、書写される実態を度外視した発言だからです。

 傍記が本行に混入する、という事象を、もっと真剣に見つめてもらいたいと思い、機会を捉えては報告し、発表し続けています。今回もそうですが、今後もこれについては、根気強く訴え続けようと思っています。公に私見を支持して下さる方が皆無なので、孤立無援の状態です。しかし、私が例示したものに対する否定的な批判も皆無なので、後は時間が解決してくれる、と思うしかないのです。正式な反論がないという現状に対しては、「若き研究者よ、活字本だけによる解釈に逃げるな」、と言いたくなります。

 いづれ文字にしますが、こうした異文・異本の実態を踏まえた『源氏物語』の情報は、一日も早く共通の情報として共有すべきだと考えます。その意味からも、ここに今日の発表で配布したレジメを公開します。PDFにしましたので、興味のある方はダウンロードして、例示したものを見て下さい。

■本日の伊藤のレジメ■をダウンロード


 今月は、連日忙しかったこともあり、なかなかこの問題に時間を割くことができませんでした。
 先週の土曜日と日曜日に当該写本の全文翻刻をしました。そして、月曜日と火曜日で本文を入力してデータベース化しました。昨夜、日付が変わるころに入力が終わり、それから諸本との対校資料を作成するためにコンピュータのプログラムを操作し、『源氏物語別本集成』と同じ形式の校異資料を作成したのです。「若菜上」は1万文節を超える分量なので、資料作成に手間取りました。無事に校合資料ができてから、その諸本の本文異同の解読に、今朝までかかりました。そして、そこで見つかった問題箇所を取り出して、今回の発表資料のような、当該本文の特徴と意義を論じられる箇所を特定したのです。

 日曜日に少し寝てから、今に至るまで、まさに不眠不休の連日が続いています。とにかく、身体を横たえる暇がありませんでした。しかし、そこは人間のことですから、おそらくこれまでの80時間ほどの間に、無意識の内に心と体を休めていたことでしょう。そうでなければ、今、こうして気が変にならずに、それなりに日本語で文字を打っているはずはないからです。
 とにかく、今月だけでも3回の研究成果の報告をこなしたので、これで後は本来の業務の総整理をすることにします。
 今年度は、昨年の9月から数えると、11回の研究発表をこなしました。その間にいろいろと原稿を書いたので、なかなか充実した年度であったといえます。
 いつまでもこんな調子で調査や仕事ができるとは思っていません。いつかは、息切れがします。しかし、できるときに、できることを、できる限りする、という姿勢で、気力と体力が続く限り、今のペースで一日も長く研究生活を送りたいと思っています。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | 古典文学

2010年03月23日

吉行淳之介濫読(2)「星の降る夜の物語」「遁走」

■「星の降る夜の物語」
 巧妙な語り口です。
 4章仕立ての短編なので、演劇にしたらいいと思いました。檜山太郎の一人語りで。
 そのためには、もっとドラマチックな展開が必要です。
 後年の吉行淳之介の作品を知っているせいか、エンターテイメント性を発揮する前の、まじめに文学を書くために原稿用紙に向かう、文学青年としての吉行が浮かんできます。
 婚約を前にして、ルリ子とその両親に語る檜山の話は、私には緊張した語りにしか伝わって来ませんでした。面白味がほしいところです。
 その意味では、最後の「かの輝ける北極星はコンペイ糖でありました。」というフレーズが、記憶に残りました。【2】

 なお、作者は本作を収録する『吉行淳之介初期作品集』(1967年、冬樹社)の「あとがき」で、この作品について次のように言っています。

この題名は、当時、星を仰いで溜息をもらし菫を見て涙を流すいわゆる星菫派の戦後版が流行しはじめたので、その風潮にたいしてイロニックな気持も含めてのものである。もしも、抒情的な風景の中でたいへん抒情的なお話の始まることを期待した読者があったとしたら、深くおわびしなくてならぬ。(227頁)



■「遁走」
 気が狂った三之介の言動がおもしろい作品です。
 彼を取り巻く人たちの反応も、興味深いものがあります。
 人間をよく観察していると思います。ただし、読後に心に残るものがありませんでした。【1】

 なお、本作は、前回「吉行淳之介濫読(1)」で取り上げた「雪」よりも半年早く書かれた作品です。

掲載誌︰「葦」(第2号、発刊年未詳、昭和20年6月稿)
『吉行淳之介初期作品集』(1967年、冬樹社)収録
posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | 吉行淳之介濫読

2010年03月22日

京洛逍遙(129)京都市の地下鉄グッズ

 京都市交通局が、粋なグッズを販売しています。
 赤字解消の一助に、という発想からのようです。
 
 
 
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 京都市の公共交通は、悪評が高いことで全国的に有名なようです。
 市バスが運転も案内も酷いことは、私も何度か体験しました。あなたは何様ですか、と運転手さんに言いたくなる思いを、たくさんの方が何度もしておられることでしょう。

 その点、タクシーの運転手さんはなかなかです。ロンドンほどは教育が徹底してはいませんが、案内は親切です。当たり外れはあるにしても、タクシーの運転手のみなさんは、お客様を大切にしています。これは、京都市交通局も社員教育の上で見習うべきだと思います。まずは接客の基本から、タクシー会社に学ぶところは非常に多いと思います。

 インドのバスは、タクシーやオートリキシャに体当たりしても平気で走っています。私が乗っていたオートリキシャが、バスに体当たりされて、すんでの所で横転するところでした。バスが近づくと、命の危険を感じたりします。
 とにかく、インドのバスは強気です。それに負けず劣らず、京都市も頑張っていると言っていいのでしょうか。乱暴で無愛想です。

 地下鉄でも、いろいろな局面で、駅のそこかしこで、だらけた職員を見かけます。なぜ、あのような職員を京都市は雇用しているのか、首を傾げます。組合との関係があるのでしょうか。

 その京都市交通局が、少しでも収入を、ということで、ない知恵を絞ってというか、下請けの民間に考えてもらったのでしょうが、文房具で人の気を引こうというアイデアを出したのです。
 それは、地下鉄の東西線の電車を象ったチョロQまがいの電車に、セロテープを仕組み、さらにクリップを入れるところを付けたものです。
 
 
 
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 セロテープを使う時には、なかなか蓋が開かないことはご愛嬌です。この設計は酷い物です。しかし、セロテープのデザインは、なかなかいいと思います。
 駅名タイプでは、東西線の駅名が印刷されています。もう1つのテープは、地下鉄のキャラクターの「都くん」と京都の見所や名産が印刷されています。これは、ぜひとも烏丸線も作ってほしいものです。

 そしてオマケ機能は、チョロQのように、少し引いて離すと、ゼンマイ仕掛けで走るのです。

 楽しい文房具なので、ぜひとも各駅で売ってほしい物です。そして、バスのバージョンもどうでしょうか。バスを見て、いやな想いをさせられる人も多いと思います。しかし、そこはテープのデザインで勝負したらいいでしょう。
 どうせ、京都のバスや電車はコリゴリだ、という方は、こんなグッズには手を出さないのですから。
 これから京都との付き合いを大切にしたいと思っている人に、人に優しくありたい、という気持ちを伝えるのに、格好のお土産品となることでしょう。

 京都市交通局の社員教育の汚名挽回を期待すると共に、こうしたグッズで悪評払拭の起爆剤にしてもらいたいと思います。
posted by genjiito at 03:28| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2010年03月21日

京洛逍遙(128)四条京町家で横笛体験

 横笛体験の二回目です。
 前回は、みやこメッセでの初体験でした。

 「京洛逍遙(121)「みやこめっせ」で文化体験」

 あの時は、まったく音が出なかったので、今回は再挑戦となります。今回の会場は、四条京町家の二階でした。
 
 
 
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 教えてくださったのは、この前と同じく榊原先生です。
 
 
 
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 私のことを覚えていてくださったようで、今日はきれいに音が出ていましたね、と声をかけてくださいました。
 そうなのです。前回が嘘のように、今日は最初から音が出たのです。
 唇に歌口を合わせる、場所と角度が決め手であることがわかりました。1本の竹に穴を空けただけの、簡単な楽器です。しかし、8種類の音階も出せました。音が出ただけで、嬉しくなり、何度も吹いてみました。
 しかし、それでも澄んだ音はでません。息の音の方が、どうしても耳障りです。これは、真面目に取り組む価値のあることだと思うようになりました。

 平安時代に、「葉二(はふたつ)」という名笛がありました。
 これは、博雅三位にまつわる笛です。『十訓抄』、『江談抄』、『御堂関白記』などによると、朱雀門の鬼〜博雅三位〜浄蔵聖人〜藤原道長〜藤原頼通と伝流したものだそうです。
 この笛は、宇治の平等院に収蔵されていました。しかし、1334年に楠正成が火をかけたために消失したようです。

 その「葉二」の笛を、京都伝統産業青年会のみなさんが再生させようと、このたび「平成の葉二」を作製されました。
 たまたま、体験の場であった座敷でその作品を見せてくださったので、練習用の篠笛と並べてみました。
 
 
 
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 漆塗りの笛の歌口(吹き口)に、蒔絵で双葉が描かれています。
 なお、平安時代の「葉二」は「龍笛」だったもと言われているそうです。

 今回の横笛体験は、京町家の二階でありました。その一階には、漆塗り職人の方々が製作された漆塗りの笛が展示されていました。
 
 
 
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 また、銅管の笛、木の笛、西陣織の笛袋、そして金工・陶磁器の頭金など、まさに京都の伝統工芸の面目躍如たるものが並んでいます。
 
 
 
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 これからも、いろいろなことに挑戦してほしいと思います。

 いろいろとお話をしてくださった横笛奏者の榊原恭子さん、ありがとうございました。今後とも、よろしくお願いします。
posted by genjiito at 23:51| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2010年03月20日

お彼岸は河内高安の里へ

 墓参のために、かつて住んでいた大阪府八尾市の高安に行きました。
 高安は、『伊勢物語』の「筒井筒」の段でよく知られています。
 我が家のお墓がある高安の地については、これまでにも何度か書きました。
 詳しいことは以下の記事に譲りましょう。おついでの折にでもご笑覧を。

