2010年01月17日

亡父の代わりに日本人墓地跡へ

  ウランバートル市の中心地から北東に15キロの地に、日本人墓地があります。
 
 
 
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 ここは、第二次世界大戦後の捕虜としての強制労働により、モンゴルの地で無念にも亡くなった日本人の方々を慰霊する所です。
 
 
 
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 ソ連は戦後、満州に駐屯していた日本兵約60万人を、シベリアに抑留しました。
 その中に、私の父もいました。
 私の両親は、戦時中は満州のハイラル、ハルピン、チチハルにいました。
 終戦と共に、父はシベリアへ、母は新京から命からがら日本に引き揚げて来ました。
 私と姉は、戦後、父が復員してから生まれました。

 シベリア抑留者の内、12,318名がモンゴルに送り込まれました。そして、1945年から47年まで、強制労働に従事させられたのです。

 父は、モンゴルへ送られることはありませんでした。しかし、戦友にはいたはずです。
 小さいときから、父から戦争のことやシベリアでの話を聞きました。
 ノモンハン事件(モンゴルではハルハ河戦争)のことは、私にはまったく話しませんでした。しかし、何冊かの本を大事に持っていたことを知っています。ノモンハンが意味するところを、私は今回初めて知りました。
 シベリアでは、寒さの中での仕事が過酷であったことは、いくども聞かされました。
 朝目覚めると、隣の戦友がカチカチになって凍死しているのです。その戦友を埋葬するのが一つの仕事だったとも。
 凍土を1日にいくらも掘れないのです。1日で数センチだったとも言っていました。

 モンゴルでも、極寒の地で835人の方が亡くなられた、ということを聞きました。まともな衣類もなく、寒かったことでしょう。食べ物が合わなかった方も、たくさんいらっしゃったことでしょう。
 私など、現地の方にお願いして、カロリー制限の主旨を伝えて、無理のない食事をしました。また、羊の肉が主食の国なので野菜が不足するということで、野菜のタブレットを持参しました。戦後の日本兵が、そんな贅沢を言えたはずがありません。私は完全防備の服で行きました。しかし、兵隊さんたちは夏用の軍服だったために、呼吸器系の病気に罹ったそうです。
 本当に、無念だったと思います。
 
 
 
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 もし父が生きていたら、きっとこの墓地に来て手を合わせたはずなので、私も意を決して時間の隙間を狙って、父に代わって行くことにしました。
 
 
 
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 円形のプレートには、モンゴル各地にあった収容所が記されています。手前からまっすぐ山側に伸びる線は、日本の方角を指しています。お亡くなりになったみなさんは、さぞかし日本の地を踏みたかったでしょう。

 そしてその回りを、プレートに焼かれた桜の花が取り囲んでいます。この心憎い心遣いに、しばし目頭を押さえるのが精一杯でした。このモンゴルの地から、当時、日本は遠く感じられたことでしょう。
 「ごくろうさまでした。今、日本は平和です。」と、ただ頭を垂れるだけの時間がしばらく流れました。
 
 
 
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 慰霊碑の向こうの壁面に、日本語とモンゴル語で、日本政府の慰霊の言葉が記されています。
 
 
 
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 この横に、資料館がありました。
 中には、観音様が真ん中におられます。
 
 
 
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 その回りには、お亡くなりになった方々の名前など、貴重な資料がたくさん保管してありました。
 少し政治の匂いがしました。しかし、とにかく、お亡くなりになった方々のことを思う気持ちが一番大切です。忘れてはいけないことを、ここはしっかりと再確認させてくれる場所です。
 
 
 
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 外には、昭和41年の墓参団が建てた柱が立っています。
 その四角い柱の各面には、こんなことばが書いてありました。
 「諸士よ、祖国日本は」
 「見事に復興しました」
 「モンゴルに安らかに眠って下さい」
 「昭和四十一年八月二十五日 モンゴル会 長谷川峻書」
 
 
 
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 この墓地は、きれいに掃除してあります。
 ここを守っておられる方が冷え込む夕刻に、この墓地を丁寧に案内してくださいました。
 お名前を、ネルグイさんといいます。日本でいうと、名無しの権兵衛さん、という意味だそうです。
 今マイナス30度なのに、その薄着に度肝を抜かされました。
 
 
 
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 毎日、心を込めて雪かきをしておられるから、ここの道の雪や足下が掃き清められているのです。頭が下がります。いつも8時間はかかるそうです。亡くなられた日本人に対する温かい思いやりが感じられる方でした。
 平和と友好の象徴となる公園にしたいということです。なかなか出来ないことを続けておられる方です。
 父ならするであろうことを、ささやかではありましたが、支援と協力の気持ちから志としてお渡ししました。

 「魂が安らがんために」という奇麗なパンフレット(25頁)をいただきました。
 それを読んでいて、何とその翻訳を、今回モンゴル語訳『源氏物語』の日本語訳をお願いしたツムルハータル・ナルマンダハさんがなさっていることを知りました。そういえば、ナルマンダハさんの立命館大学での研究テーマは、ハルハ河戦争でした。メールでは何度かやりとりをしています。今度、源氏訳のお礼と共に、京都でお目にかかりたいと思います。

 人の出会いというものは、本当に不思議な縁でつながっているものです。
posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ◎国際交流

モンゴル相撲観戦記

 先日、ツゥムルバートルさんに相撲の話を聞いたこともあり、モンゴル相撲を観たいと思っていました。本当に偶然なのですが、ちょうどスケジュールの隙間で観られる相撲のイベントがあるというので、取るものも取りあえず相撲会館に行きました。
 どうしたわけか、黒服の警官がたくさんいたことに驚きました。

 観覧券は、こんなものです。
 
 
 
100113sumo1_2チケット
 
 
 
 ここに書いてある番号は、試合の終了後に抽選があり、当たったら景品がもらえるそうです。羊が一頭もらえた、などということを期待したのですが、時間の都合で最後まで観られませんでした。

 場内は、日本の相撲場所とは大違いです。
 
 
 
100113sumo2_2場内
 
 
 
 ボックス席の楽団の演奏と共に、力士の入場です。みんな、鳥が羽ばたく姿をします。
 
 
 
100113sumo3_2力士入場
 
 
 
 そして、主賓として首相と国会委員会の方が来ておられることがわかりました。会場のものものしい警備は、このためだったのです。
 
 
 
100113sumo4_2主賓挨拶
 
 
 
 続いて、力士を讃える歌です。馬頭琴の音を、初めて聞きました。
 
 
 
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 やがて、たくさんの力士が会場に現れ、デール姿の進行役(ザソール)に帽子を預け、あらかじめ決決められた相手との試合が始まりました。
 
 
 
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 120人ほどの力士が16組に分かれて、芝生の上で入れ乱れての相撲です。どれを観ていいのか、さっぱりわかりません。こっちを観ているうちに、あちらで勝負が決まるという、せわしなく場内を見回さなければなりません。

 ちょうど、目の前で勝負が決まったので、連続写真を掲載します。
 
 
 
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 勝った力士は、国旗の回りを鳥のように手を大きく広げてパフォーマンスを見せてくれます。
 
 
 
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 掌を地面に付けても負けにはならないので、必然的に取り組み時間は長くなります。そこで、最近はルールが改正され、20分たっても勝負が付かない場合は、四つに組んで再開となったそうです。

 このモンゴル相撲は、おもしろさがわかるまでには、少し観戦経験が必要のようです。
 その意味では、日本の相撲は、ショートしても練り上げられたスポーツになっていると思いました。
posted by genjiito at 01:22| Comment(0) | TrackBack(0) | ◎国際交流