「【復元】古都散策(24)龍田大社へ初詣」2007年1月1日

「演劇「なりひらの恋」」2007年11月13日

「残念だった演劇「なりひらの恋」」2008年2月25日

 京都の地に引っ越ししてからは、高安への墓参に2時間ほどかかります。
 家族みんなで行くときにはレンタカーを使います。
 しかし、今日は子どもたちが来ないので、電車で行きました。
 京都市営烏丸線、阪急京都本線、JR大阪環状線、近鉄大阪線、近鉄信貴線と乗り継ぎます。
 奈良の西大寺駅を通って行くことも可能です。しかし、京都市営烏丸線、近鉄京都線、近鉄奈良線、近鉄大阪線、近鉄信貴線という経路では、かえって時間がかかるのです。ましてや、京阪電車も使えますが、これまた乗り換えが多くなります。

 JR大阪環状線の鶴橋駅で、近鉄大阪線に乗り換えたときです。向かいの難波方面に行くホームに、昨春から神戸・三宮に乗り入れている近鉄電車が来ました。
 
 
 
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 この鶴橋駅は、私が高校時代に毎日通った駅です。近鉄大阪線は難波まででした。それが、今では三宮まで行けるのです。便利になりました。奈良・大阪・神戸が1本でつながったのです。

 今日の私は、この鶴橋駅から準急で八尾の河内山本駅まで行きます。河内山本駅で信貴山口行きに乗り換えるときに、次の駅である高安行きの各駅停車が来ました。これまた、懐かしい電車です。
 
 
 
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 山本駅から単線で二つ目の駅が、信貴山口駅です。
 
 
 
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 この駅からケーブルカーに乗り換えると、高安山や信貴山へ行けます。
 駅前は、40年前とほとんど変わっていません。
 これが、私が高校のころに通学で使った駅です。当時の切符売り場は、改札口の右側にありました。いずれにしても、こんなにきれいではありませんでしたが。
 
 
 
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 お墓には、この駅前から出ている霊園行きのマイクロバスに乗ります。バスは、私が小学校と中学校に行くときに使った、山沿いの道を走ります。同級生の家が、今でも何軒かあります。

 墓地から大阪平野を見下ろすと、靄がかかっていました。天気がいいと、六甲連山や淡路島が見えます。
 
 
 
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 手前左の薄茶色のグランドが見える所が、私の通った南高安中学校です。その手前に、南高安小学校があります。この小学校には、5年生の時に転校してきました。
 今は、この2つは幼稚園と小学校になり、中学校は写真右手前の、薄茶色のグランドが少し見えるところに移転しているそうです。

 お墓には、京都の我が家の玄関先に咲いていた花をお供えしました。
 母が好きだった花です。
 
 
 
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 お参りを終えて帰ろうとすると、山際に「自然廟」と「樹木葬」という表示が目に入りました。
 
 
 
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 今は、お墓に葬るのではなくて、そのまま野山に葬るのが好まれるようになってきているようです。
 死後については、さまざまな取り組みがなされているようです。許可された場所での「風葬」という報道を見たことがあります。火葬や土葬に留まらない、新たな流れが今後ともなされるようです。

 私も、ここのお墓に葬ってもらうのもいいですが、こうして小さい頃に遊んだ山に埋めてもらうのもいいな、と思うようになりました。
 愛着のある地で、土の温もりに抱かれて、ゆっくりと休むのもいいかもしれません。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ブラリと

2010年03月19日

井上家の疎開先としての日南町(4)

 『通夜の客』には、この日南町の福栄村と「曽根の家」のことが、こう書かれています。

 私があなたの後を追つて、初めてあの七曲りの細い峠道を通り、このF村全体を見晴らせる一本杉の台地に辿りついたのは、終戦の歳の十月の末のことでした。(新潮文庫、196頁)


 曽根の家は一本杉の台地からは見渡せない北側の山腹の樹立の繁みの中に、夕暮時のせいもあつたのでしようが、ひつそりと匿れたように立つていました。(新潮文庫、197頁)


 ここに語られているのが、今のどこなのか、この次に日南町を訪問したときに再確認してきます。

 ・「七曲り」は地元で言われている名なのか、井上靖の形容なのか。
 ・「一本杉の台地」はどこか。「野分の館」の辺りかと思われますが。

坂を登りつめ、水車小屋の横を曲つて、この家の庭へ一歩踏みこむまで、あなたは私だとは気付いていらつしやらなかつた。(新潮文庫、200頁)


 ・水車小屋が「曽根の家」の横にあったのでしょうか。

 なお、井上靖は日南町の雪を見ていないこともあってか、『通夜の客』に雪の描写はありません。

山も例年よりは雪が遅いということで、十二月に入つても暫くは気持よく晴れた日が続いていましたが、それにしても晩秋から初冬へかけての淋しさは格別でした。(新潮文庫、204頁)


 井上靖は、昭和20年5月19日に、毎日新聞社の同僚の松永氏とともに、この福栄村に疎開のための下見に来ています。そして、ここに家族のための家を借りていたのは、昭和20年6月16日から12月10日までの半年です。それまで、井上靖は月に2回くらい来ていたそうです。特に、この「曽根の家」を引き払う11月26日から12月10日の半月は、井上靖と松永氏は、共にここに寝泊まりをしています。
 つまり、井上靖は、初夏から師走までの福栄村しか見ていません。福栄村の雪について、丁寧な描写がないことが、小説『通夜の客』から読み取れるのは、非常に興味深いことです。

 以下、雪のことに触れている箇所を抜き書きしておきます。

一か月だけ。お正月まで。雪が解けるまで。暮まで。夏まで。秋まで。お祭りまで。二人は囲炉裏ばたで、何回、愚にもつかない同じような会話を繰返したことでしよう。(新潮文庫、206頁)


 あなたは一年に三回東京のお家へいらしつた。雪に閉じこめられる冬をのぞいて、春と夏と秋には必ず一度ずつ東京へいらしつた。(新潮文庫、210頁)


あの日は午後になつてから細かい雪が落ち始め、春の雪だつたからたいして積りはしませんでしたが、気温はひどく下つていました。(新潮文庫、204頁)


 私は霰になりかかつている雪の中をのめりそうな気持で歩きました。(新潮文庫、211頁)


 井上靖は、学生時代を石川県金沢で生活しています。雪国での生活は知っています。しかし、この『通夜の客』では、雪の場面の設定も、そして詳しい言及もないのです。もしお正月などに井上靖がここ福栄を訪れていたら、印象的ですばらしい雪の場面を描いたのではなかろうかと、今回私は雪の日南町を歩きながら、いろいろと想像してみました。

 この「曽根の家」の間取りは、前回のブログで紹介した伊田さんがお書きになった図面とほぼ一致します。ただし、『通夜の客』には、この図面にはないものが確認できます。
 これらは、井上靖の虚構なのでしょうか。

(1)「中二階の梯子段のある襖の方」(212頁)
 実際の家とは違う想定にしているのか、あるいはこの地域の農家には、中二階の梯子段があったのでしょうか。

(2)「風呂の流し場を少し体裁よく造りたい」(214頁)
 井上家は、道を挟んだ向かいの家に、月に一二度、お風呂を借りに行っていました。「曽根の家」には、お風呂はなかったはずです。


 今回の講演会も無事に終わり、日南町を去る朝、久代さんがもう一つ井上靖の碑がある、ということで、廃校になったばかりの福栄小学校に連れて行ってくださいました。
 
 
 
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 その校門の左に、井上靖が揮毫した「學舎百年」という石碑が、今もどっしりと置かれていました。
 
 
 
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 この元・福栄小学校は、井上靖の長女が小学三年生だった時に、半年ほど通った所なのです。

 なお、福栄小学校の創立百周年の記念誌『學舎百年』に井上靖が寄稿した「私と福栄」では、この地を引き上げた日時が異なっています。

 家族を疎開させたのは終戦の二十年六月、家族を引き揚げさせたのはその年の暮れも押し詰まった十二月二十八日である。


 また、「通夜の客を読む会」の田辺青志氏によると、ふみ夫人の記憶ではこの引き上げは「11月」だったと聞いた、とのことです。
 この辺りは、折を見て再検証をする必要があると思っています。
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | 井上靖卒読

小川陽子さん「紫式部学術賞」おめでとう

 先週、鳥取県の日南町で、池田亀鑑を再評価するための講演会を開催したことは、すでにこのブログで報告しました。

 「小さな町を揺るがした池田亀鑑の1日」(2010年3月13日)

 あの日、トップバッターとしてすばらしい講演をした小川陽子さんが、このたび「紫式部学術賞」を受賞、との知らせを受け取りました。

 一緒に研究する仲間の1人として、祝杯をあげたいと思います。

 詳細は、笠間書院の下記のブログをご覧ください。

第11回紫式部学術賞、小川陽子氏『『源氏物語』享受史の研究』(笠間書院)に決定


 この著書に関しては、ちょうど1年前になりますが、私のブログで「『源氏物語』享受史の好著」(2009年3月25日)として紹介しました。

 私も、まだ人を見る目があるようです。
 耄碌していないことが確認できました。
 よかった、よかった。

 実は、私もこの賞には、かつてノミネートされたことがありましたが、残念な結果でした。
 それだけに、この賞の重みを知っています。

 小川さんのますますの活躍が楽しみです。

 なお、紫式部学術賞については、下記のサイトをご覧下さい。

紫式部学術賞
posted by genjiito at 01:07| Comment(0) | ◆源氏物語

2010年03月18日

国語研で開催される研究会のお誘い

 来週のことです。

 3月24日(水)午後2時から、東京・立川の国立国語研究所で、以下の研究会が開催されます。


   共同研究プロジェクト(C)
「仮名写本による文字・表記の史的研究」
     第3回研究会

日時:平成22年3月24日(水)14:00〜17:00

場所:国立国語研究所・多目的室

発表題目︰

1.源氏物語諸写本における文字認定と解釈
   −助動詞「つ」「り」をとおして−
           家入博徳(國學院大學)

2.「香紙切」を用いた古筆研究の方法論
           高城弘一(大東文化大学)

3.新出・鎌倉時代『源氏物語(若菜上)』残巻に関する一考察
           伊藤鉄也(国文学研究資料館)




 私は、先週、雪の中国山地で調査した、鎌倉時代の『源氏物語』の古写本に関する発表をします。

 「鎌倉期の源氏の写本を読む」(2010年3月 8日)

 このブログでは書けなかったことなどを、さらに詳しく研究成果として報告するつもりです。

 国立国語研究所は国文学研究資料館と隣接する敷地にあるので、資料を閲覧なさるついでにお立ち寄りいただければと思い、ご案内するしだいです。
posted by genjiito at 20:00| Comment(0) | ◆源氏物語

2010年03月17日

井上家の疎開先としての日南町(3)

 井上家が戦後、この「曽根の家」を引き払った後、取り壊される前に撮影された写真が1枚だけ残っています。
 日南町で井上靖の文学を敬愛する人たちが作っておられる「野分の会」の代表・伊田美和子さんが、大切にお持ちのその写真の複写をくださったので紹介します。すでに、いろいろな所で公開されているので、ご存知の方も多いことでしょう。
 
 
 
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 昨日のブログで紹介した写真で言うと、コウジヤさんの脇道を上って行き、杉の木の手前から見上げたアングルで撮影されています。
 この「曽根の家」の写真は、この1枚しかないということでした。しかし、これは、ここへわざわざ撮影に来たとしか思えない写真です。ということは、もう少し上り、家の前からも撮影したはずです。そのネガがあれば、この写真の前後にも家が写っていることが確認できるはずです。

 この写真を持っておられたというYさんの家で確認してもらいました。しかし、これしかなくて、ネガもないとのことでした。そして、これは昭和40年頃のものなのだそうです。撮影した人も、今ではわかりません。これは、調べればわかるはずです。50年も経っていないのですから。

 現在、この写真のコピーがたくさん出回っています。それは、10年前に伊田さんが、たくさん作って配ったものだとのことでした。
 私がいただいたのも、このときに焼き増ししたものでした。色がだんだん褪せてきています。とにかく、このままでは色が抜けていくので、なんとかネガを探されることをお勧めしました。そして、ネガが見つかったら、袋から出さずに、写真屋さんに持って行かれるようにと。空気に触れて、ネガのフイルムが急激に酸化することが怖いからです。

 ここで紹介した写真は、いただいた写真をフォトショップを使い、それらしく私が色に変化をつけてみたものです。

 この家を井上靖が借りたのは、昭和20年6月16日から12月10日までの半年です。
 その1年前までは、元の家主のTさんが亡くなったために、空き家だったそうです。そのTさんは、花火で死んだとか。井上靖の『ある偽作家の生涯』のネタになっているのでは、とのことでしたが、ことの真偽について、そしてこれまでにどのような研究成果があるのか、今の私にはわかりません。後で調べてみます。

 かつて、井上靖一家が引き払ってから、労働者がここに住んでいたそうです。
 伊田さんはここに用事があって、よくこの家に行かれたとのことだったので、その間取りを思い出してもらうことにしました。しかし、なかなかそのすべてが思い出せないとのことで、長い時間をかけて、ようやくこんな図面ができあがりました。
 
 
 
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 コオジヤさんから上がってくるのは、図面右上の矢印にあたります。そして、そのすぐ下の丸印は、1本杉の木です。
 家の入口は、グルッと回り込んだところにありました。
 入ってすぐに土間、その右に牛小屋(実際には馬小屋として使っていた所)、土間の左に6畳の客間と4畳半の納戸です。その下に、囲炉裏がありました。暗いから、ということで、納戸に明かり窓を作られたそうです。

 「曽根の家」の周囲は、こんな位置関係にあります。
 
 
 
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 中央右の□がコオジヤさん。その脇道から左に歩いていくと、中央の空豆のようなところが「曽根の家」です。そのすぐ右下の丸印が1本杉、その左にお墓、さらに左にマエニヤさんとウエニヤさん、「曽根の家の」の左上にヨコニヤさんがあります。
 昨日のブログでは、このヨコニヤさんの裏から、この「曽根の家」を見下ろした写真を掲載しました。そして、グルッと時計回りに移動して、インガヤさんがあり、コオジヤさんとなります。

 疎開中の井上靖の家族の様子は、ふみ夫人の『やがて芽をふく』(平成8年、潮出版)に次のように書かれています。
 
 
 

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「想像に余る生活」
 上石見からは、わら草履を履いて、峠の細い道を二つ越えた。しばらくして着いた家は、すさまじい家であった。集落の中でも一段と高いところにあり、広い土間を挟んで牛小屋と向かい合っていた。牛小屋は窓がなく真っ暗であった。反対側の住居には、十二、三畳の板の間があるが、ここも奥のほうは真っ暗で、そこには囲炉裏があった。ついこの間、一人住居の爺さんが、ここで死んでいて、ネズミに数ヵ所食われていたという。よく見ると棚の上に荒人さんが祭られていた。私たちは炉の横の壁を抜いて明るくしてもらった。このほかに六畳と四畳半の畳の部屋があった。一本杉のそぴえる麓の古いわらぶき屋根の農家であった。裏はすぐ村人の墓であった。戦争であればこそ住んだ家であった。(下略、172頁)



 ここには、「炉の横の壁を抜いて明るくしてもらった」とあります。伊田さんの話との関係で、再確認が必要です。

 この家には、実際には10人ほどが生活を共にしていました。
 『通夜の客』を読んでいると、愛人であるきよとの、2人だけの隠れ家での生活となっています。しかし、実際には、この狭い間取りの家に、なんと10人もの共同生活だったのです。

 まず、井上靖の奥さんのふみさん、そして子どもたち4人。奥さんの母親とお手伝いさんが後に合流。そして、井上靖の新聞社での同僚の松永氏の奥さんと子ども2人。この10人です。
 時局とはいえ、狭い所での大人数の生活だったのです。

 井上靖は、家族が疎開していた当時は、月に2回ほどは来ていたそうです。
 ここを引き払う11月26日から12月10日の半月は、井上靖と松永氏もここに寝泊まりしています。12人が、ここで最後の生活を送ったのです。

 『通夜の客』とはかけ離れた現実を知り、改めて小説での舞台設定の自由さを知りました。

 なお、日南町の文化総合センターには、「曽根の家」の模型があります。
 このことは、「井上靖ゆかりの日南町(2の1)」で書きました。
 この模型について、伊田さんはよくご存じではありませんでした。
 そこで、伊田さんの記憶と、その模型の違いを、よく観察していただきたいことをお願いしてきました。
 これについては、また報告します。

 小説『通夜の客』とこの家のことは、次にします。
posted by genjiito at 23:52| Comment(0) | 井上靖卒読

2010年03月16日

井上家の疎開先としての日南町(2)

 伯備線上石見駅から西へ向かい、井上靖が『通夜の客』で「駱駝の瘤」と言った小さな峠を2つ越えると、眼下に「F村」として描かれた福栄村が正面に見えてきます。
 その村に上から入って見ました。

 ウエニヤさん、マエニヤさん、ヨコニヤさんが、親切にも屋号を書いた看板を家の軒先に揚げてくださっています。これはありがたい心遣いです。
 『通夜の客』に、こう語られています。

コオジヤさんのお嫁さん、ワカレヤさんの御主人、マエニヤさんの息子さんの三人に手伝つて戴いて、家の片付けを終りました。(新潮文庫、194頁)


 この屋号の家が、そのまま今もあるのです。小説は虚構です。しかし、その世界をイメージ化するのに、小説の舞台が頭の中に拡がると、作品をさらに深く読んで楽しめます。
 
 
 
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 ヨコニヤさんの裏手から、福栄村の下の方を臨むと、一段下に「文豪 井上靖 曽根の家 屋敷跡」という看板が、何もない敷地にただ1つ、ポツンと建っているのが目に飛び込んで来ます。
 井上靖は、この日南町の雪景色をしらないはずです。この景色は、井上靖の作品とは無縁のものです。しかし、今はそのことを忘れ、白色を土色と青色に置き換えれば、それなりにイメージとしてはおもしろいと思い、このまま写真を掲載します。
 
 
 
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 この写真の左下の木から顔を覗かせるようにして、白い板に文字が書かれた看板が見えます。その少し右上に、墓石が見えます。左には、杉の木が2本立っています。この杉の木が、曽根の家の場所を示す目印となっています。これらは、後で記すことのキーワードとなるものです。
 ここに、井上靖の家族が住んでいた、「曽根の家」と呼ばれる家があったのです。

 さて、ヨコニヤさんから時計回りで下っていくと、インガヤさんがあります。
 
 
 
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 そして、そのすぐ下が、コウジヤさんです。
 
 
 
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 コウジヤさんの向こうに、インガヤさんが見えています。
 このコウジヤさんの裏に、「曽根の家」はあったのです。

 コウジヤさんの脇の狭い坂道を登って行くと、今はビニールハウスのある裏の田んぼの上の壇に、それはありました。
 
 
 


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 今来た道を振り返ると、こんな感じの風景です。
 
 
 
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 コウジヤさんの佐伯さんに、井上家が住んでいた頃の話を聴きました。
 今78歳の佐伯さんは、当時は中学生だったそうです。
 佐伯さんから、興味深い話をたくさん伺いました。
 井上家の人たちが、向かいの家にお風呂を借りに行っていたこと。
 今も、その名残が正面上の家の左に、ブロックの跡として確認できます。水を汲んだり焚いたりするのが大変なので、月に数回のお風呂だったそうです。
 
 
 
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 後ろに見えるささやかな水路は、当時は水がなかったので、ここで気長に水を溜めて使っていたところだそうです。井上家と一緒に来ていたお手伝いさんが、ここの松の木陰で昼寝をしながら、水が溜まるのを待っていたそうです。

 この「曽根の家」については、まだ続きます。
posted by genjiito at 23:52| Comment(0) | 井上靖卒読

2010年03月15日

井上家の疎開先としての日南町(1)

 伯備線の上石見駅から井上靖記念館のある「野分の館」へ、そして井上靖の家族が半年間暮らした「曽根の家」を、久代さんに案内していただきました。
 いろいろと収穫があったので、以下に記しておきます。

 上石見駅は鳥取県の最南端で、岡山、広島、島根の県境に位置する分水嶺にあります。岡山から鳥取に入って最初の駅なのです。
 
 
 
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 今回は雪の上石見駅です。井上靖は、疎開の下見を含めても、こんな雪の駅に降り立ったことはないはずです。
 今回は、峠の道を確認することと、村の今を自分の目で見ることが目的です。
 ただし、今日は雪の中なので、当然のことながら井上靖の家族が疎開生活をした、昭和20年6月の初夏から冬までの半年とは違います。もちろん、井上靖も、雪の日南町は知らないはずです。
 そのことを意識しつつ、小説『通夜の客』の舞台を歩きました。と言っても、久代さんの車に乗せてもらってのことです。峠の一部だけは歩きましたが。

 なお、昨年の師走にも、この地を訪れました。その時は、足羽隆さんに案内してもらいました。そのことは、本ブログ「井上靖ゆかりの日南町(2の2)」で書きましたので、ご参照ください。
 
 
 
 井上靖は『通夜の客』の第二章で、新津礼作の愛人である水島きよに、亡き新津への手紙の冒頭において、次のように語らせています。

 新津よ。あなたのお通夜の晩、新橋の安ホテルで、お酒を飲みながら由岐さん宛の手紙を認めてから五日経つています。随分あわただしい五日でした。あの翌日夕方の急行で東京を発ち、その翌日の昼、岡山で伯備線に乗換え、あのいかにも高原の駅らしい上石見小さくて清潔なプラットホームに降り立った時はもう暮方でした。それから二里の山道を、いつかあなたが駱駝の瘤とお呼びになった小さい峠を二つ越えて歩いて、二十何時間目にこの山脈の尾根の小さいF村わたしたちの家に帰つて参りました。土間の片隅には、あなたの仕事着や野良帽子がかかつており、お座敷の机の上には中国塩業史の第七章の原稿が、茂吉歌集と一緒に載つておりました。そうした中へ私はひとりで帰つて来たのです。(角川文庫193頁)


 きよは、新津の通夜に顔を出し、新橋の一夜で出すあてもない、新津の妻由岐への手紙を書き、そして東京から岡山経由の伯備線で上石見駅に着きました。
 ただし、「小さくて清潔なプラットホーム」の「清潔」の意味が、私にはまだよくわかりません。
 「二里の山道」とあるのは、実際とは違うようです。どう見ても6キロもないようなので、正確には「一里半」です。しかし、そこは小説なので遠い道のりを歩いた、ということで、こう言ったのでしょう。
 「駱駝の瘤」とあるのはその通りです。2つの峠を越えます。
 井上靖の妻のふみさんも、そのことは次のように言っています。

上石見からは、わら草履を履いて、峠の細い道を二つ越えた。(『やがて芽をふく』172頁)


 上石見から福栄村に行くために越える2つの峠道は、現在もそのまま残っています。ただし、道の舗装と拡幅がなされているので、当時の道筋ですが、その道の姿は大変違います。

 2つ目の瘤にあたる峠は、かつての道よりも右側を、それも峠を削って低くしているそうです。そこで、当時の道を歩いてみました。もっとも、これも舗装されてからの道です。

 写真にハザードランプを付けた車が写っていますが、その右から小径に入るのが、当時の山道です。
 
 
 
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 そして、小説に描かれている頃の道は、こんな道だったそうです。
 
 
 
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 薄暗くなってからは、寂しくて怖い道だったようです。

 さて、今のこの小径を歩いてみました。
 
 
 
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 今の道に出るところは、こんなふうにつながっています。
 
 
 
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 旧道から合流した今の道を少し行くと、井上靖記念館「野分の館」があります。ここから今来た道を振り返ると、こんなふうに見えます。
 
 
 
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 写真右の3層の建物が「野分の館」です。

 『通夜の客』に「F村」とあるのは、今もある福栄(ふくさかえ)村のことです。
 ここから、前方の福栄村に目を転ずると、ちょうど赤い屋根と青い屋根の間に、井上靖の家族が疎開した「曽根の家」の言われるところがあります。
 
 
 
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 この家のことは、明日まとめて書きましょう。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | 井上靖卒読

2010年03月14日

京洛逍遙(127)北野のお揚げさんとのコラボ

 岡山経由で自宅に帰りました。久しぶりの我が家です。
 家の前の花は、これから春を迎える準備が整ったようです。
 私が出発する前は、こんな状態でした。
 
 
 
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 それが、一週間後の今日は、たくさんの花が咲いています。
 
 
 
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 私が好きなボケも、出発前は、こんな感じでした。
 
 
 
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 それが、今日帰ってみると、たくさん咲いていました。
 
 
 
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 みんな元気に咲いています。 

 先週からの広島・鳥取への長旅の疲れを癒すことと気分転換もあって、北野天神の梅を観に行きました。
 本殿の裏の木々には、梅に鴬らなぬ、メジロが元気に蜜を求めていました。
 
 
 
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 北野天神からの帰りに、北野のお豆腐屋さんで有名な藤野で、揚げを買いました。
 これも、出発前のものと今日のものを並べます。
 
 
 
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 今日のお揚げさんは、ハンバーグかと思うほどの1センチもの厚さがあります。
 その上に置かれているご飯は、今朝までいた日南町の「露の玉米」という奥日野産のコシヒカリです。
 鳥取の米と京都のお揚げさんという、なかなか楽しいコラボレーションを楽しむ食事となりました。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2010年03月13日

小さな町を揺るがした池田亀鑑の1日

 鳥取県の日南町総合文化センターの多目的ホールで開催された講演会は、大盛会のうちに終わりました。
 閉会後の関係者の方々との交流を兼ねた懇親会でも、大成功だったなー、という言葉が乱れ飛んでいました。
 
 
 
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 日南町は、人口5000人ほどの町です。町の面積は、鳥取県の一割だとのことでした。しかし、住民の数は年々激減の一途です。果たして何人来て下さるのか、ドキドキの開催でした。
 
 
 
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 そんな町で、今日会場に集まった方は、なんと120人をはるかに越えて、改めて集計すれば150人に届こうかという大入りだったのです。とにかく用意された会場はギッシリと埋まりました。開始直後から、補助椅子を何脚も出しておられました。それだけ、人が集まったのです。
 
 
 
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 私が、エジプトのカイロで『源氏物語』に関するイベントを開催したとき、主催者側の国際交流基金は30人も集まれば、という読みでした。しかし、その予想は大きく外れ、なんと100人以上が会場に集まったために、急遽会場を広くして椅子を運びと、大変なことになりました。それだけ、『源氏物語』は人の気を惹きます。気になるのです。そして、何よりも日本を知りたいという気持ちに誘います。

 そうは言っても、今回は『源氏物語』と言うよりも、池田亀鑑という、実はよくわからない人間を前面に出しています。本当に、何人集まってもらえるのか、数の読めないイベントでした。
 今は、安堵しています。しかし、関係者は気が気ではなかったことでしょう。何しろ、こんな学術的なイベントは、町始まって以来なのですから。これは、全国的にも、自治体レベルでこんな催しは例がないはずです。

 今回、たくさんの方々が集まられた理由は、いくつか考えられます。

 日南町は、井上靖と松本清張にゆかりの地として宣伝なさっていました。しかし、池田亀鑑がいることを、軽く思っておられたようです。それが、昨年の11月3日に、顕彰碑を建てられたことにより、少しずつ見直しの機運にあったのでしょう。
 そこへ、久代安敏町議と気のあった私が今回のようなイベントを提案したことが、町民のみなさんが気にはなりながらも知りたいと思っておられたことと、その想いが一致したのではないでしょうか。それ以上に、「池田亀鑑文学碑を守る会」の方々の思いも、町民の方々の潜在意識に訴えかけたのではないでしょうか。
 それよりも何よりも、池田亀鑑は22歳まで、鳥取県を出なかったのです。よそ者ではないのです。そんな池田亀鑑を、生まれ故郷の日南町が再評価せずに、どこがするのでしょうか。
 今回のイベントを終え、そうした思いは、町民の方々をはじめとして、開催に尽力された方々にも実感として感じられたようです。これからが、大いに楽しみな町です。

 さて、本会は「池田亀鑑文学碑を守る会」の会長の開会のことばのあと、町長の挨拶から始まりました。
 
 
 

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 一番バッターは小川陽子さんです。
 
 
 
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 タイトルは「池田亀鑑と後継者たち」ということで、北見志保子、大江賢次、小松茂美、そして恩師の師匠である稲賀敬二を例にして、会場の皆さんの涙を誘うような感動的な話が展開されました。
 
 
 
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 人間の生きざまというものに迫る、熱のこもった内容でした。
 後で聞くと、涙が出そうで周りを見回した、という方が何人もおられました。

 続く原豊二さんは、「池田亀鑑の資料収集」と題して、『源氏物語』の研究者としての実像に迫る話でした。
 
 
 
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 折しも、今日の日本海新聞に原さんのことが記事として取り上げられていたので、参加者のみなさんも原さんの立場をよく理解されたようです。この日の新聞に載るという、タイムリーな出来事が、この催しを後押しした形でした。
 
 
 
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 会場の皆さんは、池田亀鑑がやり遂げた仕事の意味について、改めて認識を改められたかと思います。

 最後に私が、「若き日の池田亀鑑」題して、若い頃の足跡をもとにしてその実像についてお話しました。
 
 
 
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 師範卒で検定上がりということで、東大の中で晩年まで苦労の連続だった原因などを、年譜をたどりながら説明しました。経歴と派閥の中で苦悩した池田亀鑑という人間を、何とか理解してもらおうとの思いから、町民の方々に語りかけました。
 
 
 

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恵まれた環境が決して幸せに結びつかないように、劣悪な環境でも、それを克服しようとする気持ちが尊いことを力説したつもりです。

 みなさん、熱心に聞いて下さいました。
 『源氏物語』に関する講演会というと、女性が圧倒的に多いのです。しかし、今日は8割以上が男性でした。これも、珍しいことです。
 『源氏物語』の内容の話はまったくなかったので、次はそんな講演にしてほしい、という要望が寄せられました。
 今回の参会者の興味の中心は、あくまでも池田亀鑑という男は一体何者なのだ、ということにあったと思われます。『源氏物語』そのものについて知りたい、ということではなかったのです。地元出身の池田亀鑑という男を理解していく中で、それではその男が命をかけた『源氏物語』とはなんなのだろう、という流れで、つぎの集まりを考えて行きたいと思います。

 本当に稀有な内容の講演会でした。
 そして、ほとんどの方が、池田亀鑑の知られざる一面を聞き、改めて1人の男に対する認識を深められたようです。

 会場からの質問は、『源氏物語』の本文に関するものから、池田亀鑑の生き様に関するものまで、みなさんが熱心に聞いて下さっていたことがわかるものでした。『源氏物語』の本文に関する質問では、「別本」というものをよく理解してのものだったので、私も真剣にお答えしました。ありがたいことです。
 
 
 
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 講演会後の懇談会で、私は2つの提案をしました。

(1)図書館の中に、池田亀鑑のコーナーを作ってほしいこと。
  現在、井上靖と松本清張のコーナーが、L字型に作られています。
  そこへ、池田亀鑑のコーナーも作ってコの字型にしてほしいことを、お願いしました。

(2)「池田亀鑑賞」を制定し、40歳以下の若手中堅の研究者から、池田亀鑑に関する伝記・評論などと、池田亀鑑と『源氏物語』をテーマにした研究論文を募り、優秀な論文には町から表彰する、というものです。
 若手研究者は、個人研究の成果を公表する場を探し求めています。
 20万円の懸賞金をつけて、1人でも多くの若手研究者を支援する場所に、日南町は名乗りをあげるべき時が、今やっときたのです。全国に呼びかければ、きっと大きな反響があるはずです。
 日本の古典文学から遠ざかりつつある若者たちを、これを機会に刺激してほしいと願っていることを提言しました。検討する、とのことだったので、いい方向で取り組まれることを期待したいと思います。

 今回のイベントは、大成功だったことはなみさん思っておられます。
 実際に、たくさんの方々が、熱心に聞いておられたのですから。

 後片付けの愉しかったこと。
 
 
 
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 私は、話の中で、町内にある「池田亀鑑誕生地」という石碑のあることを紹介しました。
 講演会終了後、そこへ行ったことがない、とおっしゃる方とその石碑の場所へ数人で行ったところ、先ほど話を聞いたので見てみようと思って来ました、という女性と出くわしました。
 
 
 
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 昨日までの雪が溶けて、いい顔をした碑が建っていました。
 「ありがとう」という声が聞こえそうでした。

 この池田亀鑑のことは、日南町内での話なのです。知らなかったら、それって何、との思いから見てみたくなるのは当たり前です。そうした思いには、町としても応えるべきです。そして、町外の方々にも、自信をもって誇るべきです。とくかく、池田亀鑑は日南町で産声を上げたのですから。

 こうした取り組みは、3回までは続きます。しかし、4回目が開催できるか、というのが問題です。
 ぜひとも、10回までは続けてほしいものです。規模は小さくてもいいのです。続けることが大事だと思います。
 今日まで準備に当たられた「池田亀鑑文学碑を守る会」のみなさまを始め、たくさんの方々に、改めてお礼を申し上げます。
 また来年おあいしましょう。

 久代さん。知り合って3ヶ月しか経たないのに、こんなに愉しいイベントが、それも成功裏に終わったことに感謝し、感激しています。出会いのすばらしさを噛みしめています。お疲れさまでした。ありがとうございました。
 いろいろな課題を預けたままですが、みなさんと解決していけたら、と思います。
 ますますのご活躍を祈っています。
posted by genjiito at 23:55| Comment(2) | ◆源氏物語

2010年03月12日

池田亀鑑の若き日を歩く

 大山町立図書館長のFさんの車で、昨年師走と同じように池田亀鑑の実家があった岸本へ行きました。
 かつての岸本町は、今は伯耆町と言います。そこの公民館で、森安館長からいろいろとお話を伺いました。
 
 
 
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 森安館長は、池田亀鑑のことは何もわかりませんから、とおっしゃっていました。しかし、池田亀鑑が住んでいたところや学校のあった地域、そして父の実家のことなどになると、その家は今は……、その場所は今は……、それはうちの裏を通る道で……、と、とにかく地元の話ということもあり詳しく話してくださいました。
 池田亀鑑がこの岸本にいた時の関係地を地図に示してくださったので、その場所を尋ねることにしました。

 岸本の公民館を後にして、父宏文の実家があった福原へ。
 今この近くには、植田正治写真美術館があります。
 
 
 
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 明治41年6月に、父の日野郡日吉村日吉尋常小学校校長着任(〜大正4年3月まで)にともない、日南町の石見東小学校から日吉尋常小学校(久古村、池田家累代の居住地である岸本町の一地区)に転校します。
 日吉尋常小学校の跡地へ行きました。少し高台になっていて、貝田原の神社の前に、日吉尋常小学校はあったようです。今は何も面影はありません。
 
 
 
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 この久古の貝田原にあった校舎の中で、池田亀鑑一家の岸本での生活が始まったのです。

 明治42年に日吉尋常小学校を卒業すると、この貝田原から東の大原にあった吉寿尋常高等小学校の高等科に入学(2年通学)します。ここも、その痕跡はみあたりませんでした。
 
 
 
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 なお、今はなき日吉尋常小学校と吉寿尋常高等小学校の卒業証書台帳は、この2校を統合した八郷小学校に保存されているそうです。
 
 
 
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 その写真が『初念貫徹 池田亀鑑博士検証費建立記念誌』(2頁、岸本町発行、昭和61年12月)に掲載されているので、いつか確認に行きたいと思っています。冒頭に、池田亀鑑の名前が書かれているのがわかります。
 
 
 
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 この久古の地は、池田亀鑑が随想で何度も触れる霊峰大山が見霽かせる、「ふるさと」と言い続けたところです。
 
 
 
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 池田亀鑑は大正5年に鳥取県師範学校を終え、鳥取県日野郡溝口尋常高等小学校の訓導として帰って来ます。亀鑑20歳の時です。写真は、岸本公民館に保存されている、溝口校での若き亀鑑です。
 
 
 
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 訓導として実家に帰ってから、溝口の学校までの通勤経路について、久古の家から「うぐい坂」を通っていました。その「うぐい坂」は、森安館長のご自宅のすぐ裏で、今は舗道の整備によって地図からはなくなっていました。
 
 
 
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 池田亀鑑は、久古の自宅からこの「うぐい坂」を通って吉定に出、そこから学校があった溝口まで歩いて南下したようです。ただし、今の伯備線沿いの道は新しいもので、当時はもっと山側の三軒茶屋や上細見の道を通っていたと考えられます。だいたい、片道1時間ほどの道のりだそうです。その道を、若き日の訓導・池田亀鑑は、毎日歩いていたのです。
 
 
 
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 池田亀鑑の生誕の地である日南町に行くために、岸本駅から生山駅までは電車を使いました。
 2時間に1本しか電車がないので、駅の中にある商工会議所に荷物を預け、1時間ほど駅周辺を散策しました。学校があった地域を駅から臨むと、大山が顔を出しました。
 
 
 
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 電車に乗ろうとしたところ、2両連結の列車の一番前しかドアが開きません。後ろの方にいた私は、あわてて先頭に走り、どうにか乗り込みました。

 生山では、久代さんが迎えてくださいました。
 早速、池田亀鑑が生まれた神戸上下代の「池田亀鑑誕生地」の碑がある所に連れて行ってもらいました。
 ここは、昨年師走に訪問した折には来なかったところです。
 
 
 
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 ここから石見東小学校までは、歩いて10分でしょうか。
 この家の前を少し下って左に折れると、広い道に出ます。その道を右にとって突き当たりに、小学校があります。
 
 
 
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両親ともにこの小学校に勤務していたので、近くて便利な所に居を構えたことになります。

 石見東小学校の敷地の入口には、雪を被った記念碑が2つ立っています。雪を被っているので、昨年「池田亀鑑ゆかりの日南町」と題して紹介した時よりも雰囲気が違います。
 
 
 
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 これで、鳥取の池田亀鑑に関連する所は踏破しました。
 あとは、落ち穂拾いのような資料収集と、関係者からの聞き取りを続けて行きたいと思います。
 これまでにも、たくさんの方に貴重なお話を伺いました。今後とも、人と人とのつながりの中で、より正確な情報をいただきながら、池田亀鑑の人となりを追いかけて行きたいと思います。
 これまでに変わらぬご理解とご協力を、改めてお願いいたします。
posted by genjiito at 23:12| Comment(0) | ブラリと

2010年03月11日

研究資料としての録音テープ120本

 小山敦子先生は、10年以上も生涯教育に情熱を傾けて来られました。
 東京でなさっていた「生涯大学集中講座 たのしい源氏物語」の記録のすべてが残っています。
 
 
 
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 この冊子は、『源氏物語』全54巻を語った時のテキストです。約30冊あります。このテキストに書かれていることを中心にして、さまざまな時事問題などを織り交ぜて、縦横に『源氏物語』が語られています。
 今回、私もその活き活きとした声を再生し、『源氏物語』を読解する上でのいくつものヒントをいただきました。

 また、これまで発表なさった自説をまとめた、テーマ別の別冊があります。
 
 
 
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「生涯大学集中講座 歴史で迫る源氏物語の周辺 総集編」
「生涯大学集中講座 伊勢物語との関係 たのしい源氏物語 総集編一」
「生涯大学集中講座 歴史で迫る源氏物語の真相 総集編二」
「生涯大学集中講座 歴史で迫る源氏物語の真相 安和ノ変」

 ハードカバーの本もあります。これは、上記テーマをさらに簡潔にまとめた本です。
 人物系図は、色別に図解したものです。「弘徽殿悪后」となっているのには、苦笑しました。
 
 
 
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「小山敦子著作集一 歴史でせまる源氏物語」
「小山敦子著作集別帖 源氏物語人物系図」

 さらには、講座の各回2時間の録音テープが、120本すべて残っています。
 
 
 
100311caseto
 
 
 
 1人の源氏語りが、ここから蘇ってきます。
 今回の面談の後、この資料すべてを自由に活用してほしいとのことで、複製本と複製テープを拝借することができました。1人の研究者が『源氏物語』全巻を通して語った内容は、『源氏物語』の研究史であり、また受容史ともなっています。女性論という視点からも、これらの資料は取り組めることでしょう。
 これは、十分に研究対象になりうるものだと思い、お借りすることにしました。
 こうした資料を研究対象として活用することに興味のある方は、どうぞ連絡をください。利用目的によっては、お貸ししてもいいと思います。詳しいことをお知りになりたい方は、メールや手紙ではなくて、直接、東京・立川の私の研究室にお越し下さい。
 とにかく、膨大な資料です。私にはとても扱いきれませんので、この場を借りて、報告するしだいです。

 私の恩師の小林茂美先生も、社会人講座で『伊勢物語』と『源氏物語』を語っておられました。大学生だった私は、カセットテープレコーダーを持って、可能な限り通って録音しました。また、各種公開講座のお話も、録音しました。
 そうしたテープが、数百本残っています。貴重なものなので、いつか何とかしようと思いながら、いまだに果たせずにいます。

 こうした資料は、根気がなければ扱いきれないのです。その意味では、若い方にしか利用できないものだ、とも言えましょう。
 録音資料・音声資料は、それなりの研究手法をもって当たれば、有意義な成果をもたらす素材です。
 宝の持ち腐れとならないようにしなければ、と思っているところです。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ◆源氏物語

2010年03月10日

新出資料『蜻蛉日記新釈』

 『源氏物語』の研究者として『源氏物語の研究 −創作過程の探求−』(昭和50年、武蔵野書院、昭和49年に本論文により東京大学より学位取得)の業績のある小山敦子先生に、偶然のことながら今回お目にかかる機会を得ました。
 
 
 
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 現在85歳なのに、まだまだお元気で、長時間にわたりたくさんの話をしてくださいました。
 
 
 
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 小山先生は、横浜共立学園から東京女子大学、そして昭和22年に東京大学に入られ、大学院では池田亀鑑氏のもとで学ばれました。昭和36年以降は米国イエール大学研究員、オーストラリア国立大学研究員、ハワイ大学助教授、マラヤ大学教授を歴任された、まさに国際舞台で活躍された方です。
 日本に帰国後は、生涯教育に専念されて今に至っておられます。

 小山先生の手になる『蜻蛉日記新釈(上・下)』(各168頁)が、今、私の鞄の中に入っています。
 今回、小山先生にお目にかかる機会があり、この2冊の手控え帖を託されました。
 上巻の巻頭には、次のように書かれています。
 
 
 
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本稿は昭和廿七年一月 E・G.サイデンスティッカーの嘱に依り、蜻蛉日記英訳の業に協力し 英訳蜻蛉日記の母体として同年五月脱稿せるものである。 有職故実に関しては 恩師石村貞吉先生の御学恩に浴する事が出来たことを感謝する。


 ここでは、岩波文庫の『蜻蛉日記』をもとにして、詳細な注解がなされています。本文の校合も、赤字でなされていることが見て取れます。
 
 
 
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 とにかく、精緻な本文調査の跡が顕著な『蜻蛉日記』の注解ノートです。
 今回、はじめて日の目を見た手書きの資料なのです。

 実はこれは、若きサイデンスティッカー氏が『蜻蛉日記』を英訳するにあたり、小山先生がその手助けをなさった時の貴重な記録でもあります。

 この注解ノートを横に置いて、完成したサイデンスティッカー氏の英訳を読むと、その背景にある知識の伝授が解明できるはずです。また、サイデンスティッカー氏の翻訳の過程も。

 今回伺った小山先生のことばによると、サイデンスティッカー氏の訳は拙くて、たくさんの手を入れながら進めたので大変だった、とのことでした。

 この2冊のノートは、私の手に負えるものではありません。
 私はかつて、『データベース・平安朝日記文学資料集 第二巻 蜻蛉日記』(伊藤鉄也・関本幸子共編、同朋舎、平成3年)を刊行したことがあります。しかし、『蜻蛉日記』は今はまったく手を離れています。
 どなたか、若き研究者に、このノートを活用した研究をお願いしたいと思います。
 とにかく、興味を持たれた方は、ご一報をお願いします。

 なお、小山敦子先生が書かれた「英訳蜻蛉日記について」(『國文學』第2巻10号)は、サイデンスティッカー訳『蜻蛉日記』の背景がわかる、活字化された唯一のものとして貴重なものです。その冒頭部分を引用します。

 昭和廿六年、東大大学院での院友、エドワード・G・サイデンスティッカー(以下Sと略す)から、蜻蛉日記英訳の話があった。国際的に意味のある仕事であり、蜻蛉に眼をつけたのはさすが、と思ったが、当時私は池田先生の源氏大成の総索引が最後の追込みにかゝった所で忙しかったから、Sは喜多教授の現代訳によって一通りの下訳をつけておき、廿七年一月、総索引完成を期に池田先生の助手を辞して、二人で本格的に蜻蛉日記にとりかゝった。平安朝の語彙と解釈には自信があるが、この蜻蛉には恐れ入った。若い二人がさぞ愉しくやったろう思われる向があればとんでもない話で、この難物と取り組んでは、脇目もふれず一路邁進あるのみであった。Sは始め興味のある部分のみの抄訳のつもりでいたが、池田先生の御意向を体した私が全訳を主張し二時間に亘る激論の末、遂に私が押し切った。(尤もレディーズ・ファーストのせいかも知れない)全訳にした事は久松先生も、「あなたのお手柄です」とほめて下さったけれど、面白くもおかしくもない冗長な部分に入る度に、Sは顔をしかめては、「ああつまらねぇ、皆敦子が悪いんだよ」と愚痴った。
 Sが向うの大学の関係で、その夏どうしても一旦帰省しなければならなかったので、それ迄に完成する事を目標に、雪の日も風の日も必死に原文の検討と訳文の推敲に当った。もし喜多教授の半生を献げられた貴重な基礎研究がなかったら、私たちはあの短期間に、とても翻訳どころではなかったであろう。何しろ英語にするには、行方不明の主語から探さなくてはならない。日本語の曖昧さに、癇癪の起きる毎日であった。アーサー・ウェイリイの源氏が、訳としては名訳だが、日本人の学者がもっと協力していたら避けられた誤訳の多いことを思うと、一瞬も気はゆるせない。(65頁)



 この2人の協力による英訳『蜻蛉日記』は、昭和30年6月に、Asiatic Society of Japan(アジア協会)から紀要として刊行されました。これはさらにその後、昭和39年に『The Gossamer Years: the Diary of a Noblewoman of Heian Japan』としてCharles E. Tuttle社から刊行されました。その後、この版が再版を重ねています。

 この文章を認めている今は山陽・山陰の旅先なので、詳細な資料がありません。しかし、私が実施して来た科研の報告書『日本文学研究ジャーナル 4号』(今月刊行予定)の原稿データの一部を、研究支援者として手伝ってもらっている菅原郁子さんから転送してもらえました。そこに収録されている「翻訳事典」の中から、『蜻蛉日記』の英訳に関する書誌データを、少し抜き出しておきます(素稿は福田秀一、大内英範、岩原真代氏)。

(1)THE KAGERO NIKKI : Journal Of A 10th Century Noblewoman
 翻訳者 Edward Seidensticker[1921-2007]
 出版社 The Asiatic Society of Japan
 刊行年 1955年
 頁数 258頁
 翻訳に用いた底本
 喜多義勇校訂『日本古典全書 蜻蛉日記』(朝日新聞社、1949) 、
 喜多義勇校訂『蜻蛉日記』〈岩波文庫〉(岩波書店、1942)

(2)THE GOSSAMER YEARS : The Diary of a Noblewoman of Heian Japan
 翻訳者 Edward Seidensticker[1921-2007]
 出版社 Charles E. Tuttle Company
 刊行年 1964年
 初版は、1955年(the Asiatic Society)。再版は1973年(ペーパーバック版)。2001年(Tuttle Publishing)。
 頁数 201頁
 翻訳に用いた底本
 鈴木知太郎、川口久雄、遠藤嘉基、西下経一校注『日本古典文学大系 20 土左日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記』(岩波書店 、1957)
 メモ・その他
 「Unesco Collection of Representative Works : Japanese Series(ユネスコ代表的作品選集 日本シリーズ〜)」の一冊。

(3)THE KAGERO DIARY
 翻訳者 Sonja Arntzen[1945-]
 出版社 Center for Japanese Studies, The University of Michigan
 刊行年 1997年、ペーパーバック版。本書刊行の翌1998年にハードカバー版も刊行。
 頁数 [15]+415頁
 翻訳に用いた底本 情報無
 メモ・その他
「Michigan Monographs in Japanese Studies, Number 19」の一冊。
 Sonja Arntzenは、British Columbia大学で日本文学の博士号を取得し、Alberta大学助教授を経て、現在トロント大学教授。



 (1)と(2)が、サイデンスティッカー氏による英訳です。それ以外に、もう一つ翻訳さていることがわかります。
 このジャーナルでの解説は非常に簡略なものに留まっています。しかし、その背景には、サイデンスティッカー氏と小山先生とのやりとりによる、上記のような事情のもとにあって完成したものであったことがわかります。
 今回お預かりした『蜻蛉日記新釈(上・下)』の出現により、サイデンスティッカー氏による上記(1)(2)の2種類の英訳の詳細が、この資料から浮き彫りにすることができるのです。

 このことは、新たな研究資料の出現として、研究がほとんどなされていない『蜻蛉日記』の英訳において、大いなる意義を有するものとなるはずです。

 なお、池田亀鑑氏の『花を折る』に「英訳「かげろふ日記」」という一文があります。
 これは、昭和30年6月24日の毎日新聞に掲載されたものです。そこには、小山先生がこのサイデンスティッカー氏の訳に関わったことについては、一言も触れられていません。

 Sさんが大学院で学生たちと一緒に源氏物語の研究をはじめてから、もう五年になる。一語一語、たんねんに原文と取り組んだものだ。源氏のリアリズムはどこからきたか、Sさんはその先駆を「かげろふ日記」に見た。これをマスターしようと、早速英訳に着手した。(中略)まだテキストの基礎研究ができてゐないので難解極まる作品だ。(中略)
 Sさんは驚くべき努力を傾けて黙々とその研究を続けた。(中略)「おかげさまでできました。ずゐぶんお世話になりました。ども、ありがとございます」とさもうれしさうに、幾分はにかんで紅潮した笑顔であいさつした。見るとそれは待望の英訳「かげろふ日記」だった。(中略)わたしも夢中になって、Sさんの宿望が成就したことを喜んだ。日本の学者にさへもなかなかできなかつた仕事を、Sさんの忍苦はたうとうやり遂げた−。(221頁)



 小山先生が池田亀鑑氏に、自分の助力について何もおっしゃらなかったのか、池田亀鑑氏がそのことを無視されたのか。
 前掲した小山先生の文章によると、『蜻蛉日記』の英訳は、ちょうど『源氏物語大成』の索引作成に没頭されていた時でもあり、池田亀鑑氏が失念しての文章かとも思われます。しかし、小山先生は「池田先生の御意向を体した私が」と言っておられることから推して、これは池田亀鑑氏が無視したと考えられます。
 このことは、今回の小山先生との面談では、特に確認できなかったことです。しかし、池田亀鑑氏の小山先生に対するそれまでの姿勢からして、小山先生を嫌っての無視だったと思われます。

 いずれにしても、今回託された『蜻蛉日記新釈(上・下)』の2冊のノートを活用して、新たな研究をしてくれる若手が現れることを、大いに期待したいと思います。
 このことについて興味を持たれた方は、私まで連絡をいただければ幸いです。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | 古典文学

2010年03月09日

「過ちは繰返しませぬ」とは?

 今朝は、中国山地の山間部にいたこともあり、雪景色の中で目を覚ましました。
 こちらでも、3月の雪はめずらしいそうです。

 午後は霙の中を、広島市内に移動しました。
 せっかく来たので、どうしても行きたいところへ足を向けました。平和記念公園です。
 高校生の時に、ヒッチハイクで寄って以来です。
 原爆ドームは、見る者にさまざまな思いを抱かせます。
 
 
 
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 原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)の前には、盛岡中央高校と福島大学付属中学校の生徒の皆さんが、ちょうど献花をするところでした。
 
 
 
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 夕闇が迫る中で、行儀よく整列して頭を垂れていました。それぞれにどのような思いがあるのか知りませんが、ここに足を踏み込んだことは、人を思いやる上でも、いいことにつながると思ます。
 おそらく、来る前に、原爆のことを勉強したことでしょう。しかし、私は、もし聞けるものならば、その碑文の意味を尋ねたい思いを持ちました。
 
 
 
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安らかに眠って下さい
   過ちは
繰返しませぬから



 有名な碑文です。
 しかし、これは、誰が言っていることばなのでしょうか。
 誰にということは明らかです。
 しかし、誰が言ったことばとして書かれているのかは、少し考える必要があります。

 まず、「過ち」とは何でしょうか。
 私は、この場の状況から、原爆<を>落としたことを「過ち」だと言っていると思います。この碑が建っているここは、原爆死没者慰霊碑の場なのですから。
 これを、戦争という広義の意味にとるのは欺瞞でしょう。
 すると、原爆<を>落とした者が、その「過ち」を「繰返しませぬから」と謝罪していることになります。
 となると、この慰霊碑は、誰が、何のために、ここに置いたのでしょうか。
 日本人が、亡くなられた方々に謝っているのでは、おかしくなります。

 おそらく、これはいろいろな解釈がなされているのだろうと思います。
 今日、ここにいた生徒さんたちは、この意味を勉強して来たのでしょうか。
 私を含めて、またいつか、自分の力で考えるきっかけになれば、と思いました。

 私は常々、原爆を落としておいて、それを正当化する人たちを信用しません。
 まず、心を籠めた謝罪があるべきです。へ理屈でごまかしてはいけません。
 地球はお荷物を抱えている、と私が言うことには、この碑文のことが一つとしてあります。

 誰が原爆を落としたのか、またその当否については、日本が戦争に負けたからと言って卑屈になるのではなくて、地球規模で考えるべき問題です。
 これは、思想とは別次元の、人間の根源への問いかけだと思っています。
 戦争状態にあったとはいえ、原爆を落とすことは、文化のない野蛮な人間がする、愚劣な行為以外のなにものでもないのですから。
 数年前、インドの学生さんたちが、「ビカは人が落とさにゃ落ちてこん」という劇をしていました。
 そういいながら、インドが核を持っているので、割り切れない思いがしましたが……。

 とにかく、実際にこの目で碑文を確認し、すこし落ち着きました。

 厳粛な思いで気持ちを引き締めてから、広島の研究者仲間と待ち合わせて、牡蠣を食べに行きました。
 小鰯もおいしかったので、地元の方との食事に限ると、急にお会いすることになったお二人の先生に感謝感謝です。
 お付き合いいただき、ありがとうございました。

 行った店の数軒先に、今日のお昼に立ち寄った回転寿司屋がありました。
 
 
 
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 平禄寿司は、立川駅の南北に2軒もあります。また、私の東京の宿舎の近くにもあります。
 よく行く店なので、うれしくなってお昼を食べに入ったのです。

 広島が、ますます気に入りました。
posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | ◆国際交流

2010年03月08日

鎌倉期の源氏の写本を読む

鎌倉時代の末期に写されたと思われる源氏物語の古写本を調査しています。
 鎌倉の源氏の写本は少ないので、書かれた本文をひたすら翻字しています。

 今、目の前にある本は、残念ながら、第34巻「若菜上」の一巻だけの残巻です。
 表紙は、天理図書館にある池田本とソックリのうち曇りです。ただし、改装されています。
 見返しも後補です。
 
 
 
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 表紙の中央上部には、剥がし跡の残った上に「わかな 上」と銀地に書かれた後補の題簽が貼られています。

 本文は、前半と末尾がありません。
 『源氏物語別本集成』の文節番号で言うと、11975文節ある内の、5256から10948までが残っています。
 折で言うと、6折あったはずの内、第1、2、6折がない状態で、ここにあります。
 
 
 
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 さらに詳しく書いておくと、「若菜上」は、約49000字ほどあります。その内、23000字が、ここに残っていることになります。
 鎌倉時代の源氏の写本なので、これだけでも貴重な資料となります。

 本書の巻頭部は、こうなっています。
 
 
 
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 巻尾は、こんな感じです。
 
 
 
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  この巻末の最終紙に「月明荘」の印があるので、弘文荘の反町氏の元にあったことがわかります。この印は、晩年に扱ったものと思われます。

 列帖装の糸は、新しいものです。

 書いてある内容について、少しだけ記しておきます。

 本文は、大島本、保坂本、尾州家本、国冬本と一致します。このことは、後日、詳しく報告します。

 具体例を少しだけあげます。
阿里莫本、中京大本が「藤の花の」とあり、それ以外の本が「藤の」とするところを、この本は「花の」となっています。これまでになかった文です。
 これは、私が提唱している、異文は傍記が本行に混入して発生する、と言う考えを補強してくれる例となるものです。
 阿里莫本、中京大本が「藤の花の」とあるのは、この本の親本に傍記として「藤の」か「花の」があり、それが前後に混入したと考えられるからです。
 もし、傍記されていた「藤の」が「花の」の前に入り込んだとすると、それは、私の二分別試案で言うところの<乙類>です。そうではなくて、傍記されていた「花の」が「藤の」の後ろに入り込んだとすると、それは、<甲類>と言うことになります。

 今回調べている写本に書かれている本文は、いろいろな問題を解決する上で、有効な資料となります。

 いい本と出会えたことを、喜んでいます。

 とにかく、詳細は後日ということにします。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | ◆源氏物語

2010年03月07日

調査で中国地方に

今日は、調査の移動日です。
冷え込む中を、広島までやって来ました。
広島大学におられた稲賀敬二先生に、お話を伺いに来て以来です。
さらにその前は、高校一年生の時、ヒッチハイクで山陽旅行をした時だと思います。

広島駅から北上し、中国山地の中にいます。
今日一日だけでも、たくさんの話を聞き、たくさんしゃべりました。
明日は、貴重な資料を見せてもらいます。
縁あって、こうした機会が与えられたのです。この出会いに感謝します。
今回の話は、明日以降に、少しずつ報告します。
posted by genjiito at 23:40| Comment(0) | ブラリと

2010年03月06日

吉行淳之介濫読(1)「路上」「雪」

■「路上」
 何を言いたい小説なのかが、よくわかりません。
 しかし、色鮮やかなことばが印象的です。男と女の向き合い方がいいと思いました。
 それでも、2人の心の中が、よくわかりません。
 自分を押し殺すことで、自分を見つめようとする男が、どうしても私にはわからないのです。
 話のテンポが軽快なので、つい読み進んでしまいます。【2】

掲載誌︰『世代』(復刊号)昭和22年9月
『吉行淳之介初期作品集』(1967年、冬樹社)収録
 
 
 
■「雪」
 色彩を楽しむ小説です。
 雪という白、鉛色の背景、そして花売り娘。
 雪と花が散る小説と言えます。【2】

掲載誌︰「葦」(第1号、昭和21年3月、昭和20年11月稿)
『吉行淳之介初期作品集』(1967年、冬樹社)収録
posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | 吉行淳之介濫読

2010年03月05日

京洛逍遙(126)仁丹の町名表示板

 京都を散策していると、いろいろな情報が集まります。
 その中から、町名や通り名が書かれた表示板に関して、中間報告です。

 京都新聞の2月20日(夕刊)に、「大礼服、ちょびひげ紳士の町名表示板 仁丹マーク消滅の危機?」という記事が掲載されました。
 それによると、この表示板は、明治43(1910)年に森下仁丹が全国で設置したものだそうです。
 それから100年が経ち、京都には800枚が残っているとのことです。

 確かに、以前は普通にあったように思いますが、最近は見かけなくなりました。
 平成7(1995)年には、京都市に仁丹の表示板は1200枚あったそうなので、激減です。
 近畿では、大阪市、奈良市、大津市などにも、少し残っていることが確認されているようです。
 東京や名古屋にも設置されたそうなので、もし近所にあれば、教えて下さい。

 以下、私が撮り貯めている写真データから抜き出します。

 まずは、軒下の辻角にあるものです。
 次の写真の右側が、仁丹の表示板です。
 横幅15センチ、縦1メートルのホーロー製です。
 
 
 
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 左側は、その後のもので、俵屋吉富のお菓子の宣伝があります。これは今でもたくさん残っています。
 3桁の郵便番号が書かれているので、昭和43(1968)年以降のものだと思われます。ただし、印刷が悪いのか、至る所で色が薄れています。郵便番号の部分と「上」の文字は鮮明なので、後の手が入っているのかもしれません。
 それにしても、100年経っても色褪せない、仁丹畏るべし、です。

 この表示板が掲げられている家の正面中央には、嬉しいことに仁丹がまだありました。
 通りの北と西に仁丹が残るのは、珍しいと思います。
 
 
 
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 そして、このお宅の正面の軒下左側には、「隠れ仁丹」とか「引っ込み仁丹」と言われる表示板が顔をのぞかせています。
 
 
 
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 まさに、文化財とでもいうべき状態で、表示板が保持されています。

 この郵便番号を入れたもので、同じ頃に作られたと思われる、ロータリークラブの表示板もあります。これも、退色が激しいものが目に付きます。
 
 
 
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 その近くに、宣伝の入っていないものを見かけました。仁丹とどちらが古いのでしょうか。
 
 
 
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 木に書かれた仁丹の表示板も、本当に稀ですが京都の街角には残っています。最初に仁丹が掲げたものなのでしょうか。
 
 
 
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 最近のものは、こんな感じのデザインになっています。
 
 
 
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 掲示板ではないのですが、京都の街角の至る所にある消火器のケースにも、その地区の住所が記されています。
 
 
 
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 町名が変更になったりして、歴史と結びついた地名が、我々の想像力を奪っています。
 可能な限り地名を残し、表示板も大切に守りたいとの思いを強くしています。
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | ◆京洛逍遥

2010年03月04日

与謝野晶子自筆原稿の画像を見るために

 先日、国文学研究資料館から「与謝野晶子自筆原稿『新新訳源氏物語』」の画像データベースを公開したことを、以下のブログで紹介しました。

「与謝野晶子の『新新訳源氏物語』自筆原稿画像データベース公開」

 その後、堺市で開催された講演会も、「神野藤昭夫先生の晶子がたり」で報告しました。

 また、その後、毎日新聞や産経新聞で、この画像データベースを取り上げて、大きく報じてもらいました。

 ところが、多くの方から、ホームページが文字化けして見られない、という連絡や苦情をもらっています。
 原因を調べたところ、どこからこのデータベースに入っていくかによって、文字化けによって先に進めないことが確認できました。

 そこで、確実に画像を見るためには、以下のアドレスで入っていただくことをお薦めしています。

「近代文献情報データベース」

 このページには、以下の注意事項が書いてあります。


近代画像データベースは、国文学研究資料館がデジタル収集した明治以降の文献の全文画像データベースです。文献ごとに詳細な目次をつけています。

※検索画面が文字化けする場合は、ブラウザのエンコードを「自動選択」または「Unicode(UTF-8)」に変更してください。目次画面のエンコードは「シフトJIS」です。
また現在一部の画像においてJPEG2000が閲覧できない不具合が生じております。あらかじめご了承下さい。



 実は、私自身はマッキントッシュのコンピュータを使っているので、この画像データベースを担当しているにも関わらず、私は精細画像を見ることができません。マッキントッシュはクリエイティブマシンで、ウインドウズはビジネスマシンだと捉えている私には、この状態をよしとしてはいません。

 こうした公開の仕方に問題があることは、重々承知しています。
 1日も早く、マッキントッシュ・ユーザーを含めたみなさんに、快適に利用してもらえるような、すばらしいデータベースにしたいと思っています。それには、私から見ると低レベルのウインドウズと言われるビジネスマシンの利用者が圧倒的多数であることが、どうしても無視できません。それを承知で、このような形での公開となっています。

 個人的なブログなのでここに書きますが、この問題は、あくまでも私にとっては妥協の産物といえます。多くの方(ウインドウズ・ユーザー)に、よりよいデータベースを提供することに、渋々賛同して協力しているところです。
 事業としての仕事と割り切っての対応です。利用できないよりも、利用できる環境を提供することを優先しての対応です。

 いずれ、日本の技術担当者のレベルが上がれば、こんな異常な状態は解消されると思います。
 私のつぶやきとしては、「日本の技術者よ、もっと勉強しろ」ということばをグッと堪えているところです。情けないことですが……。
 今しばらく、ご不便をおかけしますが、ご理解とご了承のほどをお願いいたします。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ◆情報化社会

2010年03月03日

異文化間での行き違い

 インドの方とのやりとりで、メールの対応があまりに遅くて、とにかく困ったという話を聞きました。相当頭に来ておられるようなので、双方に対して、お気の毒に思っています。

 今の日本では、それこそ最先端の通信技術でコミュニケーションを取っています。しかし、それは全世界でどうかというと、海外でも相当インターネットが広まったといっても、まだまだ遅れている地域や、人々は多いものです。
 そこで、困っておられる方に、こんな返信をしました。




冠省
 恐らく、メールが相手に届き、そしてそれを読んでもらえる、という先入観が前提となってなさったことから生じた行き違いかと思います。
 しかし、インドのインフラは、先端企業以外では、とても遅れています。

 昨春のことですが、学会中に停電になり、私の発表も真っ暗の中で行ないました。プロジェクターなど、電気がなければタダの箱です。○○センターといわれるところでも、バックアップ電源が稼働するまではお手上げです。
 私が客員教員でいた5年前の3ヶ月間、ニューデリーの宿で電気が使えたのは1日4時間くらいでした。電源がなくても使えるノートパソコンは、大変ありがたい存在でした。

 また、時間の観念も、日本人とは大きく違いますね。
 用件を依頼され、会うことになっていた人からの待ち合わせの場所と時間の指示を待っていても、何も連絡がありません。翌日、昨日は失礼しました、という連絡が入り、拍子抜けしたことがあります。

 「関係者各位」という、一対多というメールも、慣れない人には人ごととして捨てやられることでしょう。そして、返信方法に4つもの選択肢があり、おまけに4つ目に関しては、さらに2つの選択があります。それに加えて、その後に「なお」と「また」が続くという、日本人でもうんざりするほどの込み入った文で、とにかく読むのが大変なメールでの依頼文です。この、わかりにくいということも、先方がメールの内容をよく理解できなかった原因の1つにあるのではないでしょうか。
 いくら日本語が堪能な方だと言っても、そこはやはり外国語ですから。

 電話や郵便やFAXなども含めて、連絡は二重三重にしたらよかったかな、と思って、あなたのメールを読みました。
 日本人の感覚では、インドの方々とのコミュニケーションは取りにくいですね。
 いろいろな国があるものだ、ということで、理解をしてくださると、私としても助かります。

 それにしても、日本は世界的に見ても恵まれすぎていて、日本流に合わせてもらえない人に出会うと、何かと不満が溜まりますね。
 世界にはいろいろな民族がいることを、どうか広いお心で理解してあげてくだされば、と思います。





 インドの方の、困った挙げ句の放置もわかるし、なかなか返信してもらえない日本側のイライラもわかります。お互いの気持ちを忖度するに、異文化間のコミュニケーションの難しさを思い知りました。

 お人柄、というものも関係します。お国柄もあります。
 国際交流と異文化交流には、相手に対する思いやりが、大きな役割を果たすように思います。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ◆国際交流

2010年03月02日

息つく暇もなかった一日

慌しい一日でした。
朝5時に起きて出勤。
午後の研究発表のため、
プレゼン用画像10枚を作成。
その画像をiPhoneに転送。
その間に事務書類を3本作成。
お昼ご飯もそこそこに、隣の国立国語研究所へ行って研究発表。
 
 
 
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終了後、5分で国文学研究資料館に引き返して、国文学論文目録データベースの専門員の先生方と会議。
3時間の会議が終わると、すぐに立川駅に移動して、先生方と懇親会。
最終電車で、今、宿舎に帰るところです。

専門員の先生方からは、貴重な情報をたくさんいただきました。
いろいろなアドバイスを受けました。
すべてが実り多いものだったので、疲れは感じません。
しかし、頭の中が20時間もずっとフル回転の一日だったので、やっと、ホッと一息、というところです。

息つく暇もない、というのは、このことなのでしょう。
posted by genjiito at 23:59| Comment(0) | 健康雑記

2010年03月01日

京洛逍遙(125)洛陽三十三所(31)東向観音寺

 北野天満宮にお参りしたついでに、といっては失礼ですが、二の鳥居の西にある東向観音寺に立ち寄りました。本堂が東に向いているところから、こう呼ばれているそうです。
 
 
 
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 道真が幼少の砌ここで勉学に励み、本尊の十一面観音は応和元年(961)に太宰府の観世音寺から道真公自作の像を移したものだ、ということです。その真偽がどうかは別にして、北野天満宮の神宮寺であったことは事実です。
 
 
 
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 本堂の右横の建物の中で、朱印をもらいました。
 
 
 

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 中で、おばあさんが、熱い番茶を淹れてくださいました。毛氈がひかれた台に腰掛けて、茶碗に口を当てて有り難くいただきました。私に向かって「あったかおすな」と、きれいな京都言葉でした。
 境内の西南端にある五輪塔は、道真の母君のお墓だと伝えられています。
 それを見てから帰ろうとすると、先ほどのおばあさんが門の所で私を待っていて下さったようで、お参りしたことを丁寧にお辞儀をして感謝の意を伝えてくださいました。あまりの丁寧さに、こちらが恐縮してしまうほどでした。
 どうぞ、いつまでもお元気で、と声を掛けたくなる瞬間でした。

 「洛陽三十三所観音巡礼」から「東向観音寺」の略説を引きます。

御詠歌  ふみわけて ここにきたのの ひがしむき こころはにしへ はこびぬるかな

 桓武天皇の勅願によって創建された朝日寺を前身とする。 菅原道真公が幼い頃勉学に励んだ場所と伝え、本尊の十一面観音は道真公自作という。 鎌倉末期、無人如導宗師が中興し、南北両朝の天皇や足利尊氏公の帰依をうけ、北野天満宮の神宮寺として栄えた。
 現在の本堂は、豊臣秀頼公によって再建されたものである。
 
 
 
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posted by genjiito at 00:30| Comment(0) | ◆京洛逍遥